夏休みまであと五日


 今日の朝日は一段と強烈でどこを見ても眩しいから、明日香は俯いて足元を見ていた。ふたりの待ち合わせ場所の交差点の影の中で彼女は溜め息をつく。

 アスファルトの凹凸をぼーっと観察していると足音が聞こえてきた。それはたまに靴底を擦る重たい音だった。そちらを見ると、俯いて目を細めた香澄がやってきた。ごめん、と香澄は軽く言って、ん、と明日香も軽く返した。

 遅れ気味だったけどふたりは早足ではなく、むしろ遅いくらいだった。

「夏休みまであと何日だっけか?」

 明日香が低く弱い気だるげな声で聞いて、香澄も同じ調子の声で返す。

「えっと……五日かな。土日でしょ、月曜授業、火曜終業式で水曜から」

「長いなぁ」

「だよね」

 どこかでセミが飽きもせず延々と同じ鳴き声を繰り返している。住宅の壁で反響して、耳障りな音が彼女たちを包み込む。

「なんとなく今日は学校行きたくないな」

「あ、わかる」口だけ笑顔にして明日香が言う。「どうせ大して授業進まないし、サボっちゃうのもありかも」

「でも夏休みの宿題とかプリントとか貰わないと」

「まあそうだよね。じゃあ、香澄があたしの分も貰ってきてよ」

「結局わたしだけ行かなきゃいけないじゃん」

 香澄が小さく鼻で笑った。

 とぼとぼと歩くふたり。緩やかなカーブの先の交差点に彩がいて、彼女の元気な声がふたりを迎えた。

「ちょい遅だね。ちょい遅チケット、残り少ないよ」

「そんなんあったの?」明日香は釣られて少し笑顔になる。「てか、今日はあたしじゃなくて香澄だし」

「そうなん? 珍しいね。でもこれふたりで共有だから」

「それ、なくなったらどうなんの?」頬を緩めた香澄が聞いた。

「ん〜、ドーナツ奢りかなぁ」

「嫌だとは言えない絶妙なラインだね」

 三人は並んで歩き出した。早足の三人だが、明日香と香澄が少し遅れて小走りで追いつくというのが何回か起きた。

「ふたりとも今日なんか暗くない?」

 歩調を落として彩が聞いた。そう、そうかな、とふたりはとぼけてみせる。あっそ、と彩が唇を結んだ。

 車が前からやってきて彼女たちは端に寄って道を開けた。横一列のフォーメーションが崩れたその隙に、

「昨日の」

 彩が香澄の耳元で言った。香澄は目を大きくする。

「思ってるほど目立ってなかったと思うから大丈夫だよ」

「ほんとに?」

 なんの話、と明日香が聞いてきたが、昨日いろいろあってね、と彩は流した。

 また横一列になった三人。口角を緩やかに上げた彩が香澄のほうを見る。

「で、なんで遅れたん?」

「あぁ、寝坊しちゃって。昨日、音楽聴いてたら四時になっててさ」

 彩に、四時、と聞き返されて香澄は、四時、と返す。それから、四時ってもう外明るいんだね、と香澄は乾いた笑いをした。

「何時から?」

「えっと、十時くらいから」

「ずっと聴いてたの? 耳おかしくなりそう」

「うちのお母さんみたいなこと言うね」香澄が苦笑する。「でもちゃんと休憩しながら聴いてたから。休憩がてらに数学のテスト勉強してたらめっちゃ捗ってさ。たぶん今日のテスト、どんな問題来ても余裕だね」

「あっ」明日香が声を出す。「数学のテストさ、そんなだったよ」

 うそ、と香澄は眉をひそめる。

「うん。あたしでも九割解けたもん」

 ということは八割か、と彩が呟くと、謎の値引き、と明日香はつっこんだ。

「なんだよ」香澄が口を突き出して文句を言う。「加減ってもんができんか、あの先生は。期末めちゃむずくて、今度は簡単すぎるって」

「苦手意識にならないように点取らせてくれてるんじゃないの?」

 彩がそう言うけど、そうかな、と香澄は不満そうに首を傾けた。

「どんな問題出たん?」彩がにやりと尋ねるけど、

「教えるわけないじゃん。簡単だったって情報だけで満足しな」

 お喋りしている間に気分が上がってきたのか、明日香も香澄もだんだん表情が明るくなってきていた。

 それで、と明日香が話を戻した。

「そんなにも、なに聴いてたん?」

「昨日借りてきたやつで」香澄が指折り題名を挙げていく。「有名だけど聴いたことなかったアーティストのアルバムいくつか、あと演歌名曲選、クラシック入門はさすがに折れたな。それから洋楽六十年代ベストヒッツ、七十年代ベストヒッツ」

