Rainy Day【3】

 ■ ■ ■



「いつから気付いてたんですか」


 借りたタオルを首に引っかけつつ無事ジャージに着替え終え、濡れた制服をボロボロのソファーの上に置きながら、天春先生を部屋の中に呼び戻し、問いかけた。

 天春先生は大仰な音を響き渡らせる引き戸を閉め、完全に外界とこの部屋の繋がりが絶たれたことを確認した後、少し含みを持たせてから口を開く。


「……、最初から」

「気付いたから、私に声を掛けたんですか」

「そういうわけじゃないよ」


 ソファーの横に立つ私と目を合わせず、重そうな足取りでこちらに歩み寄る天春先生。何をするのかと見守っていると、先生はソファーの上に無造作に置かれた制服を指差し、ここで初めて私に視線を向けた。


「ハンガーあるから、干しとくよ」

「別にいいです」

「明日も着るでしょ? 湿ぼったかったら困るじゃん」


 この辺じゃ聞かない言い回しに、地方出身だろうかと想像する。天春先生の他にも授業を行う教師の中には、基本的には標準語なのだが、時折妙な言葉を織り込んでくる人もいて、天春先生もそういう一群の一人なのだろうと思った。


「明日着てればそのうち乾きますよ」

「制服が乾くのが先か、永浦さんが風邪を引くのが先か、って感じだね」


 私の言葉を無視して、先生は女子生徒の制服を無遠慮に拾い上げ、抗議の言葉を挟む余地もなくさっさと手早くハンガーに制服を引っかけ、窓際に吊るしていってしまう。

 なんて話の通らない先生だ、まるで現代の駄目な教師の典型ではないか、と八つ当たり気味な文句をぷんすこ抱えつつ、腹いせにどっかとソファーに腰を下ろす。

 先生は制服を吊るし終えると「ちょっと薄暗いか」と引き戸の方へ移動し、壁に備え付けられていたボタンを指先でパチと押し込む。すると、ぱっと部屋の中に人工的な明かりが点り、部屋の中を十分な光量が照らし出した。すぐに電気を点けなかった辺り、この人はそんなに明るい場所が好きではないのかな、と思った。まるで私みたいじゃないか。


「緑茶でいい?」


 使われなくなったスチール製の棚に無理やり生活用品を詰め込んだような場所から、先生はマグカップを二つ取り出しながら訊いてくる。棚の中にはチェック柄の布が敷かれ、カップの他にティーバッグの緑茶の柄が印刷された紙製の箱が一つと、ラベルは無いが黒っぽい粉が収められた瓶が一つ、きちんと整列する形で並べられていた。


「その黒いのは何ですか」

「インスタントコーヒー」


 私の質問に、天春先生は最速で答えを示してくれる。


「大人って、よくそんな苦いの飲みますよね」

「俺は大人じゃなくても飲んでたけどなぁ」

「いつから飲めたんですか」

「子供の頃、うーん、小学生とかそんくらい」

「母親の腹の中に味覚を置いてきちゃったんですね」

「結局は蓼食う虫も好き好きってことなんだろうね」


 話しながら天春先生は一方のカップにティーバッグを入れ、もう一方のカップに瓶詰のインスタントコーヒーをスプーンで掬い、適量を慣れた手つきで入れていった。


「お砂糖とミルクめっちゃ入れれば、私も珈琲飲めますよ」

「俺は砂糖もミルクも苦手だから、珈琲に何かを入れる人の心理って、わかんないんだよな」


 悉く足並みの揃わない先生と私の味覚に、ああこの人と食事に行ったら苦労するだろうなと半目になりつつ考えた。

 呆れる私を置いて、先生は保温になっていたポットからカップの中にお湯を注ぎ、一方のカップを私の座る目の前にあるローテーブルの上にコトリと置いてくれた。濛々と立ち昇る湯気を眺めていると「熱いから少し冷ましてから飲みな」と自分の分のカップの中身をティースプーンで混ぜながら声をかけてくれる。雨音だけがざあざあと広がる静かな部屋の中に、カチャカチャと周波数の高い陶器の音が重なって響いた。


「先生」

「はいよ」

「こっちは、気付いてましたか?」


 言って、ぐいと自分の左腕のジャージの長袖を捲り上げる。

 現れたのは、無数の赤い目だ。ぱっくりと割れた幾本もの乾いた傷が、腕の一段奥を晒したまま固まっている。本来であれば縫合が必要な深さの傷なのだろうが、放置された結果、そのままの形で表面のみ気休め程度に傷が塞がり、血液が外に逃げ出すことだけは阻止できているのみとなっていた。

