n+13階段

青島もうじき

n+13階段


 階段を上り続けて、どれくらいになるだろう。十三段と踊り場。その繰り返し。踊り場に設けられた窓から見える風景は、次第に平筆で塗ったような空の青だけのごく単調なものとなっていった。

 窓を固定しているのは、簡単に開けられてしまいそうなクレセント錠だけだ。三日月状の金具の曲線が、つるりと光を撫でる。ここは高度何kmだろうか。こんな高さで窓を開けることが、自らの命を差し出すことととほぼ同義であることだけはわかる。

 私が十三段を上り終えると、きょうが次の十三段を上り終える。どれだけ急いで上っても、反対にどれだけゆっくり上ってもそれは変わらない。その腰まで届く長い黒髪が慣性に従うようにしてふわりと広がるのだけが見えて、また私はそれを追いかけて十三段を上ることになる。

 少し、覗こうと思っただけだったのだ。京がたまに屋上に行っていることは知っていた。屋上が生徒立ち入り禁止であることも、その合鍵が屋上へ繋がる重い扉のすぐ近くにこっそりと貼り付けられていることも。私は知っていた。

 だけど、今回に限っては京は別に規則を破っていたわけではなかった。屋上に行ってはいけないという規則はあっても、元々この学校に存在するはずのない加算無限的に増築されていく「上の階」に行ってはいけないという規則は存在しない。

 歩いた跡が道になる、なんて表現があるけれど、それに似ているのかもしれない。京が足を踏み出すたびに階段と踊り場が生まれる。その周期は十三と一であり、京がその肉のついていない細い足で床を踏むたびに、十三段下の「私」という存在が同時に生成されている。

 京はもはや、歩く度に地球から離れていってしまう運命を背負った存在なのかもしれない。前へと踏み出したはずの足が次に踏むのはゴムの滑り止めで縁どられた一段分上の世界。上空に行けば行くほど、地球の重力から解放されることになる。一般相対性理論によれば、重力を受けている物体と受けていない物体を比較すると、重力を受けていない物体の方が時間が速く進むのだとか。ならば、あなたは歩く度にどんどん時間を加速させていることになる。そして、そんな京を追いかける私も。

 ここで私が引き返せばどうなってしまうのだろう。ここで私がクレセント錠を下ろして飛び降りれば、どうなってしまうのだろう。それを実行に移してしまえるだけの勇気は私にはなくて、ただ十三段ごとに現れるあなたの髪の流れを惰性で追いかけ続ける。

 窓の外を見ると、雲海が広がっている。飛行機から眺めるような景色を学校の窓越しに見ていることに強い違和感を覚えながらも、地上が見えなくなったことにどこか安心を覚えている自分がいることも事実だった。

 どこまで行ってしまうのだろう。高度が上がっているというのに気温が下がる気配はない。成層圏や熱圏なんかも超えて、このまま二人で宇宙にまで行ってしまえるのだろうか。

 京は、光を吸い込むという意味において、あるいは歪め、加熱させるという意味において、ブラックホールのような人だ。

 初めにその重力に引かれたのは、新任の美術教師だった。私たちのクラスの副担任だった人。いつも制作と称して油絵のカンバスを並べていた校舎三階の美術準備室は、とうに私たちの遥か下方へと消えてしまった。

 京がそんな美術準備室に度々呼び出されていたことを、私は知っている。成績不振、素行不良、スカート丈、耳よりもずっと高い位置から重く垂らした黒髪の奥に隠れている、その薄い耳たぶの小さな二つの穴について。どれが呼び出しの理由かは分からなかったけれど、きっと誰にとってもどれでもよかったのだろう。

 授業にあまり顔を出さない京だったけれど、それでも必ず出席していたのが美術の授業だった。京の絵は決して上手いわけではないけれど、その色遣いには目を引くものがあった。ともすれば絵全体を駄目にしてしまいかねないほど彩度の低いアクリル絵の具を面相筆でそっと八つ切り画用紙の上に乗せると、そこに存在が生まれる。画材が変われど、印象的に黒が使われるのは同じだ。静物スケッチ、多色刷りの版画、紙粘土による立体製作。どれもそうだった。

