サナトリウム

いちはじめ

サナトリウム

 向こうに着いたら迎えの者の指示に従うように、と医務官から告げられて少年が乗り込んだ小さな連絡船は、大海原にぽつんと頭を出している島の小さな港に接岸した。一時間ほど揺られ続けた少年は、陸に上がるとたまらずうずくまり、胃の中のものをすべて海にもどした。

 大丈夫? と背中から女性の声がして、ティッシュの束とミネラルウォーターのペットボトルが少年の眼前にそっと差し出された。それを無言で受け取り、鼻をかみ、口をそそいで力なく立ち上がると、少年は声の主に振り返った。そこには心配そうな顔をした質素な身なりの30代と思われる小柄な女性が立っていた。女性は担当の望月裕子です、と自己紹介しながら少年を車に案内した。

 彼女は運転しながら、船酔いは大変だったでしょうと話しかけたが、少年はただ無言でウィンドウの外に目をやっているだけだった。車は十分程で、島の中腹にある三階建ての施設に滑り込んだ。


 そこは結晶病の研究所である。

 結晶病とは、数十年前にその症状が初めて確認された、体が結晶化して死に至る奇病だ。発症率は十万人に一人という大変稀な病気ではあったが、現時点ではその治療法もおろか原因もまだ解明されていなかった。伝染性が疑われているため、この国では罹病すると、法律によりこの島に隔離されることになっていた。少年は結晶病と診断され、この島に連れてこられたのだ。

 少年は島に到着した翌日から検査を受けることになっていた。その間、あの望月という女性が付き添うという。

 施設は研究所という呼ばれていたが、入り口のフロアーには受付があり、奥には薬局らしき窓口も見え、さながら小さな市の市民病院という風情だった。少年は二階の小さな部屋に案内され、ここで少し待つように言われた。まだ波に揺られているような感覚から解放されていなかった少年は、深いため息をつき、窓際の長椅子に体を横たえた。

 ――検査して何になる、どうせ僕は死ぬんだ。

 そんな思いがぐるぐると少年の頭の中で渦巻いていた。

 しばらく横になっていると、施設内が何やら騒がしくなった。急患が運ばれてきたようだった。何だろうと少年が一階へ降りてみると、患者を載せたストレッチャーが、ちょうど施設内に入ってきたところだった。そのストレッチャーが少年の目の前を通過したその時、患者を覆っていた毛布がずれ腕が露わになった。その腕は鱗のようなものにびっしりと覆われていた。それを目にした少年は、立っていることができなくなり、壁に身を預けながら、そのままずるずると冷たい床に崩れ落ちた。視界の端に何かを叫びながら駆け寄ってくる望月さんをとらえたが、その声はまるで洞窟の中のように少年の頭の中でワンワンと反響した。

 少年が気が付くとそこは病室のベッドだった。

 脇で望月さんが心配そうにのぞき込んでいる。

「……気を失っていたんですか」

「そうよ、いきなりあれを見ちゃったのよね……、無理もないわ」

 蛇の鱗のようではあったが、しかし生物の柔らかさのかけらもないも持ち合わせていない何か。

「あれが結晶化した人間……」

「違うわ、あれは発症の初期段階、最後は全身がガラス細工のようになるの」

 彼女は少年から目をそらし、申し訳なさそうに答えた。

「病気のことについて、おいおい説明することになっていたのだけれど……。ちょっとプログラムが変更されるかもしれない。はっきりしたことが決まったらすぐに知らせるから……。しばらくここで待機することになると思うけど、何か欲しいものとかある?」

 罪滅ぼしでもするかのように彼女は少年に優しく話し掛けたが、少年は別に、と言って毛布を顔のあたりまで引き上げると、のっそりと彼女に背を向け、そのまま黙り込んでしまった。

 彼女は仕方ないわねとため息を漏らすと、何かあったらこれで連絡するようにと携帯端末を少年の枕元に置き、病室を出て行った。

 少年に対する検査は、彼女の予想通り、結晶化を発症した患者の対処を優先するため急遽延期された。

 待機の合間、少年はほとんど時間を病室のベットで過ごした。

 毎日望月さんが、少年の様子を見るために病室を訪れたが、――どうせ僕は死ぬんだという思いにとらわれた少年は押し黙ったままであった。

 またこの病気の、罹病していても結晶化さえしなければ全く普通の健康体と変わらないという特徴が、少年の気持ちを一層重くしていた。

 検査開始の見通しが立たない中、ふさぎ込んで病室に籠る少年を見かねた望月さんは、島で一番見晴らしのいい場所に少年を連れ出した。

 そこは島の北側にかけて緩やかにカーブする海岸線や、その先の岬まで展望できる、島を周回する道路沿いの小さな開けた場所だった。

 少年にとっては久々の外出であり、陽春の日の光が心地よかった。眼下の海岸から昇ってくる潮風が優しく少年に触れていく。

 少年は目を閉じると大きく深呼吸をした。潮風が運んできた磯の香りが鼻腔を満たしていく。潮騒のざわめきがささくれた少年の心に広がっていく。

 ――これが生きているということなんだろうか。

 結晶病に罹病などしていなければ、少年の年齢では気が付くこともなかったであろう『生』という実感。その実感に戸惑う少年の頬に一筋の涙がこぼれた。

「つらい気持ちは分かるわ。でもしっかりしなきゃ、あなたの人生は長いのよ」

「人生は長い? もしかしたら明日にも、この前の人みたいになってしまうかもしれないんですよ。他人事だからそんなことが言えるんですよ」

 少年は声を荒げた。

「ごめんなさい……。でも決して他人事ではないわ、私も結晶病だもの。私だけじゃない、ここの島民の大半がそうなの」

「えっ」

 その言葉に驚いた少年は、横にいる彼女の顔をまじまじと見たが、気休めを言っている風には見えなかった。

「付いてきて」彼女はそう言うと、道路を渡り、山へ続く小道を登りだした。仕方なく少年は後を付いていった。

 しばらく行くと、その先に小さな墓地が現れた。

「結晶化で死んだ人のお墓ですか」

「違うわ、結晶化したらそのまま保存され研究材料となるから、お墓に入ることさえできない。ここには普通に亡くなった人達が眠っている。結晶病の患者だからと言って、皆が結晶化して死ぬとは限らないの。発症しないまま亡くなることも珍しくないのよ。いやそちらの方が多いかしら」

 少年は彼女がなぜ自分をこの墓地に連れてきたのか、その真意を測りかねていた。

「……だから恐れるなと?」

「そうは言ってないわ。私も含めて結晶化を恐れていない人なんて誰もいない。でも死はどんな形にせよ必ず訪れる。結晶化だけを特別視して怖がることに、何か意味があるのかしら」

 ――結晶化も他の死と同じとことだと。

 少年は彼女の言わんとすることを何となく理解することはできたが、それをすんなり受け入れることはできなかった。 

 少年の表情にかすかな変化が現れた。

 それを見て彼女は少し安堵した。

 ――この先、この病気とちゃんと向き合ってくれるかしら。

 彼女はまっすぐ海を見据えて言った。

「戻りましょう。あなたには説明しないといけないことが山ほどあるの」

 彼女が踵を返して、元の小道をずんずんと下って行く。

 一時雲に隠れていた太陽が、雲の切れ間から顔をだして、少年の背中を照らした。

 その光に背中を押されたかのように少年は、次の一歩を確かに踏み出した。


(了)

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サナトリウム いちはじめ @sub707inblue

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