第11話

初めてそれに心を奪われたのは病院のリハビリ室だった。それは他の雑貨と共に窓辺に飾られており、時計というよりは部屋を彩るインテリアの一つとなっていた。緑がかったガラスに木製の丸底のものといった、どこにでもあるような一般的な砂時計で、意匠が凝らされているわけでもなくごくごくありふれた一品だったが、その部屋を訪れる度に何度も目をやっていた。窓から差し込む陽の光がガラスを透過し、鮮やかな浅緑が白基調の味気ない部屋にコントラストを与えていく。時計としての役割を果たしているわけではなく、あくまで照明器具のようなロールでしかなかった。

 あえて特筆するとしたらその細やかな美しさだけで、砂時計である必然性はなかった。その景色を作り出すだけなら窓ガラスを緑色に染めればいいだけだし、或いは砂時計の代わりに緑色のガラスの円柱でも置いておけば代替可能だ。だが、もしそうだとしたら、きっと一瞥もくれなかったのだろう。陽ざしなど気にも留めなかっただろうし、その部屋が何色に彩られているかなど記憶の片隅にもなかったと思う。その役割を担っていたのが砂時計だったからこそ、思い出の一つとして色濃く刻まれているのだろう。

 なぜこんなにも惹かれるのか。例の事故の後ということもあって、精神的にも疲弊していたことが起因しているのだろう。家族が全員死んで、自分だけが残された。その現実から逃避するための防衛機制だったのかもしれない。役割を果たさず、ただ窓辺に取り残されたそれと同一視し、拠り所としていた。今の精神的支柱が店長なら、その前が砂時計だった。

 そんな自然な流れから興味が湧いて、入院中に主治医の先生に頼んで本を持ってきてもらった。もちろん砂時計についてだ。興味深い記述がいくつも有り、退屈な入院生活の暇を潰すには十分すぎるものだった。ここではあえて彼と称すが、彼にも歴史があり積み重ねてきた時間があった。遡れば数百年以上の長い年月を生き続けた、謂わば大先輩である彼に対して矮小で高々二十年しか生きていない真っ新な赤ん坊を重ねてしまうのは些か敬意に欠くが、幾重にもその姿を変え、在り方を変え、収斂され、洗練された現在の彼の姿に嫉妬と畏敬を覚えるばかりだった。

 本筋からは逸れるが話に名前が挙がったので、少し主治医について話しておこうと思う。

事故後、俺が初めて出会った大人であり、今もこうして社会復帰できたのも(社会には進出していないが)彼の尽力のおかげと言っても過言でないほどに入院中に様々なサポートしてもらった。彼にとっては業務の一部のつもりだったのかもしれないが、その献身ぶりには当時の俺ですら驚くもので、日に何度も病室まで足を運んで様々な話をしてくれた。当時の俺の様子と言ったら凄まじいものだったと思う。そばにいるだけで生気を吸い取られそうなほど、沈んだオーラを纏っていたに違いない俺に対して彼はいつだって陽気に話しかけてくれた。中でも、彼からの言葉で今でも支えになっている言葉がある。生存き続ける理由が店長ならば、生存きる決心がついたのが彼の言葉だ。

『強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない。聞いたことあるかい?・・・はは、なんて今の君には酷かな。私の好きな小説の一節でね、漢とは何たるかを学ぶには彼の著書以上の教科書は無いよ。君にも是非読んで欲しいな。私の生き方の八割は彼に歪められたと言ってもいい。・・・ああ、もちろん良い意味でね。この職についたのもそんな彼の哲学に影響を受けたからなんだ。本当はマーロウのような探偵になりたかったんだけど、私にはその能はなかったみたいでね。・・・そういえばこの辺りに似たような活動をしている人がいるようだ。なんでも、遍く困っている人を助けているらしい。名前は存じ上げないけど、うん、羨ましい限りだ。私を助手にしてもらいたいくらいだよ。おっと、話が逸れてしまったか。・・・いいかい、私が君に伝えたいことは、君は幸せ者だということだ。・・・ふふ。何言ってんだ、この医者はって顔をしてるね。確かに今の君の境遇を百人の人間が聞けば、九九人は君を憐れむだろう。だけど、残り一人・・・つまり私はそうじゃない。今の君は失意のどん底にいることだろう。これ以上落ちることがないほどのどん底で、希望の光など差す余地もないほどの暗闇に覆われている。・・・だけどね、それだけだ。それだけのことじゃないか。こんなの野球で例えたら三回表二十点ビハインドみたいなもんだ。大したことないだろう?むしろ楽しみじゃないか!これからあと何点取れるか、何点差つけて勝てるか。考えるだけでワクワクしてくるよ。・・・そんな楽観的になれない?問題ないさ、これからの君には良いことしか起きないからね。当然だろう?君は世界で一番不幸だったんだ。これ以上どう落ちる?これから先、何が起きようと君にとっては全てプラスだ。これから先、君は様々な人と出会い様々な経験をすることだろう。それら全てが君にとって輝かしくも麗しいものになると約束しよう。・・・大丈夫だよ、一度絶望を味わった人間は誰よりも優しくなれる、一度どん底に落ちて這い上がってきた人間は誰よりも強くなれる。だから君は十分これからの人生生き抜いていけるよ。私が保証する。だから、これから出会う様々な幸福を十全に味わい尽くせばいい。・・・・・・・・だから、絶対に投げ出すなよ』

 今でも定期検診のために彼の元にしばしば訪れる。その度に根掘り葉掘り近況を聞かれ、辟易することもままあるが彼なりの気遣いだと解釈している。事実、彼の助言通りこれまでで出会った人たちはくせはあれども善良な人間だと言えるし、居心地の良い場所で穏やかな生活を送っている。

 彼の言う『優しさ』と『強さ』を俺が持ち合わせているかは定かではない。ただ、それを持っていると確信できるまでは生きてみようと思えた。

 彼からもらったあの砂時計を胸に、今日もまた生きていく。

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