Rainy Day【4】

 ■ ■ ■



 雨粒の飽和する夜道、テールランプの赤い光が湿潤に満ちた世界に反射する。対向車線のヘッドライトの明かりが眩しく伸びては通り過ぎ、また伸びては通り過ぎるを繰り返していた。


「先生、車乗るときだけ眼鏡なんですね」


 運転席でシートベルトに拘束されながら、慣れた手つきでハンドルを切る青二才の眼鏡姿に、助手席から声をかける。私の方もジャージ姿で胸元にシートベルトを走らせ、道路交通法に則り、しっかりと座席に固定されていた。


「遠視でね、遠くが見えないんだ。乱視も少し入ってる」

「ふうん」


 両目視力1.5の私には、見えないというのは想像できない世界だ。いつだって世界は鮮明に私の網膜に景色を映し出し、見えすぎるくらいにくっきりと輪郭を持たせ、見たくないものも含めて無差別に情報を脳に送り込んでくる。


「あ、そこ左」

「あいよ」


 ハンドルを握る天春先生の右手が軽い動作でレバーを引っかけると、インパネ内に左進路を指し示すウィンカーの明かりが点滅しだす。私と先生を乗せた車は曲がり道に差し掛かる手前で徐々に減速し、徐行しながら私の指示通りの道を左折した。

 車体が道路に対して直進を向く頃合いで、カチカチと点滅音を繰り返していたウィンカーは、カチンと最後の一鳴きをレバーに託した後に消灯し、沈黙する。


「そこ、真っ直ぐ行ったところに公園があるので、その向かいに建ってるのが私の家です」

「おっけい」


 住宅街に入り、濡れた景色を車内から眺めつつ、私は再度先生に自宅の場所を指示する。

 フロントガラスに真っ向から打ち付けてくる雨粒を、備え付けられたワイパーが左右の運動で絶えず晴らし、しかしまたすぐに雨粒は晴れた視界を濡らしにかかり、ワイパーがすかさずそれを晴らし、視界は終始いたちごっこを繰り返していた。

 直進道路を進む傍ら、運転席に座る先生に視線を向ける。

 黒縁眼鏡越しの視線は前方に据えられ、両手は緩くハンドルの左右に添えてあり、膝から下の右足は適度な速度を守りながらアクセルを踏み込んでいる。


「ギャップ萌え、っていうんですかね」

「あ?」

「いや、かっけえなあって」


 私の方も大分砕けた口調になり、先生の言い回しに同調し始める。放課後から今に至るまでの短い時間の間に、随分と打ち解けたものだと、我ながら感心する程だ。

 直進していた車のヘッドライトが、前方の左手に広がる公園を照らし出す。人っ子一人居ない日没後の公園は、雨脚に晒された遊具のみが、寂しく孤独を内包しているように見えた。


「そりゃどうも」


 カチン、と左手を示すウィンカーが再度明滅し、車は減速を始める。公園に車が近づくに連れ「ああ、もう終わりか」と強烈な侘しさが心の中を渦巻いた。私の心情も知らず、先生は非常に慣れた操作で車体を公園の側に寄せ、少しの徐行の後、ハザードランプを点灯する。やがて車は完全に停止し、サイドブレーキを引くカチチ、という音が素早く車内に響いた。最後にシフトレバーを最上段の『P』に入れ込んだところで、先生は「ふう」と一息つくように肩の力を抜いた。


「大人すごいな」

「大人じゃなくても免許さえ取れば、十八から普通車の運転はできるよ」

「私、車は無理だわ」

「まあ、田舎じゃない限り車は逆にお荷物になったりするから、無理に取るもんでもないな」

「先生は田舎から来てるの?」

「実家が田舎で、家出るタイミングで車も持ってきちゃっただけ」

「へえ」


 やっぱり地方出身か、と数時間前に聞いた言い回しに、今更ながら納得する。

 いつの間にかすっかり敬語も外れ、生徒が先生に利く口としては大分舐めた状態になった訳だが、先生は気にする様子もなく、そのまま私の適当な姿勢を尊重してくれていた。

 激しい雨音に、エンジンの駆動音が重なる。


「はい、おまちどおさま、遅くまで付き合わせてごめんね」


 そっち出られる? と続けてくれる先生に「大丈夫」と短く返答する。無表情にシートベルトを外し、身を捩って後部座席に乗せたリュックを手繰り寄せようとして、止める。


「どした?」

「……」


 無言で動きを止めた私に、先生は気の抜けた顔つきで尋ねた。けれど、私はその問いかけにも答えない。

 助手席に根が生えたように動かなくなった女子生徒に、いよいよ先生は困ったふうに眉を下げ「んー……」と悩ましげな声を漏らす。数秒考える素振りを見せた後、先生は周囲を一度見渡してから、エンジンの駆動を止めた。

