Rainy Day【2】

 ■ ■ ■



 天春先生に連れられ辿り着いた先は、この学校の最果てとも呼べるべき場所であった。

 今まで立ち寄ったことのない廊下を進み、階段を下り、人の声が一切聞こえない、雨音に閉ざされた世界を進む。人気のない校舎の片隅で、濡れそぼった女子高生が一人と、見るからに二十代か、下手をすればそれより若そうな見た目の垢抜けない男が一人。


「先生」

「ん」


 階段の踊り場で足を止めると、半歩先で階段を下りている途中だった天春先生も足を止め、私に振り返る。


「こんなところに連れてきて、何するつもりですか」

「何もしないし俺の使ってる部屋、この先なんだよ」

「こんなところに部屋なんかあるんですか」

「事務室とあともう一部屋、使ってないところがあるよ。その使ってないところが、俺の仕事場」


 いよいよ先生に疑惑の目を向けながら、部屋に入ってしまう前に今からでも逃げた方が良いのではないか、と身に迫る危機感に重い足取りを抱え、一歩を踏み出せなくなる。

 不貞腐れる子供のように踊り場で足踏みをしていると、意図せずくしゅんとくしゃみが漏れた。


「部屋、俺以外誰もいないから、早いとこ着替えよう」

「……更衣室とか、行かないんですか」

「更衣室は鍵掛かってるし、授業もないのに鍵は借りられないんだよ。そこにお手洗いあるから個室で着替えてもいいし、部屋で着替えるなら俺廊下に出てるから」


 ここまでついてきながら、密かに「このジャージ、一体どこで着替えるんだろう」と思っていたが、なんとなく予想が当たり、喜ぶべきかはたまた落胆するべきか、どちらともつかない感情に肩を落とす。


「部屋でいいです」

「ん」

「その方が、先生もいいでしょう?」

「俺がっていうか、永浦さんがいいかなって。個室だと脱いだ服を置くとこないし、着替えづらいだろ」


 それはまあ、確かに。私の出身の中学は更衣室が無かった為、着替えの際は教室を一時的に男子禁制にして対処しており、何らかの理由でこの時間内に着替えを済ませられなかった女子生徒は、トイレの個室で着替える他なかった。そういうときは毎回、制服やジャージが床に付かないように気を使わなければならなかったし、ジャージを入れている手提げ袋を上手い具合に活用して着替えを済ませる必要があった為、着替えという一つの行為が大変面倒な作業と化してしまうのだった。


「先生、言い訳考えるの上手いですね」

「別に取って食ったりしないから、もっと楽にしていいよ」


 む、と眉根を寄せ、不機嫌そうな顔つきを作りながら階段を降りる。私が歩き出したのを見計らって、天春先生もとぼとぼと階段を降り始めた。

 階段を降りきると、どこか見覚えのある景色におや、と小首を傾げる。前方には職員玄関があり、その先には屋外を挟んで生徒用の下駄箱が並ぶ出入口が見えた。職員玄関から右に目をやれば「事務室」と書かれたプレートが掲げられた窓口があり、その中を覗くと、数名の見知らぬ職員が各々デスクに向かい、大量の書類に埋もれながら、何か難しい顔でパソコンの画面と睨めっこしている様子が見えた。

 天春先生はその事務室を素通りし、すぐ横の薄暗い廊下の奥へと進んでいく。怪しさのさらに増した男の後ろ姿に、何度目かわからない疑惑の目を向けつつ、今更だとばかりに溜め息を一つ溢しながら、先生の背を追うことにする。途中、現在使用されているのかどうかも怪しい、碌に光の入らない鬱屈とした男女の手洗い場を見つけ、そのあまりの不気味さに、例え理由があろうとなかろうと絶対にここで着替えはすまい、と固く心に誓った。

 天春先生の背にぴたりと追従する形で廊下を進んでいくと、やがて先生は廊下の突き当りに差し掛かり、足を止める。光源が少なくわかりづらいが、廊下の奥には一つの引き戸が存在し、窓からは微かに光が漏れ出ている。が、その光の大半は窓の向こう側から張られた黄ばんだ紙の存在によって遮られ、本来廊下を照らすはずだった光は、無情にも雀の涙程度しかこの場に届かないありさまとなっていた。

 引き戸には雑に「外出中」と書かれた薄桃色の付箋が貼られており、おいおいもっと何かいいものは無かったのかとこの部屋の主のひもじい日々を想像し、若干引いてしまいながらも律儀に胸が痛んだ。

