第17話 「黄昏時」


 

 時刻は午後5時を回ろうとしているようだ。

 昨日の淀んだ灰色の雲はその面影を見せることはなく、代わりに緋色と紫煙しえんがその身をくすぶらせていた。冬の日の入りは早い。

 慎ましく沈みこもうとしている斜陽は、河川に淡紅色たんこうしょく青藍せいらんが重ね合わされたいくつもの反射光を生み出していく。

 二人が手に持ったそれぞれの飲み物を飲み終えた頃。河川の脇に立つ古びたからくり時計は、ちょうど数字の「5」を差していた。


「涼太くん、涼太くん」


「今度はなんだよ」


 いちごミルクを飲みきった涼太はぷはっ、と小さく息を着く。甘ったるそうなその中身にうわぁ、と小さく引き気味の玲菜を小さく睨みながら返事を返す。


「話は戻すんだけどね」


「おぅ」


「ほら、その従姉妹の子の話。途中で終わっちゃったじゃん。だいぶ脱線してたけど」


「……あ」


 そういえば、と涼太は思い出す。

 ここで話し始めたきっかけは、元を辿れば奈乃華に関する恋愛相談。話を戻すとするならそこに行き着くのは自然な事だろう。


「んー、どこまで話したっけか」


「涼太くんの従姉妹の子が、電話で恋愛相談してきたんだよな、って言ってた」


「よく覚えてらっしゃる……」


「どやさっ」


 発音するな。ドヤ顔を発音するでない。

 誇らしげな表情を浮かべる玲菜を無視し「そうだな、……まぁ、うちの従姉妹はまだ中2なんだけどな」と話を続ける。


「え? 中2!?」


「あ、そういえば言ってなかったな。俺と3歳差かな、そいつ。学年は4つ差なんだけど」


「割かし歳離れてるんだねぇ」


 だな、と涼太は頷く。


「で、その3歳差の従姉妹は……こっからが本題なんだがな」


「?」


「……なんでも、ネットで人を好きになったらしくてさ」


 俯き気味にそう話す涼太は、玲菜の反応を見ようと視界を横に向ける。

 その視線の先にはどこか拍子抜けしたような顔で「ネット? へー?」と呟く玲菜の姿があった。


「………………」


「………え? そんだけ!?」


「えっ、なになに!?」


 むしろカミングアウトをした事よりも聞き返したことに対してビクッ、と身体を反応させて玲菜は狼狽ろうばいする。その反応が想像していたものと違う事に涼太は逆に驚く。


「……いや、ネットで従姉妹が人を好きになったって所に対して、全然驚かないなぁって」


「え、だって今の世の中なら……別に珍しい事じゃないんじゃって思うよ、私」


 今の、世の中。

 あぁ、そうか。考えてみれば確かにその通りかもしれないと、そのことに対して驚く仕草すら浮かべない玲菜の姿へ妙に納得する。


「涼太くんだって知ってるでしょ、『恋愛自粛令』」

 

 そう。昨日の政治・経済の授業においても触れていたこと。もう、鬱陶しくすら感じる様になったその内容。


「………そう、だな」


「そっかあ、中学生の従姉妹さんがネット恋愛、ねぇ……」


「……いや、でも……まだその子中学生なんだよね? ……大丈夫? それ」


「……やっぱり、あぶねえと思う?」


「んー……」


 玲菜は少しうなる。お下げの片房をゆらりと揺らめかせながら「涼太くんには悪いけど……危ないし、よろしくはないと思うな。私は」と左手を頬に添えた。


「私達が小学、中学生くらいの頃から言われてたでしょ? SNSで顔を知らない人と仲良くなって実際に会った結果、実は全然違う人で……凄い、怖い目に遭った人も沢山いるって」