 一気に静まり返った狭い車内に、耳障りな程に激しい雨音だけが響く。

 先生は頭上の室内灯を点け、黙り込む私の顔を覗き込んだ。


「帰りたくない?」

「……」


 私は何も反応しない。

 先生はまた少し考え、公園の向かいに建つ私の家に視線を向けた。家には明かりが点っておらず、無人であることが傍目にも理解できることだろう。


「お家の人、誰も居ないの?」

「居ないです」

「お仕事?」

「……」


 再び、無言になる。

 先生は静かに息を吐き出すと、僅かに視線を上にあげ、思案に耽る。思考のついでにシートベルトを外し、座席の背もたれを若干斜めに倒してから、自由になった身体を後ろに預けた。


「ずっと帰ってきてないんだ?」

「週一くらいで帰ってきます」

「そっか」


 とつとつと問答を繰り返した後、お互いに沈黙が挟まる。静まり返る車内、二人きりの狭い世界に響く雨音だけが、鼓膜を通して脳に伝わった。


「先生」

「ん」

「家、あがっていってよ」

「駄目だよ」


 私の要求に、先生は即答する。

 天春先生は前を見据えたままで、私の方は俯いて、互いに視線を合わせることはなかった。


「どうして」

「親御さんが居ない家の中に、部外者が入ったら不味いだろ」

「部外者じゃないよ、先生は先生だもん」

「血縁とかじゃない限りは部外者なの。とにかく、俺は永浦さんの家には入れない」


 思った以上にしっかりとし、融通の利かない天春先生の言動に、次第に苛立ちを覚えていく。黙れば黙った分だけ沈黙が重なり、時間稼ぎの会話も思いつかなくなる。それでも、先生は何も考えていないような顔で、辛抱強く私が重い腰を上げるのを待っているようだった。


「じゃあさ、先生」

「ん」

「こうしよう」


 提案する素振りを見せる私に、天春先生はふっとこちらに顔を向ける。

 刹那。

 身を捩り、先生の首へ手を伸ばす。呆けたように反応の遅い先生の首を捉えるのは容易で、右手で喉仏の辺りを鷲掴み、左手を先生が座っている座席のレバーに伸ばし、素早く引く。そのまま首を掴んだままの右手で先生の身体を後ろに押し込み、横になった背もたれに釣られるがまま、上半身を横たえた先生の上に、流れるような所作で跨がった。せせこましい車内でこれだけ大胆な動きを易々と形に出来たのは、幸か不幸か私の体格が小柄だった事が幸いしたのだろうと思う。

 改めて両手で先生の首を押さえ込み、目を丸くして硬直する先生を見下ろす。思い切りよくいけば、咄嗟の動きでも上手くやれるもんだと、我ながら素晴らしい手際の良さに自画自賛で感嘆する。

 気道を塞ぎきっていないせいか、先生は辛うじて呼吸の出来る喉を使い、自分が置かれている状況を確認するように、一つ息を吸って、吐いた。


「凄いな」


 女子高生が馬乗りになり、剰え首を絞められかけているという謎の状況の中、先生が掠れた声で口にした第一声は、それだった。

 まるで他人事のように感想を述べた先生は、これまた他人事のような顔つきで口を半開きにして、まるで自分の状況をわかっていないかのように、呆然と瞬きを繰り返す。


「今のは自分でも凄いと思った」

「うん、なんていうか永浦さん、縄抜けとか上手そう」

「それはちょっと自信無いや、縛られた経験ないので」

「そっか、普通はないか」


 普通は、ってどういう意味だ。先生は経験あるのか、あるとしたらどんな状況だ、それ。

 気にはなるが、今はじっくり話を聞いている場合ではないか。少し勢いが削がれてしまったが、気を取り直して要求を口に出していく事にする。


「今から私が言うことを先生が聞いてくれたら、今日は大人しく帰ります」

「ん、なに」


 こんな状況にも関わらず、先生の態度は今までと差程変わらない。無駄に落ち着き払った先生の態度に、まるで子供のする事だとばかりにいい加減にあしらわれているような感じを覚え、明らかに形勢の上では先生の方が不利な状況にあるはずなのに、私の方が股掌の上に弄ばれている気がして、苛立ちが募っていく。


