金の牝鹿
昔あるところに金の毛並みを持つ美しい牝鹿がいました。彼女は毎日楽しそうに森の中を駆け回り、足を水につけ、甘酸っぱい実を口に含み、狩人達を翻弄して過ごしていました。
ある日の事です。兄の牡鹿が森で狩が始まると忠告をしにきました。
「ディアナ、今日は絶対にポプラの森に行ってはいけないよ」
「あら、どうしてよ兄さん」
湖につけていた顔を上げてディアナは笑いました。
「狩人なんて怖かないわ。奴らってば本当に愚図で鈍間なんですもの」
そう言うとディアナは再び水に口をつけて兄の言う事を聞きません。
「今日は一番恐ろしい人間が来ているんだ。あの人間の手にかかればお前も僕も決して無事ではすむまい」
「兄さんてば本当に臆病なのね」
兄の忠告も虚しく、ディアナはその人間がどれほど恐ろしいのか見てやろうと言う気になり、ポプラの森へと向かいました。
その時です。轟音と共に何かがディアナの頬を掠めました。次いで犬が追いかけてきます。いつもと違うとやっと気付き、ディアナは全速力で逃げ出しました。
やっとの思いで住処の近くまで帰ってくると、ディアナはクタクタの体で何とか木のうろに座り込みます。
その中で耳を澄ませますが、辺りは静寂に包まれ逃げ切れた事をディアナは喜びました。
しかし、ほっと一息ついたのも束の間、遠くの方であの音が鳴りました。一回、二回、三回、四回、そして仲間達の悲痛な叫び声も聞こえてきます。
やがて、辺りは本当に静まり返ってしまいました。鳥の囀りすらありません。一晩経ち、ディアナはようやくうろから出てきました。
「お兄様……ひっ?!」
横たわる兄に近寄ると、そこには首の無い鹿の身体がありました。
「何と酷い事を……」
込み上げる涙も、兄の周りに散らばる夥しい量の血痕で引っ込んでしまいました。それは兄だけの血では無いのでしょう。遺体こそありませんが、そこには友人や兄弟、父、母の匂いが混じっています。
「どうしてこんなことに……」
その場で泣き崩れるディアナは視界に映った自身の手に愕然としました。金色の毛並みに包まれていた手は毛など一本もなく、白く透き通った皮膚があるだけ。五本の指がバラバラに動き、顔に触れれば手足と同じように毛などありません。けれども頭にだけは金色に輝く美しい髪の毛が踵よりも長く伸びていました。
「ああ神様!一体なぜ私を人間になどしたのですか!こんな仕打ちはあんまりです‼︎」
家族や仲間の仇と同じ姿にされるなどこれ以上の罰があるだろうか。悲しみに暮れるディアナの元に、一人の男が静かに歩み寄ります。
「誰っ」
微かな音に反応して振り返ったディアナの目の前には、とても美しい男が立っていました。その両手には見慣れない道具が握られ、ディアナの姿を捉えると、肩の辺りまで持ち上げていたものをさっと下ろしました。
「僕はラスティン。君は?」
「私はディアナ」
「やあディアナ、君はどうしてこんな所にいるの?」
「……ここが私の家だからよ」
「ここが?!……ここは危ないよ、恐ろしい獣がたくさんいるんだから」
恐ろしい獣とは人間のことだろうか?ディアナはたしかに恐ろしいと思いました。けれども、ここを出て行く先などディアナにはありません。俯くディアナにラスティンは提案をします。
「君さえ良ければ僕と一緒に来ないかい?実を言うと……僕は君に一目惚れしてしまったんだ」
人間など信用できない。そう思ったディアナでしたが、ラスティンはどうやら本気でディアナの事を心配してくれているのだろうと伝わり、さらに誰かがいてくれた方が一人でいるよりは良いだろうと思い、ついて行くことに決めました。
ディアナが小さく頷くと、ラスティンの表情はパッと華やいで、茂みの向こうに合図を出します。すると、とても綺麗な毛並みの馬を連れた男がやってきました。その美しさに見惚れていると、ラスティンは笑います。
