7- 散りゆく花の終わりに

 僕が次に目を覚ましたのは粗末なベッドの上だった。ちかちかと明滅する裸電球がぶら下がり、思わず嗚咽しそうなほど濃密な薬品臭に満たされた部屋。

 そこが〈ヴォルケイノ〉の施設だと理解が追いついたのは、すぐ近くの壁に赤髪の男が寄り掛かっていたからだった。男は僕が目覚めたのを確認するや、何も言わずに部屋を出ていく。しばらくして扉外の階段を下りてアタッシュケースを抱えたスカーフェイスが部屋へとやって来た。


「お目覚めですねぇ、イエロージャケット。まずは勝利おめでとうございます」


 面の皮が厚いとはこのことだろう。僕を当て馬にしようと目論んでいたくせに、スカーフェイスは笑顔さえ浮かべながらするすると祝いの言葉を吐いた。

 僕は肩から先のない上半身を器用に使いながら身体を起こし、スカーフェイスを睨む。


「思ってないだろ。僕が勝って、あんたたちは割を食ったはずだ」

「うふふ。お気づきでしたか。それはもう大変ですよ。貴方のおかげで予定していた取引は中止。おかげで私は大損ですよ」

「約束の五〇〇万は――」

「それはもちろん払いますよ。約束ですからね」


 スカーフェイスは言って、抱えていたアタッシュケースを掲げてみせた。あのなかに灰貌症の治療費となる五〇〇万もの大金が入っているのだろう。僕は最悪、約束を反故にされかねないと思っていたので内心で胸を撫で下ろした。


「指定の口座に振り込んでおくこともできますけど、どうしましょう?」

「いいや。信用できないから自分でやる」

「うふっ、ひどい言い草ですね。ちゃぁんと約束守ってるじゃないですか」

「今のところはな。でも信用したわけじゃない」


 当然の警戒心だ。何せこの男は僕の命を取引とやらのために利用したのだ。そんな人間の言うことやすることを素直に信用できるはずもない。


「じゃあ現金はここに。気になるようなら中身はご自分で数えてください」


 スカーフェイスはベッドの上にアタッシュケースを置いた。用は済んだはずだったが、いつまでもベッドの脇に立っている。


「まだ何か?」

「これからどうするんです? 花屋はもうほとんど〈天傘領域アンブレラ〉の準市民です。もちろん貴方が彼女の後を追うことは無理でしょう。現役時代の一件はリング禍の事故ですが、今回のは明確な殺人。圏外アンフェイスではいちいち咎になるような問題じゃありませんが、〈天傘領域アンブレラ〉では色々とあることないこと調べられますからねぇ。それに貴方の身体。もう長くはなさそうじゃないですか」


 ベッドの上の僕を舐めるように眺める。不躾な視線を向けられる腕のない僕の身体には灰が浮いていた。

 僕が従事する清掃業は圏外アンフェイスに積もる〈黒灰ダスト〉の除去作業も請け負う。有害物質に直接触れる清掃員は、言わずもがな灰貌症にかかる率もべらぼうに高い。ずっと吐いていた黒い痰はその兆候だった。


「自分の身体を顧みず、好きな女を助けるなんて涙が出ちゃいますよ。私、最近年のせいか、そういう自己犠牲に弱いんです」


 そう言ってスカーフェイスはわざとらしい泣き真似を始める。いちいち人の神経を逆撫でする奴だ。腹が立ったので、僕は何も答えなかった。


「花屋は何も知らないんですか? 幸い顔には灰化が出ていませんもんね。恩人が自分の命と引き換えに助けてくれたと知ったら、きっと彼女は哀しむでしょうねぇ」

「恩人なんかじゃない」


 思いの外鋭くなった声に、スカーフェイスは肩を竦めた。僕はもう一度、同じ言葉を繰り返す。

 ヒナタは僕のせいで不幸になった。だからこれは単なる贖罪。陥れてしまった不幸への、ささやかな罪滅ぼしに過ぎない。そこにヒナタが僕に感じるべき恩などというものは存在しない。いや、あってはならないのだ。


「……そうですか。まあ貴方たちの事情に大した興味はありません。そういうのに深入りしてもろくなことにはなりませんからね」


 スカーフェイスはにやけ面のまま言って身を翻す。革靴の踵で床を叩くように鳴らしながら歩き、軽やかな足取りで階段を上って部屋から出ていった。


   ◇


 新しい医療用義腕を〈ヴォルケイノ〉から買ったすぐに僕は彼らのアジトを後にし、勝ち取ったファイトマネーを〈天傘領域アンブレラ〉の医療機関へヒナタの名義で振り込む。空になったアタッシュケースを路傍に捨て、〈黒灰ダスト〉が降り続く圏外アンフェイスの街を宛てもなく、幽鬼のような覚束ない足取りでふらふらと歩いた。

 試合の後遺症だろうか。全身は未だに鉛のように重く、軋むように痛んだし、視界は霞んだり歪んだりを繰り返した。だけど代わりに、頭のなかにヒナタの面影が鮮明によみがえった。

 僕の頭に浮かぶのはヒナタのことばかりだった。〈天傘領域アンブレラ〉での生活はどうだろうか。不自由なく暮らしているだろうか。灰貌症の治療は辛くないだろうか。ちゃんと食事を摂れているだろうか。夜は眠れているだろうか。

 僕は不意に咳き込んで、込み上げた黒い痰を吐く。頭の奥に疼痛が響き、眩暈が僕を襲う。それでも僕は足を止めることなく街を歩く。積もった〈黒灰ダスト〉に足跡をつけ、幽鬼のように歩き続ける。