 先生は私の左腕を視界に映すと、口を付けようとしたカップを口に到達する途中でぴたりと止め「おお」と薄いリアクションを溢しつつ、僅かに口を開く。

 思ったよりも驚かない先生の態度に、やはり何らかの形でこっちの傷も知っていたのだろうかと勘ぐっていると、先生は徐に教員机の方へと戻り、カップを置いてから机の引き出しを開いた。


「そっちは知らなかったわ」

「えっ」


 言いながら、先生は絆創膏を数枚引き出しの中から取り出し、私の傍に戻ってくる。先生は私の前で膝を曲げると、少し強引に私の左腕を掴み、無理やり手の平を上に向けさせた。予想に反して力の強い先生の手つきに、一瞬びくりと恐怖に似た感情が走る。男性にとってはそこまでではない力加減でも、女性の身からすれば吃驚してしまうほどに強いことなんて、然程珍しいことではない。

 無表情に近い顔つきで暫く私の傷を眺めていた先生は、やがて一つ溜め息を吐くと、持っていた絆創膏を近くに置いてあった私のリュックの中に勝手にぽいぽいと突っ込んだ。


「ちょっと、」

「駄目だな、ここまでだと手当てできない」


 そう言って先生は立ち上がり、諦めた様子で教員用の椅子に腰掛けた。机の上に置かれたカップを手に取ると漸くそれに口を付け、ふう、と寛ぎ始めてしまう。

 ほっぽりだされた私の方は一瞬どうすれば良いのかわからず、先生が傍に戻ってくる気配がないことを察して、そそくさとジャージの袖を下ろした。先生の意図するところがわからず、若干居心地が悪くなった私は、目の前に出された緑茶に口を付けることで一旦気持ちを誤魔化すことにする。


「……保健室、連れていかないんですか」

「行きたくない、って顔してる」


 考えを言い当てられ、別の意味で再び危機感が全身を苛む。


「何でもお見通しってわけですか」

「知ってることだけ知ってるだけだよ」


 何も考えていないような顔つきでずずずとカップの中身を啜る先生の態度に、静かに目を細めた。


「じゃあ、どうやって足の傷を知ったのかだけ、教えてください」

「……」

「先生」

「……外に居るとき、もしかしてと思って注意して見てたら、一瞬ちらっと見えたから」


 何故か若干言いにくそうにして話す先生に、形容しがたい違和感を覚える。考えても違和感の正体が掴めず、もやもやと胸の中でつっかえる様に気持ちが燻った。


「ずっと見てたんですね」

「うん」


 先生の受け答えはどこまでも淡白で、裏表が読めず、白々しい。用心深く先生の一言一句、一挙手一投足に不審な点が漏れていないかと注意を払ってみるが、目の前の男はなかなか腹の内を明かすことはなかった。その徹底した自己韜晦の姿勢は、もしや自分一人が敵の幻影を見て、何もないモノに向けて勝手に神経をすり減らしているのではないかという、不安さえ煽られる程だ。


「全部わかってて、私をお茶に誘ったんですね」

「そうだよ」


 傷ついた少女は手玉に取りやすいからと、そういう女子ばかりを狙って付き合う男も少なからず見てきた。けれど、天春先生の口ぶりは、それともまた少し違うような気がして、まだ警戒心は解けない。


