つきのみかた
原多岐人
それは幸運に恵まれているというよりも、魅入られていると表現した方がしっくりくる。
深夜1時半。職場を23時頃に出ているから月は大分高く上っている。青白い色味が控えめで良い。黄みがかった色は強さは感じるが、少し品がないような気がした。
9月も半ばを過ぎ、残暑からは徐々に解放され始めている。これからしばらくは暑くもなく寒くもない快適な帰宅時間になるだろう。20分ほど歩けば車通りの多い市街地から静かな郊外ーーもとい田舎道になる。私が帰り道をバスに乗らずわざわざ1時間弱歩くのも、時々立ち止まるのも、全て月を、月光を味わうための行為だった。
「お憑かれ様、というやつだな」
後方右斜め上から聞こえてくる声に、私は敢えて逆の方を見る。その存在の気配がうるさい。
「結構丸いな」
「残念ながら月齢25は満月じゃあない」
「満月だなんて言ってない」
「丸いと言えばそう考えていると思うだろう」
こんな会話をするために歩いている訳じゃない。静かに、音なんてないはずの夜の空気を感じたいのに台無しだ。虫の声はいい。風情があるから。あと10分程度で家に着く。家の中では静かにしていて欲しい。
「蟹、兎、獅子、犬、蛙、蜘蛛、はたまた老婆か。今日はどれだ?」
「見えるものをそのまま口にするのは子供だけの特権のはずだけど」
「自分の感性に正直なんだよ」
もうこうなると何を言っても無駄だ。
玄関の照明のセンサーは壊れているから反応しない。もっとも何年も住んでいるので暗くても大体わかる。駅から遠く、築半世紀近く経っているので戸建てでも家賃は格安だ。仕事用の鞄を置いて、そのまま畳敷きのリビングに移動する。天体望遠鏡は定位置にあるので、後は覗くだけだ。その前にサッシをあけておくのも忘れてはいけない。
「夕飯はどうするんだ?」
空腹も度が過ぎれば、食べても食べなくても変わらない。それに、この落ち着く畳の香りに食事の油や調味料の匂いが混ざるのが嫌だった。そういえば月に香りはあるのだろうか。オゾン層は臭いと聞いたことがある。しかし宇宙は真空だから匂いなんて感じないだろう。仮に匂いを感じとれたとしたら、金属系の成分が多ければ鉄臭い、血のような匂いがするのか。
「緩やかな自殺か。まだ日中は暑いから、死体を放置すると腐るぞ」
「人間は意外としぶといらしいけど」
余計な茶々を入れられた。人体の神秘を俗っぽく簡潔に伝え、思考と視線を望遠鏡の向こうに戻す。
確か月を構成するのはケイ素やアルミニウムなんかが多いらしい。理系の頭で対象を捉えると、それは自分の知覚の内に入り、手の中に収まったような錯覚に陥る。文系の感覚で対象を眺めるとそれはやはり遠く冷たい色合いに思えて、距離感を感じる。手が届かないというのは現実として正しい認識で、それが心地いい。
望遠鏡の中で感覚的に近付いた月は、光ではなく影を濃くする。表面の陰影は渇いたざらつきを感じさせる。握り締めたらバラバラに砕けてしまいそうな、落雁のような質感を想像していた。
「おそろしく見事な猫背だな」
声が大きく聞こえる。おそらく距離が近付いたからだ。
「誰も見てないから別にいい」
「君は自己中心的な認識しか出来ないから独りなのだろうな」
「他に誰かいたらこんなことは出来ないから問題無い」
「誰か、とは?」
その質問に答えるのはやめた。
これが幻聴ではないという証明は出来ない。
とりあえず、この声が人間じゃなければそれでいい。
つきのみかた 原多岐人 @skullcnf0x0
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます