ジョン・ダン『蚤』から見るコロナ
椿恭二
“For Whom the Bell Tolls ” - John Donne
二十一世紀の現在の社会について考察する時に、外せなくなってしまった要因として、新型コロナウィルスがある。これは、全世界が共有している。
皆が、その猛威に自分の存在が揺らいでいる。
これは、どのような形で収束するにせよ、今後数百年に渡って記録される厄災であることには間違いない。
この表現が困難な時代に、あるいは何を表現すべきなのか分からない時代に、自分への指針として、短いテクストを残す。
このコロナの世界的流行からまず想起される過去の時代は、十四世紀のイギリスのペスト菌の時代である。
その上で思い出すのが、天才の名を欲しいままにし、現在でもシェイクスピアと並んで評価の高い詩人、ジョン・ダン(John Donne, 1572年 - 1631年3月31日)の『蚤』という詩である。
まずは一説を引用する。
なおこの翻訳は全て、清水英之氏(英文学研究家)によるものとする。
この蚤を見てごらん、そうすればわかるはず、
君が拒んでいるものが、その中では何と小さいのか、
蚤は先ず僕の血を吸い、今度は君の血を吸う。
この蚤の中では、僕等二人の血が混ざり合うのだ。
君はよく知っているはず、とてもこんなことが、
罪や、恥や、貞操の喪失などと言えないことを。
でも、蚤は求婚せずに、楽しんでいるのだ。
二人の血を一つにして、丸々と膨れ上がっている。
ああ、そうしたくても、僕等にはその勇気はない。
これは当然一見すれば、濃密度でセンシティヴな恋路を語った恋愛詩である。しかしながら、この時代背景と題名から考察すれば「蚤」とはペストの暗喩であることは明らかだ。
この詩は、ペストとの共生を暗に意味していることが分かる。
ダンは人間が過度にペストを拒み、逆にそれこそが極度に「何と小さいのか」と、矮小化された精神なのか、と指摘するのだ。
「血が混ざり合う」つまり「混血」の意味は、まさにペストと共に生きていくことである。そして人間が災厄と呼ぶペストは「楽しんでいる」のだ。
しかしながら人間にそれを受け入れる勇気は、まだない。
これが十七世紀のポスト・ペストとも呼べる時代に、ダンが提示した厄災と共存の形である。
大量の死者を産み街を退廃させたペストを、逆説的に愛し、現代の「ウィズ・コロナ」の共に歩んで行く概念、と言うよりかは「一体化」「同質化」してしまうというのがダンの主張だ。それは、自然へのあらがいの社会構造の変革の表明に他ならなかった。しかしながら、当時の人々も現在と同様にその勇気はなかったのだ。
一体化とは、神に近づくことだからだ、とダンはいう。
ダンの詩の簡単な考察により、彼の災厄との共生の理想が見えてきた。
そこで一旦、ダンが好んだ形而上的奇想のように拡大したメタファーで、臨床心理学者の言葉から「コロナの時代」を模索してみよう。
アメリカの臨床心理学者、論理療法(Rational Therapy:RT、現・理性感情行動療法:REBT)の創始者である、アルバート・エリス(Albert Ellis、1913年9月27日 - 2007年7月24日)の治療方法は、このような理論を残した。
彼の精神疾患者の治療は「人間の悩みというのは出来事そのものに起因するのではなく、その出来事をどう受け取るかによる」という方法で行われる。
まさに現代人の恐怖の対象は「出来事そのものに起因」するのであり、「出来事をどう受け取るか」という想像力はあまり働いていない。
さて、では何故このダンの詩と、臨床心理学のアプローチが共通項を持つのか。
それは、ダンの「蚤は求愛もせずに、楽しんでいるのだ」という点と、エリスの「その出来事をどう受け取るかによる」という部分が奇妙な磁力のような因果関係を持っているからに他ならない。
「ペスト=蚤」は求愛せずにただ楽しみ、人間の懊悩は往々にしてその捉え方、「その出来事をどう受け取るかによる」のかという問題なのだ。
コロナは受け取り方によって変容していく可能性を持つ。「ワクチンによる治療方法の確立や接種方法」といった医学や政治の問題ではなく、これから先の人類がどうやって「新型ウィルス=自然」と共存するためんでいくのか。その一つの自然との向き合い方の方法のための思想である。
「人間が地球の主人公の時代は終わったのです」——鶴岡真弓氏(ケルト研究家)
そして英文学史におけるダンの詩は、古典形式から個人的形式へ方向転換していく。そして英国教会に帰依し、後には国教会の牧師にもなったことからも、最終的には「close to the God」へと一体化していく運命に従った。
エリスも1950年代に主流だった精神分析家から、論理療法という新しい手法の確率への模索で、逆行したジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856年5月6日 – 1939年9月23日)の提唱した時間と手間のかかる精神分析に逆行した。
ここに私は「コロナの時代」と「自然との共存」を生きる可能性を見出す。
「苦悩をどう楽しむか」
これは実は、最もイエスのフェノメノンに近い。
新約聖書から誕生し、神学思想は英文学に派生し、十四世紀に詩という媒体でペストと結合した。
アルバート・エリスの治療過程は愚かだとみなされたが、精神疾患者だけではなく、残された言葉は現代の不安定な現代人の日常そのものだ。
起因への強固で恐れお慄く執着ではなく、今というささやかな苦悩の日常の受領への軽やかな転換。
そこでは「逆行を恐れてはいけない」
ニーチェの「永劫回帰」の思想は因習社会道徳からの離別を決定づけた。
「神は死んだ」の主張は、即ち、「長い間わだかまり続けた感情や腹立ち(ressentiment)」の教えを強いてきた西洋に対して、現世の幸福を犠牲にして、来世での幸福を保証することへのアンチ・テーゼだ。
今を生きている、今を通り過ぎていくのと同じ瞬間が、未来永劫に回帰・回遊するのだ。それこそが「今」という時間と自由の解放を意味した。
ニーチェの悦ばしき知識を借りて、「生きる」とは「死につつある何か」を絶えず己から排出し「新しい生命」を呼び込む。
「死につつある何か」とは、古い習慣や道徳観念だ。
「新しい生命」とは、知恵や知識の体系からの思想であり、同時に純粋なる自然の贈与そのものだ。
既に一部のオピニオン・リーダーが、明確で理解しやすい言葉を巧みに使い「ポスト・コロナ」のライフスタイルを提示し始めてる。
不気味な思想同士の対決が、SNSを支配している。
「いいね」「リツイート」「シェア」が、他者の思想の一部分を、簡単にさも自分が考えたかのようにしてしまう。
「死につつある何か」が強烈なイデオロギーになり「新しい生命」は、まだ息を潜めている。あるのは「まがいものの父親なるもの」だけだ。
しかし、それらは全て、疑ってかかるべきであろう。
人生の最期に向かって、ダンはたった一人、死に挑む。
それらの詩は、病気、貧窮、友人の死。どれもが、陰鬱で敬虔なものばかりだ。
このコロナという苦悩の年鑑の深淵を、今を生きる全ての各々がどう受け止めるのか。
それは恐らく、誰とでもない、たった一人の闘いなのだ。
我々には「今」しかない。それを大きなスコープで読み替える「今」が到来している。
逆行を恐れず、苦悩をどう楽しむか。
それはまさに、何かを表現し続けることに他ならない。
その時、誰がために鐘は鳴る、と信じ続けている。
ジョン・ダン『蚤』から見るコロナ 椿恭二 @Tsubaki64
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