「先生。今、ここで、私とやってください」

「なんで」

「なんでも」


 ぐ、と先生の首に添えた手に力を込める。流石に成人男性の首というだけあり、女性のそれより太く、やや筋肉質だ。見た目の落ち着きように反して、やけに早鐘を打つ先生の脈を指先に感じ取り、そのままそこを圧迫していく。

 少しだけ、先生の顔が苦悶に歪んだ。


「別に、さ」

「何ですか」


 徐々に圧迫する力を強くしていくと、先生の表情がさらに苦しげに歪み、それに連れて私の中に奇妙な感情が生まれ、燻り始めたことに気付く。

 何だ、これ、変な感じ、何か、何だろう。

 背徳的な高揚感、先の見えない暗がりを進むような、足元の見えない頼りの無さ、そんな感じの、何か。


「……ぜったい、やらなきゃ、とか、そういうんじゃ、……ないんじゃない?」


 無言のまま目下の男の様子を見ていると、次第におとがいを上げ、喘ぐような呼吸を始める。例えるなら、池の鯉が水面で口を開き餌を乞う仕草に似ていて、その開いた口は餌の代わりに今は何を求めているのだろうかと考えてみる。先生の場合、酸素は吸えると思うから……何だろう、わかんないな。


「先生、気道潰れてないのに、苦しいんですか?」

「……、……永浦さん、さ」

「はい」

頸動脈洞反射けいどうみゃくどうはんしゃ、て、……知ってる?」

「知らないです」


 びく、と先生の身体が、私の下で微かに跳ねた。

 何に反応したんだろうかと疑問に思うが、すぐに痙攣かなと思い至る。


「そこ、さ、……そういうお遊びのとき、とかに、絞める箇所、だか、ら」


 先生の絞り出したような掠れ声を耳に入れるや否や、瞬時に意味を理解した私はばっと熱した鉄板から咄嗟に手を引くような機敏さで、先生の首から慌てて手を離した。

 途端、先生は顔を顰めながら、は、と深く息を吸い込み、喘ぐように乱れた呼吸を始める。暫く様子を見てみるが、生理現象からかまなじりに涙を溜め、喘ぎの傍らに雫が一粒、頬を伝い流れていった。

 涙を落としたばかりの虚ろな目は、いつまでも焦点が合わず、見ている私の方が少し不安になってきてしまう。

 ふと窓の外に目を向けると、ガラスに打ち付ける雨粒は未だ絶え間なく流れ落ち、目の前の憔悴しきった男と並べて眺めると、まるで私以外の世界の全てが私のせいで泣いているように感じられた。


「せんせ、い」

「……ん」


 良かった、返事が返ってきた。


「……ねえ、知らずに大人の階段をのぼってしまったんですが」

「良かったじゃん」


 肩で息をしながら、先生は漸くぼんやりとした眼差しで私の顔に焦点を合わせる。何故か、その双眸が秋波しゅうはを送る女の蠱惑的こわくてきなそれのように見え、走馬灯のようなデジャヴが脳裏を過った。

 先程胸の内に燻っていた感情の正体が、もう少しで掴めそうな、気がする。


「良か……いやもう、これ以上のぼりたくないんですわ」


 私の減らず口を聞き、天春先生は私の下で、力なく笑った。

 それを受け、私は怪訝に眉を顰める。


「この状況でよく笑えますね」

「慣れてんだよ、こういうの」

「は?」


 ついさっき、そこそこ破廉恥なワードを聞いたばかりなだけあって、慣れていると聞いた途端、とんでもない豚野郎を組み敷いてしまっているのではないかと、過度な妄想が核爆発を起こしたかのように一瞬にして拡散し、つい謂れもなく天春先生に対してドン引きしてしまった。いやそもそも大の男を組み敷いて馬乗りになっている女が、他人にドン引きできる立場にあるわけがないんだけども。


「先生、もうちょっと、あの、具体的に教えてください」

「……永浦さんは、」

「はい」

「男、嫌いなんだろ」


 先生は、私の言葉を無視して語り始める。意思疎通としては大層拙いが、しかし簡潔で鋭利な言葉が、的確に私の図星を貫いた。

 この男は、またそうやって、私を見透かすのか。


「嫌いならこんなことしないですよ」

「……男はみんな敵、みたいに、思ってるかもしんないけどさ」


 当然といった調子で私の嘘を薄皮一枚を容易く貫くように暴き、そうしてまた私の言葉は無視される。聞くつもりがないのか、はたまた聞こえているが酸素不足で脳が処理できていないのか、マイペースな天春先生の性格を考慮すると、どちらか判別することが出来なかった。