「馬がそんなに珍しい?」
「……そんなんじゃないわ」
ただ触れてみたいだけ、そう言ってディアナが馬を撫でてやると、馬は嬉しそうにしました。
「懐くなんて珍しい……ほら、乗せてあげるよ」
ラスティンはディアナを軽々と持ち上げると、馬に乗せてやります。今まで自分の足で走ってばかりだったディアナは馬鹿にして、と唇を尖らせましたが、いつもより高い目線からの景色に直ぐに目を輝かせました。
馬の背の上で、二人はいろんな話をしました。家族の事、趣味のこと、好きなものの話に、苦手なものの話。そしてラスティンの住む城に辿り着く頃には二人はすっかり打ち解けていました。
「僕の部屋に案内するよ、見せたいものがあるんだ!」
ラスティンはそう言うとディアナに目を瞑る様に言います。「何を勿体ぶっているの?」と呆れながらも、ディアナはラスティンに手を引かれるまま言われた通り瞼を閉じてついていきます。
「さぁ、目を開けて」
ラスティンの合図に目を開いたディアナは心がズタズタに引き裂かれました。
そこには壁一面に鹿の首が掛かっていました。
仲の良かった友人、少し気難しい叔父さん……けれども真っ先に飛び込んできたのは、中央に掛けられた兄の首でした。その両脇には両親の首があります。
「ぁ……あ……」
「驚いただろう?本当はここに、君の髪みたいに金色に輝く牝鹿の首も飾りたかったのだけれど、彼奴はすばしっこくてなかなか捕まらないんだ」
「けれど彼奴が住処に案内してくれたおかげでこれだけの首を一度に仕留めることができたんだ。もしかしたら神の使いなのかもしれないな」
「案内……した?」
ディアナはそこでようやく自分の愚かさを知りました。あの日、兄の忠告通り行かなければ家族も友人も死ぬことはなかったのでしょうか。死してなおその悲痛な首を見せ物にされることもなかったのでしょうか。心が完全に砕け、ディアナはその表情に静かな笑みを浮かべました。
「ねえ、ラスティン貴方の腰にかかっている剣はとても美しいのね」
ディアナの笑みに気分を良くしたラスティンは自慢げに剣を腰から外すとディアナに手渡します。
「それはそうさ、この剣を作るために何度も職人の元へ通ったんだからな。しかし追求した甲斐があったと言うものだ。この剣の切れ味は素晴らしい。あの獣の首を一太刀で切り落としてしまえるのだから」
「そうなのですね」
ディアナ一層笑みを深くしたかと思うと、恐ろしい表情でラスティンの頭を切り落としました。悲鳴を上げる間すら与えずに、その身体をバラバラにすると家族の首を壁から下ろし、ラスティンの一部をそれぞれ掛けました。
そして何とか家族の首を森へ連れて帰ると墓を作り、ラスティンの剣を腰に挿して旅に出ました。
……
「それで終わり?」
少女はつまらなそうに母に問いかけます。
「そうね、このお話はここでおしまい。でもディアナの冒険はまだまだ続くのよ」
母の言葉に少女は目を輝かせました。けれども直ぐに暗い顔になります。
「ディアナはどうしてラスティンの剣を持って行ったのかな?だって、お父さんとお母さんとお兄ちゃんを殺した剣でしょ?」
「それはね……ラスティンの事も、愛していたからよ」
そう答えると、母親は本を閉じ夕食の支度のために台所へ向かいました。娘は一人本の表紙に描かれた寂しげな牝鹿を見つめます。
「最後はハッピーエンドが良いな」
そう呟くと本を抱きしめ、深呼吸をしました。そして本棚に戻すと、台所へと駆けていきます。
台所からは楽しげな親子の会話が漏れ聞こえ、絵の中の牝鹿はほんの少し微笑みを浮かべました。
geMstonE 彩亜也 @irodoll
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