「なにそれ。気になる」洋楽のところで明日香が声を出した。

「うそ。めっちゃ食いつくじゃん」香澄の上擦った声。

「いや、デッドワールドっていうドラマで昔の音楽がちょいちょい使われててさ。それがめっちゃかっこいいの」

「えー、いままでおすすめしても全然響かなかったのに」

「どんな感じだった?」

 うーん、と香澄は斜め上を見て少し考えてから喋り出す。

「正直、古いからってナメてた。めっちゃよかった。最近のと比べるとやっぱりシンプルっていうか。でもそのぶんメロディラインがよかったり、楽器の音もなんかいいし」

 興奮が蘇ってきたのか、香澄は早口になっていく。

「ボーカルもよくてさ、めっちゃ心に響くの」

 いや英語だから何言ってるかはわかんないんだけど、とひとりでつっこむ。

「でもすごい力強いっていうか」

「今度聴かせてよ」と明日香。

 いいよ、と香澄は満面の笑みで頷いた。

「なんで急にそんないろいろ聴き出したん?」彩が尋ねる。

「せっかく音楽が好きなんだからさ、いろいろ聴いてみたいなって思って」

 ふーん、と彩は柔らかな表情で微笑んだ。

 三人は住宅地を抜けて、幹線道路の歩道を歩く。影がなくなって、彼女たちの顔に眩しい光が当たった。

「で、明日香はどうしたん?」

 彩にそう聞かれて、えっ、と明日香は驚いた。

「いや、暗かったからどうしたのかなって」

 どうもしないよ、と明日香は一度は首を振ったけど、彩の視線に負けて少ししてから喋り出した。

「ちょっと友達と喧嘩してさ。いや喧嘩っていうか、こっちから嫌われにいったっていうかなんていうか」

 彩は微笑んだ表情のまま明日香から次の言葉が出る数秒間を待っていた。

「嫌いにならないように嫌われにいった。変な話だよね」明日香は片方の口角だけ上げて微笑んだ。「もっとうまくやれなかったのかな、とかやっぱり思っちゃったり」

「誰と喧嘩したの?」香澄が彼女の顔を覗き込む。

 言いたくない、と明日香は首を振ったけど、それからニコッと笑うと、

「もうちょっとしてさ、そうだな、思い出したときに笑えるくらいになれたら教えてあげるよ」

「そう? じゃあそのときは私も香澄が昨日何やらかしたか教えてあげよっか?」

 彩がそう言うと、ちょちょ、と香澄が最速の反射神経で反応した。

「なにわたしのを勝手に言おうとしてんの?」

「めっちゃ気になる」明日香がにやりとする。

「いやいや、絶対言わないから」

 香澄が両方の手のひらをぶんぶんと振った。

 目の前で幹線道路の青信号が点滅を始める。三人は顔を見合わせると駆け足で横断歩道を渡った。



 香澄、と肩を軽く叩かれて彼女は重たい頭を起こした。

「今日、ずっと寝てるね」

 香澄の席のそばに立って、結菜がそう微笑む。

 タオルを枕代わりに、机に突っ伏して寝ていた香澄は眠たい目で辺りを見回した。岡田は彩の席でお喋りしていて、隣の席に真琴はいなかった。

 真琴は、と大あくびの香澄が聞くと、トイレ、と結菜が答えた。

「昨日、夜更かししちゃって」

 香澄は机の上にある国語の教科書とノートを鞄に仕舞った。授業中はずっと寝ていたから、それらは結局開かれることはなかった。

「わかる。私も数学のテスト勉強してたら寝るの遅くなっちゃった」

 結菜は真琴の席に腰を下ろして続ける。

「でも、せっかく睡眠時間削って勉強したのに、全然難しくなかったよね」

 そうだね、と香澄。

 昼寝のせいで乱れていた前髪を香澄が手櫛で直していると、結菜が笑いながら軽い声で切り出した。

「昨日はなんかごめんね。気まずい感じになっちゃって」

「あ、ううん。大丈夫」

 香澄も同じ軽い声で返した。

 ねえ、と今度は香澄が呼びかける。なに、と結菜。