「ああ……まぁな」


 その「怖い目」というのは、考えてみれば想像など難くはない。脅迫、恐喝、暴行。

 奈乃華の話を聞いてから、高校の図書室にあるパソコンを使って調べたのだ。

 ─────実際の所、そんなニュースなど、山の様に見る事が出来た。だが。


「判断に悩むのがその二人、一応お互いの顔は知ってんだとさ。電話とかは何回かしてるらしいし」


「え? そうなの? ……まあそれならまだマシかもだけど……確実とは言えないもんね、それでも」

 

「……あぁ、やっぱまぁ、普通ならそう思うよな」


 そうして涼太は、一つ小さな息を漏らす。

 そう。お互いの顔を知ってるからといってそれは「信頼」に値するものなのか。如何せんそれが経験のない涼太には判断に悩む。

 涼太は奈乃華は「そいつに会いたいのか」と聞いた時「分からない」と伝えてきたのを思い出す。そして「会えるなら会ってみたいな」と言っていたことも。


「んー、難しいね……。やっぱり直接会うのと電話とだけじゃ、実際違うことって多いと思うし」


「私個人としては、やめた方がいいんじゃないかなって思うな」


「……そう、かな。やっぱりそうだよな」


 話を聞いた玲菜はこちらを真っ直ぐに見つめてくる。視線を感じた少年は「……? どうしたよ」と彼女へ視線を返す。


「……でも。それにしてもさ」


「怒らなかったんだね、涼太くん」


「え?」


 玲菜は頬の筋肉を弛緩させ、また、こちらへ微笑む。


「だって普通、大概の人ってそういうの怒る気がする。大人とかだったら怒りそうなものだけど。見ず知らずの人、なわけだし。一応電話とか顔とか知ってるとはいえ、未成年だもん」


「………なのに、涼太くんは、怒らないんだなぁって」


「………んー」


 急になにやら褒められた様な気がして、何処か居心地が悪い。それらを誤魔化すように彼は人差し指で頬を掻く。

 まあそもそも自分も未成年であることを含めなくとも、別にそれは普通のことではないだろうか。そんな事を考える。


「だって、そうじゃないか? 相談したいっつって話しかけてきてんのにいきなり説教とかされたらたまらんだろ普通」


「……まぁ、内容が内容だけど、そうだよね」


「俺はさ、そういうのちゃんと聞けるようになりたいんだよな」


「……親父や母さんが俺にとってそういう人だったから、やっぱそうしてもらえた方がきっと」


 嬉しいよな、と涼太は仰ぎながら発した。玲菜は、密かに、そんな涼太を見つめた。その表情は、何処か意外そうに目を大きく見開かせている。やがて、俯く。


「………そっか、そうだね」


「…………ねぇ、きっとさ?」


「ん?」


 玲奈はそうしてゆっくりとベンチから立ち上がる。闇が揺蕩たゆたう空に、彼女の姿は逆光となって揺らめく。


「────その子は、嬉しかったと思うよ。聴いてもらえて」


 やがて、顔を真横に向ける。そして、目線もまたどこか優しげに、切なげにこちらへと向く。その姿を、何故か少年は(あれ、なんだ……これ)と違和感を覚える。どうして。

 なぜこんなににも、この少女は儚げなのだろう。その儚さはどこか、薄いガラス膜のように感じるのは何故だ。涼太はそんなことを思う。

 いや、きっとこれは逢魔が時のせいだろう。

 夜と昼の存在が不確かな、5時半。日はとうに沈み、間もなく闇が辺りを包む。その時間には、魔が差す。妖魔ようまなるものが周囲のものから滲む様に現れるのだと、古典で聞いた。それは人に取り憑く。きっと、「過ち」を犯させる。

 故に、危険。故に、妖しまなければならない。

 そんな、時間。

 だというのに。

 何故。───────どうして、夕闇に微笑む彼女の姿は、こんなににも綺麗なのだろう。その妖しさが、その危険な黄昏時たそがれどきが、より一層今の彼女をあでやかに揺らめかせていく。


