ガラスの角

津月あおい

ガラスの角

高校に上がった年の春――僕は通学電車の中で、君と出会った。


ガラスの角を持つ君に。





七時四十分発の各駅停車。

その電車に間に合うために、僕はいま全速力で自転車をこいでいる。

無事駅前の駐輪場に停めると、目の前の改札に向かって駆け出す。


良かった。間に合った――。


ホームの電光掲示板はまだ時刻になっていなかった。

まもなくやってきた電車に乗り込むと、君がいた。

五両目の、後ろのほうの席に身をかがめるようにして座っている、僕とは違う学校の制服を着た君。


今日も、きれいだな――。


誰も"それ"に気付かない。

僕にしか見えない。

君のその額に輝く大きなガラスの角は。朝日を浴びてきらきら、きらきらと四方に虹色の破片スペクトラムを振りまいている。


君の真ん前に立っているサラリーマンのスーツに。

隣のOLさんの横顔に。

そして僕の瞳に。


きらきら、きらきらと。


それは僕にしか見えない、幻の角。

誰もそんな綺麗な角が君の額についているなんて知らなくて。

僕だけが見つめている。


君は物憂げにスマホを眺めている。

きっとそのスマホの画面にも角を通過した偏光は投げかけられていて。


でも、きっとそれは君自身にも見えなくて。



ああ何度、何度君を見つめただろう。君の角を見つめただろう。


毎朝むっとした車内で、お通夜みたいな空間を、君の存在だけが明るく照らしだしていた。


でも、それはつかの間の、春のあいだだけだった。

桜が散ってしばらく経つと、君の角は少しずつ白く濁りはじめた。


光をまるで通さなくなった。

まるで象牙のように、石膏像の肌のように、真珠のように。

白くなって、完全に不透明になった。

それはそれできれいだったけれど、虹の偏光は見られなくなった。


君はスマホと同じくらい本を読むことがあった。

小さな文庫本だった。

なんというタイトルなのかは、ブックカバーに隠されていてわからなかったけれど、毎日それを君は楽しそうに読んでいた。



そしてまたある日。


電車に乗ると、なぜか君の角はなくなっていた。

この電車の中で、角のあるものはひとりもいなくなってしまった。


僕は君から視線を外して、窓の外を見た。

そこには、いつもと変わらない朝日があった。





それからも僕は毎日、七時四十分発の各駅電車に乗っている。

君も相変わらずそこにいる。

でも僕は前ほど君を見ない。


僕も君みたいに読書を始めてみたからだ。

何を読んでいいかわからなかったので、一番有名そうな本にした。

夏目漱石の「こころ」。

わからないところも多いけれど、とりあえず読み進められてはいる。


学校の図書室で借りたから、ブックカバーは無しだった。

誰も僕を見ない。

それがわかっているからこそ、特別周りを気にもしない。


たまにちらりと君を見る。

やはり君の額に角はない。

輝きのない朝がつづく。





それから夏が来て、秋が来て、冬が来て。

君を見つけてからもうすぐ一年が経とうとしていた。

僕はもうすぐ高二になろうとしていた。


春休みを終えて、また新学期がやってきて。

いつもの車両に乗った。

すると。


以前の、君がいた。

透明なガラスの角が、朝日をあびてきらきらと輝いていた。

虹色の偏光がまた周囲に散らばっている。


ああ、そうか。

君は春だけ、その角を生やすんだね。


なぜだか僕にはそれがわかった。

僕は喜びに胸が高鳴り、もう本を読むどころではなくなった。


本はもう十何冊目かになっていたけれど、内容なんかどうでも良かった。

その一瞬を目に焼き付けたくて。


ああ、いままでどれだけ残念に思っていたことだろう。

この美しい角を見れなくなってしまったことを。


ああ、どれだけ嬉しく思ったことだろう。

この美しい角をまた見れたことを。


けれど。

きっとこの角は、またゆっくりゆっくりと濁っていき、そして消えてしまうのだ。

そんなのはもう嫌だった。


「すみません」


気付いたら声をかけていた。

僕が降りるのは、彼女よりも前の駅だ。

だから、声をかけるついでにメモを渡すことにした。とっさの殴り書きだったけれど、なんとか読めるだろう。


深く考えてはいなかった。

このことで彼女が僕を気味悪く思うとしても。

もう後悔したくなかった。


メモには僕の連絡先を書いておいた。

額に角がありますね、なんてことは書かなかった。書けなかった。

君自身、角のことを知らないような気がしていたからだ。

