夏休みまであと六日


「今日、数学のテストか。やだなぁ」

 横断歩道近くの建物の影で信号待ちしていた明日香が言った。

 彼女はずっとずっと遠くにある入道雲を眺めていた。その雲はずっと遠くにあるのに、朝日を受けて白く明るく輝いて距離を全く感じさせなかった。

「わかる」

 明日香の隣の香澄が反応した。彼女の手は暇そうに膝を叩いていた。

「そっちも今日なん?」明日香は雲を見上げるのをやめて香澄を見た。

「ん? ごめん、なんの話だっけ?」

 香澄はきょとんとそう言って、彩は吹き出して笑った。

「うそ?」明日香が驚く。「なんにもわかってないじゃん」

「ごめんごめん」香澄が恥ずかしそうに笑った。「暑さで脳みそ溶けてたかも」

 ほんとだよ、と明日香は困ったように笑った。

 信号待ちしていた生徒の集団が動き出して、ひとしきり笑った三人も続いた。

 住宅地の歩道で明日香がふたりを見た。

「高校なんだけどさ」

 そこで反応を窺うように言葉を一度切る。彩が、うん、と相槌を打った。

「三人で大橋高、狙ってみない?」

 えっ、と香澄。

「大橋って今泉の上じゃん」彩が眉を上げた。

「うん。誰かに合わせるんじゃなくて、三人で高いとこ受けるんだったらいいでしょ」

 そうだけど、と彩と香澄は顔を見合わせた。

「夏休み勉強してみて、行けそうだったらでいいからさ」

「まあ私はいいけど」彩が微笑んだ。

「香澄は?」

 うーん、と香澄は考えてから得意そうな顔になる。

「ランプアップのメンバーは小学校からいっしょだったらしいよ」

「高校は?」と彩。

「え?」

「高校はいっしょだったの?」

「それはわかんない」

「じゃあ、いまそれ関係ないね」

 そう言われた香澄は顔のパーツ全てがつり上がった変顔をした。

 彩がビンタする。もちろん全然威力のない撫でるようなビンタだったから、香澄の頬っぺたをぐにゃりと歪ませただけだった。

 明日香は吹き出して、何やってんの、と笑った。

「でもさ」彩が首を斜めにする。「受かるのかな?」

「部活頑張ってる子は引退してから成績伸びるって言うし」

 香澄が言うと、明日香と彩が眉を寄せた顔で彼女を見た。

「おい」香澄が明るくキレる。「わたしのドラム捌き、テニスコートまで聞こえてんだろ」

 うそうそ、とふたりが首を振った。

「まあ、わたしの音色が繊細すぎて空気に溶けちゃってる説はあるかも」

「いや、いま練習してるのめっちゃ明るい曲じゃん」

 明日香がくすりと笑った。

「でも実際うまく叩けてるかわかんないんだよね」香澄は難しい顔になる。「小林先生ってパーカッション、あんま詳しくないっぽくてさ」

 そうなの、と彩が返す。

「パーカス以外は教えれるんだから十分すごいんだけどね」

「パッと見、すごい叩けてると思うけど、私は」

 彩がそう微笑む。それから、パッと見じゃなくてパッと聴きか、と自分で訂正した。

 そうだといいんだけどな、と香澄は遠く前方を見た。それから彼女はにやりと笑う。

「そういやわたしは、明日香が美咲ちゃんにボール当てられてんの見たよ」

「えっ、あれ見られてたの?」明日香が驚く。

「うん。一昨日だっけ」

「そうなんだよね」明日香が頭を掻いた。「うちの部って部長の独裁だからさ、逆らうとすぐボール当ててくるんだよね」

 絶対うそじゃん、と香澄が笑う。

 登校指導の先生に挨拶して、三人は校門を通った。


 朝の会もあと数分で終わるというとき、三年二組の教室のドアがガラガラと開いて明日香が顔を覗かせた。彼女は彩の席まで早足で向かう。

「彩、社会の資料集ある?」

「ごめん、ないや。テスト期間に持って帰っちゃってそれっきり」

 わかった、と今度は教室後ろの香澄の席に来る。

「香澄、社会の資料集持ってるでしょ。貸して」

「何よそれ」香澄は、む、と唇を結ぶ。

「テスト期間中、置き勉を音楽準備室に避難させてんの知ってんだからね」

「へー、よく覚えてんね。だいぶ前に言った覚えはあるけど、あれいつだっけ?」

 香澄がそう焦らすと、持ってんなら早く貸してよ、と明日香は教室の時計を見た。もう授業が始まる時刻を指していた。

 はいはい、と香澄は答える。自分の机を漁りながら、あれちょっと早いよ、と明日香に教えてやる。

 あっそうなの、と明日香の顔が少し緩んだが、キーンコーンカーンコーン。チャイムが鳴る。

「嘘じゃん」明日香からめちゃくちゃ高い声が出た。

 うまくいった香澄は爆笑しながら分厚い資料集を彼女に渡した。

 受け取った明日香が二組の教室を飛び出して廊下を走っていくのが磨りガラス越しにシルエットで見えた。



 稀に形成される、授業中よりも静かになる休み時間の教室。木曜という週末までまだ一日ある気だるさと、三時間目というまだ一時間残ってる気だるさが教室に満ちていた。

 いつもはよく喋る男子たちは机に伏して眠っていて、エアコンの稼動音や誰かが伸びをする呻き声が妙に教室に響く。教室の話し声よりも壁越の廊下の話し声のほうがよく聞こえるくらいだ。