「夏休みにカラオケ行こって話、わたし行けないわ」

「え〜、どうして?」

「勉強とか部活とか、ちょっと頑張りたいなって思って」

「そっか」結菜は唇を尖らせる。「残念。いつか行こうね」

 そうだね、と香澄は笑顔を作った。


 三年四組の教室から男子の集団が出ていった。その笑い声が遠くに消えていく。

「芽依、そろそろ技術行こ」

 美咲が窓際の席の芽依にそう呼びかけた。

 うん、と芽依が筆箱を持ってやってきて、明日香と美咲と芽依の三人は教室から技術室に向かう。廊下に出たとき、あっつ、と明日香はもはや口癖のようにぼやいた。

「技術って何するんだっけ?」歩きながら芽依が聞いてきた。

「なんだっけ?」と美咲。「前回、なんか言ってた気はするんだけど」

「なんかちっちゃい棚、作るんじゃなかったっけ」

 明日香がそう言うと、ああ、とふたりは思い出した。

 こんな暑いなかでも男子たちが走ったり騒いだりしている廊下を抜けて、彼女たちは渡り廊下を歩く。

「でも、どうせこの時間じゃ終わらないしなぁ」美咲が天井を見上げる。

「わかる」芽依が面倒臭そうに言う。「次の授業、夏休み明けでしょ。一ヶ月後でしょ。そう考えるとなんかやる気でないよね」

「そうそう。途中まで作って終わりってもやもやするよね」

「今日は設計図だけ描いて終わりかな」と明日香。

「私、一ヶ月も経っちゃうと設計図あっても何しようとしてたのか思い出せなそう」

 芽依はそう苦笑いして、あたしも、と明日香も笑う。

「あんたたち、ドラマの内容ならしょーもないことでも覚えてるのにね」

 美咲が鼻で、ふふ、と笑った。

 そうだね、と明日香が微笑む。

 そこで話題がなくなった。三人は階段を下りて一階の端にある技術室に入った。技術室では名前の順に座るから、彼女たちはバラバラに別れた。



 コンビニ袋を手に提げた香澄が音楽室のドアを開けた。

「あ、香澄」お弁当を食べていた七海がお箸を持った手を振った。「お昼買いに行くの早いよ。いそっちたち、置いてかれたって嘆いてたよ」

「あ、ごめん、めっちゃお腹減ってたから」

 そう答えて、香澄は自分の鞄が置いてある席に座った。

 彼女の前の席では、弁当組の結菜と七海と本村が楽しそうにお昼を食べていた。香澄もビニール袋からひとつ目の菓子パンを取り出して食べる。

 ねえ、夏休みの宿題、どこから倒していこっか?

 まずは英単語じゃない。とりあえず十回ずつ書いていけば終わるんだからさ。

 そうだよね。

 あかねるのアルバム聴きながらやれば一瞬だよ。

 はいはい。

 夏休みのどこかで勉強会しない?

 いいけど、いっつも一番最初に遊び出すの、もっさんじゃん。

 わかってるわかってる。

 そんな会話に香澄は相槌だけ打って、三つのパンをはやばやと食べきった。そして炭酸飲料をゴクリと飲んだ。

 お気に入りのスティックケースからドラムスティックを出して、それと楽譜を持って香澄は立ち上がった。

「え、もう食べ終わったの?」

 七海が振り返って驚いた。うん、と香澄は頷く。

「なんか気合い入ってるね」

「一日休んだら叩きたい欲、溢れちゃって」

 少し恥ずかしそうに香澄は笑った。

 音楽室後方にあるドラムのカバーを取る。椅子に座って、バスとハイハットのペダルに両足を乗せる。

 いつも握っている場所が黒ずんでしまっているそのスティックでスネアを叩き、その一打はまだみんな昼食中の音楽室に響いた。

 香澄は微笑む。

 それから手始めにコンクールの曲を最初から叩く。途中で、リズムパターンが切り替わるところのフィルイン、三つあるタムを高いほうから叩いてスネアに戻るその箇所が気になって、そこを何度も繰り返した。

