展開図

柴田彼女

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 通りすがるその瞬間思わず、あ、と声が漏れた。前から似ている、似ているとは感じていたのだ。けれど実際こうして会えなくなって改めてじっくりと眺めると、やはり彼女とそっくりだなあとしみじみ思った。

 恐る恐る両脇を抱え、そっと持ち上げる。四、五十センチメートルほどのキティちゃんのぬいぐるみはいつもどおり左耳に赤いリボンをくくり、つぶらな瞳につんと澄ました表情でじっと僕を見ていた。

 ああ、本当に似ているなあ。僕は大きなキティちゃんのぬいぐるみをきつく胸に抱き留めたまま一直線にレジへと向かう。プレゼント用ですか? と訊ねられたがそれは否定し、

「値札だけ外して、そのままください」

 レジの向こう側で不審そうに僕を見つめる女性店員へ笑顔で礼を伝え、僕は早矢香ちゃんそっくりのぬいぐるみの手を取り、雑貨店を後にした。


 ぬいぐるみの早矢香ちゃんは左手を僕に預け、残りは全て重力に任せてだらんとしている。こんな態勢ではぬいぐるみの早矢香ちゃんは肩を脱臼してしまうかもしれないと思い、僕はぬいぐるみの早矢香ちゃんに目配せをする。ぬいぐるみの早矢香ちゃんは、真っ黒な瞳で前だけを見つめており、痛そうではなかった。ああ、よかった。僕はぬいぐるみの早矢香ちゃんの手をより一層強く握る。

 すれ違う二人組の男子高生に「うっわー何あいつ、キモ」と笑われ思わず傷ついてしまうが、ぬいぐるみの早矢香ちゃんは「そんな人たちなんて気にしなくていいんだよ」とでも言いたげにじっと遠くを見ていたので、僕もぬいぐるみの早矢香ちゃんに倣って前だけを見据えた。

 ぬいぐるみの早矢香ちゃんの手は、新品のぬいぐるみみたいにふわふわしていた。



 早矢香ちゃんと僕は二か月前まで恋人同士だった。早矢香ちゃんは明るい茶色のショートカットが似合う女性で、よく怒り、よく泣き、あまり笑わない人だった。

 早矢香ちゃんの左肘から下にはいつも細切れの裂傷があって、その傷は十年ほど前から常に一定数あるのだと早矢香ちゃんは僕に言った。痛くないの? と訊ねると彼女は「慣れちゃったもん」と呟き、そうして早矢香ちゃんは缶コーヒーをすすった。

 早矢香ちゃんにはいくつかの『精神疾患』があって、そのせいかはわからないけれど早矢香ちゃんはいつも生きるのが大変そうだった。いや、大変という言葉は適切ではないのかもしれない。早矢香ちゃんはたぶん、生きるのが億劫だったのだ。彼女は常に生命を維持するのが面倒で、しんどくて、鬱陶しくて、かったるくて邪魔くさかったのだ。

 早矢香ちゃんはよく耳に穴を開けていた。まるでステープラーで書類を束ねるみたいに気安く、気兼ねなく、何の気後れもせず、早矢香ちゃんは自身の耳にばかすか穴を開けた。

 早矢香ちゃんの耳はもうびっくりするくらい穴だらけだったから、僕はいつか早矢香ちゃんの耳が何にも聞こえなくなってしまうのではないかと本当に心配だった。

 けれど、早矢香ちゃんの耳が何の音も拾わなくなるよりも先に、僕が早矢香ちゃんの声を聞けなくなってしまった。

 ある夜、早矢香ちゃんは僕に電話をかけてきて、

「もう会いません。今までどうもありがとうございました」

 と敬語で言った。僕は数秒考えて、

「早矢香ちゃん、死んじゃうのは駄目だよ」

 僕はこの電話の後で早矢香ちゃんが自殺するのではないかと思った。僕はありとあらゆる言葉を尽くし、君と僕の未来は明るいのだと早矢香ちゃんに説いた。しばらくのあいだ早矢香ちゃんは僕の言葉を相槌すら打たずに聞いていたけれど、突然僕の言葉を遮って、

「うるさいんだよ」

 と叫んだ。

 僕には早矢香ちゃんの言葉の意味が理解できなかった。どういうこと? と訊ねる。早矢香ちゃんは、

「ねえ、何勘違いしてんの? 近藤くんといると息が詰まる。わかり切っていることをいちいち訊いてきて、馬鹿にするのもいい加減にしてくれってずっとずっと思ってた。リストカットの痕を見て痛くないの? って、はあ? 痛いに決まってるじゃん。生きるのがダルくて、気休めにピアスを開ければ音が聞こえなくなったら大変だよって、そんなことあるって本当に思ってるの? 死ぬのは駄目だよ、元気出そう、一緒に頑張ろうって、なんの権利があって近藤くんは私の死にたくてたまらないって気持ちを否定するの? 毎日毎日朝から晩まで嫌なことしか感じられなくて、覚えていられなくて、眠ろうにも眠れなくて、そういうの、どうせ近藤くんは知らないんでしょ? 死ぬのが駄目なら死ななくて済むような、死にたいって思わなくても済むような生き方を提示してみせてよ。そういう生き方を、私にもわかるように、今すぐに教えてよ。どうせできないくせに」