「小テスト、どうだった?」

 芽依が明日香と美咲の席にやって来て言った。周りに合わせて声量は小さめだった。

「なんかけっこう簡単だったよね」

 明日香はさっき配られた数学の夏休みの宿題をペラペラとめくりながら答えた。

「だよね。よかった。なんか私、勘違いしてるのかなとか思っちゃった」

「でも最後だけむずかったな」美咲が眠たげに頬杖する。

 わかる、と宿題をひと通り見終わった明日香はそのプリントの束の斜め上をホッチキスで綴じた。

「あんたたちって面談、今日だっけ?」美咲が聞く。

「そうだよ」と明日香。

「私、明日香の次だからうっかり忘れしなくて楽だわ」

 芽依は片足に体重を乗せた退屈そうな姿勢で言った。それから、

「そういえば、もう数学の授業、ラストなの? なんか早くない?」

「でも明日も昼までだし、月曜は二時間目までだし」

 美咲が答えた。頬杖しながら喋ったから滑舌が少し甘かった。

「あれそうなん?」

「うん。授業二時間やって、大掃除二時間」

「そんなに大掃除するの?」

「普通の大掃除やったあと、部活ごとに分かれての大掃除があるから」今度は明日香が答えた。

「ああそっか。そういえば去年もやった気がするな」芽依は少し笑って続ける。「帰宅部は三時間目で帰れるのか。羨ましいな。月曜だけ退部しよかな」

「言うと思った」明日香はくすりと笑った。

 うそ、と芽依は眉を上げる。

「ほんとほんと。あたし、ヘイストの主人公くらい勘いいから」

 芽依が吹き出した。教室で一番大きな音だったから彼女はすぐに笑い声を抑えた。

「あれは勘とかじゃなくてご都合主義だから。なんでこれは気づくのに、そっちは気づかないのって展開多すぎだから」

「だよね。あと、後出しジャンケンの設定も多すぎだし」

 喋るふたりは、声量は抑えながらも熱気を帯びた高い声だった。

「何? またドラマの話?」美咲は呆れる。

「うん。ヘイストっていうドラマ」芽依が説明する。

「面白いの?」

「面白くはないけど、なんていうか、伝説だよね」

「確かに。ある意味伝説だね」明日香は深く頷いた。「始まる前、めちゃくちゃ予告流れてて、それがすっごいよさそうで期待値めっちゃ高くてさ。で実際、最初のほうはちゃんと面白かったんだけど」

 明日香が芽依の顔を見ると、彼女は説明を引き継いだ。

「そうそう。でも三話目くらいからあれってなって、そこからどんどん面白くなくなっていったんだよね。案の定、シーズンツーは中止になって、ワンで打ち切られたし」

 へ〜、と美咲は微笑む。

「あれって二年のときだよね?」明日香が芽依に聞くと、

「そうだよ。二年の春」彼女が答える。

「芽依がドラマにはまってるって知る前の作品だから、芽依もヘイスト見てたって聞いたときはびっくりしたな」

 明日香は芽依を見た。

「私も。海外ドラマ好きってだけでも驚いたのに、それも見てたのって」

 ね、とふたりは顔を見合わせて笑う。

「しかもふたりともしっかり最終話まで見てたし」と明日香。「なんで最後まで見ちゃったんだろうね?」

 んー、と芽依は目線を上にして考える。

「もう一回面白くならないかなって期待してたのもあるけど、なんか面白くないのが逆に面白くなってきちゃったんだよね。いやいやそれはないだろってひとりでつっこみ入れながら見る感じ」

「あー、あたしもそうだったかも。なんか思い出してきちゃった。たまにはああいうドラマもいいよね」

「いや〜、できればないほうがいいでしょ」

 芽依は首を斜めにしながら苦笑いした。

 それから彼女は急に姿勢をシャキッとさせると満面の笑みで明日香を見た。

「そうだ、デッドワールド見た見た? めっちゃ面白かったよね」

 それを聞いた美咲が、おっ、と反応した。

「三時間目までよく保ったね。朝イチからその話してくると思ったのに」

「数学、一夜漬けならぬその場漬けしてたから」

 芽依はほっぺたを掻いて、へへ、と笑った。そして期待の目で明日香のほうを向いた。

「あ〜いや。まだ見れてないんだよね」

 明日香は目線を逸らす。

「うそ。なんで見てないん?」

 驚いた顔で芽依は前のめりに明日香の机に手をつく。

「昨日はチャンネル権なくてさ」

 横向きに椅子に座っていた明日香は少し後ろに下がって教室の壁にもたれかかった。

「でも、ずっとじゃないでしょ。テレビ空くまで待ってればよかったじゃん」

「まあね。でも眠くなっちゃってさ」

 笑いながら明日香は反論する。

「ほんとに楽しみにしてたら眠気も吹っ飛ぶはずじゃん」

「でも、万全の体調で見たいから」

 明日香は壁から背中を離してそう言う。

「それにこういうのってお祭りじゃん。配信が開始されるのワクワクしながら待って、見終わったらネットで感想言い合ってさ」

「なんで嫌いなドラマの話のほうが盛り上がってんの、あんたたち。変なの」

 呆れた感じで美咲がふたりを見る。

 明日香は椅子に座り直して、芽依はさっきの片足に体重を乗せた姿勢に戻った。まだ教室は静かなままで、ふたりが息を吸った音が聞こえた。

「ヘイストは別に嫌いじゃないよ、全然面白くないだけで」

 芽依が小さく笑う。

「そうだね」明日香も続けた。「愛され系ドラマだよね」

 数学乗り越えたらなんかお腹空いてきちゃったな。

 そうだね。

 今日はお昼どうしよっかな。

 そんなことを話しているうちにチャイムが鳴った。



 三年二組を八つのグループに分けて行われた英語のクイズは窓側前方のグループが十問中九問正解して優勝した。他のグループの生徒たちがぱちぱちと軽い拍手をする。

 それから英会話の黒人女性の先生は次のプリントを配り始めた。それがみんなに行き渡ると英語でこれからすることを説明する。ゆっくりと喋ってくれてはいたが、香澄は三つ目のセンテンスで眉を寄せると、リスニングを諦めて配られたプリントに目線を落とした。

 プリントの左半分には英文の前半部とその意味がたくさん並んでいて、右半分には後半部があった。黒人の先生がひと通り喋り終えると、英語の先生がそれを訳してくれる。

 左のグループAと右のグループBを組み合わせるだけで簡単に文章が作れます。AとBはそれぞれ百個ずつあるのでこのプリント一枚で百かけ百の一万通りの表現をマスターできます。それに、使われている名詞や動詞を変えるだけでさらに多くの表現ができるようになります。

 英語の先生の言葉が止まって訳し終えた雰囲気を感じた外国人の先生は日本語で、とってもたくさん、と慣れない発音で言った。教室が和やかな笑いに包まれる。それからまた何か喋って、英語の先生が訳した。