 それからメトロノームを用意して、それが刻むテンポに吸い込まれるようにスネアとハイハットと、右足のバスを叩き続けた。

 まだクーラーの効いていない音楽室で汗が流れるのも気にせずスティックを振る。

 香澄、と隣で名前を呼ばれた気がして横を向くと磯部がいた。

 めっちゃ集中してたね、と磯部は少し笑った。もしかしたら何回か呼ばれていたのかもしれない。

「昨日は夏バテだって? もう大丈夫?」

「あ、うん」香澄は頭を掻く。「いや、実は昨日はサボっちゃって」

 えっ、と磯部が驚く。

「ごめんね。もう絶対しないからさ」

 香澄がそう申し訳なさそうに笑うと、じゃあいいけど、と磯部が頷いた。

「昨日は酒井さんも休んでてさ」磯部は首を斜めにする。「いやぁ、さすがにパーカッションふたりもいないと寂しかったわ」

 それを聞いた香澄は眉を上げる。そして、でしょ、とにっこり歯を見せて笑った。

「それで、またみんなで八月の大会の曲の話し合いするんだけど」

「あ、うん。行く行く」

 香澄はスティックを置いて、三年生の集まっている机に向かう。椅子に座ると、磯部が香澄に言った。

「昨日、水野蒼かランプのどっちかにしようってまでは決まったんだけど、どうかな?」

 これ楽譜用意できるやつね、と彼女はルーズリーフを手渡してきた。

 そこには水野蒼とランプの曲名のいくつかが部長のかわいい字で書かれていて、香澄はそのリストを上から読んでいく。

 なんかビシッと来ないっていうか。

 そうだよね。

 話し合いはあまり進みそうになかった。が、

「北風と太陽、は? 水野蒼の」

 香澄が曲名をひとつ指差した。

 えっ、とみんなが意外そうな顔をした。

「ちょっと古くない?」七海が眉を寄せる。

「最近のにしようって話だったじゃん」と本村も続く。

「でもこれならよそと被らないだろうし」楽しそうに香澄が言う。「古いっていっても数年前でしょ。この曲で蒼くん紅白出たからみんな知ってるだろうし」

 それに、と香澄は続ける。

「これ、やっぱりいい曲だよ」

 うーん、と三年たちは腕を組んだり上を見たり考えていたが、

「私もいいと思うな」結菜が小さく手を挙げた。「もちろんあかねるが一番いいけど」

 相変わらずの彼女に香澄はくすりと笑った。

 そして、確かにいいかも、と七海。そうだね、と他の三年たちも続いた。

「えっとじゃあ、北風と太陽でいい?」

 磯部の問いにみんなは満場一致で頷いた。

 では決定、と磯部は立ち上がる。他のみんなも、なんか楽しみになってきたね、とそれぞれ楽器の準備を始めた。

 香澄も立ち上がって大きく伸びをしてからまたドラムを叩きに向かう。途中でグロッケンやシロフォンを準備していた酒井に声をかけた。

「やっと曲、決まったわ」

「あ、お疲れ様です」

「そういや昨日、秋山さんの本、買ってみたんだ」

 それを聞いた酒井は、まず眉が上がって少し遅れて口が開いた。

「どうしたんですか?」

「いや、売ってたからなんとなく」

「どれ買ったんですか?」矢継ぎ早に酒井が尋ねてくる。

「この前、見せてもらったやつ」

「どこまで読みました?」

「えっと、六ページまで」香澄は頭を掻いた。

「六ってほとんど最初のページじゃないですか、表紙とか目次とかあるんだから」

 酒井が笑顔で文句を言って、いやいや、と香澄は首を振った。

「今日から累乗で増えていくから。今日は十二でしょ、明日は二十四でしょ」

 香澄が指折り言うと、

「それ、全然累乗じゃないですよ」

 酒井はくだらなさそうに軽く笑った。



 二年一組で昼食を食べて体操服に着替えた明日香と香澄と岡田の三人が体育館の影の中に荷物を置いた。テニスコートでは彼女たちよりも早かった二年生ふたりがラリーをしていた。ポーンポーン、とボールが飛び交うその音を聞きながら、明日香たちは手早く肌に日焼け止めを塗っていく。

「三年生に日記って言われてもさ」彩が手を動かしながら文句を言う。「部活、塾、しか書くことなくない?」

「ほんとそう」岡田は内容に反して明るい声だった。「そう考えると、夏休みなんか楽しくなさそうだよね」

「読書感想文とかどうしよ」と明日香。「去年の本、もっかい書いてもバレないかな?」

「バレないとは思うけど、本の内容覚えてる?」岡田が小さく笑って首を傾げる。

「覚えてない」

「じゃあ結局なにか読まなきゃじゃん」

「そうだよね」

 彩と岡田はヘアゴムで髪をまとめると帽子を被る。そして、明日香行こ、とラケットを手に持った。

「あ、先行って。あたしまだお腹いっぱいだわ」

 わかった、とふたりは強い日差しのなか元気よくコートまで走っていった。

 明日香は体育館の壁に背中を預けて座り、飛び交うボールがふたつに増えたコートを目を細めて眺める。

 しばらくすると昼食を終えた部員たちがだんだん集まってきて、コートにもうふたり入った。これで左右と中央のコースで六人。次に来たふたりは、ちょっと遅かったか、とグラウンドの端っこに出てラリーを始めた。