 もうヒナタには会えない。そもそも会うべきじゃない。僕は彼女の不幸の元凶であり、だからこそ彼女の未来に関わってはいけない人間だ。思い浮かぶのは彼女のことばかりだったけれど、どれももう現実に見ることは叶わないものであるべきだ。そしてできることなら、〈天傘領域アンブレラ〉の豊かな生活がヒナタの記憶から僕を消し去ってくれることを願った。

 もうあの日の告白の答えを聞くことはできない。僕とヒナタは愛を囁き合うためでなく、罪を贖うためだけに出会った。僕らはきっと、そういう運命だった。

 それなのに宛てなく歩いていたはずの僕の足は、気が付くと彼女との時間のほぼ全てが詰まった花屋へと辿り着いていた。

 シャッターを開け、店主を失った花屋へと入る。ほんの数日ほったらかされていたせいか、あるいは毎日すぐそばで咲き誇っていた太陽を失ったせいか、棚に並ぶ花たちはどこか元気なく下を向いている。

 それから僕はヒナタの友人たち一人一人に声を掛け、回復を願って水を上げた。もうヒナタがここに戻ってくることはない。だけど花たちを枯らしてしまうわけにはいかないと、なんとなくそう思った。

黒灰ダスト〉混じりの汚水は備え付けの浄水装置で濾過され、おおよその透明さを取り戻す。完全に無害とは言えないだろうが、僕はこれ以上の水の洗浄の仕方を知らない。こんなことなら花の世話の仕方についてヒナタから指南を受けておくべきだったと少し後悔した。

 水やりを終え、僕はカウンター脇の椅子に腰かけて店内を眺める。ヒナタがいつも眺めていただろう景色を、僕は未練がましく見回した。

 ピンクの花を開くのはゼラニウム。紫に白に黄色、色とりどりの花を咲かせるのはパンジー。逆さにした傘のような花はチューリップ。そして、白く細い無数の花弁を広げるマーガレット。


「〝君ありて幸福〟、〝慎ましい幸福〟と〝思慮深い〟、〝思いやり〟……」


 僕はいつの日か、ヒナタが楽しそうに教えてくれた花言葉を順繰りに唱えていく。そうやって花たちを見回し、僕はマーガレットの花言葉だけ聞きそびれていたことに気が付いた。

 言わずもがな、圏外アンフェイスに便利なネット環境はない。僕は心のなかに土足で踏み入るような後ろめたさと申し訳なさを感じつつ、ヒナタの部屋にある隙間だらけの本棚から草花の図鑑と思わしき一冊を手に取った。

 僕はページの端が擦り切れた図鑑を捲っていく。ページによっては隅の余白にはヒナタの字で育て方やきっと何度も何度も繰り返し読んだのだろう。開いたページのどこを見ても、ヒナタが花に向けていた愛情を感じられる気がした。

 図鑑には店では見たことのない花も載っている。朝にしか咲かない花や水に濡れて花弁が透明になる花。花を咲かせたあと綿毛のついた種をつけ、風に乗せてそれを運ぶ花。

 僕は最初の目的を先送りにしつつ、図鑑に没頭した。ページの隅から隅を読んで、妙に力の籠った手でページを次へと捲る。色褪せた写真を瞼に焼きつけ、僕は目を閉じる。

 そこには一面の花畑が広がっている。色とりどり、かたちも様々な花が一面に咲き誇る場所。その中央には自らの脚で立つヒナタの姿がある。もちろんそこに僕はいない。僕は澄んだ透明の風になって舞いながら、花を愛でては流れて消えていく。

 ヒナタはゆっくりと歩いている。両手には世界中の宝石を集めたような、きらきらと光る花束が抱えられている。きょろきょろとあたりを見回し、どうしてか寂しそうに俯く。彼女の表情の意味は僕には分からなかった。

 僕はたびたび現実に戻り、図鑑を読み込んだ。咲き誇る花の数が増えれば、想像のなかにいるヒナタの表情も晴れるのではないかと思った。

 だけどいくら花が増えても彼女の表情は増えなかった。花束が煌めきを増すごとに、彼女の表情は曇っていく。

 僕はそれでも花を増やし続ける。やがて僕の手はマーガレットのページへと辿り着いた。


「……〝真実の愛〟」


 それがマーガレットの花言葉だった。僕はもう一度その言葉を繰り返し目を閉じる。瞼の裏に花束が広がって、やがて声が聞こえた。


「マーガレットの花言葉」


 僕はゆっくりと目を開けた。そして驚きの余り掠れた声が半開きの口から漏れる。


「……なん、で?」


 棚に並ぶ花に囲まれて、店の中にはヒナタが佇んでいた。彼女は装備していた樹脂カーボン製の防塵マスクを外し、にこりと微笑む。その笑顔に、もう命を蝕んでいた灰色の影はない。


「なんで……?」


 僕はもう一度、今度は少しましな声で言う。喉の奥で痰が引っ掛かり、僕は込み上げる乾いた咳を呑み込んだ。


「あの日の答え、まだだったから」


 咲き誇る一面の花畑が見えた。赤、青、黄色――無数の色に溢れていた景色が一瞬のうちに白へと塗り替えられていく。

 そよぐ柔らかな風がマーガレットの花弁を散らし、視界の全ては柔らかな白に覆われていく。

 僕は目を閉じる。目を閉じても視界は白いまま。

 全てを満たす白のなかに、ヒナタの笑顔だけが見えている。

 薬指で煌めくガーネットの赤だけがやけに鮮明だった。


「私もね、アクタガワくんのことが――――」

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鋼の拳、硝子の花束 やらずの @amaneasohgi

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