 それではここにある表現を少なくともひとつ使って、あなたのことについて文章を作ってみましょう。

 英会話の先生が手を叩いた。

 香澄はびっしり並んだ表現と睨めっこするとシャーペンを動かし、ブラスバンド部に所属していてドラムをやっているというようなことを書いた。

「何書いたの?」

 隣の席の真琴が覗き込んできたから、香澄はプリントを見せた。

「真琴は?」

「あ〜、私もそんな感じだわ。美術部ですって」

「こんだけいろいろあっても、使いやすいの使っちゃうよね」

「しょーもないミスしたくないもんね」

 しばらくすると先生がまた手を叩いてみんなを注目させると、発表してくれる人がいないか挙手を促した。誰も手を挙げない十秒ほどの間があってから、このクラスの切り込み隊長である野球部の男子が右手を挙げた。

 生徒たちはそれぞれ自分の名前をローマ字で書いたネームカードを机の隅に置いていて、英会話の先生は読み慣れていない感じでその男子の名前を言った。

 はにかんだ笑顔で彼は立ち上がると、発音を気にしないカタカナ英語で喋り出す。

 私は小学生のときから野球をしています。バッティングが得意です。いつかホームランを打ってみたいです。

 外国人の先生が何かを尋ねてくる。三秒考えて、守備のポジションはどこかと聞かれたのだと理解した坊主頭の彼は、サード、と一単語で答えた。それから好きなメジャーリーガーを聞かれて日本人の選手の名前を言った。発表は以上で、拍手のなか彼は着席した。

 先生は次の挙手を待ったが、しかし彼のあとに続く人はいなかった。それならばと彼女は誰かを当てようとクラスを見回す。香澄は不審がられない程度に身を小さくして、視線は先生を見るでもなく俯くでもなく、黒板の下のほうに合わせる。

 笑顔で先生は、マツヤマサン、と彩を指差した。その瞬間、彩の体がびくっと小さく跳ねたのが香澄の席から見えて、彼女は少し笑いそうになる。

 彩は硬い表情のまま椅子を引くと、ひと呼吸してから立って自分が書いた英文を読み上げた。

 私は四年前からハナという名前の犬を飼っています。私の日課は彼女の散歩に行くことです。

 黒人の先生の質問。知らない単語に彩は首を斜めにしたが、そのあと先生がジャーマンシェパードとかベーグルとか例を出す。犬種を聞かれたのだと理解した彼女はゴールデンレトリバーと答えた。続いて、かわいいですか、と聞かれる。彩の表情が少しほぐれて、イエス、と彼女は頷いた。先生の拍手があって、彩は胸をなで下ろして座った。

 先生は次に誰を当てようかと教壇を歩いて、そして、ミヤモトサン、と窓際の女子の名前を呼んだ。

 彼女はゆっくり立ち上がると、自分のプリントに目を落としながら声を発する。

 英会話といういつもと違う雰囲気の授業に生徒たちは注意されない程度に賑やかだったけど、宮本の声は小さかったからみんな少し遠慮して教室が静かになった。

 私は音楽を聴くのが好きです。特にあかねるというミュージシャンが好きです。いつか彼女のコンサートに行ってみたいです。

 どんな感じの曲なのですか、と先生は聞いてまた例を並べた。ポップ、ロック、ジャズ、ヒップホップ。

 ポップ、と宮本は答える。

 ちょっと歌ってみて、と先生がいたずらっぽく言う。宮本が困った顔をしたところで先生が拍手をして、彼女は椅子に座った。

 香澄も拍手しながら、教室中央の席の結菜を窺った。けど背中が見えるだけで表情はわからなかった。

 それから何人かの生徒が当てられて、最後に黒人の先生はおどけて英語の先生を指名した。英語の先生は驚いて、生徒たちにも笑いが起こった。少し待って、と彼女はプリントに目を落とすと、さすがに英語を教えているだけあってすぐに文章をまとめて、一分くらいすらすらと喋ってみせた。

 四時間目の授業は少し早めにお仕舞いになった。終わりの会が始まるまでの僅かな時間も生徒たちは無駄にせず、席を立って友達とお喋りに励んでいる。そんな中で結菜も席を立った。彼女が窓際に向かうのが見えて香澄も腰を上げた。

 結菜は宮本の席のところで立ち止まった。

「宮本さんってあかねる好きなんだ。なんか意外だな。私も好きなんだ」

「え……うん」

 宮本は結菜を見上げて、視線を彷徨わせてから答えた。

 香澄は結菜のそばに行くと、ねえ結菜、と彼女のブラウスを少し引っ張った。

「ごめん。ちょっと宮本さんと話したいことがあって」

 そう言って、また宮本のほうへ向き直る。

「一番好きな曲って何? ちょっと教えて」

「あいあお……かな」

 彼女は藍より青しを略して言う。

「わかる。いい曲だよね。でも私はコトノハかな。いつから聞いてるの?」

「えっと……去年の十月くらいからかな。そう、三島さんにアルバム借りてそれから」

「香澄が貸したの?」

 結菜は驚いた表情で香澄を見た。

「そうだっけ?」香澄は首を斜めにして、すぐに思い出す。「あ、そうそう。宮本さんとは二年も同じクラスだったから」

「なんで貸しちゃうのさ〜」

 結菜が笑顔でそう言ってきた。その圧力に、香澄も笑顔を作って答える。

「なんでって、貸してって言われたから」

「ほんと、誰にでも貸すよね」

「だって、いろんな人に聴いてもらいたいじゃん」

「香澄ってそういうとこあるよね。そうやって自慢して自分を守ってるんだよね」

 香澄は笑顔のまま瞬きする。

 わたしだって……。

 飽和水溶液に溶けきれなかった食塩が沈殿するように、香澄の口から言葉が零れる。

 でもそれは結菜の耳には届かなかった。彼女はまた宮本を見て、あかねるのどういうとこが好きなの、と聞いていた。

 突然、香澄は歌を歌い始める。

 藍より青しのサビを、飾らない恋愛の歌詞を、魅惑の低音ボイスで歌う。

「ちょ、香澄、どうしたん?」

 結菜がすごい勢いで香澄のほうを振り向いて、目を大きくした。

「いい曲だよね、あいあお。わたしも好きだな」

 にっこり笑顔の明るい声で香澄は言った。そうじゃなくてさ、と結菜。

 香澄は気にせず続きを歌う。

 しかしサビの終盤に差しかかったとき、

「それ、二番の歌詞だよ」

「えっ」

 結菜にそう言われて、香澄の口の動きが止まった。

 そんなに大きな声ではなかったはずだが、周りの席の人たちの目線は香澄のほうを向いていて、ちょうど教室に入ってきた担任とも目があった気がした。

 香澄は素早く俯いて、教室の一番後ろの自分の席に戻った。

「明日の時間割りは水曜の五、六時間目と木曜の五、六時間目です。間違えないように。水泳の補講は明日までだからまだの人は絶対に行くように」

 担任の声がする。でも顔を上げてその姿を見ることはできない。机の木目に落とされた香澄の目線が細かく動く。

 プリントが一枚配られて、前の席の子から受け取ったそれを鞄のクリアファイルに突っ込む。端が折れていることなんて気にしなかった。

 そして念願の、起立、礼、の担任の声。

 一番後ろの席の香澄は最短距離で後ろのドアから教室を出た。


 ため息がひとつ。

 しかしずっと下を見ていたおかげか、廊下掃除は捗った。ちりとりを持った男子の顔は見ないようにして埃をそれに掃き入れる。箒を掃除用具入れに戻して、掃除の時間が終わってしまった。