 輪郭も遠近感もめちゃくちゃな京の風景画の中の世界には、場の歪みに整然とした統一感があった。私の見ている世界と、京の見ている世界は違うのだと、直感で悟った。

 美術教師はそんな京の世界に惹かれたのだろう。教師としての責任感と自らを満たすための欲を取り違え、深入りして、そしてすでにその生を終えた星へと墜ちた。美術室前の廊下には、とうに使われなくなった校舎裏の焼却炉を描いた京の水彩画が飾られている。もう熱を持つことのない錆付いた金属の扉の奥には、確かな重力を持った黒があった。

 十三段と踊り場を繰り返す。見えるのは、京の後ろ髪だけだ。重い二重瞼も、色の悪いその爪の先も、今にも塞がってしまいそうな小さなピアスホールも、私に見えることはない。

 埃っぽい階段を一段飛ばしで上る。そんなことをしても追いつけないことはこれまでの数百、数千、数万階で分かっていたけれど、なぜだかそうせずにはいられなかった。私がこうして急いで上を目指せば目指すほど、京もまた地球から離れ、時間が加速する。私が階段を上るこの速度は、速度であると同時に加速度でもある。

 ずっと見えることのないその姿を、私の声で引き留めてみようという気は起きなかった。きっと、そんなことをすればこの校舎はそもそも存在しなかったかのように霧散してしまう。私は、そんなことをしないからこそ、京を追いかけられているのだ。

 二人目は、同級生だった。私のたった一人の親友だった人。

 なにがきっかけだったのかは知らない。けれど、教室の片隅で身を寄せ合うようにして二人で食事をしていた時にその口から聞いたのが、私にとっての最初だった。

「あの子、腿の内側に大きな痣があるの、知ってた?」

 首を動かさないで目だけで京の姿を捉えている私の親友の手元には、小さなプラスチックの弁当箱があった。私のよりも短いその箸が茶色い卵焼きを貫いているだけで、あとはほとんど手が付けられていない。

「絶対、私たちが知らないような悪いことしてるんだよね。だって、普通あんなところに痣なんてできないわけだし」

 その声は、京を非難するような色合いで塗り固められていた。そう塗り固めることで、自分を京を非難する者として位置付けるような、そんな声だった。

 親友が私に話しかけているようでその実一人で話しているのと同じように、私も話を聞いているようで聞いていなかった。京が昼休みに教室にいるなんて珍しい、と思っただけで。

「この年で悪いこと覚えちゃったらどうなるのかな。碌なことにならないと思うけど。あの髪、絶対黒く染めてるよね。普通、光に当たったらちょっとは茶色っぽくなると思うけど、ほら、ちょっと青っぽくない?」

 一度も染めたことのないボリュームのあるその癖毛は、親友にとっての清純の記号だ。自分自身を混じりけのないものとして規定しようとするその心の運び方の癖を、私は知っていた。その清純へのこだわりが、いつの日か成す術のない黒に染められることへの夢想であり、ロマンチシズムであることも。

 なにがトリガーだったのか、私にはわからない。だけど、親友はその清純を捧ぐ先として、京を選んでしまったらしい。わかりやすい華のある京は、わかりやすい危険な匂いをわかりやすく漂わせている。

 黒目がちなその瞳が、夢見るように潤んでいる。もう私を必要としていない、自ら墜ちゆく光に対して、私は声をかける。

「そうだね。不良だね」

 唇を尖らせながら「ねー」と同意した親友は、きっと、そういうドラマの一話の主人公なのだ。悪いことが許せないまっさらな親友の日常を、あまりに異質な、だけど抗えない魅力のある不良が一変させてしまうような安っぽいドラマの役に、京はキャスティングされた。そのドラマの中で、私はこうして端役を振り充てられている。いなくなった美術教師も、この子の中では舞台設定に成り下がっているのだろう。

 私が菓子パンの最後のひとかけらを口に放り込んだ時、親友は溜め息をついて弁当箱の蓋を閉じた。わざとらしく残されたおかずは、きっとこの子の脳内にだけ存在する映像で、意味ありげなカットで撮影されているのだろう。

 数日後、私と親友は喧嘩をした。正確には、親友が言いがかりをつけてきて一人で喚き散らしたのだった。一人で気持ちよくなるための一人相撲。親友がその清純を捨てるための、ただのきっかけとして、私は使われた。

