夏休みまであと七日
一
タイマーで消えたクーラーの冷気がまだ残り香のように漂っている室内に小鳥のさえずりが響き、香澄は目を覚ます。だんだん大きくなっていくさえずりの音は、彼女の腕がベッドから手慣れた角度で伸びて目覚まし時計を叩くと止んだ。
時計の短針は七を指していて、秒針が一周回る。
お腹のあたりに申し訳程度に乗っかっていたタオルケットをどかすと、香澄は体を起こした。起こしたけど、枕を抱きしめるとまたベッドに倒れこんだ。枕越しに、んー、と喉の奥で唸ってから今度こそ起きる。
ベッドから手の届く位置に二段に積まれた衣装ケースがあって、そこからキャミソールやソックスを取り出す。吊ってある半袖ブラウスと紺のスカートも取って、ベッドの上でもぞもぞと着替えた。
カーテンをスライドすると、朝日が網膜を焼いて彼女は目を細めた。窓を開けると、涼しい残り香は消えて夏の朝の空気が入ってくる。いまはまだライオンの赤ちゃんみたいな空気、それを彼女は重たい瞼のまま吸って吐いた。
一階の洗面所には匠が先にいて、卓球のダブルスのような手際のよさで交互に顔を洗い歯を磨いた。弟が洗面所を出て行ったあと、香澄は肩にかかるくらいの長さの髪を櫛で梳かしてからリビングに行った。
おはよう、と父と母の声がして、おはよう、と彼女も眠そうに返す。
父と母はもう朝ご飯を済ませていて、父は新聞を読んでいた。テーブルには目玉焼きとサラダ、それからお味噌汁があって、香澄が弟の隣の椅子に座ると母がご飯を持ってきてくれた。
「そういや匠」香澄が隣に聞く。「期末、平均何点だった?」
「ん、えっと」白米を飲み込んでから弟が答える。「九十三だったっけ」
「いやいや、九十越えは無理だよ。だって運が関わってくるもん」香澄は箸を振った。
「実際いけちゃったし」
「まあ、まだ一年だからね」
「姉ちゃん、一年のときどれくらいだった?」
香澄はわざと無視して味噌汁を飲んだ。変なところに入って咽せて、弟は笑った。
テレビではアナウンサーが外交問題について話していた。
父は新聞をたたむと、よし、と立ち上がった。鞄を持って玄関へ向かう父を、いってらっしゃい、と姉弟は送り出した。
時刻は七時半だった。
エアコンが静かに冷たい空気を吐き出す部屋に甲高い電子音が鳴り響く。
百人一首の一字決まりくらいの素早さでその目覚まし時計は叩かれ、明日香はぐいっと体を起こした。一度伸びをすると、薄い布団をセミの抜け殻のように残して、薄目の彼女は部屋を出た。
少しだけ危ない足取りで階段を降りると、リビングを通り、キッチンの冷蔵庫を開ける。麦茶をコップになみなみと注ぎ、彼女はそれを一気に飲んだ。喉が三回動いてそれは空になった。コップにもう一杯注ぐと、それを持ってリビングのテーブルに座る。
やっと落ち着いた明日香を見て母がおはようを言った。母は情報番組を見ながらコーヒーを飲んでいた。おはよ、と明日香も返して、トーストにかぶりついて箸で卵焼きを口に運ぶ。
キッチン近くの洗面所のドアがスライドして、ボブヘアーの決まった遥が出てきた。チェック柄のスカートがおしゃれな高校の制服を着ていた。
「遥姉、描いてる?」
姉を見た明日香は自身の眉毛を人差し指で指差す。
「うるさいな」遥はえくぼを作りながら言う。
「バレないの?」
「私のことよく見てる人にならバレるかもね」
「恥っず」
テーブルの上のお弁当箱と水筒をリュックに入れた遥が、行ってくるね、とリビングを出た。母も彼女を見送りについていく。リュックを少し緩めに背負ったその背中に、いってらっしゃい、と明日香は言った。
時間割りを合わせて、楽譜のファイルとスティックケースもばっちり学生鞄に入れて香澄は立ち上がる。部屋を出る前に、机の上のイヤホンが挿しっぱなしになっているスマートフォンをチェックして、彼女はリビングに戻った。ちょうど匠が家を出るところで、いってらっしゃい、と声をかけた。
「香澄もお昼は買ってね」キッチンで食器を洗っていた母が言う。
わかった、と香澄はテーブルに置かれていた千円札を受け取った。
天気予報が終わりアナウンサー同士の緩い会話のあと、八時になり朝ドラが始まる。
「いい曲なんだけど、さすがに毎日聞くと飽きちゃうよね」
オープニングの曲を聴き終えてから香澄は玄関に向かう。いってらっしゃい、と母の声がリビングから聞こえてきて、いってきます、と香澄は大きな声で返した。
「やばい。寝癖直んないんだけど」
洗面所から出ても手ぐしで頭を撫でている明日香は鞄を背負いラケットケースを斜めがけしてリビングを出る。
「いま何分?」
「五分」見送りに来た母が言った。
明日香はテニスシューズを踏みつけるように履いて人差し指でかかとを直し、ドアを開ける。いってらっしゃい、という母の声に、はーい、と彼女は手を少し挙げた。
二
十字路の狭い影の中で香澄は待っていた。さっきから同じリズムで右手と左手が太ももを叩いている。そのうち彼女が見つめる先の角から大股歩きの明日香が姿を現した。
香澄が、おはよ、と軽い調子で挨拶するとふたりは並んで歩き始める。
名札、と明日香が言って、気づいた香澄はスカートのポケットからアクリルに名前が彫られたそれを取り出してブラウスの胸ポケットにつけた。
一分くらいで彩とのいつもの待ち合わせ場所に来た。彼女が明るい声で言う。
「おはよー。ちょい遅だね」
主語はなかったが、彩の目線は明日香に向けられていた。
「目覚まし通りに起きてはいるんだけどね」
「じゃあ目覚ましセットしてる時間が間違ってるんだよ」
天才、と明日香が気の抜けたリアクションをすると彩も、ふふ、と気の抜けた笑いをした。それから三人は点Pを追いかける点Qのように早足で通学路を進んでいった。足を動かすぶん、三人はあまり喋らなかった。
通学路の中間地点である四車線の道路が見えてきたとき、香澄が明日香に、何時、と聞いて指を差した。その方向には車三台分の時間貸し駐車場があった。明日香は道を小走りで渡り、発券機のディスプレイで時刻を確認して戻ってくる。
十六分、と明日香が報告するとふたりの歩く速度がいつもくらいに戻った。少しだけ上がっていた息が整うと香澄が、そういえばさ、と切り出した。
「二年の遠足のとき……」
その時点で、うっわ、と彩が小さく漏らした。明日香も遅れて、あー、と頷く。
「一瞬で思い出した。全部鮮明に蘇ってきた」彩は大きくまばたきする。
「前の日さ、遅刻した人は放っといてバスは出発しますとか散々脅かされてたのにね」明日香が楽しそうな声で言う。「結局あれなんでだったん?」
「たぶん集合時間の三十分前に行こねって言われたと思うんだけど、私、三十って数字だけが残ってて七時半って思っちゃったんだよね」
あ〜なるほどね、とふたりが納得する。彼女たちは横断歩道で信号待ちしている生徒の塊に加わった。
「全然来ないからさ」香澄は思い出して少し笑った。「彩ん家行ったら真顔で、どうしたん早いね、って言ったよね」
「そのあと顔真っ白になってた」と明日香。
「確かその一週間前に私さ」彩が右手を上下に振って言った。「スマホ買ってもらったの。それで遠足の前の日に、七時半だから六時四十分に起きればいいよねって思って、スマホに六時四十分に起こしてって話しかけたのまで覚えてる」
明日香と香澄が吹き出して、ははは、と笑った。
「わあすごい、とか言っちゃって、あ〜思い出しただけでなんか汗でてきちゃった。今日暑いね」彩が手のひらをぱたぱたさせた。
信号が変わって、生徒たちが横断歩道を渡り始める。笑っていて信号を見ていなかった彼女たちは一番最後に歩き出した。
「彩も案外やらかすよね」笑いがひと段落した香澄が言う。
「そうなんだよね。しかもだいたい大事な日なんだよね」
「練習試合の日も遅刻したことなかった?」と明日香。
「そうそう。あれは普通に寝坊だったな」
今日も雲のない空で、前の生徒の白いカッターシャツが太陽光を眩しく反射している。
住宅地の歩道を歩いていると、明日香が話題を変えた。
「香澄、面談、今日だっけ?」
そだよ、と香澄が頷く。
「ふたりはさ、高校、どこにするとか決めてる?」明日香が聞く。
「決めてないけど」香澄が答える。「勉強してみて行けるとこ行くんじゃない」
「まあでも今泉高くらいに行けたらいいよね」と言う彩に、だよね、と香澄も同意した。
「三人で同じとこ受けたり、する?」明日香が少しゆっくり言った。
ん〜、と香澄と彩が考える。
「どうだろ。行きたいとこあるのに無理に合わさせちゃうのも悪いし」と彩。
「でも、ないんでしょ?」
「ないんでしょって言われたら、あるよって言いたくなっちゃうな」彩は唇を尖らせた。
「それに、三人とも同じレベルだったらいいけどさ」香澄が首を傾げる。「高い人が低い人に合わせるのは、なんていうか、よくないでしょ」
「おんなじ高校行ったとしてさ」彩がおかしそうに言う。「誰かがギャルグループに入ってきゃぴきゃぴしてるの見るの嫌だし」
「逆に友達できなくて、休み時間になるたびにこっちのクラスに遊びに来られたりしても辛いし」香澄も笑いながら言う。
「彼氏作って学校でいちゃいちゃされてもうざいし」明日香も乗っかった。
「どうせ違う高校行っても暇なときは誰かん家に集まったりするでしょ」
彩がそう言うと、まーそうだよね、とふたりは頷いた。
校門のそばで先生が急ぎなさいと言っているけど、歩道を外れると歩道を歩きなさいと言われるし、歩道は生徒でちょっとした夏祭りくらいの人混みでその流れが速くなることはなかった。
「中学入ったとき、どうやって友達作ったか覚えてる?」彩が話題を広げる。
「全然」と明日香。「誰かの友達方式だったと思うけど」
「言っても、中学ってさ半分は同じ小学校だったじゃん。高校ってほとんど知らない人でしょ。もし高校でできた友達が全然ノリ合わなかったり、すっごいめんどくさかったらどうする?」彩が面白そうに語尾を上げる。
「そりゃあんた、ビシッと……」
香澄が拳を握って見せるけど、「言える?」と聞かれて、
「言えない。絶対言えない」
だよね、と彩が笑う。
「案外さ」と明日香。「言ったらうまくいくかもしれないけど、まあ言えないよね」
「ちょっとずつ距離作って、向こうに察してもらうしかないよね」彩が言う。
「それか相手に引かれるくらいこっちが変なことするか」と香澄の提案。
「何するの?」
「ビンタ」明日香が急に言った。
彩が吹き出す。
「え、何? あんた高校の友達にビンタすんの?」
「うん。そいつが近づいてきた瞬間ビンタしてればそのうち近寄ってこなくなるでしょ」
「それでも近づいてきたら?」
「それはもう仲良くしようよ」明日香は苦笑いした。
無事、時間内に校門を通過した彼女たちは下駄箱に向かう。
そうだ香澄、と明日香が言った。
「お姉ちゃんがさ、誰でもいいからライブのDVD貸してほしいって」
「あーごめん。ライブDVDは持ってないんだよね」
わかった、と明日香は頷く。
そうだ、と今度は香澄。
「ジャックニックっていうバンドがあるんだけど、すっごくいいから聴いてみてよ。なんだったか忘れちゃったけど、いまCMに使われてて。めっちゃ声がいいの」
「へ〜じゃあ、覚えてたら聴いてみるね」
その語調から、あっ、と香澄は漏らして、彩も、全然響かなかったやつだ、と笑った。
「これから絶対はやるから」
「じゃあはやってから聴くよ」
むう、と香澄は口を曲げた。
「ねえ香澄、サビ歌ってあげたら思い出すんじゃない?」
彩が意地悪な笑みでそう言う。
いやいやいや、と香澄は大きく手のひらを振った。
「そうだね」明日香も乗っかった。「聴いたことあったら思い出すかも」
「思い出さなくてもいいから」
「ちょっとだけ。あたし、イントロクイズ得意だから」
イントロじゃないし、と香澄は文句を言ったけど、辺りを見回すとふたりにだけ聞こえる小さな声でサビを少しだけ歌った。
明日香は腕を組むと、わざとらしく難しい顔を作った。三秒そうしてから眉を上げて目を見開いて、あっ、と何かを閃く。
「もしかして思い出した?」彩が合いの手を入れた。
「全然わかんねぇ」明日香は首を振った。
その表情に彩は、ははは、と笑って、香澄も、しょーもな、と笑い出す。
「これやったとき思い出したことないじゃん」と香澄。
「そうだね」明日香が自分も笑いながら答える。「このくだりしたいがために聴かないまであるよね」
「いや聴いてみて」
「はいはい」
下駄箱で靴を履き替えて階段を昇っているとき八時二十五分のチャイムが鳴った。きっと校門では遅刻のチェックが始まっているだろう。
三
黒板に教科書から抜き出した英文が並んでいる。haveに黄色で下線が引かれて、そこから前後の単語に矢印が伸びていて、その下に和訳が書かれていた。
問題のたびに先生が席順で生徒を当てていって、次は机に伏している女子の番だった。名前を呼ばれた、十二色相環で言うと黄みの橙くらいに髪を染めたその女子は顔を上げると不機嫌に、わかりません、と放ってまた机に突っ伏す。先生は困ったように微笑むと次の生徒を当てた。
明日香の席からだとその髪の明るい女子が寝たふりをして机の下でスマートフォンを触っている様子が見えた。それからもうひとり、窓際の男子も同じようにスマホを触っていた。横持ちしているからゲームをしているのかもしれない。頬杖をついた明日香はそれを三秒眺めて板書に戻った。
チャイムが鳴って、みんなが会釈よりも浅い角度の礼をして休み時間に突入した。
「田村くんさ」明日香が美咲のほうに首を傾ける。「めっちゃスマホ触ってたね」
「そう? まあ二年のときからあんな感じだったけど」
「私、後ろの席だからわかるけど」いつものようにふたりのところに来ていた芽依が言った。「しょっちゅうやってるよ」
「真面目っぽいのにちょっと意外」と明日香。
「だね」美咲が窓のほうをちらっと見る。「けっこうイケメンなのにね」
「わかる。塩顔だよね」明日香は少し小声になった。
「醤油じゃない?」美咲の反論。
なんかラーメンみたいだね、と芽依が言うと、ソースラーメンって食べたことあんの、と美咲からつっこみが入った。
「あり?」明日香はもう一段小声になる。彼女たちの顔の距離が近くなった。
「ん〜、なしかな」美咲が答えた。
「その心は?」明日香は楽しそうな顔で尋ねる。
「デートよりゲーム優先されそう」
「きびしいね」と芽依。「いっしょにゲームすれば? ワイワイできて楽しそうじゃん」
「彼氏とおんなじ趣味って喧嘩の原因になりそうじゃない?」
「そうかな? 私はいいと思うけどな」
そういえば、と芽依が小声からいつもの声に戻って話題を変えた。
「今週のカーボンスマッシュ見た?」
見たよ、と明日香は言うが、
「あ〜今週の見てないや」美咲が眉を少し上げる。「ていうか、先週も見てないや」
「どして?」芽依がびっくりする。「日本のドラマでは今年イチでしょ」
そうかな、と首を傾げる美咲。
「ラケットメーカーの話だよ。見ないのはテニス部としてどうなの?」
「軟式じゃなくて硬式だし。それになんか会社と会社のドロドロした話ばっかで、別にテニスしてないし」
「それが面白いんじゃん」
「駆け引きとかが面白いのはわかるんだけど、ああいうの私にはちょっと合わないかな」
「嘘。どうして?」
「だって主人公たち頑張ってるのに、裏切られたりライバル会社から妨害されたりしてさ、見てて辛くならない?」美咲が左右非対称の眉の渋い顔をする。
「それは最終回でスカッと勝つために必要な溜めじゃん」
「それまで毎回辛くなんなきゃいけないの? ちょっと無理かな」
「あれのよさがわかんないなんて。あとで見といたらよかったって絶対思うよ」
明日香が、そうだ、とふたりの会話に割り込んだ。
「ライバル会社の人、めっちゃいい役してるよね。芸人さんの、えっと……」
「小川でしょ」美咲がすぐに答えた。「めっちゃイライラするよね。小山のコントめちゃくちゃ面白いのに、ちょっと嫌いになっちゃいそう」
「そうなの?」芽依がどこかを見て記憶を探るが、「私、見たことないな」
「最近あんまりやらなくなったからね」
「ちょっとどんな感じかやってあげなよ」と明日香が無茶振りすると、
「できるわけないでしょ」美咲がつっこんだ。
一息ついてから、ちょっとトイレ、と美咲が立ち上がる。あんたたちは、と尋ねられてふたりは首を振った。
ふたりになると芽依が明日香の机に手をついた。
「キャラハン、見た?」期待のこもった声で聞かれて、
「うん、見たよ。今週も面白かった」明日香は唇をカーブさせて笑顔で答える。
「トリックすごかったよね」
「わかる」
「実はめっちゃ単純だったのに全然気づかなかった。引き算のトリックっていうか、あんなのどうやったら思いつくんだろうね」
「うんうん」明日香は深く頷いた。
「でもさ」芽依は腕を組んだ。「今シーズンになってからちょっと話が重くなったよね」
明日香は無言のまま芽依を見上げて先を促す。
「こうさ、ジョークを言い合いながら証拠集めしてさ、軽快に事件解決するのがよかったわけじゃん。あんまり暗い気持ちにならずにミステリーを楽しめるっていうか。なのに、最近は後味が悪いっていうか。明日香もそう思わない?」
「うーん、そうかな?」
明日香は誰もいない教室の後ろを見た。
「絶対そうだって」芽依は楽しそうに続ける。「てかさ、私もキャラハン見てるんだから、明日香もハウスオブザファイア見ようよ」
「あれってめちゃめちゃシーズンない? さすがにいまからじゃ追いつけないよ」
「ひとシーズンのエピソード数はそんなだから、まだ全然いけるよ」
「それに登場人物とか国とかめっちゃ出てくるじゃん」
「私だって全員は覚えてないけど全然問題ないよ」
それから芽依は、ふふ、と笑う。
「ほんと明日香ってキャラ名覚えられないよね。この前、ゴードンのことも思い出せなかったじゃん。なんシーズンも前からいるのに」
「でも言われたらわかるし、ドラマ見てるときは流れでだいたいわかるじゃん」
「そうだけどさ、はまってるドラマなら自然と覚えそうなもんなんだけどね。まあとにかく見てみてよ。絶対面白いから」
わかったわかった、と明日香は苦笑して頷く。
そこで美咲が、トイレまじ暑い、戻ってきた。
椅子に座った彼女に、ねえ美咲、と芽依が話しかけた。
「小山のコントってネットで探したら出てくるかな?」
「出てくるんじゃない?」
「じゃあ見てみよっかな。他にはなんかおすすめの芸人さんいない?」
「どうしたん?」美咲が眉を上げた。「お笑いにあんまり興味なかったじゃん」
「友達と好きなものの話するのって楽しいじゃん。だから」
芽依はそう言って微笑んだ。
へー、と美咲も微笑むと、最近はまってるのはね、と芸人のコンビ名を挙げていく。残りの休み時間、芽依は美咲の話を楽しそうに聞いていた。
四
小単元がひとつ終わった。
先生は腕時計を見て、それに釣られて香澄も黒板の上の時計を見た。チャイムまではまだ十五分ある。先生が理科の教科書を閉じる動作に生徒たちの空気が緩んだ。
「高校受験は大変だと思うよ、ほんと」
先生が授業とは関係ない話をする。
「五教科だもんね。苦手な科目もやらなきゃいけない」
どうやら先生の雑談タイムの始まりのようだ。教室はざわつきだすが、彼も別に生徒を静めさせようとはせず聞きたい人だけ聞けばいいというスタンスのようだった。
「僕の大学の入試はね、数学と物理と英語の三教科でいけたんだ」
先生は黒板に数・物・英と書いた。
一番後ろの席の香澄は隣の真琴に、わざわざ書かなくてもいいのにね、と小声で言って紙を彼女に渡した。ノートを一枚切り離したその紙でふたりは絵しりとりをやっていた。イラストが矢印でつながれていて、クオリティの低い絵と高い絵が交互に並んでいた。
「僕は英語は苦手だったけど数学と物理は得意だったから、大学受験はそんなに苦労しなかったんだよ」
案の定、さっき黒板に書かれた文字はすぐに黒板消しで消された。やっぱり、と香澄と真琴は顔を見合わせた。
「つまり、高校生になったら得意な科目だけやっていてもいいんだよね。そう考えると高校の勉強がちょっと楽しそうに思えるでしょ」
そう言って先生は親指と人差し指で隙間を作った。
「留年するぞって先生は脅してくるけど、真面目に授業受けてれば成績が悪くても落とされることなんてまずないからね」
もちろん難関大学になってくると五教科全部必要になってくるけど、と付け加えた。
それを聞いた男子のひとりが、得意な科目もないんですけど、とおどけて言う。
「好きな科目を探すといいよ」先生は答えた。「嫌いだけど得意な科目ってのはあるけど、その逆は絶対ないからね」
そうやって雑談しながら時間を潰して、先生は五分前に授業を終わらせた。よそはまだ授業してるから静かにね、と終わりの礼をすることなく教室を出ていった。
「数学も遠野先生に教えてもらいたいな」
真琴はそう言って絵しりとりの紙を香澄に渡した。
「わかる。でも、黒板消すの早いのはやめてほしいよね」
答えて、香澄は渡された紙を見る。並んだイラストの最後にはいちごが描いてあった。それは丁寧に描かれていて斜線で陰影までつけられていた。香澄はシャーペンのペン先を空中で数秒さ迷わせたあと、次の絵を描いて真琴に渡す。それを受け取った真琴はあごに手を当てて黙り込んだ。
「香澄、これ何?」
「ゴールデンレトリバー。彩が飼ってるやつ。ごめん、犬種はむずかったよね」
いや〜、と真琴は気まずそうに笑ってシャーペンを走らせた。垂れた耳、つぶらな瞳、凛々しい顔立ち、そして胴体が描かれていく。それを見て、香澄はテストで一問目からわからなかったときのように目を疑った。
「こんな感じだっけ?」
「あ、うん。まあまあうまいね」
強がってみせる香澄に真琴は、ふふ、と笑った。
チャイムが鳴る。生徒たちは自由に動き出して、彩と岡田のふたりが自然と香澄たちの席に集まってきた。
「相変わらず絵、うまいよね。真琴」絵しりとりのイラストを見た彩が言う。「美術系の高校、行けんじゃないの?」
「いや〜、むりむり。私よりうまい人いっぱいいるもん」
真琴が彩を見上げて首を振って、そうなの、と彩が驚いた。
「そう、お化けみたいなのが。私はただ絵描くの好きなだけっていうか」
へ〜、と彩が呟いた。
「あ〜早く高校生になりたいな」
岡田が教室の天井を見上げて急にそう切り出した。
「わかる」香澄が気の抜けた声で相槌を打った。「でも、受験はしたくないよね」
「私が受ける高校、定員割れしてくれないかな」岡田が愚痴る。「割れてるかどうかって入試の前にわかるの?」
たぶん、と真琴。
「そしたら名前さえ書けば受かるね」
他力本願だなぁ、と彩は香澄の机にもたれかかった。
「あと、高校生になったら、なんか新しいことしたいな」
言いながら岡田は真琴の机の上に座った。
なんかって何、と真琴が聞く。
「なんでもいいんだけどね。たとえばバイトとか」
「彼氏作ったりとか?」
真琴が続けると、あ〜、と黄色い声が上がった。
「おしゃれもしたいよね」と香澄。
「髪型とかも遊んでみたいな」彩が自分の髪を触った。
「いまはみんな似たような髪型だもんね」
「だって何が似合うとかわかんないし」
日直で黒板を消していた結菜が、先生めっちゃ筆圧高い、と文句を言いながら彼女たちの輪の中に加わった。
「とにかくいろいろやって、好きなこと見つけたいな」岡田が足をぶらぶらさせる。「うちらってさ、勉強はまあまあだし、部活は楽しいけどそんなに上手じゃないでしょ」
香澄が、おっかーでまあまあならわたしたちどうなんのよ、と茶々を入れると岡田は、原くんくらい賢かったらな、と微笑んだ。
「中学生なんて皆そんなもんじゃないの?」
彩が首を斜めにすると、岡田が、そうなんだけど、と続ける。
「だから何を好きになるかって大きなことだと思うんだよね」
私は、と会話に入るタイミングを伺っていた結菜が小さく手を上げた。
「高校生になったらバイトして、あかねるのライブに行きたい」
「結菜はいいよね。好きなことがもうあって」岡田が、ふふ、と笑った。
もちろん、と結菜はあごをちょっと上げる。
「私からあかねる取ったら何も残らないからね」
五
教室の掃除を終わらせた明日香は階段を上がって三階に向かった。二年生たちが行き来している中、廊下の奥の二年一組の前に女子テニス部が十人くらいが集まっていた。