 ゆっくりと鞄を背負うと、香澄はまたため息をして上階に続く階段を見る。数歩歩いてからもう一度階段を見上げると、そちらには向かわず階段を駆け下りていった。

 ちらちらと周囲を窺いながら昇降口を歩いていると、よく知った顔があって香澄は、あっ、と声を漏らした。

「酒井、ちょうどよかった」

 彼女に駆け寄って肩を叩いた。

「いそっちにさ、今日部活休むって言っといてくれない?」

 あ、先輩、と酒井は振り返った。力のない表情で、少し顔色が悪いような気がした。

「すみません、私も今日、部活休むんですよね」

「あれ、どうしたん?」

「なんか急に頭痛くなっちゃって。ちょっと寒気もするし。まあ暑いからちょうどいいかも」

 ははは、と彼女は空笑いした。

 そっか、と香澄は唇を結んで考えると、一緒に帰ろっか、と微笑みかけた。

「えっ、誰かに言っとかなくていいんですか?」

「いいのいいの」香澄は笑顔で右手を振った。

「小林先生、無断欠席には厳しくなかったですか? サボってもいいけど、誰かに伝えてからにしなさいって」

「あんたは?」

「私は江藤に伝えましたもん」

「ふーん」

「いいんですか?」

 酒井が眉をひそめて聞いてきた。

 香澄は一度目線を落としてから、いい、と真顔で後輩を見た。

 酒井はそれ以上は何も言わず歩き出した。

 靴を履き替えたふたりは昇降口を出て、これから家に帰る生徒の楽しげな流れに加わる。正午の太陽の眩しさに香澄はますます俯き加減になった。無言のまま校門を出て住宅地を歩き、学校が見えなくなったところで酒井が隣を歩く香澄を横目で見た。

「どうしたんですか?」

「クラスで……ちょっと色々あって」

「クラスで色々あったら部活行きたくなくなるんですか?」

 酒井は首を捻る。

 周りが楽しそうな声で会話しているなか、香澄が低い声で、ねえ、と聞いた。

「秋山さんの本、初めて読んだのっていつ?」

「えっ? えっと、一年のときかな」

「どうやって出会ったん?」

「立ち読みで、ですけど。そういう意味じゃないですよね」

 酒井は頬っぺたを掻いて、言葉を続ける。

「私、小学生の頃は児童文学とか好きだったんです。で、中学生になってもっといろんな本を読んでみたいなって思っていろいろ読み漁ってたんですよ。うちの親、スマホは絶対買ってくれないくせに本なら買ってくれるんですよね」

 香澄が笑って、そうなんだ、と相槌を打つ。

 酒井は続ける。けど、体調が悪いからか喋る速度は遅かった。

「初めは帯に映画化とか書いてあるやつ読んでたんですけど、あらすじはいいのに中身そんなだな、とか思って。それから国語の資料集に載ってるような文学読んでみては、こんなんで歴史に残るのかとか、とか思ったり」

 やばい私とんがってたな、と彼女は恥ずかしそうに笑う。釣られて香澄も苦笑した。

 ふたりは幹線道路の横断歩道のところまで来た。しかしその青信号は点滅し始めて、彼女たちは諦めて足を止めた。

「それで、いろいろ読んでいくなかで秋山さんの本が打率高くて、もう一冊読んでみようかなってだんだん好きになっていった感じです。秋山さんの本もけっこう映画化とかされてるから、一周回って落ち着いたって感じですね」

「なんか地味だね」

「ですよね。言ってて自分でも思いました」酒井は軽く笑う。「運命の出会い、とか言ってみたかったな。一ページ読んだだけで引き込まれたとか」

 車が行き交う。目の前を車が通ると風が起こるが、それは全然涼しくない。車体の金属が太陽光を反射するから、香澄は目をぎゅっと細める。

「わたしって何が好きなんだろう?」

 香澄は眩しいも気にせず空を見上げた。

「音楽好きじゃないですか」

「そうだけどさ」

「ドラムは?」

「そんなに上手じゃないし」

「でも、好きなんでしょう?」

 酒井は軽い感じで言い切った。

 信号が青に変わった。

 そうだね、と香澄は横断歩道を渡った。

「コンクール近いのに休んじゃうの申し訳ないですよね」

 幹線道路を曲がって住宅地を歩いているとき、酒井が言った。

「でもまあ、パーカスいなくても全体練習ってできちゃうからなぁ」

「ですよね」酒井が苦笑いする。「面白いんですけどね。色んな楽器、触れるし」

「叩いたら音がなるってのがまず気持ちいいよね」

「同じリズム刻んでるだけなのになんか楽しいですし」

 わかる、と香澄が頷いた。それから、

「あと練習中でも炭酸飲めるし」

「そうそう。羨ましいだろって感じですよね」

「ご飯のあと、うがいしなくてもいいし」

「でもやっぱ」酒井が笑顔で言う。「グロッケンとかでメロディに加われると嬉しいですよね」

 うわめっちゃわかる、と香澄は興奮気味に語尾を伸ばした。

 いつもふたりが別れるY字路に来たときだった。

 会話に夢中だったから上空への警戒が甘くなっていた。建物のくっきりとした影がいつの間にかなくなっていて、影がなくなったのではなく周りが暗くなったのだと気づく。

 視覚ではなく、顔や腕といった素肌に当たる細かな感触で雨が降り出したのがわかった。その雨はすぐに強くなっていって、香澄が酒井に、雨だね、と喋りかけた次の瞬間には大粒の雨に変わっていた。ブラウスの雨粒の当たった箇所が一撃で肌に張りつくくらい濡れてしまう。