「───────………そう、かな」


「うん、そうだよ。……まあ、でもさっきも言ったけどまだ中学生なんだったら「会う」のとかはさすがに今は絶対やめたほうがいいだろうね、きっと」


「……流石にな。中坊なんて判断しにくいところも大きいだろうし」


「それだけじゃないよ。東京はここ3ヶ月くらいは今は感染者出てないとはいえ、……過去にはあんな事件もあったんだし。会いに行くってなると、かなり『リスク』も伴うと思う。従来のことに加えて、今のこの状況じゃ、ね」


「…………」


 確かに、玲菜の言う通りだろう。またいつ感染の波が訪れるかは分からない。加えてまだその人物の事も事細かに知れたわけでもないのだから。危険も多いのは確かだ。奈乃華には、やめた方がいいとは伝えるべきだろう。


「……というか、私達も『20歳以下の男女』なんだしこんなとこでいつまでも一緒に居たら密になっちゃうね。……そろそろ、帰らないと。他の人に見られたら涼太くんも困っちゃうよ」


「……え、あぁ、もうこんな時間だしな。さすがに帰らなきゃか」


「私達来年受験生なのにこんな事してたらまずいかなあ」

 

 けらけらと玲奈は笑って腰からスカートをはたく。やがて飲み終わった缶を近くのゴミ箱へ丁寧に捨てた。


「……どうだろうな」


 涼太もまた、それを習う。だが普通に捨てるのもつまらなく思い、ダンクシュートの如く手首を使っていちごミルクの缶を放り投げる。それは残念なことに綺麗に外れ、コンクリートの地面に虚しく響いた。


「………………」


 クス、と小さく横で笑われる。しにたくなってきた。屈辱に耐えながらも、涼太は缶をゴミ箱の中へ勢い良く捻り込む。


「私さ、ごめん。明日は少し一緒には帰れないかも」


 すると、その様子を苦笑しながら見ていた玲菜は忘れてた、と言わんばかりの表情を浮かべながらそう言った。


「……え? そなのか」


「うん。ごめん。……だから……さっき言った約束。明日のお昼はB棟の屋上に集合ね! そこで続きのお話しようよ」


「………」


 いや本当に明日の昼は一緒に食べる気か。

 先程の、お互いに弁当を作ってくるという約束。涼太は玲菜に。玲奈は涼太に。

 一緒に帰れないのが少し寂しく思ったが、涼太は代わりにその事実に内心心が踊らずにはいられない。初日程の興奮はせずとも、頬が勝手に緩むのを抑えるのが精一杯だ。


「ちょっと。涼太くんってば。聞いてる?」


「ふぁい? あぁうん、キイテルキイテル」


「本日3回目のカタコトね。耳引っ張ってちょん切るよ? ちゃんと聞いてよ」


「猟奇的過ぎて聞くに耐えんわ」


「じゃ引きちぎる?」


「変わんねぇよ。グロテスク過ぎるだろ」


 もう、と頬をまた膨らませるそんな少女の姿は微笑ましい。こんな表情をきっと知っているのは自分だけだと、涼太は思う。出来ることなら、と少年は考える。

 何故だろうか。

 ─────この表情を、自分以外の誰かには知られたくない。そんなことを、思う。


「分かった。じゃあ、また明日な」


 本当ならば昨日のように家まで送ろうかと思った涼太だったが、玲菜はそれを聞いて「今日はいいよ」と微笑んだ。


「───うん、またあした。ばいばい!」


 玲奈は笑う。それは屈託のない笑顔のように彼には思えた。いつの間にか名前を呼び合う仲になり、肉まんを一緒に食べた。いつの間にか、それがまるで自然なことのように、彼女との会話は弾んでいた。

 昨日も渡った、橋の出口にあたる雪の残滓が残った歩道。やがて玲奈のぴょんぴょんと跳ねるお下げ髪は消えていく。


 明日もまた会えるのだ。焦ることはない。


 今日積み重ねたそれは、明日の当たり前をきっと作るのかもしれない。そんなことをふと考える。願わくば、明日もまたそれが続くことを少年は彼女の背中を見送る中で思った。



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仮面の下に、淀んだ心。雪降る夜に、きっと君は来ない。 空山 零句 @sorarake1203

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