そのうち二年一組の教室掃除が終わり最後の生徒が教室を出たのを見計らって、明日香たちはいつも着替えに使っているその教室へ入った。自然と三年が窓際に陣取って廊下側は一年になる。授業が終わったからエアコンは切れて、窓とドアは全開になっていた。
しばらく待っていると彩が教室に来て明日香の隣の席に座った。彩は、暑いね、とカーテンを閉めて、ふたりは鞄から弁当箱を取り出す。
「彩、明日香、あんたたちはお弁当?」と美咲の声。
そちらを見ると、美咲と淳子と芽依の三人が財布を持って立っていた。
うん、と明日香が答えるが、
「いいじゃん。ジュースだけでも買いに行こうよ」芽依が言った。
「そうだね」明日香は鞄から財布を取り出して、「彩は?」と聞く。
「あっ、私の分もお願い」彩はしれっと言った。
何で、と彼女は抗議しようとしたけど三人に、明日香早く、と急かされたから諦めた。いってらっしゃい、と彩が意地悪な笑顔で明日香を送り出した。
階段まで来たところで、忘れ物した、と美咲が二の一まで走って戻り、明日香たちが下駄箱についたときに追いついた。
「帽子?」明日香が聞くと、
「まだ日焼け止め塗ってないから」彼女はそれを被って、靴を履き替える。
「めっちゃ気にするじゃん」
「あとで痛くなるのが嫌なの」
明日香は昇降口の二段のステップをジャンプで飛び降りる。授業が午前で終わった解放感に夏の太陽の下でも四人の少女の足取りは軽やかだ。
「制服でコンビニ行けるのってなんでこんなにいいんだろうね」少し前を歩いていた淳子がくるりと振り返った。
「高校行ったら学食だよ」学食、のところを語気を強くして芽依が言う。「学食って響き、すごくいいよね」
「給食はおしまい。毎日自分の食べたい物食べられる」淳子が続く。
「彼氏と一緒に食べたり」美咲が言った。みんなの目線が一瞬、淳子に集まる。
「チャイムなった瞬間、パン買いにダッシュしたりとかもなんか楽しそう」と芽依。
でも、と明日香が挟む。
「公立の学食って案外そんなでもないかもよ」
えー、夢がないな、とみんなが笑いながらブーイングしてくる。それが面白くなって明日香は追い討ちをかける。
「狭くて、テーブルもなんかベタついてたりして」
やめろやめろ、と声が上がった。
校門を出て、明日香の通学路とは違う方向、美咲や芽依の学区の方向へ四人は歩いていった。
コンビニの自動ドアが開いて店内の冷気に包まれたとき、四人が四人とも今まで呼吸を止めていたかのように息を吐いて鼻いっぱいにその冷気を吸い込む。肺胞まで冷たさで満たされると、暑さで萎れていた彼女たちのかしましさが復活する。
「めっちゃ涼しい。もうずっといたいね」と淳子が言うと、
「ダメだよ」美咲が笑いながらつっこむ。「先生に怒られちゃう」
「コンビニを利用するときは十分程度で済ませなさい」芽依が片手をメガホンのように口に当てて太い声を作って言う。
「いまの何? 石川先生?」淳子の問いに、
「うん。絶対マイクは使わない」
生徒指導の先生の集会のときのものまねらしい。
あ〜わかるわ、確かにやってる、と買い物籠を取りながら芽依と淳子が頷く。お弁当のコーナーに行く三人と別れて、明日香は買わないけどお菓子の棚を物色してから店の一番奥の飲み物コーナーに行った。しばらく悩んでから透明な扉を開け一本選ぶ。買い物籠にざるそばを入れた芽依が明日香の隣にやってきた。
「彩は炭酸だったらなんでもいいか」
明日香は値札のところに新発売のシールが貼られている明るいオレンジ色のジュースを手に取ると、芽依は、いやそれは……、と苦笑いした。
「パッションフルーツってどんなの?」明日香が聞く。
「食べたことない」芽依は返した。
芽依が飲み物を選ぶのを待っていると、彼女が指差した。
「あ、缶のコーラだ。缶コーラってなんか、ぽい、よね」
そう言いつつ彼女はそれを籠に入れる。
「あ、ちょっとわかる。確かに、ぽい、ね」明日香の声が一段高くなった。
「シーズンツーだっけ。使われてない地下シェルターからコーラ見つけて飲んでさ、文明の味だ、だっけ」芽依がキメ顔を作って言う。
そうそう、と明日香は芽依を指差す。
「まじかっこいいよね」
「あたしらだったら、うまー、とか、シュワシュワする、とかだよね」
「リックはその後のげっぷまでかっこいいんだから卑怯だよね」
ふたりは会話しながら、お弁当コーナーのふたりのほうへ向かう。その途中でお酒コーナーを通って、その酒瓶が目に入った。
「あとアクションシーンの瓶は絶対割れる」芽依が言うと、あるあると明日香が返す。
今度は明日香が「割れた瓶って絶対鋭いよね」と言って、芽依が、あ〜、といい反応をした。
合流した美咲はパンとパックのジュースを籠に入れていて、淳子はまだ悩んでいた。
やっぱカレー食べたいな、と淳子がつぶやいて、やめなって、と美咲が止める。いや行こう、と彼女はカレーライスのお弁当を手に取ってそのままレジに向かい、温めてください、と店員に元気よく言った。
コンビニを出た四人は折角冷やした体をまた太陽に熱されながら二年一組まで戻った。
「おかえり。もう食べ終わっちゃったよ」彩が弁当箱の風呂敷を畳みながら言った。
女子だけの空間に入った明日香はブラウスやスカートの裾を大きくぱたぱたさせる。教室は暑かったけど部員の何人かがもう着替え始めていたから、ドアや廊下側の窓は閉められて、窓側はカーテンが引かれていた。
ほら買ってきたよ、と明日香はビニール袋を漁る。そして彩にまだジュースの名前を見られないようにきっちり裏返した状態でペットボトルを渡した。
「ありがと。うわ、なにこれ?」
ラベルの表を見た彩の反応がよかったから明日香は吹き出した。
「パッションフルーツ? おいしいの?」
「いや、たぶんまずいんじゃない」明日香は笑いながら答えるけれど、
「まじか。いくらだった?」それ以上文句を言わず、彩は財布から小銭を出した。
彩はプチプチとペットボトルのキャップを開けてそれを飲む。
「あれ? うま」
「ほんとに? どんな感じ?」明日香が意外そうに聞くと、
「甘い」とざっくりした感想。飲んでみ、と彩が明日香にそれを渡す。
「ほんとだ」一口飲んで彼女は目を大きくした。
ボトルを返した明日香は鞄の底から弁当袋を取り出す。袋の中に保冷剤が入っていたけれどもう溶けていて、ぬるくなったそれを彼女は首筋に当てた。
「暑い。窓、ちゃんと開いてる? カーテン開けていい?」明日香がおどけて言う。
あっ、と彩が明日香のカーテンに伸びた手を止める。
「ばかだな。いまから着替えようとしてるのに」
彩の手の動きの速さに明日香はまた笑う。
教室の後ろのほうでは淳子が額に玉の汗を作ってカレーと格闘していた。もう体操服に着替えた岡田が、彩、先行ってラリーしてよ、と声をかける。うんちょっと待って、と彩は大きな声で返した。
六
「おかえり。どんなだった?」
七海が音楽室に帰ってきた香澄に聞いた。
「一学期の成績渡されて、もうちょっと頑張りましょうねって言われて、志望校聞かれて、公立の普通科ですって答えて、それから夏休み頑張りましょうね、で終わり」
三者面談を終えた香澄が答える。
全体練習の途中のようで、部員たちは椅子を並べて集合していて、いまは顧問の代わりに磯部が指揮者の場所にいた。プリント類を鞄に仕舞うと、香澄は音楽室の後ろのほうにあるドラムに向かった。いまどこ、と酒井に楽譜を見せると指を差して教えてくれた。
磯部が、いちにさん、と腕を振って合奏が始まった。
しばらく音を聴いて磯部は演奏を止める。そして、五番からもう一回、と彼女が言った。香澄はまたスティックを構えたが、
「あ、ごめん。パーカッションは……」
語尾を伸ばして、了解、と慣れた調子で香澄は答えた。
金管と木管たちがハーモニーを確かめながら楽譜の五番を演奏する。香澄はそれを聴きながら横を向いて窓から外の風景を見る。
音楽室の窓からは運動場と体育館、そして体育館の奥にテニスコートが半分だけ見えた。コートの上ではラケットを持った人たちが動き回っていて、その様子を香澄はぼんやりと眺めていた。
視界の端で酒井が手招きして彼女を呼んだ。香澄は立ち上がってグロッケンの前にいる酒井のもとへ向かう。暇していた一年の男子もコンガを離れて様子を見に来た。
「先輩、ここのリズム、難しいんですけど」酒井は顔を少し香澄の耳元に寄せて喋る。
それどこ、と香澄は自分の譜面を取ってくる。
「人の楽譜ってなんか全然わかんないんだよね」
「書き込み過ぎなんですよ。落書きされてるいじめられっ子のノートみたいですよ」
確かに、と面白くて香澄の声が大きくなったが、演奏が途切れて静かになったからすぐに抑えた。磯部が修正点をコメントすると、部員たちはまた五番を演奏し始めた。
「ああそこ。難しいよね。そこはね、えっと、すーき焼きすきー焼き、だね」
香澄は手拍子しながら、すき焼きを伸ばす場所やイントネーションを変えつつ連呼した。
酒井と一年が吹き出した。周りが演奏しているから彼女は口を押さえて笑うけど、ツボに入ったようで苦しそうだ。
そこは様々な長さの音符が連続して並んでいる箇所で、確かに四つずつ区切って考えるとわかりやすくなるけど、
「なんですき焼きなんですか?」
笑い顔で目を細めながら酒井が聞いた。
「知らないよ。先輩からそう教わったんだもん。好きだったんじゃない?」
「じゃあ四文字で好きなものならなんでもいいんですか?」
「いいけど、わざわざ変えるんならすき焼き以上においしくないと。そんなのある?」
えっと、と酒井は考えてから苦しまぎれに、
「たい焼き」
「すき焼きに引っ張られてんじゃん。いいからすき焼きのリズムで叩いてみ」
酒井が周りの邪魔にならないよう小さくグロッケンを打鍵すると確かにうまくいった。彼女は、もうすき焼きにしか聞こえない、と笑う。
それからしばらく、音楽室の前のほうは五番を繰り返して、後ろのほうでは香澄の手拍子に合わせて酒井がすき焼きのリズムでマレットを振っていた。
じゃあ休憩、と磯部が言った。
部員たちは椅子から立ち上がって伸びをして、それぞれ休憩に入った。三分くらい経ってみんながお茶を飲んだりしているときに、三年ちょっと、と部長が発した。
「八月の発表会の曲決めしよう。楽譜のあるなしは置いといて、とりあえず好きな曲、出してみて」
「じゃあ、あかねるの……」
結菜が勢いよく手を上げるが、
「あかねるは春にやったじゃん」
「別に何回やってもいいじゃん」彼女は唇をすぼめた。
三年生は黒板の周りに集まって、弧山弦貴の、とか、ランプの、とか曲名を挙げていく。磯部はそれらをチョークで書いていった。ジュリアン、と七海が言うと周囲から笑いが上がった。最近やらかしたところでしょ、そういう面白さはいらないから、と磯部。
「香澄はなんかない?」
遠巻きにその様子を見ていた彼女はしばらく考えてから答えた。
「ジャックニックってバンド、知ってる? 最近熱いんだけど」
三年たちは微妙な反応だ。
「私、知らないんだけど」磯部が首を斜めにした。私も、と他の何人かの三年も言った。
「いま車のCMで使われてたりするんだけど、知らない?」と結菜。
「今度貸したげようか?」香澄が笑顔で言う。
「どんな感じ?」と磯部。
「もっさんが好きそうな感じかな?」
あ〜わかる、と結菜が言うと杉本は、何よそれ、と食ってかかった。
「いやまあ、実際好きだけどさ」彼女は髪の毛を触って言う。「でもなんか、好きなもの当てられるのって恥ずくない?」
ちょっとわかる、と磯部。
「そう?」結菜が首を斜めにする。「私はみんなに知ってもらいたいし、なんなら言いふらしたいくらいだけど」
「私、昨日聴いてみたけどさ」七海が話を戻す。「いい曲だけど、吹奏楽向きかな?」
ん〜、と磯部が眉を寄せて難しい顔をした。
「小林先生、よく言ってるけど、聴く人の気持ちにならなきゃだめだよ」
そうだよね、と香澄は頭を掻いた。
「じゃあみんなが知ってる曲のほうがいいのかな?」結菜が首を傾ける。「知らない曲、聞かされてもね」
「最近の曲でみんなが知ってるのって言ったら」七海が黒板を見ながら言った。「弧山とか蒼くんとかランプとかかな?」
朝ドラのやつはどう、と磯部が提案するけど香澄が、毎日聞いてるから飽きちゃうんだよね、と返す。なるほど、と磯部は納得した。
「じゃあ弧山じゃない?」と杉本。
「でも絶対よそと被るよ」結菜が腕を組んだ。
「いや?」
「できれば被りたくないじゃん。それに聴く人の気持ちになれっていうんなら、おんなじ曲、何回も聴きたくないでしょ」
何か閃いた香澄は下手な指パッチンをして、拡大解釈、と言うと、何それ、と隣の七海にだけちょっと受けた。
ランプの映画のやつはどう、と誰かが言うけど、私見てないんだよね、というあまり乗り気じゃない声。またある曲名が挙がるが、
「あの曲、難しそうだよね」と磯部。「もし次の地区大会で金賞取って県大会に行けたら八月の初めでしょ。そこから練習しなきゃいけないじゃん」
「ぶっちゃけ無理でしょ」結菜が言い放った。「ダメ金でも奇跡だよ」
「早いよ」磯部が困ったように笑った。「目指すつもりでやんなきゃ」
「でも東中、超えれる?」
「向こうはAで、うちらはBだから大丈夫だよ」
「地区大会終わってから決めたら?」七海が言った。
「先生的に無理なんだよ。楽譜買うかよそから借りるかして、そっから編成とか尺とか調整しなきゃいけないから」
「そもそも新曲やらなきゃいけないの?」と結菜。「一ヶ月で間に合う?」
え〜やろうよ、と七海。最後の大会だよ、と杉本も言った。
それからまた数分話し合ったが、みんなが腕を組んで議論が煮詰まった。
「いそっち、バシッと決めちゃってよ」結菜が言ったけど、
「三年みんなで決めようって言ったじゃん」彼女は首を振る。
それから、部活終わったあとちょっと残って考えよっか、と先送りになった。三年たちが腕組みを解いたところで、七海がにやけながら期待のこもった目で香澄を見た。
「香澄、バードマンってどんな曲だっけ?」
えっとね、と香澄は少し笑ってから歌い出した。
Aメロの歌詞を過度に抑揚をつけて歌い、間奏部分で、
「ここでこう」手を広げて回る。PVのものまねだ。
やばい何回見ても面白い、と三年の輪のなかで笑いが起こった。香澄自身も笑ってしまい歌うのが止まってしまう。
「香澄ってほんとさ」結菜が笑いながら言う。「部活のときとクラスのときとキャラ違うよね」
そうなの、と七海が笑顔で聞く。
「そうだよ。クラスじゃあんまりボケたりしないもん」
へ〜、と杉本が物珍しそうに微笑んで、そうかな、と香澄は首を傾げた。
ねえサビもやってよ、と七海に促され、香澄は笑顔を作り直してまた歌い出す。Bメロの終わりから歌って、サビ前の転調で音を外すことなくサビに突入した。
そのとき音楽室のドアが開かれて顧問の小林先生が入ってきた。
「音楽の歌のテストでもそれくらい声出して歌ってほしかったな」
香澄は飛び跳ねて歌うのをやめた。
「いや先生」磯部が笑顔で言う。「クラスの男子の前で歌うのは恥ずいですよ。面談は大丈夫なんですか?」
「ええ。一時間くらい空いてるから練習見に来たの」
どこまでやったの、と彼女が磯部に聞いて、磯部は楽譜を示して答える。じゃあ続きからいきましょう、と先生が言うと部員たちは自分の席に戻って楽器を持った。
七
オレンジ色の太陽がテニスコートに長い人影を四つ作る。
夕方でも日差しは強く、影がくっきり出ていた。いま太陽の角度はおよそ三十度。身長がわかれば三平方の定理から影の長さが求められそうだ。
明日香は前傾姿勢になって、相手のセカンドサーブを待つ。ふわりと飛んできたそれを彼女はコンパクトにレシーブした。
相手の後衛も打ち返してきて、明日香とのラリーになる。
明日香は大きくテイクバックしてストロークを打つ。インパクトのあとしっかりラケットを振り抜いてボールにトップスピンをかける。
ボールのポーンという音と、打つときの、はい、というかけ声がコートを行き来する。
明日香がストロークを打った瞬間、相手の前衛である芽依がボールの軌道の先に飛び出してきた。彼女は腕を伸ばして、ラケットの先端でボールを捕らえてボレーする。
明日香はすぐネットに向かってダッシュしたが間に合わず、それはツーバウンドした。
それが最後の一点。コートでプレイしていた四人はネットに集まり、ありがとうございました、と礼をする。しかし、身内同士だから礼というより帽子を脱いで被り直しただけだった。
ナイスボレー、と明日香が言うと芽依が、ほんとギリギリだった、と苦笑いする。じゃあ次の人たち呼んでくるね、と芽依のペアはコートを出ていった。
「二ゲーム目でさ、こっち移動したのまずかったかな?」清水はラケットで地面を指す。「コース空いちゃったよね」
「いや、あれはよかったよ。あたしがスイッチするの遅れちゃったんだよね」
短い反省会をしてから清水が、どっちがいい、と聞いてくる。明日香が、じゃあ主審、と答えると彼女は審判台に登り、清水は副審のポジションについた。負けたペアが次の審判だ。しばらく待つと二年たちがコートに入って試合が始めた。
他の試合をしていない部員たちはテニスコートを囲う防球フェンスの外、運動場の端っこのスペースに簡易ネットを並べた仮コートを作って練習していた。時折、野球部のノックが守備をすり抜けて仮コートまで転がってきて、女子テニス部員が素人丸出しの女の子投げでボールを野球部員に返している。
明日香たちが審判をしていた試合が終わると、校舎の時計を見た美咲が、片付け、と号令をかけた。仮コートを片付ける人、コートブラシでコートを均す人、ネットを緩める人と自然とうまく分担して、残りの部員はボールが落ちてないかコートの周りを見て回る。
明日香はボールを見つけると、ラケットの先のほうでそれを叩いて弾ませる。面の上でキャッチするとポケットに入れていく。ひと通り見終わった頃、明日香のそばに芽依がやってきて喋りかけてきた。
「明日香さ、この前のデッドワールドの最後のほうで新しい悪役出てきたでしょ」
「え、ちょっと待って、思い出すから」
えっと、と明日香は歩きながら遠くを見る。
「嘘、そんなに時間かかる?」
「全然ドラマのモードになってなかったからさ。あ、思い出した。うん。最後に意味深に出てきたね」
「そいつが持ってたお守りがシーズンスリーの悪役が持ってたのと同じだって話題になっててさ」
「そうなの? どんな人かあんまり覚えてないや。ハゲてたのしか覚えてない」
「そこだけは覚えてるんだね」芽依がくすりと笑う。「そのシーズンスリーの人、確か兄弟がいるみたいなこと言ってたから、前回のあいつがたぶんその兄弟だよ」
「へ〜、よくそんな台詞、覚えてたね」
でしょ、と芽依が得意げに微笑んだ。
「それで、そいつ、サムに殺されてるんだよね。で、兄弟が復讐に来た。ってなると今シーズンは罪と罰、的な話になるんじゃないかなって私、予想してるんだ」
明日香は腕を組んでしばらくすると、なるほどね、と深く頷いた。
「言われてみると、確かに」それから首を回すと、「あたし、テーマとかそういうの、あんまり考えたことないや」
「私もそうだったんだけど、もっと楽しもうと思ったらやっぱり必要かなって」
「でも、スタッフの人たちってそういうの考えてるのかな?」
「まあ直接聞いてみない限りわかんないけどさ、でもどうせわかんないんなら色々考えて楽しんだほうがよくない? 好きなんだから、ちょっとでも多く楽しみたいじゃん」
確かに、と明日香はまた頷いた。
喋りに夢中になってふたりの足は止まっていた。他の部員たちもコートの周りで喋っている。灼熱の太陽の下での半日練習のあとでも、残りは帰るだけになったこの時間はみんな元気になる。いつの間にか顧問の菊池が体育館の庇のところにいた。
「シーズンスリーってさ」明日香が芽依に聞く。「めちゃめちゃ人、死んだシーズンじゃなかった?」
「うん。だから、今シーズンもそうなるかもしれないよね」
「めっちゃ驚いたの覚えてるわ。このドラマ、長い人でも平気で殺しちゃうから」
「わかる。デイブのときはびっくりしたよね。あ〜今日の夜が待ち遠しい」
ふたりは体育館のほうへ歩き出した。美咲が体育館を囲うコンクリートの二段のステップに腰かけてボールを数えていて、他の3年たちも集まっていた。美咲はふたつの籠の片方を空にしてボールを移しつつ個数を数えていく。
「十、十一、十二……」
十二個目のボールを美咲は首を傾げてむにむにと握る。空気入れでボールのへそから空気を入れて、耳元でもう一回握る。これはだめ、とそれを籠の外に除けてボールのカウントを続ける。
「明日香もスマホ買ってもらいなよ」芽依が言う。「いろんな人の感想見てるとなるほどなって思うし、一緒に盛り上がれるのもいいし。それに自分の感想に反応があったときは面白いし」
「いやあ、無理だって」明日香は左手を顔の前で振る。「何回も言ってんだけどね」
「これから塾、行き出すのに」隣にいた岡田が会話に入ってきた。「不便じゃない?」
「それいいね」明日香はにやりと笑う。「その方向で攻めてみるか」
「でも」と淳子。「私が親だったらまだ早いって言うだろうな」
ちょっとわかる、と彩が頷いた。
「五十八と死んだ一個。オッケー、全部ある」
美咲はコートのそばの部のロッカーにボールを仕舞うと菊池先生の前に行き、集合、と号令をかけた。集まった部員たちは前から三年二年一年の順で並ぶ。右に詰めたり左に詰めたり位置調整のためのざわめきが収まってから、美咲のお願いしますの声。それから一拍置いて全員がお願いしますとお辞儀した。
「今日は終わり。お疲れ様」
特に連絡事項はないようで、菊池はすぐにそう言った。ありがとうございました、と部活は終了した。
体育館の庇の下で、疲れたね、とお茶を飲んだりタオルや汗拭きシートで体を拭いたり、おのおの一服してから部員たちは帰っていく。
帰ろ帰ろ、と三年生たちも帰り支度を済ませて立ち上がった。体育館のそばを通って、教職員用の駐車場を十人の集団がお喋りしながら歩いていく。みんなが同じ話題で会話していたと思ったら、知らぬ間に前のほうと後ろのほうで違う話題になっていたりする。先頭を歩いていた子が隣の子と喋っていたと思ったら、後方の子たちの会話に急に加わったりする。内容や相手が忙しく変わっていきながら彼女たちの会話は続いていく。
「ねえ、高校どこにするとかもう決めた?」岡田が誰とはなく聞いた。
全然、という声があがる。
制服かわいいとこがいい、と誰かの声。
じゃあ私は校舎が綺麗なとこ、と他の子。
「私は今泉にしようかなって思ってる」芽依がそう言った。
「なんでさ?」隣にいた淳子が聞く。
「近いから」
「そんなんでいいの?」
「ってのは冗談で」芽依は笑って続ける。「今泉って英語に力入れてるらしいじゃん。私、ドラマを字幕なしで見れるようになりたいからさ。ていうよりか、そのためなら勉強頑張れるかなって」
「意外とまじめな答え」
でも近いのも重要だよね、と誰か。
近すぎても嫌じゃない。寄り道できないじゃん。
わかる、と同意の声。
テニス、続けるの。
私は続けようかな。
軟式か硬式、どっち。
んー硬式かな。
そんな会話をしながら校門を出ると、お疲れ、とグループはふたつに分かれた。
八
「全然決まんなかったね」結菜が首を回した。
そうだね、七海が緩んだ返事をする。
会話少なに香澄と結菜と七海の三人は家路を歩いていた。気分屋のセミが一匹、鳴き始めたかと思ったら、ワンセット歌いきることなく鳴くのをやめた。
「決まっても、そもそも楽譜ないかも知れないし」
「まずは先生に聞いてみないとね」と香澄。
部活が終わって三年だけ少し居残ったから、今日は後ろに二年たちはいなかった。
「そういえば」結菜が上を向く。「小林先生っていくつくらいなんだろう?」
うーん、と香澄と七海は首を傾げた。
「あんま考えたことないな。三十はいってるよね。四十超えてる?」
「七海、聞いてみてよ」香澄が隣に言った。
「なんで私なん?」
「ズバッと言うの得意じゃん」
「私だってちゃんと言うべきか考えてるよ」七海はにやりと笑って結菜を見る。「どっかの北村さんとは違ってさ」
「ちょっと」結菜は抗議しながら笑う。「私は言いたいことを言わないと気が済まないタイプなの。ほら、思ったこと言わずにもやもやしてるのってお互いによくないでしょ」
ふーん、と七海が気の抜けた相槌を打った。それから、
「てか年齢とかそういうのって聞いていいの? なんかマナー的に」
「わかんない」と香澄。「他の先生も何才くらいとかわかんないよね」
「わかる」結菜が言った。語調から、同意の意味のわかるのようだ。「若いか若くないかしかわからないよね」
「身近なのになんか不思議だよね」
そこで会話は途切れて交差点に着くと、バイバイ、と香澄はふたりと別れた。
夏の西日が丁度視界に入る高さで、香澄は目を細くして俯き加減で歩く。太陽を少し見ただけで視界に黒くて丸い影がしばらく残った。道がカーブして太陽が住宅の後ろに隠れ、眉間の力がすっと抜ける。歌っている鼻歌はさっきまで練習していたコンクールの曲だ。
百円と大きく書かれた自動販売機がそこにあった。彼女は学生鞄の肩紐を右肩だけ外し鞄を前に持ってきて、財布を取り出す。
気まぐれにコイントスすると家々の間から射し込む光に目が眩み、鼻歌が途中で中断された。キャッチしようとした手のひらに一度当たり、その小銭は地面でいい音を鳴らす。道路の脇に跳ねていく百円を、三回音が鳴ったところでカスミのスニーカーが止めた。
「危な」もう百円玉は完全に止まったのに、念のために足の位置は動かさずにかがんで彼女はそれを拾った。
数歩歩いて自販機にそのコインを入れる。買うジュースは決まっていたのでボタンが点灯する前から指の位置はそこにあった。
ボトルを取り出してキャップを捻ると、ぷしゅ、という音とフタを握っていた手に心地いい気流を感じた。その炭酸飲料を口を離さずごくりごくりと飲む。鮮明な味と小さな刺激を舌に感じた。
胃袋から昇ってくるものを感じた時、「おーい、買い食い禁止だぞ」と声がして、喉の奥に変なタイミングで力が入り、彼女は胸のあたりを数回叩いた。でも、聞き慣れた声だったから驚きはしなかった。
「あと十分が待てんのか」
「うがいしようとしただけ。話しかけられたからつい飲んじゃったけど、うがいしようとしただけだからセーフ」
香澄は振り返って明日香と彩に言った。
「ださいね」明日香がニヤニヤしながら彩のほうを見る。
「ださい言い訳だし、しかも」彩もニヤニヤしながら続ける。「お金落としたところもださかった」
香澄は目を大きくしてから、まじかぁ、と頰を片側だけ歪ませて笑う。
明日香が無言で右手を出した。彼女の目線と大きく開いたその手のひらから察した香澄は、だめ、と首を振る。
あっそう、と明日香は諦めて歩きだす。それをきっかけにふたりも歩きだした。
「ねえ、香澄さん」明日香は隣の香澄に話しかける。ん、と応じた彼女に明日香は「頂戴、ちょうだい、くれくれ」と続けた。
「わかった。あげるよ」
折れた香澄がペットボトルを差し出すと、明日香はそれを一口飲んだ。
あれ、と静かに状況を見ていた彩が口を開けると、早口で言う。
「ラベル変わった? 変わったよね。ちょっとよく見せてもらっていい?」
その勢いで明日香の手からボトルを引ったくると、彩は目の前までそれを持ち上げた。仕方ないな、と香澄は苦笑いしながら百円分の液体の行方を眺めていた。
この色合いかわいいよね、などとわざとらしく言ってから彩は高速でキャップを開けるとそれに口をつけた。彼女の喉が大きく動く。
「あ、お前。二回いったな」
香澄は明日香越しに大きく腕を伸ばして、彩からペットボトルを取り返した。
「こういうのはだいたい一回って決まってるじゃん。もうちょっとしか残ってないじゃん」底から三センチくらいしかなくなったそれを彼女は覗き見る。
「まあまあだったね」悪びれた様子のない彩はそう頷く。
「わかる。まあまあだね」明日香もそれに続いた。
九
リビングの座卓に肘をついて、遥と明日香はドラマをのんびり見ていた。今日のドラマは日本のものだった。座卓の上にはジュースのコップとパーティ開けしたポテトチップスがあった。
この頃の山本ってめっちゃかっこいいよね、と遥。でもいまのほうが演技うまいよね、と明日香が答える。うわ懐かしいスマホ使ってる、中学のとき友達が持ってた、と遥が画面を指差した。
そのうちエンディング曲が流れて、停止ボタンを押した遥は、ちょっと休憩、と立ち上がってジュースのお代わりに向かう。
「ねえ、お母さん、スマホ買ってよ」明日香が後ろを向いてテーブルの母に言った。
「受験終わったらね」母ではなく、遥が答えた。
「待てないよ」明日香は狙いを姉に変える。「ほら、塾行きだしたら帰るの遅くなるじゃん。危なくない?」
「チャリで十分くらいでしょ」コップを持って姉が戻ってきた。
「十分でも何かあるかも」
「ここはデッドワールドじゃねぇ」遥が、ふ、と鼻で笑う。「それに香澄ちゃんと彩ちゃんがいっしょだから大丈夫でしょ」
「じゃあふたりにはどうやって連絡すればいいのよ?」
「母さんのスマホで電話すればいいでしょ」
「買ってくれたら勉強のモチベーション上がるかも」
「下がるでしょ。私がそうだったもん」
う、と明日香が漏らす。
「いまじゃないよね。もし買うなら今年の春だったかな」遥がいじわるな声を出した。
「じゃあ春に言ってよ」
明日香はポテチを二枚いっぺんに食らう。
「そんないいもんじゃないよ。誰かが写真とか送ってくるたびに反応しないといけないんだよ。面倒くさいよ」
「そんなの無視するし」
「友達にねえねえって話しかけられて無視できる?」
明日香は無言で唇を結んだ。
「まあ、うちらの代の女バスにはそんなのないけど」
「なんで?」
「私が駆逐したから」
姉が平然と答え、明日香が笑った。
「どうやって?」
遥は笑顔になると喋り始めた。
「友達と、ぶっちゃけああいうのめんどうだよね、って話になって、じゃあ無くしてやろうってさ。あと何人かを仲間につけて、みんなに、送ってくるのは勝手だけど興味なかったら返信しないよ、って言ってやったわけ」
明日香が楽しそうに、へー、と言った。
「まあ、ちょっとした寂しさはあるけど、逆に反応あったってことは本当にそう思ってるってことだから、それはいいよね」
そこで遥が、ふふ、と笑う。
「あとね、部活のグループで、いまの流れで無視はないでしょってタイミングでみんなが急に反応しなくなるのとか、なんか妙な一体感があって面白かったな」
「うまくいったんだ」
「でも仲がよかったからできたわけであって、クラスの子とかにはできないね」
ポテトチップスが全部なくなって、ふたりはティッシュで指を拭いた。テレビはさっきの画面のまま停止している。
「遥姉、高校ってどうやって決めた?」
明日香はちょっとだけ真面目な声で言う。
「うーん、偏差値でちょうどよかったとこ受けただけだけど」
「じゃあ、モチベーションはなんだった?」
「覚えてないな。別になんでもいいんじゃない?」姉は小首を傾げた。
「なんとなく負けたくない子がいるんだけど、そんなんでもいいの?」
「立派なほうじゃないの。香澄ちゃん?」
「違う。彩でもないよ」
ふうん、と姉はジュースを飲んだ。
「中学のときって何してたっけな?」
目線を上にやっていた遥が何か思い出したのか、くすりと笑った。
「詩、書いたりとかしなかった?」
遥がにやりと聞いてきて、明日香は、しないよ、と上擦った声で返した。
「授業中、なぜか知らないけどいい詩書けそうな気がしたこととかない?」
「……気ならあるけど」
へー、と遥が微笑む。
「じゃあさ、自分のこと俺って呼んだりしなかった?」
「してない。したの?」
「したよ」遥はなぜか自信ありげに頷いた。
「ものまねとかネタじゃなく?」
「うん。普通の会話で」
「ちなみにそれはいつ頃?」
「中二かな。部活のメンバーではやってね、ほんと、部活内だけにしといてよかったよ」
もうちょっと詳しく、と妹に催促されて姉が話す。
「先輩が引退したタイミングで調子乗ってたんだよね、きっと。それで、俺って言い始めたらなんか部活内で意外とはやっちゃって。そのうち俺派と僕派に分かれてさ。俺はちょっとかっこつけすぎだ、とか、男子でも僕はあんまり使わないのにやりすぎだ、とか。いま思うとやりすぎって何がやりすぎなんだろ。ただ、ま、ブームはすぐに去り」
他人の話なのに、明日香はくすぐったそうに笑っている。
遥は頬杖して面白そうに続ける。