「やば。それじゃあね」香澄は手を上げて走り出そうとする。

「あ、うちで雨宿りしていきます? すぐそこですよ」

 香澄は即決で進行方向を変えて酒井についていった。頭や肩に少し痛いくらいの雨粒の衝撃を受けながら全力ダッシュで二回道を曲がるとそこが酒井の家だった。

 やばい、やばいね、と言い合って玄関ポーチの下に駆け込んだ。酒井が家の鍵を開けている間も雨が地面で跳ねて細かなしぶきとなって彼女たちの足元を濡らす。

 ドアが開き、ふたりは玄関の土間部分に入って息を整えた。香澄は学生鞄からタオルを取り出す。鞄は防水だからとりあえずは大丈夫。顔や服を拭いて応急処置を施す。

「サボった罰かな」

「いやいや。私を巻き込まないでくださいよ」

 そう言ってから酒井は腰を下ろした。

「走ったらなんか気持ち悪くなってきたかも」

「大丈夫? えっと、なんかしようか?」

「いえ、大丈夫です。休めばすぐに治りますから」

「やっぱわたしすぐ帰るからさ、早く横になってきな。あっ、傘だけ貸してもらっていい?」

 香澄が申し訳なさそうに笑うと、酒井はしょうがないという風に頬を緩ませて傘立てから一本貸してくれた。それを受け取ると、じゃね、と香澄は玄関を開けて外に出た。

 傘を両手で持たないといけないくらいの勢いの雨の中を香澄は帰る。早くも側溝に向かって流れる水が川のようになっていた。



 昼ごはんを済ませてこれから練習が始まるというときに雨が降ってきた。

 体育館の庇の波打つ金属のトタンに雨粒が当たって高い音がする。それが幾重にも重なって少し怖いくらいの音量になる。ゲームセンターのメダルゲームで大当たりが出たときのような騒がしさが頭上で鳴り響いていた。

 テニス部員たちは濡れないよう体育館の壁にできるだけ寄って、突然の荒天に圧倒されたのか口を少しだけ開けて空を見上げている人が多かった。

 体育館の中で練習しているバスケットボール部も雨が降り出したことに気づいたのか、体育館の二階の窓が閉められていく音が微かに聞こえてきた。

 明日香と彩は体育館の開け放たれた金属のドアのそばに立っていて、そこから声をかけられた。

「めっちゃ降ってるね、彩」

 ふたりが振り向くと、バスケットボールを片手に持った女子が外の様子を窺っていた。

「あ、佐々木」彩が彼女の名前を言う。雨音に負けないように少しだけ声を張っていた。

「今日はもう終わり?」佐々木は水浸しのテニスコートを見た。

「まだわかんないけど、たぶん。体育館はこれで涼しくなるんじゃない?」

「どうだろ。よけいに蒸せるかもしんない」

「ふたりって仲良かったの?」明日香はふたりの顔を交互に見た。

「うん。二年のとき同じクラスでさ」彩が微笑んで頷く。

 へ〜、と明日香。

「暇ならバスケやってく?」佐々木が笑って聞く。

「いいの? 怒られない?」

「うちの顧問、いま面談やってるはずだから大丈夫だよ」

「あ、そっか。でもいいや。遠慮しとくよ」彩は手を振った。

 そ、と佐々木。彼女は手癖のようにたまにバスケットボールをドリブルしていた。

 体育館の様子を見ていた彩が、あっ、と指差す。

「明日香、あれ、匠じゃない?」

「あ、ほんとだ」

 体育館は緑の網のカーテンで半分に仕切られていて、その向こうのゴールの下で男子たちが左右交互にレイアップシュートの練習をしていた。その中に見知った顔を見つけた。

「あの一年の男子、二組の三島の弟だよ」

 明日香が教えると、そうなん、と佐々木もそちらを見る。

「どんな感じ?」彩が聞いた。

「知らない。男子とはほとんど交流ないからね」

「そうなの? 隣で練習してるのに」

「逆に邪魔だよね。体育館、半分しか使えないから」

「ま、それもそっか」

 それから何回か匠がシュートを打つのを見ていたが、

「なんか普通だね」彩が不満そうに言った。

「そうだね」と明日香。「下手だったら香澄いじってやろうと思ってたのに」

「私も思ってた」と彩。

「なんで弟の運動神経のことで姉のほういじるんだよ」

 佐々木が、あはは、と笑う。

 体育館の奥から声がして、ごめん集合かかった、と佐々木は片手を挙げると走っていった。その後ろ姿を見ながら彩が言う。

「佐々木とは二年の二学期まではほとんど喋ったこともなかったのに、三学期から急に仲良くなったんだよね」

 そうなんだ、と明日香。ふたりはまた空をぼんやり見上げる体勢に戻った。

「いま思えば不思議だよね。仲良くなるのに何年もかかった人もいるのにさ」

 へ〜、と明日香は相槌を打った。

 おーい、と淳子の声がして、ふたりが横を見ると三年が集まっていた。

「明日香と彩も修行じゃんけん、する?」淳子は雨樋から小さな滝のように流れる水を指差した。「負けた人は十秒な」

 ふたりは、え〜、と顔を歪ませた。

「勝ったらどうなんの?」明日香が聞く。

「別になんもないけど」

「じゃあやんないよ」

「だめ。やらないと負け扱いだから」

「選択肢ないじゃん」

 なんだよそれ、と文句を言いながらもふたりはじゃんけんの輪に加わった。


 大雨は十分くらいで小雨に変わり、小雨はすぐに止んだ。濃い雲はどこかへ流れ去って、強烈な太陽がまた顔を出した。さっきまで少し肌寒かったからみんな陽光の下へ出て来たが、すぐに暑くなって影の中に戻っていった。

 大きな雨粒の衝撃が砂に円形の跡を残し、その紋様がコート一面に広がっている。歩いてみると靴が少し沈み込む感覚があって、足を上げると靴底に砂利が薄く引っついてきた。ベースラインの辺りの地面は後衛がよく走り回るから削れていて、いまは水溜まりになっていた。

