本のある町

冬月雨音

本編

「おはよう。それじゃあ行こうか。」

 先輩は私を見るなり、そう言った。

「おはようございます。待たせてしまってごめんなさい。どのくらい待ちました?」

「五分くらいかな。僕が到着してからすぐに来たくらいだったよ」

 改札口に向かって歩きながら先輩が答える。ともすればあまり気を使ってないかのような答え、私にはそれが心地よく感じる。

「そうでしたか。あまり遅くなってなかったようでよかったです。ところで今日はどこに行くんですか?まだ何も聞いていないんですけど」

 そう。私は今日どこに行くかを聞いていない。

「んー、今日は秘密にしたほうが面白そうだし、ついてからのお楽しみってやつにしとこうかな。多分途中で気が付いちゃうとは思うけどね」

まさかのついてからのお楽しみ。なんだかんだ今までは誘ったときに教えてくれるか、遅くとも集合したときには教えてくれていた。だから今までになかったことに驚いてしまった。


 ――昨年の八月頭、まだ夏休みに入って何日もたっていないある日のこと。私は部誌に掲載する何かを書け、と言われて頭を抱えていた。四月に入学してからそのままの流れで文芸部に入部してやっと周りを見る余裕ができてきた矢先のことだった。

 大体一週間がたったころのことだろうか、私は部室の端の机でいつもと同じように頭を抱えてうなっていた。午後三時くらいのそろそろ部活動も終わりといった時間、私はもう少しアイデアが出たら終わりにして帰ろうと考えていると後ろからいきなり足音が聞こえてきた。振り向くと先輩がそこに立っていて週末の部の買い出しについてくるようにいきなり言われた。

 当日、嫌々ながらついていった買い出しは順調に進み先輩と私は予定よりも早く解散することになった。とはいえつまらなかったわけではなく、むしろ先輩が私に備品の選定やおすすめの商品の説明などをしてくれたおかげで体感時間は実時間よりも急速に進んでいた。帰り際に先輩に楽しかったのか聞かれて楽しかった、また来たいと即答したことが何よりもの証拠だと思う。

 先輩はこの日から私をよく週末に呼び出すようになった。――


「そろそろ乗り換えるよ。荷物、気を付けてね」

 先輩の声が思考の海に突然放り込まれる。私の意識はそれによって電車の中まで戻ってきた。

 今まで乗っていた快速電車から各駅停車の乗り入れている地下鉄への乗り換えで改札もなく、特に何も考えずに乗り換えることができた。とはいえ、いつもは先輩の後ろをついていくだけだと考えるとそんなに変わらないような気もする。

 そんなこんなでJRから東京メトロに乗り換えたものの、今度は地下鉄で先輩の声も車内のアナウンスもほとんど聞こえなくなってしまった。

「先輩、あとどれくらい地下鉄乗るんですか?」

「え、なに?聞こえない。もう少し大きな声でお願い」

 普段の声量だと聞こえないだろうと思って声を大きくしたつもりだったが、どうやらあまり効果がないらしい。意識して声量をさらに増やして気持ち先輩に近づいてまた同じことを質問する。

「あとどれくらい乗るんですか?」

「大体二十分くらいかな。あと一回乗り換えがあるけど」

 先輩はいきなり私の耳元に口を寄せて答えてきた。

「ちょっと、先輩!?」

「あ、ごめん。いやだったらやめるよ」

 驚いて声を荒げてしまったら先輩が借りてきた猫のように小さくなってしまった。

「いえ、すみません。いきなりで驚いただけです。むしろうれしかったというかなんというか……」

 恥ずかしくてだんだん声が小さくなってくれたおかげで後半は聞かれないで済んだと思う。聞かれてないと思った瞬間に恥ずかしくなって赤くなっている顔を見られないようにそらす。そんな時に限ってタイミング悪く乗換駅に到着してしまう。

 先輩に連れられて乗り換える。なぜかは分からないが、先輩がドアの近くがいいと言って入り口近くに陣取った。先輩が言うにはこれですぐに目的地に到着するらしいが、まだどこに行くかがわからない。

「先輩、そろそろどこに行くか教えてくれてもいいんじゃないですか」

「まあまあ、次の駅だから」

 言うが早いか、車内アナウンスが流れる。

「次は神保町、神保町です」

 先輩はしたり顔でこっちを向いた。

「ずっと前から行ってみたいって言ってたから。いつも手伝ってくれるおかえし」

 憧れの町に来たという高揚感と、いつも強引に仕事を手伝わせてくる先輩の不器用な気遣いへのうれしさのような恥ずかしさのような感情がごちゃごちゃになって私のテンションはただおかしな感じに上がる一方だった。

「さて、行こうか」

 私は赤くなっているであろう顔でうなずくことしかできなかった。

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本のある町 冬月雨音 @rain057

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