「中学生ってさ、まあ高校生もだけど、楽しさが先に行っちゃって加減がわかんなくなるんだよね。それで寝る前とかに不意に思い出したりして、恥ずかしくて枕殴りたくなったり、ほんとに落ち込んだりしちゃうんだよね」
「うわ、なんかリアルだな」
「あとは、友達に対してどこまで踏み込むかとかさ、わかんないの。でも、どうせわかんないんならやらかすくらいのほうがきっといいんだよね」
え〜、と明日香が嫌な顔をする。
「ちょっとくらい傷があったほうがいいんだって。ほら、デッドワールドのサムみたいに」
「メンタルの傷は関係ないじゃん」
「それに、こうやって笑い話にもなるしさ。まあ私くらいのレベルなると、あとで笑い話にするために恥ずかしいことをするまであるよね」
「それはやば過ぎだよ」
明日香は、ふふ、と笑った。
遥は微笑むと、よし、と伸びをしてリモコンを持った。
「あと二話、一気に見ちゃうか」
九時過ぎ。明日香は時計を見て一瞬考えると、あたしも見る、とジュースの追加にキッチンに向かった。
十
「姉ちゃん、起きてる?」
急に右耳のイヤホンを取られて香澄は目を開けた。
「ん……ちょっと落ちてた」香澄は体を起こした。
音でか、と弟は少し眉をひそめてからイヤホンを姉に返す。
「ゲームしたいんだけど」
テレビの前のソファという一等地を占領していた香澄は、オッケー、と端に寄った。その間も片耳で音楽は聴き続けていた。眠い目で辺りを見回すと、父はコーヒーを飲みながらパソコンをしていて、母はテーブルで本を読んでいた。
少し寝冷えしたのか、さむっ、と香澄は腕をさすった。
匠はテレビとゲーム機の電源を入れて、コントローラーを持って香澄の隣に座った。
「車とかで音楽ガンガン鳴らしてる人って、音楽の良し悪しとかわかってるのかな」
ゲーム機が立ち上がるのを待ちながら匠はそんなことを言った。ちょっとの間があってから、香澄は弟のことを睨んだ。
「なんかすごく嫌味なこと言ったくない?」
「言った?」匠がにやりと彼女を見た。
「友達でさ、けっこうズバズバ言ってくる子がいるんだけど、意外とあんたもそっちタイプだよね」
香澄は眉間にしわ寄せ、口をへの字にしてちょっと黙る。それから、
「ぐう」
「何?」
「ぐうの音は出た」
香澄はスマートフォンの側面のボタンで音量を下げた。
匠が始めたのは格闘ゲームで、彼はトレーニングモードでコンボの練習を始めた。その様子を香澄は音楽を聴きながらしばらくぼーっと見ていたが、そういえば、とイヤホンを外して弟に喋りかけた。
「昨日、デネブの新巻売ってるの見かけたけど、もう買った?」
まだ、と匠はテレビから目を逸らさず返事した。それは星座をモチーフにした少年漫画の話だった。
「今度行ったとき買ってきてあげよか?」
「いや、いいよ」
「今月お金ピンチ?」
「完結してからまとめて読もうかなって」
「へー。面白かったのに」
「姉ちゃんが買いなよ」
「人のお金で読むのがいいのに」
なんだよそれ、と匠は少し笑った。
匠の操作するキャラクターがさっきから同じコンボを繰り返している。キャラクターのボイスと攻撃がヒットしたときの効果音が小気味よく同じリズムで繰り返されて、それに合わせて香澄の人差し指が小さく動いていた。
「片翼編の最後のほうでさ」匠が漫画の話題の続きをする。「デネブが敵殺しちゃったじゃん。それで、いままではどんな敵も殺したりしなかったのにな、って思ったんだよね」
「でもそれってあれでしょ、相手が攻撃してきてそれを防ごうとしたら倒しちゃったんじゃなかった? 相手の自業自得でしょ」
香澄はソファの上で三角座りになって、膝の上にあごを乗せた。
「そうなんだけどさ。その辺からなんか面白くなくなった感じしない?」
「そうかな? 普通に面白かったけど」
違うコンボになって音のリズムが変わる。
「表紙開いたとこにさ、毎回作者が一言書いてるじゃん。えっと、なんて言ったっけ、あのカバーの部分」
匠の片手が記憶を引っ張り出そうとぐるぐる動いた。
「あ、わたしわかるよ。えっと……そで、だっけ」
「だっけって言われても」
「本好きの後輩がさ……。まあいいや」香澄は脱線しそうになったのに気づく。
「それで、何巻か前のそのそでの所にさ、担当の編集が変わりましたって書いてあって」
匠は途切れ途切れに言葉を発した。
「関係ないとはわかってるんだけど、なんかあったのかなとか深読みしちゃってさ」
「なにそれ。めんどいなあ」
香澄は彼の横顔を見ながら、ふふ、と笑った。
「わかってるよ。でも好きな漫画だったからさ、もやもやしながら読むの嫌だし」
よし、と匠は一度背筋を伸ばすと、トレーニングモードをやめてオンライン対戦を始めた。
香澄はまたイヤホンを耳に刺して、動画サイトでドラムを演奏している人の動画を見る。三角座りの膝の上にスマホを置いて、香澄は両腕を小さく動かす。
五つ目の動画は香澄と同い年くらいの子がドラムを叩いていた。
動画の題名には中学生ドラマーとあって、その子はテンポの速い曲なのにミスすることなく、そのスティックは縦横無尽にドラムを叩いていた。
すごいなぁ、とその動画を見終わった香澄が零した。
しばらくして、よっしゃ、とイヤホン越しでも聞こえる声。隣を見ると匠がガッツポーズをしていた。
「やっとゴールドランクになれた」
「やったじゃん。ゴールドって一番上?」イヤホンを外して香澄は聞いた。
「いや、まだ真ん中らへん」
「金より上があんの? 変なの」香澄が小さく笑う。「じゃあゴールドってどれくらいすごいの? 自慢できるくらい?」
「どうかな。このゲームが好きでやり込んでたらゴールドまではいけるんじゃないかな。ここから先に行くにはもっと知識とかつけなきゃ」
「なんか冷めてんね」
「いやいや。いまめっちゃ嬉しいから」
匠はコントローラーを置いて気持ち良さそうに大きく伸びをした。
それから、リプレイ見よっと、と彼はコントローラーを操作した。過去の自分の動きが再生されて、おお、とか、うーん、とかいろんな声が弟の口から漏れる。
「姉ちゃん、ここ見て」匠はリプレイを一時停止した。
「何?」
「ここで相手、絶対ジャンプしてくると思ったの。だから……」
「あ、アッパーした」
「でしょ。完全に読み通り」
「なんか意地悪なことするね」
「いやいや。あの対空するために、相手がどんなときにジャンプするか観察したり、ジャンプしたくなるように誘導したりしたんだから、意地悪というよりむしろ好きだよね」
「何言ってんの?」
嬉しくて少しおかしくなった弟の言動に香澄は笑う。
「あと、いままでは自分のキャラ動かすのに必死だったけど、最近は相手のキャラに合わせてこっちの立ち回り変えられるようになってきたし」
「キャラねぇ」
ふうん、と香澄は鼻から息を出した。
リプレイでは匠のキャラクターが相手を体力が残りわずかというところまで追い込んでいたが、僅かな隙に相手の反撃が始まって、あれよあれよという間に匠のほうの体力がなくなった。
えーあそこから負けんの、と香澄が茶化すと、あれは相手がうまかった、俺は悪くない、と匠は深く頷いた。
「しゃーない。お姉ちゃんが相手してやろう」
香澄が膝を打って急に切り出した。
「いいけど、手加減できないよ」
匠はにやりと応じて、コントローラーをもう一個用意する。香澄が、ボタン教えて、と言うと弟は教えてくれる。オッケー思い出した、と香澄はコントローラーを握った。
手加減できないとは言ったものの、匠が選んだのは普段使っているキャラクターとは違うキャラクターだった。
ファイト、と試合が始まる。
初心者の予測できない動きが匠を翻弄して、意外とお互いが一ラウンドずつ取り合う接戦になる。そして、最終ラウンドは香澄のキックのワンパターン攻撃が匠の体力を削り切った。
「勝ったー」
「まじか」匠は首を捻った。「あのキック、なんフレームだったっけ?」
「頭使いすぎなんだよ。わたしみたいに本能で戦ってみな」香澄が両手を広げた。
「うざ。もっかい」
「いいよ」
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