 彼女たちは練習が始まる前の、思う存分ラリーできるこの時間を楽しんでいた。

「ごめん。ちょっと短い」彩が大声で言う。

 彩の打ったボールはネットを越えてすぐにバウンドした。岡田は素早く前に出て、ザザーっとスライディングしながらそれを打ち返した。

 ナイスキャッチ、とラリーが続く。

「明日香……ちょっといい?」

 隣で声がする。芽依の声だ。

 横を向いた明日香は彼女の膝あたりを見て、うん、と答えた。芽依が明日香の隣に腰を下ろす。でもどちらとも口を開くことはなく、しばらくふたりは同じポーズで目の前のコートを見ていた。

 ふざけた彩が高い高いロブを打った。岡田の、ちょっと、という笑い声。

 岡田は上を見上げて着弾点を探りながらコートを前後する。スマッシュしようと構えるが、ロブが高すぎてリズムが取りづらくラケットは空を切った。

 あはは、と彩と岡田が大きな声で笑った。

「暑いね」

 隣で芽依がそう言う。

 そうだね、と明日香が相槌を打つ。

 しかしそれで終わる。

 明日香は自分の靴に目を落とした。全く問題ない右の靴紐のちょうちょう結びを引っ張って解く。それを結び直そうとしたとき、芽依が小さく息を吸うのが聞こえた。

「あれだね、ドラマの三話目くらいの暑さだね」

 授業で先生に当てられたときくらいのちょっと張った声で芽依が言った。

 えっ、と明日香は手を止める。

「つまり……これからもっと暑くなる」

「何それ」

 明日香の頬が緩む。

 それはいまいちなジョークだったけど、なんだかだんだん面白くなってきて、明日香はついに声を出して笑ってしまう。

 ふー、と息を吐いて呼吸を整えると、明日香は芽依の顔を見た。

「昨日、最新話、見たよ」

「どうだった?」芽依は眉を上げて嬉しそうに聞いてきた。「私はすごくよかったと思うんだけど」

「うん。面白かった」

「だよね。サムがバイクで助けに来てくれるとことかめっちゃかっこよかったよね」

「確かに。クリスとサムって最初は仲悪かったのに、いまじゃ相棒って感じだもんね」

 そうそう、と歯が見えるくらいの芽依の笑顔。それから首を傾ける。

「やっぱ私と明日香ってさ、見てるとこ違うよね」

 そうだね、と明日香も笑った。

「あたしさ、ちょっと考えてみたんだけど」微笑んで明日香が言う。「前に芽依、今シーズンのテーマは罪と罰って言ってたじゃん。でも、もしかしたら罪と許しかもしれないなって」

 あー、と芽依は考え込むと、なるほどそうかも、と心底嬉しそうに頷いた。

 ラリーしようか、と明日香は靴紐を結ぶ。

 うん、と芽依は立ち上がって帽子を被った。

 ふたりはグラウンドの端までダッシュで行ってラリーする。

 明日香がボールを打って、芽依が打ち返す。

 それは優しい軌道でふたりの間を飛んだ。



 部活終わりの夕方の空。

 何もない空で、暴れん坊の入道雲は視界のどこにもいない。

 西の空は明るいオレンジ色で、東は薄い水色。その間の空はグラデーションになっている。それは湿気というベールをまとっているから、美術の教科書に載っているようなくっきりとしたグラデーションではなく、淡くて優しいものだった。

「眩しくないんですか?」

 隣を歩く酒井がそう聞いてきた。

「めっちゃ眩しい」

 香澄は目線を下げて、ぎゅっとまぶたを閉じる。その様子に酒井が、何やってるんですか、と小さく笑った。

 いつものY字路で酒井が会釈する。さようなら、と半日練習したあとのやや疲れ気味の笑みで彼女は言った。香澄も、バイバイ、と同じ笑みで返してふたりは別れた。

 スウィングの楽しいメロディを鼻歌で歌いながら香澄はひとりの帰り道を歩く。すると後ろからふたり分の小走りの足音と、笑いを堪えようとしているが漏れてしまったという風な吐息が聞こえて、香澄は素早く振り向いた。そこには彩と、後ろから驚かしてやろうと両手を広げた明日香がいた。