 数日後、その小さな耳たぶに、穴が開いてるのを見かけた。私のよく知っている位置と同じ場所に穿たれた、真新しい二つの穴。地味なファーストピアスの光る耳は、現実の何階か上の階を魂が抜けだして歩いているように、うっすらと紅潮していた。

 数日後、屋上に続く階段を上る親友の姿を見かけた。なんらかのきっかけで、京がよく屋上にいることを知ったのだろう。しぶしぶ、嫌々といったその足取りが、どこか楽しげに見えたのは、私がその清純の意味をよく知っていたからだろう。

 数日後、親友の頭からは髪が消え去っていた。無垢の象徴であった横に広がる癖毛は刈り取られ、露わになった両耳は、ピアスホールを起点に痛々しく引きちぎられていた。その形のよい唇は、私にも、京にも、誰にも再び開かれることはなかった。

 内腿に痣があることなんて、私は知っている。その髪がさらに黒で染め直されていることなんて、知っている。私は知っているのだ。知っていて、知った気にならないからこそ、私は知ったままで在れる。

 美術教師が消えたのが、親友がピアスを力任せに千切り取ったのが、京の前で狂った本人の意思であることも。私は知っている。京は、誰にも干渉しない。ただ、周りが勝手に狂うだけ。

 光の差し込む踊り場は、埃っぽいのにどこか清潔な匂いがする。光を乱反射させる埃の粒が、窓枠をぼんやりと発光させる。つるつるとした床に映し出される薄い窓の像、地面と平行に這い続ける手すりの木目、延々とどこまでも続く階段と、青っぽい空気。それら全てを串刺しにするように反響する、私の上履きのゴムの音。白昼夢のような光景の中、私はただ京の黒だけを追かけて上り続ける。

 これは、もしかしたら呪いなのかもしれない。私が、京にかけてしまった呪い。

 京のことならば、私が一番知っている。それが私の親友の抱いたのと同じ、くだらない憧れという感情に由来する自負であることも、この十三段の繰り返しの中で気付いてしまっていた。

 ただ一つの違いは、追いついてはいけないのだと理解していたことだけだった。

 美術教師は、取り込もうとしてしまった。その絵画の中に穿たれた黒に魅入られ、その黒を取りまく理論を、京を、自分のものにしようとしてしまった。

 親友は、同化しようとしてしまった。京の持っているものを、自分の理解できるところにまで落として、その作られた白を綺麗な灰色にするための画材としようとしてしまった。

 私は知っていた。追いかけ続けるためには、追いついてはいけないのだと。

 だけど、その追いつかないでいられることに、私はきっと特別を感じてしまったのだろう。京に惹かれながらも、京という縮退星に墜ちていかない術を知っているのは私だけだ。だから、私は京にとっての特別だ。そんな決して縮めることなく保てる距離を私と京を繋ぐ関係だと定義してしまったのが、この十三段なのかもしれない。

 京が十三段を上るたびに十三段下の私が生み出されているのか、私が十三段を上るたびに十三段上の京が生み出されているのか。その因果の割り当てがもうわからない。地球の重力から逃れて上へと進み続けているのか、京の重力に引かれて下へと墜ち続けてるのか、もうわからない。わからないことばかりになった。

 私に残されているのは、この距離だけだ。

 十三段を上るたびにふわりと揺れる、黒よりも黒いあなたの黒髪。薄い上履きの底が鳴らす乾いた音は、あなたに届いているのだろうか。胸いっぱいに埃を吸い込むと、あなたのように光を食べたような気分になれる。この窓を割れば、きっと私たちは凍え死ぬ。その全ての現象が、この追いつかないことにだけ、細く弱い糸で繋がっている。

 あなたの絵が、もう一度見たい。遠近感を歪めるその黒があれば、私たち救われ、壊れることができるのに。

 美術教師のように、声を掛けることができればよかった。あの子のように、穴を開け、千切ることができればよかった。きっとそれは幸せだ。京に壊されることを望んで、望んだとおり壊されるのは、この世界のなにを引き合いに出すこともできない快楽なのだろう。

 重い瞼、綺麗なピアスホール、血色の悪い肌、かさついて端の方がめくれてしまった薄い唇とリップクリーム、不自然なほどに細い脚、そしてその内側に刻まれた、なにかの痕跡。

