β 【1】
ててて、と足早に階段を駆け降り、はやる心を職務怠慢気味な理性に抑えて貰いつつ、私は今日も、目当ての場所に向かっていく。
不意に職員玄関を通り過ぎる温まっこい風が頬を撫で、癖のついた私の髪をふわりと舞い上げる。春の只中から初夏へと季節が移ろっていくことを感じさせるその風は、青春という一瞬の時が、着実に流れ、過ぎ去っている事を予感させた。
事務室の中には昼休みの時間宜しく、デスクの上に弁当箱を広げ、黙々と中に詰められた食べ物を箸で摘み、口に運んでいる二、三名の女性の姿が見受けられる。いつ見てもこの室内の人達は機械のように無味乾燥な毎日を送っているように見えるが、果たして皆、そこで職務をこなす事にやりがいや楽しさといったポジティブな感情を抱くことはあるのだろうかと、彼女らの心の風通し具合が少し心配になった。
階段を下りたところを右側に折れ、重たそうな空気を孕む事務室を横目に通り過ぎ、私の爪先はいつもなら薄暗くなっていく筈の廊下の先を向き、歩みを進める。
本来であれば、と言ったのは、今私の目の前にある事務室横の廊下の先には、真昼の陽光が差し込んでいるからだ。
「なんだ、昼休みにいけばちゃんと明るいんじゃん」
相談室、という薄い一枚の紙が貼られたプレートの真下の引き戸は、現在は開け放たれており、そこから差し込む光が視覚的な解放感を最果ての孤島たるこの場所にもたらしていた。
先程、授業から解放されたばかりの生徒達がごった返す売店で人混みの波に揉まれながら購入した戦利品たるコロッケパンと、その付近の自販機に硬貨を投入して手に入れてきたパック詰めのオレンジジュースを手に、私の唯一の居場所の敷居を潜る。
するりと、微かに湿度を孕む風が、通り過ぎた。
「先生、こんにちは」
真正面に据えられた穴だらけのソファーを先ずは視界に入れ、次にその横に存在する筈の教員机の方に視線を向ける。
居た、私の最愛の人。
天春先生は椅子に腰を落ち着け、風が吹き込む窓の外をぼんやりと眺めていた。考え事をしているような遠い目はいつもの事ながら、人目が無いことに完全に油断していたのか、その表情はどこか力が抜け、どこまでも無防備を晒し、触れようと手を伸ばせば透けてしまいそうな程に、儚い、一枚の絵画のように感じられた。
「ああ、永浦さんか」
ずっとその無防備を眺めていたいなと思っていたが、先生は私の存在に気付くと、すぐにいつもの無感動な表情に戻ってしまう。
こう見ると、普段から肩の力を抜いているように見えて、人前ではちゃんと気を張っているんだなと思った。
「昼に来るの、珍しいね」
「たまにはね。放課後以外も来ていいんでしょ?」
「うん、休み時間中は生徒に解放してるから」
解放しているということは、私以外の生徒がここに立ち寄る可能性があるということだ。私は天春先生と二人きりの時間を過ごしたいので、その他の人がやって来られると少々困る。私が予約を入れている放課後のみこの相談室にやって来る理由は、一重にそれがあるからだった。
けれど、この様子ではそれも杞憂だったようだ。
「出入り自由のわりには閑古鳥じゃん」
「まぁ、立地が悪いわな」
そう言う先生に密かに安心し、この場所の平穏が守られていることに安堵しつつ、いつもの定位置たる座り心地の悪い皮張りのソファーの上にどっかと腰を下ろす。
手に持っていたものを目の前のローテーブルに置き、一先ずは腹拵えだとばかりにパンの袋を開けた。
と、そこで先生が何かを口に運ぶ動作をした為、気付く。
「おや」
見れば、教員机の上には、お弁当が広げられていた。いやに可愛らしい包みの上に、これまたいやに可愛らしいデザインの、しかしながらどこか品のあるシンプルなお弁当箱に、彩り豊かな調理品がバランス良く収められているのが見えた。