「いや、気づくの早いよ」明日香が手を下ろして不満を言った。

「足音聞こえちゃったもん」

「そこは気づいても気づいてないふりするのが筋じゃない?」彩が笑う。

「難しいこと言うな」

 体操服姿のふたりと制服のひとりは並んで歩き出した。

「なんか最近よく会うね」

 彩が汗をかいて乱れた髪をいじりながらそう言った。

「コンクール近いからね。いつもより練習長くてさ」香澄は首の回した。

「ねえ」明日香がふたりの顔を覗き込む。「いまからちょっと遊ばない?」

「あ、うん」香澄はすぐに頷いた。「いいよ。明日香ん家?」

 オッケー、と明日香は微笑んだ。

「香澄の部屋、散らかってるしね」彩がにやりと笑う。

「ばかだな」香澄が鼻で笑う。「わたしの部屋の物にはちゃんと住所が決まってて、それ通りに置いてるんだからあれは散らかってるとは言わないよ」

「じゃあ床に物置きっ放しになってるのおかしくない? 道路に家建ってるようなもんじゃないの?」

「あれは……屋台、そう、屋台だから。どっかで花火大会でもやってんのかな。だから屋台が並んでる」

 香澄が展開する訳のわからない理論に、彩は怪訝な顔をしつつも笑う。

「でも五月くらいからずっと屋台出てない? いつまで花火してんの?」

「花火なんか毎日でも見たいよね」

 香澄の言動に、ついに面白さより不審さが勝ったふたりは閉口した。

「あーでも」香澄はあごに手を当てた。「彩ん家でミミと遊びたかったかも」

「ハナね」慣れた様子で彩が訂正した。

 そのとき前の曲がり角から自転車が現れた。

「あ、明日香」

 自転車に乗っていたのは遥で、彼女は三人の前でブレーキをかける。

「遥姉、塾?」

 うん、と制服姿の遥は頷いた。

「いってらっしゃい」

 あいよ、と彼女は手を一度振ってから自転車を漕いでいった。その後ろ姿を目で追いながら彩が言う。

「遥さん、西高だっけ? スカートかわいいな」

「だめだめ」明日香が彩のあごを摘んで前向きに戻す。「うちらはだっさい制服の大橋に行くんだから」

「ださいのか〜。まあしゃーないな」彩が頭を掻いた。

 楽しい空白が数十歩。それから、ねえ、と明日香がふたりに問いかけた。少しだけ真面目な声だった。

「なんでうちらって仲いいんだろうね」

「別に仲良くないよ」面白そうな声で彩が答えた。

「そうだよ」香澄も笑って言う。

「部活は違うし」と彩。

「趣味は合わないし」と香澄。

「遅刻よくするし」この場の流れを理解した明日香もすぐに流れに乗った。

「ハナと遊びたいだけで、彩はおまけだし」と香澄。

「明日香ん家行ったらお菓子とジュース出るから、明日香はおまけだし」と彩。

「え、じゃあ」明日香は首を傾げる。「これからは出さなくてもいいかな」

 うそうそ、と彩は最速で前言撤回した。

 そのやりとりに香澄は笑いながら、ところでさ、と話を変えた。

「彩の好きなものって何?」

「好きなもの?」彩は、んー、と遠くを見て考えると、「ハナかな」

「えー、なんかずるくない?」香澄が楽しそうに文句を言う。

 だよね、と明日香も頷いた。

「え、なんでさ?」

「わかんないけど、ねえ」香澄が明日香に目線を送って、

「うん」受けた明日香が言葉をつなぐ。「でも、そういうんじゃないよね」

「なにそれ。じゃあないよ。ないない」彩がキレ気味で首を振った。「何? あったら偉いの?」

「別にそういうわけじゃないけどさ」香澄は笑いながら手のひらを振る。

 あっ、と彩は閃くと、眉に力を入れた渋い顔と低めの声を作って言った。

「俺はお前らとこうしてるときが好きだぜ」

 後半の台詞は声が揺れてしまっていた。

「うざ」

「うざいし、途中でちょっと笑っちゃってたし」

 あはは、と三人の笑い声は音波となって夏の夕空に広がっていった。

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