 そんなことを思っている失礼な生徒の傍ら、天春先生は貼られていた付箋をぴっと引き剥がし、ズボンのポケットから取り出した鍵を引き戸の鍵穴に差し込み、ガチャガチャと探るように何度か抜き差しを繰り返した後、漸く穴に突っ込んだ鍵をくるりと手で回して見せた。見るからに古いこの引き戸は、どうやら自身を開錠する鍵をも、昨今拒み始めているようだった。駄々っ子の相手をさせられる先生の苦労が窺い知れる。

 ガラガラガラ、と古ぼけた重たい音を引きずり、先生はゆっくりと引き戸を開く。男の手で以てしても重そうなその引き戸は、はたして本当に引き戸自体が重たいのか、天春先生が非力なのか、いや両方かな、見ただけの感想だけど。


「どうぞ」


 開ききった扉の奥へ、先に天春先生が進む。先生の言葉を受け、私の方も恐る恐るながら、引き戸の向こうにお邪魔することにした。

 入る間際、ちらりと入り口付近を見回してみると、頭上に事務室と同様のプレートが掲げられていることに気付く。開かれた部屋の奥から差し込む光を頼りにそのプレートに目を凝らすと、元々の部屋の用途が書き記されている文字の上から一枚の紙が貼られており、そこには「相談室」という手書きの字が侘しく踊っていた。


「先生、この部屋、本当は相談室じゃないですよね」


 部屋の中に一歩を踏み出しながら、視線の先の男に尋ねる。


「今は相談室だけど、前は応接室だったらしいよ。まあ、この様子を見るに、応接室としての役割も果たされてなかったみたいだけど」


 部屋の中の様相は、一言で表すなら倉庫だ。部屋の隅には雑多に物が置かれ、使われなくなって久しいであろう打ち捨てられた物たちが、時の流れに置き去りにされたまま埃を被っている。部屋の中央には穴の空いた革張りのソファーが置かれており、ゴミ捨て場から拾ってきたと言っても疑う人はいまいと予想する。ソファーの前に据えられたローテーブルは、年季は感じられるものの、一応なんとかこの間まで現代の波に乗っていたような雰囲気がある。少し間を空け、それらの横には教員用と思しき椅子と机が置かれており、これだけが唯一今を現代とする証拠のように場違いな小綺麗さを身に纏っていた。

 向かって正面にある窓にはブラインドカーテンが下りており、羽は水平に寝かせられ、雨粒の打ち付ける窓からどんよりとした外の光を取り込んでくれている。採光には若干不十分な窓の数と大きさだが、これでも無いよりはマシだ。


「適当にその辺に荷物置いて、先に着替えちゃって。俺、外出てるから」


 そう言って廊下に出ていこうとする天春先生の横顔を見やり、冷え切った手で先生の腕を掴み、引き留める。


「別にここに居てもいいですよ」

「いや駄目でしょ」

「私がいいと言っています」

「俺の中の法と倫理観は駄目だと言っています」


 譲らない先生に対し、不機嫌な顔をさらに不機嫌に歪ませ、渋々手を離す。と、自由になった手で天春先生は胸ポケットに手を突っ込み、中のものを私に差し出してきた。


「え」

「貼っときな。足りなかったらもう少し貰ってくるよ」


 思考が、止まる。

 濡れた制服のせいでは決してない鳥肌が全身を巡り、背筋に寒いものが降りてきた。


「なんで」


 かじかんだように動きの鈍くなった指先で二枚の絆創膏を受け取ると、先生は薄く笑んで、黙って廊下に出ていった。

 ガラガラと、引き戸が閉められる。


「なんで」


 壊れたように同じ言葉を呟き、視線を下げる。

 スカートを捲り、そこに現れた肌の上の浅い切り傷に、歯の根が合わなくなる。

 雨と濡れた制服で冷え切った肌に浮かぶ鈍い赤色は、確かにさっきまでスカートの中にあった筈だ。


「いつから」


 引き戸の向こう側に居るであろう底知れぬ男の目に、どのように私は映っていたのか。私と肩を並べて歩いていた先程までの時間、あの男は一体何を考えていたというのか。

 考えれば考えるほどにわからず、とんでもなく面倒な人間に目をつけられてしまったのかもしれないと、今はそう思うしかなかった。


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