「無理っぽい」

 明日香は振り返って部長の美咲に言った。

「どうする?」と淳子。「先生に聞きに行く?」

 うーん、と美咲は腕を組んだ。

 そんなときにタイミングよく顧問の菊池が体育館の角から姿を現した。集合の声をかけるまでもなく部員たちは菊池の前に並んだ。

 菊池はコートの様子を一度見てから言う。

「ランニングか階段ダッシュならできるけど、隅、どうする?」

「え、いや、やりたくないです」

 名指しされた二年の隅が素直に答えて、部員たちに軽い笑いが広がった。

「そうか。じゃあ今日は終わろうか」先生も表情を緩めながら言った。「しっかり休んで明日に備えるように」

 お疲れ様、と菊池が言って部員たちが、ありがとうございました、と頭を下げた。その声はいつもより明るかった。頭を上げると、部員たちは楽しそうにお喋りを始めた。

 恵の雨だね。

 それな。

 まだ一時半じゃん。帰って何しよ。

 ね、どっかに遊びに行こうよ。

「なんか私、めっちゃ濡れてるんだけど」

 帰り支度をしながら淳子がそう言った。すぐに、修行のせいだよ、と周りからつっこまれた。

 そんな会話のなか、ラケットをケースに仕舞っていた明日香が、あっ、と気づく。

「あたし、面談あるから帰れないや」

 私もだ、と芽依も言った。

「何時から?」岡田が聞く。

「二時」

「じゃあ待ってたほうがいいね」

「そうだね」

 みんなは鞄を背負うと、お疲れ、と明日香と芽依を残して帰っていった。彼女たちの喋り声が体育館の角に消えると辺りは静かになって、バスケ部がボールをドリブルする音がよく聞こえた。

「どこで待ってる?」明日香が尋ねる。

「ここでいいんじゃない」

「面談って体操服でいいかな?」

「制服に着替えたほうがいいと思うけど」

「だよね」

 ふたりは体操服の上からブラウスとスカートを着て、体育館の影の中に並んで腰を下ろした。コンクリートの濡れていた場所はもう乾き始めていた。

「面談までどうやって時間潰そか?」

「数学の夏休みの宿題ならあるけど」鞄を覗き込んで、明日香が言った。

「うーん。やる?」

「やりたくはない。けど、いま進めとくとでかいよね」

「わかる」

 ふたりは顔を見合わせると、渋々宿題を取り出した。プリントに下敷きを差し込むと、三角座りの膝の上で一問目の因数分解に取りかかった。

 途中で明日香が、塾もあるのに宿題多すぎ、と愚痴を言った。

 しばらくふたりは黙ってシャーペンを動かしていたが、プリント一枚目の半分で早くも芽依の手の動きが鈍くなった。

「帰ってもまだ三時くらいか」芽依が首を回す。「晩ご飯までドラマ四話は見れるな」

「そうだね」

 芽依は足を伸ばした。足先が影の外に出て、彼女の白いテニスシューズが明るく光る。

「新しいのに手、出そっかな。……なんかおすすめない?」

 彼女は少しゆっくりとそう喋って、明日香の横顔をちらっと窺った。

「うーん。思いつかないな」

 明日香の気の抜けた相槌。それから彼女もシャーペンを置いた。この数十分で様変わりしたテニスコートをふたりともぼんやりと眺めて、もう宿題はしていないのにどちらも喋らない静かな時間が流れる。

「ねえ」明日香が急に言い出した。「なんかものまねやってよ」

 芽依は、えっ、と驚いて眉を少し上げる。

「いいけど、うーん、思いつかないな。なんかリクエストして?」

「じゃあ菊池先生」

 彼女は、ちょっと待って、と考え込む。その間にふたりは宿題を鞄に片付けた。そして芽依は顔を上げると咳払いして声を作った。

「ストロークをネットやアウトして点落とすのはもったいないよ。トップスピンかかったボールは落ちるか浮くか、隅、どっち。……そうだね。つまりしっかりボールに回転かければ、ネットを余裕を持って超えてもアウトにならないのは、隅、わかるね。じゃあ回転かけるにはどうすればいいんだっけ、隅。……そう、しっかり振り抜く」

 低い声の芽依はどこかにいる隅を指差して大きく頷いた。

「隅、当てすぎ」

 明日香は大笑いして、手を一度叩いた。そのリアクションを見て、芽依も満足げに笑顔になった。

「でも当てたくなるのもわかるよね」

「だよね。反応いいもんね」明日香は大きく二回頷く。

「ねえ、次の部長って隅になるのかな?」

「いや〜、ちょっとやんちゃすぎるでしょ。村田のほうが落ち着いてていいと思うけど」

「そうだよね」

「副部長がちょうどいいんじゃない。淳子みたいに」

「わかる」芽依が、ふふ、と笑う。「淳子って、基本真面目なのにたまに暴走するよね」

「そうそう」明日香は笑顔で手を振る。「しかもやってる遊びが男子なんだよね」

「そうだよ。やばいよね」芽依が高い声で言う。

 笑いが落ち着くとふたりは、ふう、と息を整えた。水溜まりが太陽光をキラキラと反射するテニスコートを明日香は目を細めて見ていた。合奏部の演奏が小さく聞こえてくる。

 まだ頬に笑みの形が残っている状態で、明日香は落ち着いた声で言う。

「普通の会話は楽しいんだけどな」

 えっ、と芽依の笑顔だけど驚いた声。

 明日香は息を吸うと、三角座りしている自分の膝頭を見ながら口を開く。

「あたしはさ、いまのキャラハン、すごくいいと思うし、ドラマは自分のタイミングで見たいし」

 彼女はゆっくりと言葉を選んでいく。手は大して乱れていないスカートのプリーツを直していた。

「クリス派サム派とか特にないし。それに、あたしはネットの人じゃない」

 芽依の目は明日香の顔を見ていた、たぶん。明日香は横を向くことができなかったから、視界の端で芽依の視線を感じるだけだった。

「だから……なんて言うんだろ……」

 彼女の言葉が止まる。芽依も何も言わなかった。しばらくふたりはそのままだった。

「ごめん、そろそろ面談行くね」

 明日香は芽依の顔を見れないまま鞄とラケットケースを掴むと、振り向くことなく校舎のほうへ歩いていった。



 玄関のドアが開く音がして、香澄は目を覚ます。

 ただいま、と帰ってきた母に、おかえり、とリビングのソファで寝ていた香澄は体を起こして言った。

 時計を見ると五時過ぎだった。ビニール袋の中身を冷蔵庫に移しながら母が、今日はクラブ終わるの早いのね、と言ってきた。

 うんちょっとね、と香澄は曖昧に返事をする。ぎくりとしたが、幸いにもその会話はそこで終わった。

 ふたりは夕方の情報番組をだらだらとお菓子を食べながら一時間くらい見ていたが、母が晩ご飯の用意のためにキッチンに立ったから、香澄も自分の部屋に向かった。

 エアコンを入れて、机の上のスマートフォンをチェックする。数分前に七海からメッセージが来ていた。

 体調、大丈夫? でも休むんなら言ってくんないと。小林先生、そういうとこには厳しいんだから。先生には塾でテストがあるから休んでるって言っといたよ。それっぽいでしょ。