 早矢香ちゃんが深く息を吸う音が聞こえる。

「…………近藤くんさあ、馬鹿なんじゃないの」

 通話が切れる。

 ツー、ツー、と空虚な音を響かせるスマートフォンを耳に宛がいながら僕は自らの右手に視線を落とす。早矢香ちゃんの手を握った最後の日を思い出そうとして、それが遠い昔であることに気づいた。



 ぬいぐるみの早矢香ちゃんを連れアパートに戻る。夜風に冷えた身体を、ぬいぐるみの早矢香ちゃんと共に浴槽に浸けて人並みの温度まで回復させる。

 浴室から出ると、僕は自分の髪の毛よりも先にぬいぐるみの早矢香ちゃんの全身を乾かしてあげようとして、けれどどれだけドライヤーを当て続けてもぬいぐるみの早矢香ちゃんは全身から大量の水を滴らせている。仕方なしに僕はぬいぐるみの早矢香ちゃんに一言詫び、ひとまず自分の髪の毛にドライヤーを当てた。僕の髪はほとんど乾ききっていて、一分足らずで済んでしまった。僕はひどく申し訳ない気持ちになって、ぬいぐるみの早矢香ちゃんと目が合わせられない。

 再びぬいぐるみの早矢香ちゃんの身体を乾かしてあげる。必死に、あらゆる角度から僕はぬいぐるみの早矢香ちゃんの身体を乾燥させてあげようとするのだけれど、どれだけ丁寧にドライヤーをかけてあげてもぬいぐるみの早矢香ちゃんの表皮からはじんわりと水が滲み出てきてしまう。僕はもうほとほと困り果ててしまった。

 このままでは、ぬいぐるみの早矢香ちゃんは芯から冷えて風邪を引いてしまうかもしれない。早矢香ちゃんはすごく身体が弱いから、そんなことになったら本当に、本当に大変なことなのだ。僕は考える。どうしたらぬいぐるみの早矢香ちゃんの身体を、芯から乾かしてあげられるんだろう。


 何かいいものはないだろうか、僕は部屋中をぐるりと見回す。

 木製のハンガー、カーテン、薄型のテレビ、シングルベッド、折りたたみのテーブル、その上のトレイに納まる文房具――

 ここで僕は気がついた。ぬいぐるみの早矢香ちゃんの中に詰まっているのは肉ではない、綿だ。ぬいぐるみの早矢香ちゃんは、身体中の綿が湿ってしまったからいつまで経っても乾いてくれないんだ。つまり綿から綺麗に乾かしてあげれば、ぬいぐるみの早矢香ちゃんは風邪を引かないで済むのだ。

 僕はテーブルの上のトレイから鋏を手に取るとめいっぱい両刃を開き、ぬいぐるみの早矢香ちゃんの首に突き刺す。そのままゆっくり親指と人差し指の距離を近づけていくと、シャキ、と鋭い音がしてぬいぐるみの早矢香ちゃんの首元には大きな穴が開いた。

 僕は丁寧に、そして慎重に、ぬいぐるみの早矢香ちゃんを解体していく。ぐるりと一周首元に鋏を入れ胴体が離れると頭部の綿を抜いて、一度身体を床に置き、再び鋏を握って今度は両耳を取り外す。頭部と同じように耳の中の綿を引き抜いて、胴体、両手足にも同じように鋏を入れ、正確にぬいぐるみの早矢香ちゃんのパーツを分離させていく。

 一通り終わったところでざっとぬいぐるみの早矢香ちゃんの身体をチェックすると、ぬいぐるみの早矢香ちゃんには白くて丸い尻尾が生えていることに気がついた。ああそうだ、ぬいぐるみの早矢香ちゃんは猫なんだったなあ。僕はぬいぐるみの早矢香ちゃんの尻尾も丁寧に切り取って、中の綿を引き出してあげた。



 ぬいぐるみの早矢香ちゃんの中に入っていた綿を、丁寧に一つ一つタオルで挟み、叩くようにして乾かしていく。ぱん、ぱん、と力を込めるたび、ぬいぐるみの早矢香ちゃんの綿はからからになっていく。


 早矢香ちゃんは僕のことを馬鹿だと言ったけれど、僕は僕のことをあまり馬鹿だとは思わない。勿論秀才ではない、どう見繕っても賢いと言えるはずはない、それはわかっている。

 けれど僕にはこうしてぬいぐるみの早矢香ちゃんを完璧に乾かしてあげる手段を思いつくことができて、そのうえきちんと実行までできているのだ。ばらばらの開きになったぬいぐるみの早矢香ちゃんは、すっかり乾燥しきって、平面になった顔で僕をじっと見つめていた。

 僕も、いくつものパーツに分離しからからに干乾びたぬいぐるみの早矢香ちゃんを見つめ返してあげながら、やっぱり馬鹿なのは早矢香ちゃんの方だよなあと思っていた。


 そのうち教えてあげよう、と思った。

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展開図 柴田彼女 @shibatakanojo

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