「先生、料理するんですか」
「しないよ」
ぱく、と中にある綺麗な色の出汁巻き玉子を口に運びながら、先生はあっけらかんと返す。
「じゃあ何それ」
もぐもぐと咀嚼する先生の口の動きが、どこか小動物じみていて愛らしく、退屈な一日の中で貴重なものを見られた気がして、変な時間に足を運んでみるものだな、と思った。
「友達が作ってくれた」
「昨日言ってた友達?」
「まあね」
「どっちの人?」
「女の方」
ガタ、と思わず立ち上がる。
袋詰めのコロッケパン片手に急に立ち上がった女子生徒の奇行に「座って食べなよ」と先生は冷静に対応する。
「愛妻弁当じゃないですか」
「いやもう俺以外の人んとこの奥さんだよ」
「この泥棒猫!」
「意味わかって使ってる?」
きいぃぃ! とハンカチを噛む勢いで歯軋りしながらコロッケパンを豪快に貪り始めた猿のような女子高生を前に、先生はのんびりと優しい色味の食事を口に運んでいた。
「あ、そうだ」
「何だよう」
勢い良く口を開いた瞬間にコロッケの残骸が少し飛んだので、申し訳程度に口に手を添えてそれ以上の飛散を防止する。飛んだ分は先生が近くに置いてあった箱ティッシュからさっと一枚ティッシュを抜き取り、ささっと飛んだものを拭き取ってから机の横に置かれていたゴミ箱にぽんと投げ入れた。
「体重はかってきたけど、明日じゃなくて今日言っていい?」
「律儀かよ! 言えよ!」
完全に自棄くそになりながら声を荒げると、私がコロッケパンを嚥下するまでの間に、先生はぽつりと確認してきた数字を報告してくれた。
それを聞いた私は、完全に口の中を空にしてから漸く手を外し、堂々と先生の目の前に立って声を荒げてやる。
「平均以下じゃん!」
「でもそんなに下回ってないし、まだ平気だろ」
「まだいける、まだ大丈夫」
「もう危険、ってか。保健室前に貼られてたポスターだな」
流石先生、私の言いたいことをすぐに汲み取ってくれる。
今のは、黄色い帽子をかぶった女児が、五七五の交通安全を訴える言葉の下、黄色い信号に猛スピードで突っ込んでくる車に轢かれそうになっているという、危機感を煽るイラストの描かれたポスターの内容を言っている。保健室前の廊下の壁に貼られているものなのだが、先生がこれを言い当てられるとは思っていなかった。
まぁ、保健室の横に職員室があるので、もしかすれば先生は私よりも日常的にそのポスターを目に入れていたのかもしれないが。
「んであれか、先生は可愛い人妻に甘えに行ってきたわけですか」
「間違ってないけど間違いだらけだな」
「私というものがありながら」
「永浦さんは俺のそういうんじゃないでしょ」
「その女だって先生のそういうんじゃないじゃん」
「いや……まぁ、うん」
言葉尻を濁す先生の目が、どんどん明後日の方向を向いていく。都合が悪くなるとすぐ意識を遠くへ持っていってしまう心の遁走癖のある先生を連れ戻すべく、乱暴な手つきで先生の左肩をがっしと掴む。
咄嗟の事に驚き、目を丸くする先生の視線が、こちらに向いた。
「玉子、一口頂戴」
「え、おう」
先生は言われるがまま、可愛らしい弁当箱に収められた出汁巻き玉子を綺麗な箸使いで一口大に切り、箸先でそれを摘まむと、左手を皿にして、私の口元へそれを運ぶ。
綺麗な指先だなぁ、などと考えながら差し出された玉子を何の気なしにぱくりと口に入れるが、入れてからたった今行われた先生との尊い奇跡的なやり取りと、この箸さっきまで先生が口付けてたやつじゃないですか、というとんでもない事実に気が付いてしまい、味覚よりも感動が先行し、一瞬頭の中があまりの情報量にパンクしそうになった。