 最後にニコニコの絵文字がついていた。

 香澄は安堵の息を吐いて、返事を考える。結菜から何か聞いてない、と打ち込むがそれは消去する。それから違う文章を打ち込んだ。

 ありがとう。なんか急に頭痛くなっちゃって。夏バテかな。昼寝したら治ったからもう大丈夫。

 そっか。次から気をつけてよね。

 わかったよ。

 会話を終えると、香澄はベッドに寝転がった。彼女は何か音楽を聴こうとスマホのイヤホンを耳に刺す。ディスプレイをスワイプして、たくさん並んでいるアルバムの中からひとつを選ぼうとするけどなかなか決まらない。

 やっと決まって再生の三角マークに指を運ぶけど、彼女は首を傾げてやめる。そしてまたアルバム選びに戻った。そんなことを三回続けてから香澄はイヤホンを外した。

 よし、と香澄は勢いよく立ち上がって階段を駆け下りると、キッチンの母に言う。

「晩ご飯のあと、レンタル行ってきていい?」


 レジカウンターの上に香澄の選んだCDが小さな塔を作った。店員の手のバーコードリーダーが何回も同じ動きをして、香澄の財布の中の千円札たちが絶滅した。十数枚のCDはレンタルバッグひとつでは収まらず、ふたつのそれを受け取って香澄は店を出た。

 香澄はポケットのスマートフォンを一度見た。時刻は八時半。長かった日も完全に落ちてしまっていた。

 自転車に乗って家へと帰る。その道は通学路の途中にある四車線の道路で、香澄はまっすぐにその道を進んでいった。昼間に雨が降ったからか、夏の夜の空気がまとわりついてくるような暑さはしなかった。自転車を漕げば漕ぐほど涼しい空気が体に当たるから、彼女は立ち漕ぎになってどんどん速度を上げていった。見慣れたいつもの場所で道を曲がる。普段歩いている通学路は自転車では一瞬だ。

 家に着いて自転車から降りると体から汗が一気に吹き出た。自転車の籠からトートバッグを取り出すときにちょっと引っかかっただけでイラつくくらい早く涼しい場所に行きたかった。

 ただいま、とクーラーの効いたリビングに入るとすぐに冷蔵庫まで行き、お茶をがぶがぶ飲む。一息ついて、それから香澄はパソコンをしている父のそばまで行った。

「パパ、代わってもらっていい?」

「ああ、うん。ちょっと待って」

 テレビの前では匠が今日も格闘ゲームをしていて、その様子を香澄は立ったまま数分見ていた。それからまた、パパ、と催促した。わかったわかった、と父は笑いやっとマウスから手を離して、デスクに置いてあったマグカップのコーヒーを飲み干して立ち上がった。それから父は、風呂入ってこようかな、と風呂場へ歩いていった。

 香澄はパソコンのデスクの椅子に座るとすぐにCDを取り込む作業に取りかかる。パソコン本体のディスクドライブのトレイにCDを乗せて押し込む。モニターのメーターがいっぱいになるまで匠のゲームの様子をぼんやりと見て、いっぱいになると次のCDに取り替える。その作業が数回目になったとき、

「やばい。全然勝てない」

 ゲームをしていた匠が両手を振り上げた。彼は立ち上がってキッチンに行くとジュースの入ったコップを持ってきてテーブルの椅子に座った。

「なにそれ? 全部借りてきたの?」

 積み上がったCDを見て弟が聞いてきた。そうだよ、と香澄は頷くと次のCDをパソコンに入れた。

 ねえ匠、と香澄は椅子に横向きに座り直して軽い笑顔で弟に聞く。

「お姉ちゃんのどんなとこが好き?」

 彼は一度すっごく嫌な顔して、それから満面の作り笑いで言った。

「全部好きだよ」

 香澄は吹き出して、匠は苦笑いする。

「誰も幸せになんない質問やめてよ」

 そう言って弟はジュースをごくりと飲んだ。それからコップを置いて溜め息をつく。

「ゴールドになってから全然勝てなくなったんだけど」

「だから、頭使いすぎなんだってば」

 茶化すつもりが、匠は笑うでも嫌がるでもなく腕を組んで考え始めた。

「あーそうかも。なるほど」彼は頷く。

「何がなるほどなん?」

「相手の動きを読もうとして逆に相手に振り回されてるのかなって。相手に合わせすぎてる。勝つために、うまくなるために相手に合わせてるのに、それで弱くなっちゃてたら意味ないよね」

 香澄はモニターのメーターを見ながら、なんかちょっとわかるかも、と呟いた。

「よし、一旦相手のことは無視して自分の動きに集中してみようかな」

 ジュースを飲み干した弟に、ねえ、と香澄は尋ねる。

「もう長いことやってるよね。そのゲーム」

「そうだね。去年の夏休みに始めたから、もう一年かぁ」

「なんでそんなに続いてるの?」

「楽しかったから、ではないな。だって最初のほうは全然勝てなかったし」

「そうだね。負けすぎてコントローラー投げてたもんね」

 うっさい、と匠は姉を睨む。それから首を捻って、

「でも、なんか楽しくなりそうな気はしてたんだよね。だからもうちょっとやってみよう、もうちょっとやってみようって」

 よし、と匠はテレビの前に行くとまたコントローラーを握った。ソファのその後ろ姿を香澄は感心の微笑みで見ていた。

 すべての音楽を取り込みそれらをスマートフォンにコピーし終えると、香澄はキッチンに向かった。食器棚からマグカップを取り出してポットの前に立つ。

「ママ、コーヒーってどうやって作るの?」

 テーブルで書き物をしていた母が、えーと、と顔を上げた。

「粉をティースプーン二杯分くらい入れて、お湯入れて」

「ミルクとか砂糖とかは?」

「お好みで」

「お好み?」

 難しい顔で香澄はそれらを投入してスプーンでかき混ぜた。そうしてできた茶色の液体のマグカップと、CDがたくさん入ったレンタルバッグふたつを持って香澄は二階の自分の部屋へ向かった。