そうしたら僕はいよいよ頭のおかしな人となってしまう。


僕は純粋に君という存在を知りたかった。

いや、正確に言えば、もっとよくその角のことを知りたかった。

だからどうにかしてお近づきになりたかったのだ。


けれどその夜、僕のスマホに反応はなかった。

気味悪がられたのだと思う。





翌日。緊張しながら七時四十分発の電車を待った。

もうこの車両に乗ってこないかもしれない。

避けられたら、それで終わりだった。


おそるおそる開いたドアをくぐる。


すると。

君がいた。


いつもの席に座っていた君は、僕の姿を見つけると、軽く会釈してきた。


どういうことだ?


何もできずにいると、君はわざわざ立ちあがって僕の方にやってきた。

きらきら、きらきらと君のガラスの角がきらめく。


「あの、すみません。昨日メモを渡してこられた方ですよね?」

「え、あ、はい」


なんとか声を絞り出す。

すると彼女は恥ずかしそうに笑った。


「こういうの、その、初めてで。どういう意味なんだろうって考えてたら、返事を送れなくて……すみません」

「あ、いや……」


なんて律儀な子なんだろう。

普通面倒くさくなって無視したりするものなのに。わざわざ理由を言いに来てくれるなんて。


僕はとっさに通学カバンから本を出した。


「あっ。えっと、本! 君も本をよく読んでるのを見かけたから、ええと……どういう本を読んでるのかなって気になって。それを教えてもらいたかったっていうか……」

「ああ、そうだったんですね!」


君はそう言って、また恥ずかしそうに笑う。


その後、僕は君からの連絡先をもらうことに成功した。

何度かやりとりしたあと、お互いのおすすめの本を紹介しあうようになった。





いま僕は、隣に座っている君の、ガラスの角を間近で見ている。


氷の彫像家が丹精込めて削りだしたような美しい曲線。

複雑に入り込む光の乱反射。


それらをこのような至近距離で見れることを幸福だと思う。


「はい、これ。ええと、面白いかどうかわからないですけど」


君が渡してきた本は聞いたことのない題名の恋愛小説だった。

何ページか繰って文体を把握する。うん。わりと読みやすい。

君も、僕が唯一買った本をパラパラとめくっている。


「ここで感想を言い合うのはちょっと……あれなので。また連絡しますね」

「ああ、うん」


たしかに。

この朝の、混雑した車内で話し込むのはちょっと悪目立ちしそうだった。

僕も周囲の人の迷惑にはなりたくない。


本を開いた手に、きらきらと君の偏光が当たっている。


こういうのを、前になにかの動画で見た。

たしか、窓辺に飾るサンキャッチャーとか言うんだった。透明なクリスタルをぶら下げて、部屋の中に陽の光を取り込むのだ。


けれど君の角はもう、わずかに曇りはじめていて。

煙のようなモヤでくすみはじめてしまっている。


それは、窓の外の桜の色づき具合と比例しているようだった。


各駅電車でも、あっという間に線路脇の桜並木は遠ざかっていく。

そのスピードはいつもより速い気がして。

もう少し、君の角も透明なままでいてほしいと思った。





それから、社会人になるまで、君との交際が続いている。


僕は君とどうなりたいとかは思わなかった。

ただ、その角を、友人として一番近くで見ていたかった。


毎年春に、君のガラスの角が白く色づいて、そして消えるまでを観測しつづけた。

会話や趣味の提示といったことはあくまでその付属だ。


僕はそれだけで幸せだった。

なのに君は――僕が君の側にいる「理由」を求めた。


僕は何も応えることができなかった。

そして、最後の春が訪れた。


桜が色づき始めた。

なのに君の額からは、あの美しい角は現れなかった。

あれから、しばらくの時が経っていた。


君は言った。


「お腹にね、赤ちゃんがいるの」


誰の?

僕の子ではない。

当たり前だ。そんなこと起こりえるわけがない。

だって、女同士では、子供はできない。


君は去っていった。

僕の前から。

永遠に。


また春が来る。

何度目かの、何十回目かの、春。


でも君はいない。

君のガラスの角も。

すべて失われてしまった。


もしかしたら、君の子供にあの角は引き継がれるかもしれない。

でも、もうその角を見ることはできない。


電車の窓から空を見上げる。

そこにはいつもと変わらない朝日があった。



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