「……本当に、お茶だけですか」


 私の問いに、天春先生は視線を上げた。真っ直ぐに先生を見つめる私と視線がかち合い、数秒見つめ合った後に、すっと滑るように視線を反らされた。


「何で、そう思う?」

「先生は私の弱みを握りましたよね」

「あぁ、まあ、永浦さんからすればそういうことになるか」

「弱みを握って、黙っておく代わりに、先生は私に要求をできる立場にある」


 言うと、先生は視線を反らしたまま、興味が無さそうに珈琲を啜る。

 まるで馬鹿にされているような気がして、ムキになって立ち上がると、私の動きに反応したのかゆるりと先生は私に視線を戻した。


「なんで目、反らすんですか」

「……人と視線を合わせるの、苦手なんだよ」

「後ろめたいことがあるから?」

「引っ込み思案だから」


 急に可愛いことを言い出す先生に、なんだこいつ、と眉根を寄せる。今日だけで何回眉間に皺を寄せたのか最早思い出せない。あとになったらどうしてくれるんだこの野郎。


「ああ、そうだ」


 ふと、思い出したように先生は言って、気だるげな表情にぱっと一瞬光明が差す。

 何処までもマイペースな先生の振る舞いに若干げんなりし始めながら、同時に「やっときたか」という期待が僅かに胸の内で膨らみ、先生の二の句を二本足で立ちながら待つ。


「俺、今なら永浦さんに何かを要求してもいいんだよね?」

「まあ、はい、そうですね」

「じゃあさ、明日もお茶、付き合ってよ。放課後空いてる?」


 妙に明るい口調でさらにナンパを重ねだした目の前の男に、一周回って気味の悪さすら感じ始めた。ここまで下心を見せずに茶だけ薦めてくるのも一体どういう了見なんだ。何なんだこの男、一体私をどうしたいんだ。これ以上ここに居て何か意味があるのか。それとも何だ、慎重なのか? 慎重に慎重を重ねる性格で変に大きな行動をすぐさま起こせない質の人なのか? ああ面倒臭いなこん畜生。

 立ち上がった体勢のままつかつかと先生の元へ歩み寄り、目を丸くする先生に急接近して、ぐいと顔を近づける。互いの息が掛かるくらいの距離にまで近づき、視界一杯に驚いた様子で固まる先生の童顔を映し、ぶすっと不貞腐れたよう表情で先生を睨みつけた。


「どう、したの」

「手出すならさっさとしてください」


 単刀直入に下心を暴きに掛かると、全く身に覚えがないといった様子で先生はぽかんと固まっていた。

 いつだってそうだ。そんなつもりはないみたいな顔をして、どいつもこいつも逃げ道を用意して、自分は悪くないと言いたげな態度で、人の心身を傷つける。仕方ないよねとか、誰にも言わないでねとか、みんなそう、わざと優しく言って、自分は悪くないと私にアピールしてくるんだ。

 うんざりなんだ、もううんざりなんだよ、そういうの。悪人ならせめて悪人らしくしてくれ、私が気持ちよく恨めるようにしてくれ、罪悪感を私だけに擦り付けないでくれ、少しくらい私が許せない余地を残しておいてくれ、やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ、もうやめてくれよ、もう放っておいてくれよ、一人にしてくれよ、助けてくれよ、置き去りにしないでくれよ、打ち捨てないでくれよ、私玩具じゃないよ、人だよ、人間なんだよ、生きてるんだよ、傷つければちゃんと傷つくんだよ、なんで解らないんだよ、なんで見ないふりするんだよ、近づかないでくれよ、気安く私を殺さないでくれよ、もう死にたくないんだよ、あと何回死ねばいいんだよ、何回私は私を殺せばいいんだよ、何回暗い天井を眺めて、何回揺れる視界に心を閉じて、私だけが肌を外気に晒して、無防備に転がされて、なんで私だけ、なんでいつも私だけ、なんでお前らは服を着てるんだ、なんでいつでも逃げられる用意をしてるんだ、何で私だけが濡れそぼって、地面や床に置き去りで、なんでお前ら男は、何で、


「色々あるわな、お互いに」


 天春先生の、息が掛かる。

 先生は逃げるでもなく、そのままの体勢で茫と私の瞳を覗き込み、全てを見透かすような色で、私を見つめていた。


「もう十分傷ついてるんだから、それ以上傷、増やさなくてもいいんじゃないの」

「余計なお世話です」


 のんびりとした天春先生の口調に、ばっと身を引く。

 自身の中だけで取り乱した感情さえも見透かした上で、撫で透かしたようにあしらう先生の態度に、心底腹が立った。この人と一緒に居ると、内面の全てをいつの間にか覗き込まれている気がして、不気味で敵わない。

 足早にソファーの上に戻り、疲労感を引きずりながら乱暴に腰を下ろす。所々ウレタンの欠けたソファーの座り心地は、頗る宜しくない。

 私が離れるや、先生は悠々と珈琲を口に運び、何をするでもなくブラインド越しの窓に視線を向けた。雨脚は弱まる気配を見せず、そのまま日没を迎えようとしていた。


「暗くなっちゃうな」


 先生は、ぼんやりと呟く。私に当てた言葉なのか、独り言なのか、いまいち図りかねた。


「そうですね」

「夜道、危ないから送っていくよ」

「送り狼ってやつですか」


 ばあか、と先生から軽口が飛んでくる。

 何故だかわからないけれど、先生のその砕けた調子の言い回しが、今頃になって少しだけ、心地好いと感じた。

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