 勉強机に座ってマグカップに口をつける。

「にが」

 眉を寄せて、彼女はそれを机の端っこに置いた。それから、イヤホンのケーブルがぐるぐる巻きになったスマホをポケットから取り出すと、そのぐるぐるを解いてイヤホンを耳に刺した。

 一曲目を再生する。



 明日香はデッドワールドの最新話を見ていた。テレビの前に横になって、クッションをひとつ枕代わりにして、もうひとつを胸の前に抱えていた。次回が気になるような終わり方でドラマは終わった。寝転がったまま彼女は机の上のリモコンを手探りし、テレビを消した。

「なんか盛り上がってんじゃん」

 遅めの夕食を終え、食卓の椅子でスマートフォンを触っていた遥が明日香のほうを見た。

 えっ、と明日香は体を起こして振り返る。

「なに? 寝落ちしてたの?」

「いや、起きてたけど」

 あそう、と彼女はまたスマホに目線を戻した。

「学校でなんかやなことあったでしょ」

 姉からそう言われて、えーと、と明日香はどこかを見た。

「友達といろいろあったんだ?」

「あたし、そんな顔に出ちゃってた?」

「嫌いじゃないけど、苦手なときがあるっていうか」

「うそ、なんでわかるの?」

 妹が驚くと、遥はスマホを置いて、ふふふ、と意地悪な笑いをした。

「中学生なんて毎日ひとつくらい嫌なことあるでしょ。意外とうまくいったな」

「うわ、コールドリーディングじゃん。この前、ドラマでやってたし」

「へー、そんな名前ついてるんだ」

 遥は食器をキッチンの流しに運んで、それから明日香の隣に来て座った。

「悩んでるんなら相談、乗ったげよか?」

「いい。もうやっちゃったから」明日香はクッションにあごを埋める。

 ふーん、と遥は机に頬杖をついた。

「昨日、私に勉強のモチベ、聞いたでしょ。教えてあげよっか?」

「うん」

「好きな人がいてね、その人と同じ大学目指してるの」

 遥はけろっと軽い調子で言った。

 えっ、と明日香は声を出したが、理解が追いついていないようで表情の変化はなかった。

「それで、合格できたら告白するんだ」

「なになに? どういうこと?」

 眉の上がりきった顔で明日香はリビングを見回して母がいないことを確認すると、姉に近寄って座り直した。そんな妹のパニックの様子を遥は微笑んで見ていた。

「えっと、ちょっと詳しく教えてもらってもいいですか?」明日香が小さく手をあげて言う。興奮しすぎて敬語になった。

 いいよ、と遥は頬杖を崩した。

「二年のとき同じクラスでね、そのときから仲はよかったの。それで、三年で違うクラスになって」

 向こうは理系だからね、と補足した。

「それからいいなって思うようになったんだ」

「離れてから気づく系ね」

 ふむふむ、と明日香は頷く。

「お互い部活を引退してからはデートってわけじゃないけど、たまに一緒に帰ったり、どっかに寄ったりしてさ」

 まあそんな感じ、と彼女は肩を上げた。

「志望校いっしょなのはたまたま?」

「ううん。私が合わせた」

「どうやって聞き出したの?」

「普通に聞いた。どこ行くのって」

 ちなみに、と遥はとっておきな感じでつけ加える。

「通ってる塾も同じだよ」

 塾も、と明日香は高い声で驚いた。

「同じって言っても、塾もクラス違うからあんまり会わないんだけどね」

「それはどうやって?」

「それも聞いた。同じとこにするから教えてって」

「それって向こうももう気づいてるでしょ」

 かもね、と遥は平然と頷いた。

「じゃあほとんど両思いじゃん」

 やばいやばい、と明日香の体が軽く暴走を始め、机に手をつくと膝立ちなった。しかしすぐにスッと冷静になって、腰を下ろすと顔も真顔になった。

「早く告白したほうがよくない?」

 どして、と遥は微笑む。

「だってふたりとも志望校受かるとは限らないし、そもそも受験までに誰かに取られるかもしれないし」

 それにさ、

「早く付き合いたくないの?」

 遥は口角を少し上げると話し始める。

「私はいまはこの距離感でいいかなって思ってる。たぶん向こうも」

 でもさ、と明日香。遥は続ける。

「もちろんあとで後悔するかもしれないし、同じ大学受かったのに結局フラれて顔合わすたび気まずくなる大学生活になるかもしれないけど、それも、ま、いつか笑い話になるでしょ。……二年後くらいに」

 そしてニコっと笑う。

「笑えるようになるまで二年かかってんじゃん」

 明日香も姉に釣られて笑ってしまう。

「人と人は波長の違うサインカーブ。離れたり近づいたり」

 遥は人差し指で空中に波線をふたつ書いた。首を傾けた妹に、

「中学生にはまだわからないか」

 そう言って姉は微笑んだ。

「うちの数学の先生がさ、普段は全然そんなキャラじゃないのに、急にそんなこと言い出したの。あのときはやばかったな。騒がしかったクラスがさーっと凪いでさ」

 思い出し笑いしながら、遥は右手を横に動かしてクラスが静かになっていく様子を示した。

「まあでも、言いたいことはわかるな。つまり、いい関係でいるには近づくばっかりじゃだめなの。で、それを間違えると……」

 焦らすように言葉を切られて明日香が、どうなるの、と先を促すと、

「笑い話がひとつ増える」

 あっ、と察して明日香は苦笑いした。

「でも、お互いがお互いのことをちゃんと考えているなら、なんだかんだうまくいくから大丈夫だよ」

「ほんとに?」

「ほんとに。私がどんだけ失敗してきたと思ってんのよ」

 胸を張った遥に、怪しいなぁ、と明日香は頬を緩めた。

「さて、お風呂入ろっかな」遥は机に手をついて立ち上がった。

 時刻は十一時前。明日香は時計を見つめて考える。

「今日はもうちょっと起きてたいかな」

「それがいいよ。やなことあった日は眠くなるまで好きなことしてさ、眠くなったらすっと寝ちゃいな」

「そうだね。そうする」

 明日香は頷くと、机のリモコンを手に取った。デッドワールドの昔のエピソードか、キャラハンのお気に入りのエピソードか、それとも新しいドラマにするか、彼女は今日の締めの一本を探す。

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