「……男性でも、永浦さん側の立場に回ることだって、あるんだよ」

「知って、ます」


 眠そうに目を閉じる先生に、項垂れながら答える。

 知ってる、そんなことは知ってるんだ。けれど、それでも私は男性という生き物は全て敵に見えてしまうし、十把一絡じっぱひとからげに人を襲うものだと、偏見を抱いている。それは私の理性がどんなに声高に違うと喚き散らしたところで意味はなく、理屈でものを言っているわけではないのだと、自分の心に思い知らされた。

 私は、男性が嫌いだ。

 男性は皆等しく、人ではない獣だと思っている。善人面した優しい面皮の男だって、腹の底にはきっとどす黒いものを抱えているに違いないと、私の本能は信じて疑わないのだ。私の理性がどんなに違うと言っても、本能には一向に聞き入れてもらえない。

 だから、私は試し行動がやめられない。絶対にお前は黒の筈だと、わざわざ黒く塗りつぶして、その黒を吐き出させようとさえするのだ。

 結局、私は「やっぱり」と言って安心したいのだ。「やっぱり」と予定調和の落胆に安心して、心地好い絶望のぬるま湯に浸かって、独りでいじけて、抱えた傷を大事に守って、私を可愛がりたくて堪らないのだ。

 だってそうでもしないと、誰も私を愛してくれないから、誰も私を大事にしてくれないから、誰も私を見てくれないから、誰も彼も私を見ないのなら、私が私を見てあげるしかないじゃないか。

 だから、頼むよ、お願いだから、私に「やっぱり」と言わせて、肩を落とさせて、安心させてくれよ。皆、敵になってくれよ。助けてくれなくていいといじけた私を、どうか正当化させてくれよ。

 でないともう、辛いんだよ。もうこれ以上頑張りたくない、いい加減甘えたっていいじゃないか。生まれた瞬間から15年間も頑張ってきたんだよ、もう休んだって、いいでしょう?

  

 どうか私に、失望を頂戴よ、天春先生。


「……俺も男だからさ」

「はい」

「俺に八つ当たりして、気が晴れるならそうしてくれて構わないから」

「はい」

「気が晴れた後はさ、出来れば、前向いて、欲しいんだよなぁ……」

「……はい」

「俺は、どんなに傷つけられても、構わない、からさ……」

「……」


 天春先生は目蓋を閉じたまま、夢現な声音で語り続ける。

 フラットになった座席に力なく全身を投げ出し、抵抗することも、逃げ出そうという素振りも見せることもなく、ただただ無防備に身体を私に差し出して、譫言を呟き続けていた。

 天春先生、今、その瞼の裏に、何を見ているんですか。


「先生は、私の事、何でも知ってますね」

「知らないよ、なんにも」


 先生は薄目を開け、落ち着きを取り戻し始めた呼吸で静かに息を吸い込み、ゆっくりと私に向けて手を伸ばす。先生の真似をして、無抵抗にそのまま身じろぎ一つせず伸びてくる手の動きを目で追っていると、その手は割れ物を扱うような繊細な力加減で、私の左肩に触れた。


「先生」

「ん」

「慣れてるって、さっき言いましたけど」

「うん」

「あれ、私と、同じ意味でしょうか」

「どうだろうな。何せ、俺はまだ永浦さんのこと、何も知らないから」


 私の肩に触れた手の平が、そっと滑るように肩を撫で、そしてまた、シートの上に静かに降りていく。表面を撫でるだけで奥底には手を伸ばさない、天春先生らしい触れ方だった。

 先生は自分自身を、寂しいけだものの供物にして、自分という存在を繋いでいるのかもしれない。先生は確かに私の目の前に居る筈なのに、何故かその存在は空虚で、虚無に満ちていて『天春円』という形を表すには様々なものが足りないと、そう思った。

 それはきっと天春先生自身も気付いていて、自分の輪郭が整っていないことに、もしかすれば恐怖しているのかもしれなくて。だから、形が欲しくて、誰かの犠牲の型に嵌ることで、自分の存在を一時的にでも何らかの形に変えて、そうやって今までの人生を凌いできたのかもしれないと、思った。

 先生が犠牲者の型という役回りに嵌ってくれた事で、私自身、この場で何の役回りに在ったのか、漸く分かった。

 私は、今、加害者の立場にいる。

 私は今までずっと、たった今先生が身を横たえる場所、そこに居たのだ。先生が立場を変わってくれたことで、私は違う景色を見ることが出来るようになった。

 先ほど感じた感情は、加害者側の視点に生じる、極めて本能的な、欲求だった。

 私は黒だ、私の中にもどす黒い汚濁がしっかりと存在し、きっかけさえあれば溢れ、弱った理性に取って代わろうと、私を染める機会を虎視眈々と常に窺っている。

 男が、とかではない。

 人間は、等しく汚らしく、それには私も、含まれるのだ。


「先生は、寂しい人ですね」

「そう見える?」

「はい、見えます」

「そう」


 先生は静かに、虚空に視線を彷徨わせる。この人の目はいつも遠くを見ていて、今現在という現実に意識を置き続けるのは、先生にとってはなかなか難しいことなんだろうなと思った。