半歩遅れて理解できた口の中の玉子の味は、私の短い人生の中ではおおよそ経験したことのない優しさを内包しており、これを作った女の底知れない深い愛情を垣間見た気がして、私とその女の絶望的なまでのレベルの違いを突きつけられた気がした。
「めちゃくちゃ美味いんだけど」
「昔から料理上手いんだよ、この子」
何食わぬ顔で残りの玉子を黙々と口に運ぶ先生を見て、間接キスじゃん、と淡々とした感想が脳裏に浮かび、怒りなのか焦りなのか羞恥心なのか何がなんだかよくわからない感情がごちゃ混ぜになって、私の心を蹂躙した。
「他所の女のお膝でいい子いい子してもらった上にこんな美味しいお弁当まで作ってもらって、何なんだよもう!」
「膝ではいい子いい子してもらってないんだけど」
「では、って何ですか」
んぐ、と先生は喉を詰まらせたような声を出し、驚くような速さで私から顔を背け、背を丸めてコンコンと咳き込み始める。
そのあからさまな様子に、私は誰の目から見ても不機嫌だと解る表情を作り、細めた目で先生の猫背を見下ろし、低い声音で問い掛けた。
「何その反応、まさか本当にいい子いい子してもらったんですか?」
「……」
天春先生は私から顔を背けたまま、少し大袈裟なくらいに空咳を繰り返す。嘘をつけない馬鹿正直な先生の性格が、これでもかと出ている態度だった。
「先生、ねえ先生」
「……あ、永浦さん、そういえば」
話題を反らすように先生はわざとらしく上擦った声を上げ、流れに乗せるようにさっとこちらに顔を向けた。先生は、咳き込んだ分ほんの少し涙目になりながら、無理をして取り繕うような微笑を浮かべており、年の割になんだかちょっと幼くて、可愛らしいなと思ってしまった。
「文化祭、二人とも一応来るつもりで予定組んでくれるって」
「え、本当ですか」
正直、半年先の予約なんて自分でも無謀だと思っていた節があり、叶えばそれなりに僥倖だとは思っていたが、期待もそれほどしていなかった。
思ってもみなかった先生からの吉報に、早くも先の未来へ期待と想像が膨らんでいく。
「あんまり、突っついてやるなよ」
「どういう意味ですか」
「あと、突っつかれると思うけど、適当に流していいからね」
「私と先生のご友人、そんなにウマが合わないんですか」
いやあ……とその後の言葉を濁す先生に、どんな奇天烈な友人がやってくるのか、不安と共に怖いもの見たさからの好奇心が膨らんでいく。
はてさて、相手はとっくの当に成人している身であるがゆえ、私のような若輩者を手の平の上で転がすのなんて、朝飯前に違いない。転がされることを覚悟した上で、少しでも友人様の心に良かれ悪かれ何らかの爪痕を残せれば、私としては大いに偉烈だ。
何より、私は気になるのだ。今、私の目の前に居る『天春円』という人間が、どんな人達と、どんな関係性を築き、どんな人生を歩み、どんな考えを抱き、今日に至る人格を形成したのか。全てを理解することなんて到底出来ないが、せめてその片鱗、端っこだけでも、彼が彼たる所以を、私は知りたいと思う。
「先生。友達に会ったら、私をお嫁さんとして紹介してくださいね」
「勘弁してくれ」
ふふん、と鼻をならし得意気に笑む私と、いつも通りの澄まし顔でさらりと私の言葉を受け流す天春先生。
私は、この温度差が嫌いじゃない。だって、逃げる人ほど追いたくなるじゃない。まともに取り合ってくれない人ほど、振り向かせたくなるじゃない。手強い男を相手にするだけあって、俄然やる気も並大抵のものではない。いつだって全力で向かわせてくれる先生のことが、私は好きで、好きで、大好きなのだ。
ここが、私の居場所。
時雨の先に辿り着いた、私の、春の居場所。
春の居場所 花房 @HanaBusaxxx
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