複雑分岐の収束
ちわか
複雑分岐の収束
閑静な住宅街に時折響く少年たちの声。
「バッチコーイ」「ドンマイドンマイ」。
バットからはじかれる音からは大人よりもか弱さを感じるが子供たちの野球を楽しむ様子も同時に想像はできる。
そうであった。
そうであったはずだったのだ。
彼は何一つも取り組みはしなかった。月並みのチームメイトの素振りの数さえ努力をしなかった彼は多くて無謀な目標を立ててはそれを二日で飽き、三日目には放棄するような生活をしていた。彼は野球が好きではなかった。自分の体裁と名誉と自尊心のために野球チームへ入団したのだった。彼は失望した。野球のどこが楽しいのか、野球をする意味がわからなかった。彼は思った。この少年野球チームになぜいつも週末に子供たちが集まってあの恐いコーチから説教をされなければならないのかを。理解不能だった。それでも彼自身もそのかったるいと思っている野球チームに毎週参加した。案の定、彼は素振りなんてこれっぽっちもしていないのでボールは打てないわ、守備ではエラーを頻繁にするわでチームメイトから冷たい目で見られていた。体裁を重要視する彼にとってこれはかなり苦痛であった。
ある日、辰巳はコーチから出された効果的なバットの振り方についての課題をさぼったとされて激しく叱責された。辰巳は別に課題をさぼっていたわけではなかった。課題については一通り調べてきたつもりだが発表の際に自分の勝手な解釈で改ざんして課題が上手くできなかったのだ。発表時の誰も助けてくれない不安感よりはコーチやチームメイトからの視線が辰巳に集中するのが耐えられなくてただ単純な思考になって体を勝手に動かしてしまったのだ。コーチからの詰問に対しても課題をさぼったと偽りの答えをしていつもの叱責をくらわされた。辰巳自身もわかっていた。これは自分が現状から逃げてしまったからこんな胸が痛い思いをしてしまうんだと。彼は自身の日ごろの行いを悔い改めようとした。
だがその向上心は1週間もすればたちまち消し去られ、彼はまたゲーム三昧の堕落した生活をするようになった。無論、彼の野球技能はそこまで成長することもなく試合ではベンチスタートはいつものことでランナーコーチを自発的に務め監督やコーチからなるべく距離をとり仕事をしているフリをしていた。安定は彼にとってものすごく心を穏やかにさせてくれる。ベンチスタート、適当な声掛け、ボール拾いという安定な状態は彼がコーチの怒号から巻き込まれない安心と他人事な気分でいるようなものだった。
人格は安定を自らで壊すか、誰かに壊されて変わる時がある。そのまたある日のこと。ついに事件が起きてしまった。閑静な住宅街でいつものように聞こえる陽気な子供たちの声を悲鳴に変え、グランドの土煙を血しぶきに変えた凄惨な出来事が。
「やる気のないやつはいらねえんだよ。帰れよ!帰れ!」
「…」
聞きなれた怒号が聞こえた。と言ったらそのチームはしょっちゅう怒号を飛ばす高血圧だらけの大人を抱えているという語弊があるため言い直すと、ある子どもに対して聞きなれた怒号が聞こえた。叱責される側はもちろん岩倉辰巳。彼はキャッチボールの相手を見つけられず、その場で突っ立って練習を放棄していた。彼は誰かが手を差し伸べてくれると考えていたのだが誰も助けてくれる気配がないのでさすがにまずいなと思いコーチのもとへ行き、困っていることを話そうとしたらコーチは無情に接し、彼を突き放した。
「帰れよ。練習の邪魔なんだよ。帰れ。」
叱りの時の文言でよく中年の男たちが多用する帰れという言葉は、ある種子供たちを突き放し、そこから何をすべきなのか、どうしたら再び集団の中へ帰還できるのを考えさせるという狙いがある。事実、この場合は「なぜ」という質問をした方が子供のためになるのだがそれは置いといて、辰巳は果て困ったとそのままグランドの隅っこに立ち尽くした。校門が近くにあったのでそのまま脱走を考案してみたがすぐに反駁しもう一度謝ろうと決意しぺこりとコーチに頭を下げて謝罪した。それでもコーチは聞いてくれることはなかった。辰巳は激しく動揺した。なぜならどんなに失敗をして怒られても謝罪をしっかりすれば許してもらえると学習していたからだ。
自分の学んだことは間違いであった。
それは謝罪することは許しを得られぬということ。自分が今まで親から何か迷惑をかけたたびに謝罪をすることを教えられてきたが、それは大人の都合にいいように教育されているだけだと思った。
自分の思っていることを根拠づけるために辰巳はある本を読んでいた時にこんな文があったと思い出す。
『謝罪してもあなたが許されることがないなら理由は二通りあるでしょう。あなた自身が本当にいけないことをしたのか、相手があなたを心底嫌っているかです。』
答えが出た。自分は何も悪くない。なぜなら自分は謝罪という、人としてなすべきことをしたから。なすべきことをしたのにそれを取り合ってくれないコーチは自分のことを心底嫌っていると辰巳は結論付ける。
さらに彼が読んだ本はこう書いてあった。
『相手があなたを心底嫌っているのでしたらあなたはもうその人と協調するのはやめましょう。敵なのですから。』
敵。
敵とは何なのか。
敵とはアニメや映画やゲームで登場する悪い悪役なのか。それならばその悪をしっかり征伐しないといけない。
もしかしたら自分はとても大変な状況に立たされているのかもしれない。
今目の前に敵がいる。他の誰もが気づいていない人間の皮をかぶった邪悪な暗黒の塊に。
脳がビリっとした岩倉辰巳はすぐさま駆け出し、簡易ベンチの方へ行き、バットケースから何本かバットを取り出しては一番重いバットを探し求めた。そして見つけた重い二本のバットを二刀流のごとき両手に持ち、コーチのもとに走り出した。
周りの人間が彼が何をしているのかを理解できなかった。いつもとは違う行動をとる岩倉辰巳に注目する。人々は目撃した。彼がコーチもとへ行き、背後から思いっきり二本のバットを振り下ろしたのを。
鈍い音が後から聞こえた。
コーチはその場で倒れ、意識が朦朧とする中、状況を把握しようとした。もしかしたら通り魔がグランドを奇襲しに来たのではないかと考えたからだ。コーチは顔を上げ犯人の方へ眼玉を最大限に動かすと、
そこには、
あの少年が、
バットを持っ
ぐにゃり
コーチの帽子をとって辰巳は二本のバットを勢いよく振り下ろし、コーチの顔面を殴打する。
右手のバットを振り下ろした後は左手のバットを振り下ろし、それを永遠に繰り返す。
標的の顔面から逸れないように微調整を施しながら。
そのあとも打撃、殴打、打撃、殴打、粉砕、粉砕、粉砕。
そして粉砕。
原型がわからないほどコーチの顔はぐちゃぐちゃにされていた。
閑静な住宅街で起きた、ある一人を敵と決めつけた人間への粉砕事件。それはその少年を含む複雑な要因が絡まり合った一種の奇跡であった。
複雑分岐の収束 ちわか @karakurinoie
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