 この十三段は、なにに捧げられた供物なのだろう。なにもかもを墜としてしまうあなたに捧げる、決して墜ちることのない私だろうか。それとも、そんな献身をしている私は、すでにあなたの重力に捉えられているのだろうか。

 私にはもう、追いつかない意味すらも残されていないのだろうか。

 踏み出した足が、空を切った。

 たたらを踏んだ。あるべきはずのところに、段がない。上履きの底がきゅっと鋭く鳴り、つるつるとした材質の床にゴムの白い線を残した。

 見上げると、目の前には扉があった。合鍵が貼り付けられているはずの場所にそれはなく、代わりに、半開きになった扉の隙間から帯状の光が差し込んでいる。

 屋上だ。

 私はきっと、この瞬間、追いつくことを望んでしまったのだ。

 そしてそれは、これまで私が定義していた形での、二人の繋がりの終わりを意味している。

 ノブを捻ると、そこにはまだほんの少しだけ体温が残っていた。京の掴んだ痕跡を、私は今、確かに感じ取った。

 その温度に墜ちるようにして、私は扉を押し開いた。

 目を焼くような青の中に、ただ一つの揺れる黒。

 京の風景画のように、遠近感を狂わせる光景だった。

 この距離が十三段分であることは、自明の理だ。だけど、そんな距離を私はもう信仰できない。重力を前に光や時間が歪むように、私と京の関係を定義していた十三段が歪む。歪むことが歪んで、それは再び単純なものへと変質する。

 吐く息は、無色だ。それに色がついていたら台無しになってしまうようななにかがここには確かにあって、私は一度も雨の降ったことのない、地表から遠く離れた屋上の床を駆ける。

 ただまっすぐ、京は歩いている。その向かう先には、空があった。

 自由落下を始めてしまえば、二度と追いつくことはできない。そのことに、私はもっと早くに気付くべきだった。分かった気になっていたのは、美術教師も親友も、私も同じだった。

 声を上げながら、固い地面を蹴る。長らく発していなかった声帯から溢れ出す声は意味を為さず、あなたを振り返らせるに至らない。それでもきっと、私はあなたへ向けた声を出したかったのだ。

 あなただから生まれた十三段は、あなただから消え去ろうとしている。

 強風にあおられ、揺れる黒髪が空間をかき乱す。そこでは距離も、時間も、存在も、因果も歪む。あなたがこの世界の穴なのか、この世界のあなた以外の全てが穴なのか。

 待たなくていい。追いつくから。きっとこんなセリフは、あの子の考える安っぽいドラマみたいなものだ。だけど、そんなことを本気で考えられるくらいに、あなたは巨大な重力を持っている。

 あなたは今にも墜ちようとしている。その足には全く迷いがない。きっと、こんな足取りであなたは十三段を上り続けていたのだろう。

 その姿が頭の中で像を結んだ瞬間、私はたまらなくあなたのことが知りたくなった。

 きっと、美術教師も親友も、こんな瞬間があったのだろう。近づけば墜ちると分かっていても、それに抗えないほどの「知りたい」が身体を満たした瞬間が。そうだ。なにも始まっていなかったのだ。私と京は、まだ、なにも。

 京の身体が、ふらりと傾く。その先に、もう床はない。

 墜ちてもいい。あなたになら。あなたとなら。

 あなたが宙に身を投げ出すのと、私があなたに追いついたのは、同時だった。

 縋るように伸ばした私の腕の中には、黒く長いその髪と、あなたの脚があった。私たちはブラックホールでもなんでもない。ただの、数十キロの肉体を持った二人の人間だ。地球の重力に引かれて、墜ちていく。

 加速する。私たちを隔て続けた窓ガラスの向こうの踊り場が、視界の端で残像となり、繋がる。

 私はようやく、追いつけたのだ。

 この墜ち続けていられる距離が、私が京を想い続けた長さだ。

 強く、強く、指が食い込むほどにその感触を確かめる。十三段に隔てられることのないこの距離だから、私はあなたを傷つけられる。

 だから、あなたの腿には痣がある。私が触れ、刻んだ、黒く大きな痣が。

 それが他の大きな傷に埋もれてしまうまでのこの時間が、私たちのn+13段という名の繋がりだった。

 ねぇ。私たちが一つになるその時まで、いっぱいお話をしようよ。

 きっと、こうしてやっと、私たちは始められたのだ。

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