「先生、付き合ってる人とか、いますか」

「……」

「いないんですか」

「いない、なぁ」

「じゃあ、」


 前屈みになり、先生の両肩に手を置く。朧げな様子で何処ともつかない方向に目を向けていた先生は、私の姿を、もう一度視界の中に映した。

 雨音が外界を閉ざし、私と先生の二人きりの車内を、別世界のように隔離する。


「先生、私と結婚してください」

「嫌だよ」


 私の人生のなかでおおよそ一二を賭けた一世一代の重大告白を、あっさりと即答で拒否する先生に、コンマ一秒時間が止まった。


「ちょっと、早過ぎるでしょ」

「だって嫌だし」

「なんで」

「逆になんでいきなりそこに飛ぶんだよ、順序ってもんがあるだろうが」

「白黒思考なので、ゼロか一かしか私の頭の中の基準には存在してないです」

「先ずそのトンデモ思考を直してこい」

「一度付き合うって決めたら一生添い遂げるので、意味合いとしては変わらないです。だから、結婚してください」

「意味が解らないし俺の気持ちガン無視じゃねえか」

「じゃあ先生が私と子作りしたくなるまで待ちます」

「だからなんで急に飛ぶんだよ」


 えへへぇ、と自分でも気味の悪いにやにやとした笑みを浮かべると、すっかり正気の目になった先生は明瞭な受け答えで以て私の我田引水な一方通行トークに阿吽の呼吸で突っ込み返す。無駄に息の合った餅の突っつき合いに、ああ久しぶりに息がしやすいなと、改めて先生に向けた自分の感情を再確認した。


「満足できたので、今日は帰ります」

「……おお」


 先生の都合を一切無視して、後部座席からよっこらせとリュックを手繰り寄せ、助手席に取って返す。やっと私が退いたことで自由になった天春先生は、億劫そうに身体を起こし、顔を顰めながら背もたれを起こした。

 雨脚は、少しだけ弱まっていた。


「先生、それじゃあ、さようなら」

「ん、はい、また明日」


 外の雨模様とは対照的に、すっかり気分の良くなった私は、迷うことなく車のドアを開き、助手席から表に半身を乗り出す。


「あ、永浦さん」

「なんですか」


 不意に呼び止められ、家まで駆けだそうとしていた足を咄嗟に引っ込める。ついでに家に帰る気満々だった身体も上半身を車から出したままだったので、頭から雨粒を被る形で静止してしまい、すごすごとヤドカリかカタツムリのように車内に頭を引っ込めた。


「保険証とお金、持ってる?」

「……? 保険証はあるけど、お金は親が置いていった食費と交通費しか無いです」

「ん、わかった」


 先生は少し考え込むような顔つきになり、あまり時間がないと思ったのか、すぐに言葉を続けた。


「明日、午前中は一緒に少し、ドライブしようか」

「えっ」

「朝学校来たら、真っ直ぐ相談室来てくれる?」

「わかりました」


 先生からの思ってもみないデートのお誘いに、単純な私はすっかり舞い上がり、深く考えることもなく、意気揚々と誰も居ない自宅への帰路につくのだった。



 真っ暗で、誰の声も聞こえない、しんと静まり返る閉ざされた家の中。普段は寂しくて堪らない静寂も、その日だけは不思議と、苦痛に感じることはなかった。

 時計の短針が零時を指し示す頃、ざあざあと降り続いていた雨音がふと聞こえなくなっていることに気付き、自室の窓のカーテンを引く。

 見上げると、暗く冷えた夜の景色に、雨上がりの繊月が星々を引き連れ、闇の中に薄目を開けるように、薄ぼんやりと浮かんでいた。



 翌日、心を弾ませ昨日同様に先生の車に乗り込んではみたものの、向かった先はこの辺で一番大きな病院で、今更な傷を不機嫌そうな医者に適当に縫合され、受付で財布を開く天春先生を見ては、また騙されたのだと其処で気付いた。

 午後から授業に参加し、放課後は約束通り天春先生の相談室でお茶会が出来たので良かったものの、意に反して薬品臭いデートで午前中を潰されたことを、私は未だに、根に持っている。

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