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イシガメ

夏休みまであと八日


「夏休みまであと何日だっけ?」

「来週の今日が終業式だから、あと八日かな」

「もうそんなか」ラケットケースを肩に斜めがけした少女が嬉しそうに顔を上げるけど、眩しい空に目をきゅっと細めてまたすぐ俯き加減になった。

 半袖ブラウスと紺のスカートの制服を着たふたりの少女が住宅地の道を歩いていた。朝から太陽は高い位置にあって、家々が道に落とす影は狭い。だから、彼女たちは自然と影の多い道路の右側を選んでしまう。

 夏は海、とひとりがぼそっと言うと、ふふ、ともうひとりが軽く笑って、春はあけぼのっぽく言うなよ、とつっこんだ。

 日差しは朝でも強いけどアスファルトはまだ十分熱されておらず、影を歩いていればなんとか汗はかかずにいれた。セミが一匹どこかで鳴いていてその鳴き声ワンセット分の間があってから、ラケットケースの彼女が不意に隣を歩く友人を見る。

「香澄、来週の今日って何?」

「え、言わない?」

「言わなくない?」

「でもさ、来週のこの時間は、って言うでしょ」

「普通に一週間後でいいじゃん」

 まあそうだけどさ、と香澄は語尾を伸ばして返事をした。

 道路の右側の建物が途切れて影の安全地帯がなくなると、彼女たちは髪の毛に熱を感じて眉間をちょっと寄せた。

「てか、明日香も言ってなかった? 小学生のとき」

「あたしが? またまた」彼女が手のひらを振るが、

「言ってたって」香澄は面白そうな声で言った。

 緩やかにカーブした道の先、交差点のカーブミラーのところに彼女たちと同じ夏服の少女が立っているのが見えた。その少女はこちらに気づくと微笑んでみせて、ふたりが近づいてくるのを待った。彼女も明日香と同じラケットケースを肩にかけている。

「おはよー」

 その子が明るい声で言ってきて、明日香と香澄もおはようを返した。

 彼女は学生鞄を背負い直すために小さく跳ねた。それは校章の入ったリュックタイプの鞄で、彼女の鞄のファスナーには小さなぬいぐるみやキーホルダーぶら下がっている。それらが彼女の動きに合わせて揺れた。

「あ、彩、それ」香澄がそのうちのひとつを指す。

「そうなの」彩が嬉しそうににっこりと笑った。

「いまCMでやってるやつでしょ。セットをお買い上げでって」

「そうそう。めちゃかわいくない?」

 幅が車一台分ちょっとであまり車通りのないその道路を三人は横に並んで歩き始める。前方に歩幅の小さな小学生がいて、香澄は振り向いて車が来ないことをチェックすると、三人はそのランドセルを追い抜いた。

「それ、前から持ってたっけ?」明日香が聞く。

「昨日お母さんがお昼に買ってきてくれたんだ」

「え、じゃあ、昨日お昼にドーナツ食べてたの?」明日香は片眉をぴくりをさせた。

「まあ、そうだね」彩は目線をどこかへ逸らした。

「めっちゃ元気じゃん。サボり?」

「違う違う」

「もう大丈夫なん?」と香澄。

「ばっちり。日曜、部活やってるときは元気だったんだけど、帰ってから急にしんどくなっちゃって。クーラー効いた部屋で昼寝しちゃったのがよくなかったかな」

「自爆じゃん」明日香が眉を上げて笑う。

「でも昨日、ぐっすり寝たらけろっと治っちゃった」

 けろっと、とその擬音が面白かったのか香澄がぼそっと繰り返した。

「じゃあ、昼から学校来られたじゃん」

「でもでも夕方またちょっとしんどくなったし、うん」彩が唇を結んで一度頷く。「あの体調であの暑いなか学校行ってたら、たぶん通学路の途中で戻しちゃってたよね」

 香澄は、ぷ、と吹き出すとけらけら笑い出す。明日香は笑いそうになるのを堪えて、

「口からカスタード出ちゃってた」と聞く。

「そうだね。カスタードとチョコレートが」

 明日香はついに吹き出して、チョコまで出ちゃうなら仕方ないね、と笑う。香澄は、きたない、と揺れる声で言って、爆笑しながら歩くせいで三人の足取りは乱れていた。

 彼女たちの歩く道の先に小学校へとつながる道があって、その丁字路に登校を見守るボランティアの老人が蛍光色のベストを着て立っていた。小学生に、おはようおはよう、と声をかけているその老人にまだ笑いの最中の彼女たちも、おはようございまーす、と挨拶して丁字路をまっすぐ行く。

 やっと笑いが治って、誰かが楽しげなため息をついた。いつの間にか鳴いているセミの数が増えて、住宅の壁に鳴き声が反響する。それに負けたかのようにしばらく三人はあまり喋らずに歩いた。それから何回か曲がると大きな道路に出た。それは四車線のこの町の幹線道路だ。彼女たちはその歩道を行く。両側が開けて鳴き声が響かなくなったぶん喋りやすくなった。

「ユニフォーム、ちゃんと持ってきた?」明日香が彩を見た。

「うん」

「そっちは今日なんだ。うちらは昨日だったわ」と香澄。

 昨日じゃなくてよかったね、と明日香が彩に言うと彼女は、ほんとに、と答える。

「どれくらいかかった?」明日香が聞くと、

「十五分くらいで終わったよ」香澄が答えて、それから彩を見る。「水着は?」

「あるよ」

「まだそっちは水泳やってんの?」と明日香。

「うん。なんかで一回できなかったんだよね」香澄が言うと、

「そう。大雨で」と彩が補足した。

 彼女たちの前で横断歩道の信号が変わって、三人は近くの建物が作る影に入って信号待ちをした。影は後からやってきた生徒たちで徐々にいっぱいになっていく。ひとりだけ暑さを気にしない男子が歩道の際で待っていた。

 そうだ、と手のひらをうちわ代わりにした明日香が切り出した。

「彩、休むんならちゃんと教えてよ」彼女は楽しそうに文句を言う。「いくら待ってても来ないし、あんたん家まで行ったら風邪だっておばさんに言われてさ。そっから急いで、学校着いたの二十四分。遅刻ギリギリだったよ」

「え、香澄に送ったよ。今日は学校休みますって」

 会話の途中でひとりの女子がやってきて信号待ちの塊に加わった。その子は明日香や彩とは色違いのラケットケースを持っていて、おはようございます、と頭を下げてきた。おはよう、とふたりは返す。香澄も自分にされた挨拶ではないけどいちおう会釈した。それから香澄は話を戻す。

「七時五十九分に送られてもさ、気づかないし。もっと早く送ってよ。帰ってからスマホ見て、いや知ってるよってひとりでつっこんだし」

「おかしいな。もっと早く送ったはずだけど」バレバレの演技で彩はとぼける。「香澄が遅れてっから、電波も遅れるんじゃない?」

 明日香は、納得、と吹き出した。釣られていじられている側の香澄も少し笑ってしまうが、いいから謝れよ、と切り返す。

「ごめんなさーい。次から気をつけまーす」彩は素直に謝り、ぺこりと軽く頭を下げた。

 信号が変わって影で待っていた十人くらいの生徒たちが歩き出す。彼女たちも四車線の横断歩道を渡った。それから風景はまた住宅地になる。しばらくすると中学校の高い防球ネットが見えてきて、通学路を歩く生徒の数も増えてきた。

「ていうか、もうあたしら中三なんだからさ」明日香が口を開く。「別に無理して一緒に登校する必要なくない? 遅れた人がいたら置いてけばいいじゃん。遅刻も内申点に響くんでしょ」

「え〜そりゃそうだけどさ」彩が唇を尖らせて揺れる声で言った。

「わざわざバラバラに行く必要もないじゃん」香澄も反対する。「てか、一番遅れるのは明日香だし」

「だから言ってんの。あたしが遅れても待たなくていいよって」

「ああ、そういうこと。そういうのいらないから遅れんなよ」

「まじか。あたしの配慮が」明日香は苦笑いした。

 ジャージ姿の教師が道の先にいてすれ違っていく生徒に、おはよう、と言っては時折、そこ、歩道を歩きなさい、と道路の端の白線からはみ出して歩く生徒を指差している。そして、彼女たちの流れは道の向こうから歩いてくる生徒たちの流れと合流して、校門を通過した。校舎までのアスファルトのスペースは開けていて日差しを避けることはできないし黒い地面は熱されていて、体育の先生くらい暑くて重い空気に包まれた。

「期末、平均何点だった?」香澄が目をぎゅっと細くして聞いた。「ちな、わたし六十九」

 五教科、と彩が聞いて香澄は頷く。五で割って、と彩は手のひらで計算する。

「七十五かな。数学、難しかったよね」

「わかる。数学がよければわたしも七十代乗ったんだけどな。明日香は?」

「六十……二」ちょっとじらして明日香は答えた。

「あれ、やらかしたね」香澄がにやけた。

「あたしも数学がよければね」明日香は、ははは、と作り笑いした。

「何点だったん?」

「五十一」

 やらかしたね、とまた香澄。

「まあ、ギリ半分は超えたよね」

「半分は平均点だから」彩が、ふふ、と鼻で笑った。

 二段のステップを上って、開け放たれたガラス戸から昇降口に入る。太陽の角度が高いから建物の中までその光は差し込んでこない。急な光量の変化に瞳孔が対応できず、昇降口がとても暗く感じて明日香は一度ぎゅっと瞬きした。地面のコンクリートの灰色、スリップ防止の緑のマット、下駄箱の足元の簀の子の茶色、それらの色が徐々にコントラストを取り戻す。

 彼女たちは外履きを脱いで簀の子に上がり、自分の下駄箱から上履きを取って地面に落とす。香澄は落ちた衝撃で横に倒れた上履きを無精して足先で器用に起こし、それを履いた。脱いだ外履きを拾い上げようと屈んだとき香澄の頬から汗が一滴流れた。室内で空気がこもるぶんさっきよりも汗をかいていた。

 靴を履き替えた三人は校舎の廊下を進む。

「そういや」明日香が眉を上げてふたりを見た。「数学、小テストするって」

「なんでよ」彩がすぐに食いついた。

「期末の出来が悪かったからだって」

「いつ」

「一学期最後の授業で」

「それは四組だけ?」香澄がとぼけた口調で言って、

「そんなわけないじゃん」明日香が即答した。

 彼女たちは階段に足をかける。

「なんだよそれ」香澄が眉をひそめた。「テスト難しくした先生側の問題じゃない?」

「あたしに言われても」

「テストだけに問題だね」踊り場で彩がどうだと得意そうにふたりの顔を見る。

 ふたりは、うわっ、と顔を引きつらせた。

 二階に着くと明日香は、じゃ、と廊下を右へ行く。香澄と彩は、うん、と左へ行った。



 三年四組の教室はドアも窓も全開で両側の壁についている扇風機が必死に首を振っているけど、元気な少年少女たちを冷ますには全然足りない。教室では窓から聞こえてくるセミの声に負けない音量で生徒たちが会話していた。

「おはよ、部長」

 教室に入った明日香は廊下側の後ろから二番目の席の女子に挨拶して、その前の自分の席に荷物を下ろした。下敷きをうちわにしている彼女も、おはよう、と返してきた。

「ユニフォーム、持ってきた?」彼女が聞く。

「ばっちり」明日香は親指を立てた。それから鞄とラケットケースを机のフックに引っかけて、壁を背に横向きで椅子に座った。

「卒アルの撮影ってまだ早くない?」明日香も下敷きを出して顔を扇ぐ。

「でも八月の試合で引退だし、それに野球部の原くんみたいに夏休み入ったら引退するって子もいるしさ」

「へ〜、真面目だよね」

「受験勉強かぁ。やだな」

 汗の止まらない明日香はタオルで首元やおでこを拭いて、手ぐしで前髪を整えた。

「美咲は、塾とか行くの?」

「そのつもり。あんたは?」

「行くよ。彩と、あと香澄と同じとこ」

 八時二十五分、予鈴のチャイムが鳴った。それが鳴り終わったあと、ラケットケースを持った女子が教室に入ってきた。彼女は自分の席に行く前に明日香たちのほうへ来る。

 おはよう、とふたりは手をあげる。それから美咲が、ユニフォームは、と尋ねると彼女は、あるよ、と返事した。

「めっちゃ眠そうじゃん、芽依」

「わかる? ちょっと夜更かしし過ぎたかな。新しいドラマ見始めちゃって」

 そう言って芽依は窓際の自分の席に向かった。その後ろ姿に、好きだねぇ、と美咲が頬杖をつく。

 次に三十分のチャイムが鳴って、天井のエアコンがコーと音を立てて動きだす。誰とはなしに教室の窓やドアが閉められていき、明日香も後ろ手で磨りガラスの窓を閉めた。そのうちに担任の先生が入ってきて、四十人近い生徒は席に着いた。担任は慣れた手つきで朝の会の英語の小問題を配り、空席の状況から出欠を取った。



 三時間目も終わりのほう。三年二組の教室に、はい静かに、と先生の声が響く。誰が特にというわけではなくて多くの生徒が近くの子とお喋りして教室全体が騒がしくなっていた。

 授業を少し進めてからまた、静かに、と社会の先生が言った。そして今度は、いいですか、と先生はチョークを置く。

「内申点はテストの出来だけじゃなく、授業態度や提出物も関わってきますよ。入試で内申点は、高校にもよるけど、全体の四割くらいの点を占めるんです。これってすごく大きいと思わない? テストが終わって夏休みも近くなって、授業が疎かになっちゃうのもわかるけど集中しなさい」

 そう言って授業が再開したが、その説教の効果は結局五分くらいしか持たなかった。

 中央の列の一番後ろの席の香澄はあくびをかみ殺す。

「三年になった頃はさ」隣の席の女子がちょっと身を乗り出して香澄に話しかけてきた。「真面目にしなきゃって思ってたけど、最近はもう無理だよね」

「わかる。内申点の魔法は完全に解けたよね」

 香澄はシャーペンを置いた。彼女の肩にはタオルがかかっていて、前の授業の水泳で濡れた髪の毛はまだ先が湿っていた。

「真琴、美術部って夏休み何するの?」香澄は小声で会話を続ける。

「絵、描いて八月の作品展に出す。でも私はもうすぐ描き終わっちゃうから、それが終わると何もなし。合奏部は? 毎日?」

「そうだね。基本平日は」

「そういえば、なんで吹奏楽部じゃなくて合奏部って名前なの?」

「吹奏楽部ほどガチじゃないからね」

 いやいや、と真琴が手のひらを振った。

 香澄は一度ボケてから真面目に考える。

「アコギとかいろんな楽器触ったりするかな。でも普通に吹奏楽の大会にも出るし。なんでだろうね」

 香澄が首を傾げると、ふうん、と興味を失ったようで真琴は板書を再開した。香澄ももう一回シャーペンを握る。

 しかし結局それから授業は大して進まずに休み時間になった。先生は教科書を閉じて黒板横のモニターの電源を消した。生徒たちは起立して、ありがとうございました、とごにょごにょと言った。香澄が教科書とノートを鞄に閉まっていると、香澄や真琴の席にひとりの女子がやってきて切り出した。

「あ〜カラオケ行きたいな」

「土曜に行ったばっかじゃん、結菜」香澄が言うと、

「行きたいもんは行きたいんだからしょうがないじゃん」と彼女は返す。

 それから彩ともうひとりの子も香澄たちの所に来て、自然と五人の輪ができた。

「いいな、カラオケ。合奏部で?」その彩の隣の子が言う。

「うん。おっかーもカラオケ好きなの?」と結菜。

「好き好き」岡田は笑顔で頷く。「でも、女テニで行ったりとかあんましないよね」

 二年のとき一回行ったっけ、と彩。

「テニス部って打ち上げとかどこ行くん?」真琴が尋ねる。

「食べ放題」

 彩が端的に答えると、テニス部ではない他の三人が笑った。

「じゃあ夏休み、この五人でカラオケ行こうよ」結菜が嬉しそうに提案する。

 行く暇あるかな、と声が上がるが、

「それくらいあるよ。絶対行こうね」

 結菜がみんなを見て、そうだね、と四人は頷いた。

「ねえ、何歌ったの?」岡田が聞く。

「私はあかねる」結菜がそう言うと、

「それは言われなくてもわかるよ」岡田は微笑んだ。

「あの低音ボイスがむずいんだよね。ほら私、声高いでしょ。憧れるなぁ」

「水野蒼でしょ。弧山弦貴でしょ」香澄が話の筋を戻す。

 ああ外せないね、とテニス部ふたりが頷く。

「ランプでしょ。ゴーティでしょ」香澄が指折り数える。「あとエモジ」

「あ〜エモジいいよね」岡田がいい反応をした。

「ガールズバンドってかっこいいよね」真琴も食いつく。

「憧れるよね。楽器できないけど」

「香澄はさ、高校行ったら軽音やるん?」と真琴。

「んー、みんなで合奏するのも楽しいんだけどね。でも、高校の吹奏楽部ってやたら厳しそうなイメージだし」香澄は首を斜めにして遠くを見る。

「わかる。体育会系よりも体育会系してそう」

「だから、まあ、高校受かってから考えようかなって思ってる」

 教室の前の時計が目に入って、香澄は鞄から教科書とノートを取り出した。そして、

「そういや数学さ、今度小テストするらしいよ」

 楽しい雰囲気が停止した。

「またテスト? もう飽きたよ」岡田がぼやく。

 真琴も、そうだそうだ、と頷いた。

「あ〜あ。あかねるのテストだったら余裕で百点取れるのに」結菜が唇をすぼめる。

「じゃあ」香澄は一瞬考えて、「ファーストアルバムの発売日は?」

「そういうんじゃなくて」

「じゃあどんなの?」

「気持ちのテスト」

 他の四人が、恥ずかしい、恥ずかしいね、と囁き合った。

「恥ずかしいし」香澄が言う。「なんならちょっと怖いし」

 ちょっと、と結菜が笑った。「香澄っていっつも一言多いよね」

「え、そう?」

「そうだよ。長い付き合いだからさ、私は平気だけど、嫌に思う人もいるかもしれないから気をつけなよ」

「あかねるもいいけどさ」彩が話題を変えた。「今年は弧山でしょ」

 わかる、と真琴が笑顔で頷く。

「いやいや、蒼くんでしょ」と岡田。

「でも弧山は絵も上手だし」真琴が人差し指を立てた。

「蒼くんは役者もできるし」岡田も対抗する。

 なんの勝負、と香澄が笑った。

 チャイムが鳴るまで五人の会話は続いて、最後に結菜が、絶対カラオケ行こうね、と言って解散した。空腹と退屈の四時間目の数学が始まった。



 日直が、ごちそうさまでした、と言うと、他の生徒たちもまとまりなくそれを唱和した。明日香はご飯のトレイとおかずのトレイにそれぞれふたをして立ち上がり、教室にできた列に加わる。教卓の脇の机に置かれた鉄網の籠にトレイふたつとポタージュの入っていたお椀を入れて、ゴミ袋に潰した牛乳パックを捨てた。机を引きずる音が教室にてんでに響いて、生徒たちは隣の列とくっついていた机を元のポジションに戻す。そして今週の給食係が鉄籠と食缶とゴミ袋を持って教室を出ていった。

 給食の騒がしさが収まって時刻は一時。いまは空いている美咲の席に芽依がやってきて座った。人の出入りが多くクーラーの冷気が漏れて教室は少し暑い。

「授業、めっちゃ寝てたね」明日香は壁にもたれて後ろの芽依に言う。

「うん。やばかった」

 教室ではクラスの男子たちが紙つぶてのボールを前と後ろで投げ合っていた。きっとそれは学年だよりとか返却された小テストでできているのだろう。

「また怒られんじゃない?」芽依がくいっと顎で指す。

 えっ、と明日香は芽依のほうに目線をやる。

「キャッチボール見てたんじゃないの?」

「いや、ぼんやりしてただけ」

 教室前方の男子が豪速球を投げて後方の男子がキャッチできず、男子たちの中で笑いが起こった。

「昨日、ブラックアウトってドラマ見てみたんだけど面白かったよ」

 芽依が机に肘を乗せて少し前のめりになる。

「あー、名前は聞いたことある。どんなお話?」

「刑事もののサスペンス、かな。テロを止めるために戦うの」芽依は早口になった。「主人公がめちゃくちゃ優秀なんだけど犯人側もすごくて、その攻防がすごいよかったよ」

 一息ついて、

「それで、主人公がけっこうイケメンなんだけど、でもやっぱりサムには敵わないな」

「あれはなかなか超えられないよ」明日香は小さく首を振る。

 給食係だった美咲が戻ってきた。変わって、と芽依に言うと彼女が席を空ける。

「あ〜来週どうなっちゃうんだろ。ブラックアウトには申し訳ないけどさ、そっちのほうが気になっちゃうな。だってドワイト死んじゃったんだよ」会話を続けながら芽依は美咲の隣の空いている席に座った。

「ああ、あの眼鏡の。貴重なお医者さんだったのにね」

「それは何の話?」美咲が少し眉をあげて明日香の顔を見た。

「デッドワールドっていう海外ドラマ」明日香が言うと、

「すっごい面白いよ」芽依の合いの手が入った。

「へー、どんな話なん?」

「核戦争後の世界で、生き残った人たちがミュータントから逃げながらサバイバルするってストーリー」芽依は椅子に座り直してから笑顔で説明を始める。

「ミュータント?」

 まあ怪物みたいなものかな、と明日香が注釈する。

「人間同士のドロドロのドラマがよくて、結局ミュータントなんかよりも人間のほうがよっぽど怖いよねって毎回思わされるんだ」芽依が続ける。

「うわ、見たくない」

「見ようよ。いま世界中でブームになってんだよ」

「私の周りじゃあんたたちだけだよ。てか、どのみちうちじゃ見れないし」

「クリスとサムっていうキャラがもうめっちゃかっこよくてさ、それだけでも見てほしいよね」

 わかる、と明日香は深く頷く。

「見てる人全員、クリス派かサム派に別れるんだから。ちな、私はサム派」

「へー、明日香はどっち派?」と美咲。

「あたし? あんまり考えたことないな」明日香が首を斜めにすると、

「嘘だよ。恥ずかしがっちゃって」芽依は、ふふふ、とにやけた。

「そういや」明日香が話題を変える。「今日、一学期最後の給食だったんだね」

「そっか。明日から授業、お昼までか。やったね」芽依が伸びをする。「じゃあもう少し味わって食べればよかったな」

「言っても、二学期になったらまたあるし」と美咲。

「ま、そうなんだけどね」

「ちょっともう何食べたか覚えてないや」明日香が前髪を触りながら言うと、

「それはやばいよ」美咲が笑う。

 大丈夫いま思い出した、と明日香も笑った。

「ん、そろそろ移動したほうがいいかな」壁の時計を見た美咲が言う。

 明日香も時計を見て、そうだね、と机の中を探り始める。

「音楽って何すんの?」と聞く芽依に、

「合唱大会の曲決めでしょ」美咲が答える。

「じゃあ楽だね。曲聞いて多数決するだけだもんね。リコーダーいる?」

「いちおう持っときなよ」



 六時間目とその後の帰りの会が終わって掃除の時間になった。今週の持ち場に向かう生徒たちが廊下を行き来して、あるいは給食係で掃除のない人たちは一足先に家路や部活に向かう。

 三島、と名字を呼ばれて箒で廊下を掃いていた香澄は振り返った。

「ん、なに?」

 同じ掃除の班の男子が話しかけてきた。彼もまた箒を持っていた。彼女たちの掃除場所は教室のある棟とは違う棟の二階の廊下で、周りには職員室や家庭科室がある。

「あのさ、ランプアップのアルバムって持ってる?」

「えっと、どれ?」

「一番新しいの」

「うん。あるよ」

 英語の授業で近くの子と話してくださいと言われたときみたいにぎこちない会話だ。

「借りてもいい?」

「いいよ。明日持ってくるね」香澄は口角をあげてちょっと微笑む。「ランプ、好きなの?」

「まあ。それに、ランプが好きってなんかかっこよくね?」

「わかる」

 ふたりの手の箒はさっきから同じ所を掃いていた。

「北村と話してたら、三島がアルバム持ってるって言ってたから」

「結菜が?」

「他にもいろいろ持ってるって。わざわざCDで買ってるんだな」

「そうだね。買ったり、レンタルしてきたり」

「スマホで聴き放題のやつとかあるじゃん。ああいうのはやらないん?」

「入りたいんだけど親が許してくれなくてさ。それにCDだと自分で聴くだけじゃなくて、こうやってみんなに貸したりできるでしょ」

 そうなんだ、と彼が言ってそこで会話が途切れた。ちょうどちりとりを持った男子がやってきたから、うっすらとだけ集まった埃を回収して今日の掃除を終了させる。

 掃除用具入れに箒を戻して、その近くに置いてあった自分の鞄を背負うと、じゃあお願い、と彼は階段を下りていった。うん、と香澄のほうは階段で四階に向かう。四階の奥の、色々な楽器の音が漏れ聞こえてくる音楽室の扉を彼女は開けた。

 音楽室では掃除が早く終わった部員たちが楽器の準備を済ませ、部活が始まる前のこの時間を利用して思い思いに練習していた。トランペットの部員はひとつの音を長く吹き伸ばしている。それが終わると上の音をまた伸ばす。高音になると音が少し揺れていた。クラリネットはメロディの入りを繰り返し練習していた。

 音楽室の左半分はスペースが空いており、右半分は授業で使う机と椅子が並んでいる。そのひとつに香澄は座って鞄を置いた。部屋はエアコンが効いているから暑くはない。

 香澄の前の席に座った女子はフルートを組み立てていたがその手を止めて振り返った。

「香澄、これ、ありがとね」彼女がCDを返してきた。

「よかったでしょ、七海」香澄は帰ってきたそれを鞄に仕舞った。

「すっごいよかった」

「でしょ。三番目の曲とか全然有名じゃないけどめちゃめちゃいいよね」

 そうそう、と七海は頷く。

 なになに、と結菜が隣の音楽準備室から高級感のある黒いケースを持って現れた。ゴーティのアルバム、と香澄が答えると、あ〜いいよね、と彼女の楽しそうな声。

「ねえ香澄、最近なんかいい曲ない?」結菜が椅子に座りながら言う。

「ジャックニックってバンド、もう教えたよね?」

「うん」

「じゃあいまはないかな。また探しとくよ」

 何それ、と首を斜めにした七海に、めっちゃいいから聴いてみて、と香澄。

「ほんと香澄ってさ」結菜が口をにっこりカーブさせて言う。「いいバンド見つけるの早いよね。めっちゃ助かる」

 でしょ、と香澄が軽く笑った。

 そうだ、と切り替え早く結菜は今度は唇を歪めた。

「昨日のアルバムの写真さ、私、絶対目つぶっちゃったよ」

「二枚撮ったじゃん」トロンボーンのケースを持った女子がそう言って結菜の隣に座った。

「二枚とも目つぶっちゃったって言ってるの」

「それは……どんまいだね」

「ねぇ、いそっち。なんかアプリみたいのでさ、目開けるとかできないのかな」

「さすがに無理でしょ」磯部はくすりと笑った。

「大丈夫大丈夫」と七海。「カメラマンの人、撮ったあとちゃんと確認してたでしょ。誰か目つぶってたら撮り直してるよ」

 あ、そうだよね、と結菜のほっとした声。

 そんな様子を足を組んで見ていた香澄が言う。

「でもみんないいよね、楽器持ってて。合奏部っぽいじゃん。わたしなんかスティックだよ。バチ二本、胸の前に抱えてさ。練習風景の撮影のときも全然撮ってくんなかったし」

「まあ、パーカッション地味だもんね」

 言ったな、と香澄が怒った顔を作るとみんなは笑った。

 さてと、と楽器の準備が整った彼女たちは立ち上がると少しでも静かな場所を求めて教室の端に行って、音楽室に響く雑多な音に加わった。香澄は鞄のスティックケースからスティックを取り出して、それと楽譜を持って音楽室の後ろのほうへ向かう。ドラムセットにかかったカバーを取り払ってドラムの椅子、ドラムスローンに座った。

 彼女はハイハットとバスドラムのペダルに足を乗せた。左右のシンバルの真鍮が音楽室の照明を跳ね返して光る。全ての楽器が彼女の手の届く範囲に収まる。

 右足のペダルでバスを叩くと、低い音が香澄の内臓に響いた。距離を確かめるようにタムを高いほうから叩いて、シンバルも控えめに叩いた。すぐに指で触ってミュートする。

 それから一度立ち上がるとメトロノームを持ってきて、それの刻むテンポに合わせてスネアドラムを叩く。初めは四分音符、それから八分音符と音の数をだんだん増やしていく。三二分まで行くと、テンポを変えてまた初めから。

 クーラーは動いていたけど、ドラムを叩いていると汗がじんわり出てくる。

 最後のひとりが楽器の準備を終わらせて、二十五人の部員が全員揃うと部長の磯部が、静かに、と声を張った。楽器の音にかき消されてその声は全然聞こえなかったけど、部長の近くの人から演奏をやめていって、最後のひとりがマウスピースから口を離し音楽室が静かになった。

 磯部が集合をかけると部員たちは音楽室の左半分に椅子と譜面台を並べてパートごとに座った。香澄たちパーカッションは楽器が大きいから後ろのほうだ。

 お願いします、と緩めの挨拶をしてから準備体操が始まった。まずは伸びをしたり体を捻ったりして全身をほぐす。合奏部には男子部員も数名いるのに、女子たちは大きく体を横に倒して持ち上がったブラウスの裾とスカートの間から脇腹が見えるのを気にする様子はない。

 次は磯部の手拍子に合わせて息を長く吸って長く吐く。そして、唇を閉じたまま息を吐いてぶるぶると震わせる唇のウォームアップ。吹奏楽器ではない香澄もいちおうした。

 それからみんなは楽器を持って、音を長く出すロングトーンや、みんなで同じ音を出す全体チューニングをする。しかし、パーカッションの三人はすることがなく少し暇そうにしていた。パーカッションは各学年にひとりずついて、一年生は男子だ。

 磯部は全体の音を聴き、部員を指差して高いとか低いとか言っている。そんななか香澄は鉄琴のグロッケンと木琴のシロフォンの前にいる二年に話しかけに行った。

「暇だね、酒井」香澄は彼女の耳元に少し顔を寄せて言った。

「そうですね」彼女も少し大きめの声で返してくる。

 酒井はシロフォンのマレットを握って打鍵するふりをすると、それを置いてグロッケンまで歩く。グロッケンでも同じことをしてまたシロフォンまで戻ってくる。楽器間の移動がスムーズになるようマレットの置く位置にこだわっているようだ。

 酒井がまたグロッケンに向かった隙に香澄はマレットの位置を少し動かした。

「しょーもないことしないでください」

 気づいた酒井が香澄を見た。その反応を見て香澄は、ふふ、と笑った。

「そういうの好きだよね」

「ずっとやっちゃいませんか?」

「わかりみ」

 酒井が怪談話でも聞いたような顔をした。

「前から気になってたんですけど、み、ってなんですか?」

 香澄は腕を組むとちょっと考えて、

「あじの味、じゃない?」

「わかる味がするんですか?」酒井はくすりと笑った。「私は重さと重みの関係だと思うんですけど」

「ああ、五段活用ね。やったやった」

「全然違います」すぐに言ってから酒井は頬を緩ませた。

 それからパートごとに分かれての練習になった。隣の理科室に移動する部員たちは、暑いからやだ、とぼやいている。パーカッションは音楽室の後方に集まるけど、三人とも使う楽器の違うパーカッションはほとんど個人練習みたいになる。香澄は、わかんないとこあったら聞いてね、と一、二年のふたりに言って、またメトロノームに合わせてドラムを叩き始めた。

 今度は腕をクロスさせて、ハイハットとスネアとバスを叩いて同じリズムをひたすら繰り返す。



 昼が一番長い季節の午後四時。

 眩しすぎた太陽がやっと天頂からどいてくれたから、空を見上げられるようになる。

 高くトスすると、抜ける青空にソフトテニスの白いボールが吸い込まれていく。

 右腕を振り下ろすと、ぽん、とボールをラケットの芯で捉えた心地よい音がした。

 ボールはネットを越えて向こうのコートで跳ねる。

「きよちゃん、いまの入ってた?」

 明日香はコートの向こうに聞いた。

「フォルト。ギリ、フォルト」

 清水は手を挙げた。

 わかった、と明日香はポケットから次のボールを取り出すと、地面でそれを数回バウンドさせる。ボールをキャッチすると、少し腰を落としてセカンドサーブの構え。

 ラケットの面でボールの下を擦るアンダーカットサービスを打つ。

 バックスピンのかかったボールはふわりとした軌跡を描いて、接地すると真上にバウンドしたが、清水はそれにうまく対応してレシーブした。

 女子ソフトテニス部はウォーミングアップのラリーと後衛のストローク練習、前衛のボレー練習を終わらせて、いまはサーブとレシーブの練習をしていた。

 チェンジ、と部長の美咲のかけ声。はーい、と部員たちは返してコートのサイドを入れ替わった。明日香も向こう側へ移動して、後衛の彼女はコートの後ろにできたふたつの列の右側に並んだ。

「集合写真撮るときさ」明日香の後ろの美咲が話しかけてきた。「あれやりたい? ラケット重ねるやつ」

「うーん。あたしはどっちでもいいけど」

「淳子は?」美咲は左の列に並んでいるユニフォーム姿の前衛に聞いた。

 一、二年生は体操服姿で、三年生は今日はユニフォームを着ていた。黄色のラインが斜めに入った水色のシャツと黒のショートパンツだ。

「やるでしょ」淳子は当たり前だと言うように眉を上げた。

 明日香は帽子を脱ぐとおでこの汗を手で拭いた。それから美咲のほうを見る。

「三十人ちょっとをコートひとつで回すの無理あるよね」

「でも、うちらが引退するまで一年だけ別メニューってわけにもねぇ」

「一年もさ」レシーブしてコートから戻ってきた芽依が言う。「けっこう上手になってきたしね」

「夏休みになれば」美咲はグラウンドのほうを指差した。「向こうのコートも使えるようになるしさ」

 この中学校はグラウンドを取り囲むように校舎二棟と体育館がコの字を成していて、体育館の隣にテニスコートが一面あり、こちらは平日は女子が使っている。そして、グラウンドを挟んだ向こうにもう一面あって、そちらは男子が使っている。

「男子と時間ずらすもんね」と芽依。

 四人は自分の番が回ってくるまで雑談に花を咲かせる。会話が聞こえていたのか彩も、ねえ、と輪に加わった。

「練習、午前と午後、どっちが好き?」

「私は午前かな」と美咲。「午後練だと帰ってからどこにも遊びに行けないし」

「でも午後練なら夜更かしできるよ」芽依が反論する。

「私も午前」淳子がガットのずれを指で直しながら言った。「帰って、シャワー浴びて、お昼食べて、ドラマの再放送だらだら見るのがいいんだよね」

 あ〜わかる、と同意の声。

「それにこれからは午後練だと、夕方から塾なんで先に帰りまーす、とかなるの辛くない?」

 うわやだ、と今度は同意の悲鳴が上がった。

 二年生に、藤沢先輩、と呼ばれて明日香は振り向いた。順番が回ってきていたようで、ごめんごめん、と彼女はコートに入った。

 ベースラインから二歩入った場所で一度下を見ると、明日香は重心を落としてラケットを構える。

 相手がファーストサーブを打った瞬間、明日香は体をぴくりと反応させる。しかしそれはネットにかかった。

 明日香はもう一歩進んでセカンドサーブに備える。

 来たのは飛距離の短い嫌らしいカットサーブ。

 明日香はネットから二メートルの位置でレシーブしたけど、ネット上部の白い帯に弾かれた。

「コンパクトに。テイクバック小さく」

 後ろの美咲からのアドバイスに、わかった、と明日香は小さく素振りしながらボールを拾ってコートの後ろに戻った。

 それからぐるぐると練習が進む。一度、岡田のファーストサーブがいい角度で入ってサービスエースになった。ナイスサーブ、と声が上がる。ラケットを手の中で回転させて次の順番を待っていた明日香の隣に、そういやさ、と芽依がやってきた。

「明日香っていつから海外ドラマ見てるの?」

「ん、えっと、中一からかな」

「どういうきっかけだったん?」

 コートを飛び交うボールをぼんやり見ながらふたりは喋る。

「うち、お父さんが単身赴任しててさ。えっと、あれってさ、一つあれば三台まで見れるじゃん」

「え、なんのこと?」

 明日香の番になった。彼女はレシーブして戻ってくると会話を続けた。

「なんだっけ、アドレスとかパスワードとかの」明日香の左手が意味なく動く。

「アカウントのこと?」

「そうそれ。で、お父さんがアカウント作って、こっちでも使っていいって言うから」

 へ〜、と芽依。

「それでデッドワールド見てみたら、何これおもしろってなって。そっから一日三話くらいのペースで最新話まで追いついて、他のドラマにも手を出してみてって感じかな」

「あ〜わかる。私もそんな感じだったもん」

 二年生が二回連続レットして、おっ、と期待の声が上がったけど、次のボールは普通にフォルトになって三回目はなかった。

「明日香が海外ドラマにはまってるなんて三年になるまで知らなかったな」

「あんまり周りに言わなかったからね。あたしだって芽依がはまってるって知らなかったし」

 今度は芽依の番になった。ふたりの会話は練習しながらだからペースは遅く、途切れ途切れだ。

「あと一ヶ月かぁ」コートから戻ってきた彼女は言った。

「全然実感ないよね」

「わかる」

「最後の大会はベスト十六くらいまで行ってみたいな」

 大きく出たね、と明日香は微笑む。

「あとはこのまま楽しく練習できればいいよね」

「そうだね」

 運動場には野球部の元気なかけ声が響いている。それに校舎の四階の隅にある音楽室から楽器の音も聞こえてくる。楽しげな曲だけど、これから盛り上がってくるぞというところでまたそれは途切れる。さっきからその箇所を繰り返し練習しているようだった。

 明日香は校舎についている時計を目を細めて確認すると美咲のほうを向いた。

 部長、と言いかけて、一瞬考えると言い直す。

「武将、そろそろラストでござる」

 なんだよそれ、と美咲が鼻で笑う。

「ちょっと似てるから」

「しょーもな」

 それを見ていた彩が面白そうに美咲に声をかけた。

「ぶす……部長、次は何するんですか?」

 美咲はちょうど手に持っていたボールを明日香目がけてラケットで打ち、ワンバウンドさせてぶつける。芽依が爆笑している。

「なんであたしなん?」笑いながら明日香が眉を上げる。

「流れ作ったのあんただから」

 それから美咲は、ラスト、とかけ声をかけた。

 最後の一周が終わると、部員たちは落ちているボールを籠に集めて休憩に入った。

 普段、部員たちはテニスコートの横にある体育館の庇の下に荷物を置いている。明日香は二段の階段を上がると庇の影の中にある自分の鞄のそばに腰を下ろした。水筒のお茶をがぶ飲みして、暑い、とタオルで首元を拭く。

 体育館の開け放たれたドアからはバンバンとバスケットボールをドリブルする音が聞こえてくる。

 元気に練習していた部員たちも休憩中はおとなしくなって、影の中で体温が下がるのを待っていた。明日香が遠くの入道雲を見ながら帽子で顔を扇いでいると、菊池先生来たよ、と誰かが言った。

 美咲が、集合、とかけ声をかけると部員たちは立ち上がって顧問の菊池の前に集まった。前から三年二年一年の順で並んで、右に詰めたり左に詰めたり位置調整のためのざわめきが収まってから、お願いします、と美咲の声。一拍置いて全員が、お願いします、と礼をした。

「写真撮影まであと一時間か」彼は腕時計を見て言う。それから、「フォアとバックなら、隅、どっちが得意?」

 フォアです、と名指しされた二年が答えた。

「じゃあ、バックに来たボールも回り込めるときは回り込んでフォアで打ったほうがいいっていうのはわかるね。それを意識して後衛は振り回ししようか」

 後衛の部員たちが、え、とか、うわ、とか小さく漏らした。

「前衛はどうしますか?」美咲が聞くと、

「前衛……も前後の振り回し」

 菊池は少し焦らして言った。前衛の部員たちもざわめき出した。

「後衛十五分、前衛十五分。しんどくなったら無理せず休憩取ること。じゃあ始め」

 お願いします、と礼をして、部員たちは帽子を被ってコートに向かう。

 これから写真撮るのに振り回しって。

 ほんと、えぐいよね。

 三年たちからそんな悲鳴が上がった。



 オレンジ色の太陽は住宅の後ろに隠れた。

 道路にはそよ風すら吹かず、まだまだ蒸せる空気の中を香澄たちは歩いていた。うっすらと汗をかきながらも彼女たちは喋り、後ろから聞こえてくる幹線道路を行き交う車の走行音はかき消されていた。

「そんな毎日聞いてて飽きないの?」七海がそう結菜に聞いた。

「だって運命の出会いなんだもん」結菜がにっこりと嬉しそうに言う。「ある夜、急に目が覚めて、テレビつけてみたらあかねるが歌ってたんだよ。やばくない? めちゃかっこいい歌詞をあの歌声で歌うんだよ。私の思い描いてた恋愛観とぴったりだし」

 ふーん、と七海が冷めた相槌をする。ちょっと、と結菜が楽しそうに怒ると、うそうそ、と七海が笑った。

「いつから聞いてるの?」七海が続ける。

「藍より青し、の頃だから二年の冬くらいかな」結菜は首を傾げて香澄を見た。

「うん。確か一月だったはず」

 歴史の年号みたいに、曲名からリリース日がぱっと出てくる。

「やばい。もう半年も経ったのか」

「彼氏みたいに言うじゃん」と七海。

「恋してんだから、彼氏みたいなもんだよね」

「はいはい」呆れたように七海が笑う。「熱すぎてちょっとうざいから」

「え〜、もうちょっと語らして」

 交差点で、じゃあね、と七海と結菜のふたりは道をまっすぐ行って、また明日、と香澄は手を一度振ると道を右に曲がった。

 彼女たちの二十メートルくらい後ろに合奏部の二年生たちがいて、そのグループも交差点まで来ると同じように別れて、酒井がひとり道を曲がった。香澄が歩調を落として歩いているとそのうち酒井が追いついてきた。

「そういえば、サイン会どうだった?」香澄が隣の後輩を見た。

「二週間くらい前の話ですよ、それ」

「え、そう? すっかり忘れてた。テスト期間だったでしょ」

「部活なかったですもんね」

 車が前から来て、ふたりは道の端に寄ったから会話が一度止まる。

「問題なく行けた?」

「はい。電車、間違えたりもせず、向こうで迷ったりもせず。結局二時間前に着いて、整理券もらって。でも全員入れたみたいだからそんなに急ぐ必要もなかったなって。それから本屋の中でずっと立ち読みして時間潰してました。パーカッションで立ちっぱなしに慣れといてよかったです」

 もう何回か話したことがあるストーリーなのか酒井はすらすらと喋った。

「どっかで何か食べてくればよかったじゃん」

「ひとりでそういうの苦手で」

 わかる、と香澄は少し笑った。

「それからちょっとしたトークショーがあって、サインしてもらってっていう感じです」

「やっぱり生で見てさ、感動とかするものなん?」

「あ〜写真の人が動いてるな、って感じでしたね」

「そんなもんなの?」

「別に歌歌ったりするわけじゃないんですから」

 斜め上を見て香澄は、確かにそうかも、と納得する。

「でもトークは面白かったですよ。小説の作り方とか教えてくれて」

 アイデアはお風呂で思いつくんですって、と思い出してにこにこしている。その顔に香澄も微笑んでしまう。

「それにここにいる人みんな同じ作家さんが好きなんだなっていう感覚は不思議というか、全然知らない人なのにちょっとした仲間意識というか、とにかく面白かったです」

「よかったじゃん、楽しそうで。わたしも行けばよかったかな、全然知らないけど」

 香澄は、ははは、とわざとらしく笑ってみせるけど酒井の反応は薄かった。また車が通過して、ふたりは足を止めて端に寄る。

 ただちょっとなんていうか、とさっきとは違って言葉を探しながらごもごもと喋る。

「いままで先生のこと好きだったの私だけだったのになって思っちゃって。この人たちもそうなんだなぁって」

「そりゃそうじゃん」

 そうなんですけど、と酒井は体を小さく揺すった。

「それにサインの列に並んでいるとき前にいた二人組がめっちゃディープな会話してたんです。あそこの描写がいいとか。この人たちめっちゃ好きじゃんって」

「何才くらいの人?」

「大人。二十代かな」

「じゃあ仕方なくない?」

「だからあんまり言いたくなかったんです」

 膨れた彼女に香澄は、ごめんごめん、と笑った。

「サインしてもらうとき印象に残るようなこと言うぞって思ってたのに頭真っ白でなんにも言えなかったし。握手してもらったんですけど帰り普通にトイレで洗っちゃったし。洗ってから、あ、ってなったし」酒井は早口で続けた。

「でも楽しかったんでしょ」

 ん〜、と彼女は本気で考え込んでから、「五分五分かな」

「なにそれ。めんど」

「そんな言い方なくないですか?」

 酒井は目元で怒って口元で笑った。ちょうど住宅と住宅の間から夕陽が差し込んでいる場所を通って、彼女のその顔が明るく照らされた。

「サイン書いてもらった本、いま持ってる?」

 ありますよ、と酒井は鞄を前に持ってくると慣れた手つきで本を取り出した。

「テスト期間は読むの我慢してたんですよね」

 それは教科書よりひと回り小さなサイズで、カバーは書店でもらえる紙製のものではなく猫の柄の入った布製のものを使っていた。表紙をめくると右のページに読めそうで読めない曲線と、酒井さんへ、という文字があった。へ〜、と物珍しそうな声を出してから香澄は左のページに目線を動かす。題名と秋山実という著者名があった。

「秋山……みのる?」

「みのりです。前もこのくだりやりませんでしたか? 覚えてくださいよ」

 へへへ、と香澄はわざとらしく笑う。酒井は本を鞄に仕舞った。

「ちなみに、どんなお話書く人だっけ?」

 仕方ないという風に酒井は小さく笑ったが、それでも教えてくれる。

「色々ですけど恋愛ものが多いかな」

「なんかおすすめ一冊貸してよ」

 酒井は難しい顔で地面を見てしばらく考えると、

「嫌です」

「なんでよ? 折り目つけたりしないからさ」

「自分で買ってください」

「けちだな。じゃあ五百円でって言ったら?」

「そういうんじゃないです」

「なんでよ? わかった、本の売り上げのためにでしょ」

「違います」

「意味わかんない」

「ん〜、私もわかんないんですよね。なんでなんでしょう?」

 困ったように笑いながら首を斜めにした彼女に、知らないよ、と香澄も笑った。

「うちのクラスね」酒井は明るい声で話題を変えた。「水曜の一時間目、体育なんですよね。だから朝の会の読書、全然できないんですよね。ひどくないですか?」

「あんたくらいじゃない、そんなの思ってるの」

「でもそれも今週でラストか」

「そういやそうだね。うちは金曜の五限が体育で六限が国語でさ、ほぼ百パーで寝ちゃってたな。体育が水泳になってからは特に」

「私、泳いだら唇、紫になっちゃって、そのあとの授業は眠いというかぐったりしちゃうんですよね」

「あ〜いるな。クラスにひとりはいる、めっちゃ顔色悪くなる子」

 そこで道はY字路になった。

 それじゃ、と香澄。さようなら、と酒井は一歩だけ立ち止まって会釈すると香澄とは違う方向へ歩いていった。香澄は鞄を背負い直すと自分だけに聞こえる音で鼻歌を歌いながら残りの帰路を歩いた。

 ただいま、と香澄はリビングのドアを開けた。

 おかえり、とテーブルの母が返してきた。

 やっとクーラーの冷たくて軽い空気に包まれて香澄は、はあ、と息を吐く。テレビの前のソファに鞄を置くと冷蔵庫の麦茶をコップに注いで一気に飲み干した。それから水筒をキッチンに出して水着とタオルを洗濯機に放り込むと、彼女は荷物を持って二階の自分の部屋に向かった。

 蒸せる部屋に入ると香澄は学生鞄を勉強机の近くに雑に置いた。それから衣装ケースから出したTシャツと七分丈のジーンズに着替えて、脱いだスカートはベッドの上に放り投げた。

 香澄は壁の時計を見つめて人差し指を動かし時間のシミュレーションをする。そして、よし、と言うとトートバッグに財布を入れて、スマートフォンはポケットに入れて一回に降りた。

「ママ、レンタル行くけど」

「あ、ラッキー。おつかいお願い」

 いいよ、と香澄はスマホを取り出す。冷蔵庫を見ながら母は品目を挙げていって、香澄はそれらをメモした。

「あと、お菓子とジュース、適当に買ってきなさい」

「お釣りは?」香澄はスマホを仕舞うと期待の目で母を見た。

「小銭はあげる」

 五千円札が差し出されて香澄がそれを取ろうとする。しかし、母はその腕を上げた。

「多くなるように調整とかしちゃだめよ」

 わかってるよ、と香澄は改めてお金を受け取った。クーラーの冷気を肺いっぱいに取り込むと玄関で自転車のキーを手に取って、行ってきます、と彼女はドアを開けた。



 信号が青に変わって、六人の女子テニス部員が横断歩道を渡ってきた。ユニフォーム姿で学生鞄とラケットケースを背負い、肩にタオルをかけているのが何人かいた。真夏の部活でたくさん汗をかいたから髪は少しごわつき、前髪は束になってしまっている。

 道を渡ったところで、お疲れ、と六人組から四人組になった。体の側面の夕陽に照らされながら、彼女たちは街路樹が植えられている歩道を歩く。

「最近どうなのさ」明日香は隣を歩く淳子に聞いた。

「どうって言われても、特に変わらないかな」

「次いつ会うん?」矢継ぎ早に彩も聞く。

「夏休みになったらどこか行こうとは言われたよ」

 いいなぁ、と岡田が零す。

「そんなにだよ。あいつは……」

 あいつだって、と三人は盛り上がった。

「大人っぽいことしたいだけだよ」淳子はめげずに続ける。

「じゃあなんで付き合ってるのさ?」岡田が聞いた。

「それは……」

 いまの間なに、やばい、と岡田が歓声を上げた。明日香と彩も思わず大きな声が出る。青色リトマス紙に酸性の液体を垂らしたように、淳子の顔が一瞬で赤くなる。淳子が腕を振ったが、岡田はそれをかわした。

「おっかー、まじ、忘れないからね」 

「でもほんと頑張ってよ、淳子。女テニの希望なんだから」岡田が笑いながら続ける。

「重いな」

「それで、デートにおすすめの場所とか、デートのとき何着ていったらいいかとか、色々シェアして」と彩。

「あと」明日香も続く。「映画館デートはやめとけとか、そういうエピソードもっと聞きたい。気まずくなったのに毎日学校で顔合わすとか無理だから」

 私はモルモットか、と淳子が文句を言う。

「でもほんと、映画館はやめといたほうがいいから。みんな覚えときな」

 あの話ほんと面白かった、と岡田が思い出し笑いした。

 それじゃお疲れ、と淳子と岡田は道を真っ直ぐ行って、お疲れ、と明日香と彩は道を曲がった。ふたりは無言で歩いていたが、さっきまでの会話の余韻で頬は緩んでいた。

「明日香」

 車が全然来ない道で彩が急に小石を蹴った。それは三回跳ねて明日香の進路上に停止した。

「ほい、彩」

 明日香はテニスシューズのつま先で小石を彩のほうへ蹴る。危な、と側溝のふたに空いた穴から落ちかけるがイレギュラーな跳ね方をして助かった。

 明日香、とまた蹴ってきて、

 彩、と返す。

 そのかけ声が数回続けられた。

「たけちゃん」彩の番になると、彼女はそう言って小石を蹴った。

 明日香は小石のもとまで行って右足を振りかぶるが、そこでしばらく停止した。堪え切れずに少し笑ってしまう。それから小石を蹴ると同時に、

「バカヤロウ」

 可能な限り声をしゃがれさせて明日香が言った。

 彩が吹き出して大笑いする。自分でやった明日香も大笑いした。小石なんて放ったらかしにするくらいけらけら笑って、腹筋を片手で押さえて真っ直ぐ歩けないくらいだった。

「全然似てない」笑い声と笑い声の合間に彩が苦しそうに言った。

「だめだって」明日香が軽く目尻に触れる。「こういうのは振られてからやっても面白くならないんだって」

「そうだね。でも、恥ずかしい感じがなんか癖になりそう。定期的に見たいな」

「まじ?」

 ふう、とふたりは呼吸を整えて、夕陽の中の住宅街を帰る。

「香澄、暇してるかな?」明日香が言う。

「電話してみようか?」

「じゃあついてく」

 朝、彩が待ってた交差点をふたりは曲がり一分くらい歩いて彼女の家に着いた。

 ただいま、と彩が玄関のドアを開けると、ラブラドールレトリバーがリビングのドアを器用にスライドさせてやってきた。

「あっ、おいでミミちゃん」明日香が手招きした。

「ハナね」はっきりした発音で彩が訂正する。「惜しいようで全然惜しくないし」

 明日香がハナをわしゃわしゃと撫でまわしている間に彩は階段を駆け上がってすぐにスマートフォンを手に降りてきた。

「かわいいなぁ。大人しいなぁ。いいなぁ」

「でも、一才のときは悪魔だったよ。お気にのぬいぐるみ二個いかれたもん」

 彩がスマホを耳元に当てると電話はすぐにつながった。

「もしもし。いま暇? うんうん。そう」それから明日香を見て言う。「いまレンタルだって。どうする?」

「また行ってんの? 好きだねぇ。どれくらいで帰ってくる?」

 彩がそれを香澄に伝言して、明日香に答えを返す。

「スーパーも行くから三十分くらいだって」

「いま何時?」明日香が尋ねた。

「いま何時?」彩が伝えるが、「あこれ、私か」自分に言われたのだと気づく。

 明日香が大笑いする。スマホのスピーカーから香澄の笑い声も聞こえた。

「何いまの。めっちゃまぬけじゃん」

「やばい。完全にオウムになってた」やらかした彩も笑ってしまう。

 えーと、と彩はスマホの画面を見て六時四十分と答える。

「んー、また今度にしようか」

「また今度にしよって。うん、うん。じゃあね、また明日」

 電話が切れたあと、明日香はハナを一度撫でると、それじゃ、とドアを開けた。うん、お疲れ、と彩は手を振って見送った。



 晩ご飯を済ませた八時過ぎ。

 パソコン画面のメーターがいっぱいになるのを香澄はイヤホンで音楽を聴きながら待っていた。人差し指をスティック代わりにして、音楽に合わせて両腕が動いている。存在しないシンバルを叩いたところで音楽とは違う音が聞こえた気がして、彼女はイヤホンを片耳外して後ろを向いた。

「聞こえてる香澄?」リビングのテーブルで何か書き物をしていた母が言った。「音、下げなさい。耳潰れるよ」

「潰れるってそんな表現ある?」彼女はスマートフォンを操作して音楽を止めた。「それで、何?」

「宿題やったの?」

「あとでやるよ」

「耳だって疲れるんだから、休ませなさいよ」

 わかってるよ、と香澄は口を曲げる。

 メーターがいっぱいになって、香澄はパソコン本体側面のボタンを押してCDを取り出した。もう一度画面を見た彼女は、あれ、と言って後ろを振り返った。

「匠、ちょっと」

 弟はテレビの前のソファに座ってゲームをしていた。コントローラーを置くと、彼は立ち上がって香澄のそばへ来た。

「何? 姉ちゃん」

 めんどくさそうに匠は尋ねる。彼はまだ声変わり前の高い声で、かっこつけたいのか前髪を眉が隠れるくらいの長さまで伸ばしていた。

「なんか出たんだけど」香澄は画面を指差しながら弟を見る。

「アップデートだね。はいを押して」

「これどれくらいかかんの?」

「三十分って書いてるけど、どうせ一時間くらいかかる」

「えー、なんだよそれ」香澄が眉を寄せる。「借りてきたCD、読み取り終わったのに聴けないなんて、そんなことある?」

「待てよ」

「待てないよ」

 香澄は頭の後ろで手を組んでゆっくり伸びるメーターを見つめるけどすぐに飽きた。

 あんた宿題やったの、と香澄が聞くと弟は、やったよ、と即答した。

 つまんなそうに香澄がまたイヤホンを耳に入れようとすると匠が、いまのうちに宿題やっとけばその頃ちょうど終わってるんじゃない、と言ってきた。香澄はちょっと考えて、そうだねそう思ってたところ、と椅子から立ち上がった。

 ママ、パソコン切らないで置いといてね、と言って香澄は二階の自室に向かった。窓を閉めてエアコンを入れて、暑い部屋のなかで、早く〜、とぼやく。冷たい空気が吐き出されるようになると、香澄はベッドに座った。脱ぎっぱなしになっていたスカートが彼女の目に入って、やっとそれは壁に吊られた。

 学生鞄に手を伸ばそうとしたとき、ぶるっとスマートフォンが震えて彼女は画面を見た。ちょっと聞いて、と結菜からだった。香澄は合奏部三十八期生のグループを開いてそのメッセージを読む。

 うちのクラスに宮本さんっているでしょ。このまえ英語のテストが返ってきたとき、あの子嬉しそうにしてたの。だから私、点数よかったのって聞いたの。そしたら秘密って言われてさ。いい点なら別に隠す必要なくない?

 合奏部三十八期生のグループは三年生のうち携帯を所持している五人が入っていて、ふたりが結菜のメッセージに反応した。

 わかる。

 二年のとき同じクラスだったけど、確かにそういうとこあるよね。

 私立の入試って面接もあるでしょ、これくらいで恥ずかしがってちゃなんか心配だよね、と結菜。

 香澄の口から、う、と声が漏れた。彼女はしばらくスマホとにらめっこして考えると、それくらい別に気にしなくてよくない、と打ち込んでしかしそれを消去する。でも百点とか言われたらイラっとするでしょ、と入力してまた消す。最終的に、わたくし百点でしたわよ、北村さんは何点でございました、ほっほっほ、と書く。そしてハートの絵文字をくっつけて送信した。

 数秒すると反応があった。

 出たブラック香澄、めっちゃうざい、と結菜から。

 面白いから学校でもやってよ、香澄って文字だと性格変わるよね、と他の子も返してきた。

 そうかな、と返信した香澄はその会話の流れを見て一息ついた。

 遅れて七海が、ごめんお風呂入ってた、と会話に加わった。

 結菜って宮本さんのこと嫌いなん、と七海。

 別に嫌いってわけじゃないけどなんとなく。

 池田くんって大人しい感じの子がタイプだもんね。

 それ小学生のときの話だよ。もうなんとも思ってないし。いまはあかねるひとすじ。

 てかコンクールの曲やばくない。あと二週間で間に合うかな。

 まだ二週間だよ。

 他の子が、七海でやばいならうちらはもっとやばいよ、と悲鳴を上げる。

 香澄があの曲がいいって言うから。

 言ってない言ってない。ドラム使う曲がいいって言っただけ。

 スウィングってノリがよくて楽しいけどむずいよね。

 わかる。

 そんな流れが続いてから、そろそろ落ちるね、とか、じゃあ私も、と会話は収束する流れになった。

 香澄はベッドに倒れ込むと、手を大きく広げて伸びをした。そして、違うアプリをタップした。ディスプレイをスワイプするとフォローしているアーティストがアップした写真やレーベルの最新の情報が上から流れてきて、彼女は鼻歌を歌いながらそれらを眺める。すると、こちらのアプリのほうにメッセージが来た。彩からだった。

 月曜の英語で宿題って出た?

 やっば、と声を漏らすと香澄は起き上がりあぐらをかく。出たよ、と彩に返事を送りながら彼女は勉強机に移動した。本棚から英語の教科書とノートを取り出して開く。

 次のページの本文写しと単語の意味調べ、と宿題の内容を続けて送る。

 次ってどこ?

 三十四ページ。

 ありがと、とハートの絵文字。

 香澄が教科書の英文をノートに写していると彩からまたメッセージが来た。

 明日ノート見せてもらっていい?

 香澄はうーんと考えると、前回の授業の分のノートをカメラで撮って彩に送った。

 字汚な、と送られてきてすぐさま、うっさい、と返した。

 それから彩が話題を変える。

 数学のテストさ、おかしくない? 期末が悪かったからやるのに範囲はいまやってる所までって。最後に怒ってる顔文字がついている。

 確かに、と香澄。

 そんなの拡大解釈じゃん。

 香澄は、ふ、と笑って、シャーペンを置いて返信を打つ。

 変な言葉ばっかり覚えてるね。ため息の顔文字。

 どこかで使えそうだったから覚えちゃった。ピースの絵文字。

 そういえばどうしてこっちのアプリに送ってきたの、と香澄は聞いてみる。

 この時間はこっちのほうが反応早いんじゃないかと思って。

 彩の答えに香澄は苦笑いして、中断していた英語の宿題を再開する。



 寝巻きのTシャツにショートパンツ姿の明日香は宿題をやっていた。彼女の部屋の真ん中に置かれた丸机で、クッションの上に足を崩して座り、シャーペンを動かしている。もっともその宿題は先生が授業の終わりについでのように出したもので、十分もあればそれは終わった。

 机の上を片付けて、消しゴムのかすはきっちりゴミ箱に捨てる。それから彼女は本棚兼ぬいぐるみ置きのカラーボックスで明日の分の時間割りを合わせて、体操服も鞄に入れた。立ち上がって、明日の分のブラウスの胸ポケットに名札をつけると明日の用意は終わった。

 クーラーを消して部屋を出ると、リズムよく階段を下りて明日香はリビングに行く。リビングのテーブルには姉がいた。

「あ、おかえり」

 明日香は言って、親に渡すプリント類をテーブルに置いた。

「うん、ただいま」彼女はご飯を食べ終わって、いまはスマートフォンをいじっていた。

 母は電話をしていて明日香がキッチンの母のほうを見ると、お父さんと、と姉が教えてくれた。

「あたしもお菓子食べようかな」明日香が姉の隣に座ると、

「デブるぞ」スマホから目を離さず姉がそう言って、明日香は唇を少し尖らせた。

 時計を見ると九時過ぎだった。

「遥姉、塾ってやっぱ大変?」切り替えて、明日香が聞く。

「最初は成績がすっと上がったから楽しかったんだけどね。最近はね……。夏休みの予定表、この前もらったけどなかなかの地獄だね」

 うわ、と明日香は漏らす。

「そうだ、ちょっとスマホ借りていい?」

 母さんの使えば、と遥は言ったけどキッチンを見てすぐに無理だと気づいた。

「何すんの?」

「少し調べ物」

 ちょい待ち、と遥は画面を何回かタッチすると、ほい、とかわいいケースのそれを明日香に手渡した。彼女は受け取って慣れた手つきでそれに触る。

「遥、お父さんと話す?」キッチンの母が尋ねてきた。

「いや、いい」

「明日香は?」

「うん。大丈夫だよ」彼女はスマホを操作しながら手を振った。

 いいって、と母が電話の向こうの父に伝えた。

「夏休みこっちに遊びに来ないか、だって。来たら美味いもん食べさせてやるぞって」

「いちおう受験生、だから」遥は麦茶を飲みながら答える。

 まだ反抗期ねえ、と母は笑った。電話の向こうで父の笑い声も微かに聞こえる。それから、じゃあおやすみなさい、と電話は切れて、母は中断していた皿洗いを再開した。

 しばらくすると明日香は、ありがとう、とスマホを姉に返して椅子から立ち上がった。

「遥姉、テレビ見る?」

「いや、いいよ」彼女は答える。

 明日香はテレビの前の絨毯が敷かれたエリアに座り、お気に入りのクッションを膝の上に置く。それからリモコンを手慣れた動きで操作して海外ドラマの新エピソードを再生した。

 それは、刑事の女性と、ひょんなことから警察に密着取材することになったジャーナリストの男性がタッグを組んで難事件に挑むミステリーだ。

 パンツスーツの女性がある住宅のベルを鳴らす。開いたドアから中年の男性がいぶかしげに顔を出す。

「私はニューヨーク市警のアダムスです」彼女がジャケットをさっと翻すと腰につけた警察バッジが見えて、男の眉間にさらにしわがよる。女性が続けて、こちらは、と後ろの男性を紹介しようとすると、

「ジョン・キャラハン。ジャーナリストです」彼は割り込むように笑顔で自己紹介して、半ば無理やり握手する。

「新聞記者がどうして刑事さんと?」そのジャーナリストの振る舞いにあっけにとられた家主の男性が尋ねる。

「記者じゃなくてジャーナリスト」彼は目をぐるりと回して訂正する。「僕のことご存知ない? 数年前にピューリッツァー賞取ったのに」

 そんなやりとりを無視してアダムス刑事は、先日の事件についてお話聞かせてもらえますか、と真面目に切り出す。

 いつものくだりにそれを見ている明日香もいつものように、ふふ、と笑みをこぼした。

 遥も妹の隣にやってきて座ると、ドラマ鑑賞会に途中から加わった。皿洗いを終えた母が、先にお風呂入っていい、と遥に聞くと彼女は、ん、と気の抜けた返事をした。

 捜査で集めた証拠とふたりの閃きが犯人を導く。捕まえた犯人の動機に、ジャーナリストと刑事であるふたりは立ち場の違いから意見が食い違う。その日は気まずく別れて次の朝、挨拶代わりにキャラハンは彼女にジョークを言った。いまいちなジョークだったけどアダムスは思わず笑ってしまう。次の事件行くわよ、と並んで歩くふたりの背中のカットでドラマは終わった。

「は〜面白かった」明日香はテレビを消して伸びをした。

「ちょっと私が見ない間に、ふたり、なんかいい関係になってんじゃん」

「でしょ」明日香は少し大きな声になる。「ふたりのもどかしい感じが最高だよね」

「あと、なんかビターな回だったね。前からこんな感じだったっけ?」

「ううん。今シーズンからこういう感じの回が増えたんだよね。でも、あたしすごく好きだな。いま一番きてるドラマかも」

 ふーん、と微笑むと遥は立ち上がった。

「さて、お風呂入って宿題やろうかな」

「あれ? そんな真面目な人間だったっけ?」

「明日、塾ないからね。明日は一切勉強したくないから今日やるの」

 なるほど、と明日香は苦笑した。

「あたしはもうちょっとしたら寝ようかな」

「そうだ」風呂場に向かおうとしていた遥が振り返る。「香澄ちゃんってライブのDVDとかって持ってない?」

「誰の?」

「有名なら誰でも。今度の休みにひとりライブしようかなって」

「どうだろう、たぶん持ってないと思う。あいつ、流行に乗るの早いけど飽きるのも早いっていうか、広く浅くっていうか。でもまあ聞いてみる」

「お願いね」

 おやすみ、と遥は風呂場に入っていって、うんおやすみ、と明日香も微笑んで返した。

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