6 - 24フィートの断頭台

 圏外アンフェイス某所――。地下に設けられた賭博会場は異様な熱気に包まれていた。

 野次を飛ばす観衆が取り囲む中心には一辺二四フィート、高さ二フィート強のリング。スポットライトが照らし出すその場所には、機械の拳を構えて対峙する二人の男たち。

 青コーナーはアジア系の顔立ちにピンク色の髪を逆立てた三白眼の男。髪と同じ色でペイントされた義腕が目を引く。典型的なインファイトのスタイルをとる拳闘士らしく、左瞼を腫らしながらも果敢に攻め続けている。

 対する赤コーナーは全身に刺青を入れたドレッドヘアの黒人。明らかに規定値を逸脱した木の幹のような太さの義腕は闇拳闘ならではだろう。半開きになった口からはだらだらと血と涎の混じった液体が垂れ流されている。

 どちらが優勢かは改めて言うまでもなかった。

 やがて三白眼が踏み込み、ラッシュを放つ。ドレッドヘアも防御ガードを上げつつ間隙を縫いながら懸命に腕を振るが、豪速の拳はあまりに大味で虚しく空を切る。ここが攻め時と判断した三白眼はさらにラッシュ。とうとうコーナーまで追い込まれたドレッドヘアに逃げ場はなく、拳の雨に晒される。頑なに頭を守っていたドレッドヘアだったが、防御ガードが上がって僅かに空いた脇腹に三白眼のフックが減り込む。ドレッドヘアはマウスピースごと込み上げた血を噴き出してよろめく。その刹那、三白眼の拳が殺到。無防備を晒すドレッドヘアの体躯を八つ裂きにし、顔面を真正面から砕いた右正拳が決定打となった。

 勝負あり――。

 コーナーに叩きつけられたドレッドヘアが勢いそのままに仰け反り、リングの外に頭から落下する。ロープを越えて駆け寄った審判レフェリーが確認するまでもなく、ドレッドヘアは絶命している。陥没した顔面の内側から砕けた骨が皮膚を突き破って露出していた。

 観衆たちは罵声とともに赤いチケットを投げ捨て、あるいは青いチケットを握りしめて歓喜の声を上げる。誰も人が一人死んだことなど気に留めてはいない。あまりに酷薄でろくでもない狂気が会場に蔓延していた。


「緊張してます?」


 会場から引き摺り出されていくドレッドヘアを遮るように、僕の前にスカーフェイスが割り込んだ。


「まぁ二年ぶりの実戦ですもんね。義腕の調子はどうですか? できる限りの調整はしたつもりでいますけど」


 僕はぐるんと肩を回す。〈ヴォルケイノ〉の用意した競技用義腕は僕が現役当時に使っていたものによく似た二世代前の義腕だ。経年劣化による人工筋肉の緩みはあるが勝手が分かることもあって使い心地はまずまず。もし不安要素があるとすれば義腕ではなく、僕の勘の鈍りだろう。


「問題ない」


 僕はニヤつくスカーフェイスにそれだけ言った。


「ま、今更不具合があったところでどうしようもありませんしね。ではでは、頑張って盛り上げてくださいよ。ぜひとも残り五〇〇万、手に入れてくださいよ」


 スカーフェイスはウインクを飛ばして僕にガウンを被せるや、すぐそばの階段から二階のVIPルームへと上がっていった。僕は目深に被ったフードの奥からリングを見据え、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。

 間もなく最終試合メインイベントの準備を整えたリングから、歓声を裂いて響くマイクの声が聞こえた。


『本日のメインイベントォッ! まずは青コーナー……。かつては地上のリングを沸かせた若き拳闘士が闇拳闘に初参戦。〈機鋼拳闘アイアンフィスト〉フリークのお前なら知ってるだろうっ。リングを舞う様はまさしく猛る雀蜂のよう。その拳はまたも、命を貫くことがァッ、できるのかぁああああっ――』


 僕はバンデージを巻いた拳で自らの頬を叩く。震えている暇はない。この拳も、この汗も、この命さえも全てはヒナタの未来のために。


『イエロォォォォッ、ジャァァァケッットォッの、入場でぇぇぇすっ!』


 会場のボルテージが最高潮に達する。僕はリングまで伸びる花道を一歩一歩確認するように踏み出していく。野次が刃となって身体を掠め、歓声が枷となって手足に絡む。僕を守るものは何もない。嵐の只中で、ヒナタの存在だけが僕の足を前へと進ませた。

 僕はロープの隙間からリングイン。リングから見渡す観客の七割以上が青いチケットを振っている。これはつまり、僕のほうが相手よりもオッズが高いということになるのだろう。僕は目を閉じてゆっくりと深呼吸をする。膝の震えを抑えるため、僕はリングのなかをぐるぐると歩き回る。


『続いて赤コーナー……。闇拳闘の戦績は四戦無敗。しかし立ちはだかるは過去最強の難敵。しかし黒き猛牛の突進は止まらねえっ! 今日もまたリング上に屍を築いてみせるぅッ! マァァァッドブルのっ、入っ! 場っ! でぇぇぇっすっ!』


 会場が再び大きく湧いた。地下空間はこれでもかと熱気に満たされ、質量を得たような重厚な歓声と野次が柱や天井を軋ませる。

 僕はリング上から逆サイドの花道を見据え、そして思わず息を呑む。

 花道をゆっくりと進んでくるのはの男。肩にかけられたガウンから覗く躯体は鉄塊のように分厚く、フードの奥では赤く血走った目が爛々と光る。大男はリングロープの一番上を軽々と跨ぎながら、リングへと足を踏み入れる。その威容のせいかリングがひどく小さく見えた。

 お互いにガウンを脱ぎ、審判レフェリーの指示のもとリング中央で向かい合う。マッドブルは頭一つ分僕よりも背が高く、そして僕の二倍は身体に厚みがある。かつてボクシングを始めとする格闘技の多くが、厳格な体重測定や細かな階級分けをしていた通り、〈機鋼拳闘アイアンフィスト〉もまた、重量がものを言うスポーツであることは言うまでもない。

 視界の隅にチラついたVIP席ではスカーフェイスがにやけている。隣りに座っているのは招待された対抗組織か何かのお偉方だろう。手には赤いチケットの束を握っている。

 メイン試合と銘打ったこれは、つまるところ拳闘士としてネームバリューのある僕をスケープゴートとした接待試合というわけだ。招待客を賭博に勝たせるため、僕はまんまとこのリングに祀り上げられたのだ。


「ぶんぶんケツまくって逃げ出すなよ?」


 残念だがマッドブルの挑発に応える余裕はない。僕は既に、逃げ出したい衝動に駆られている。

 マッドブルが僕を見下ろしていた。間に立つ審判レフェリーが拳を構えるよう告げる。僕らは構えを取り、お互いの右拳をゆっくりと重ね合う。

 そして、甲高いゴングが開戦を告げると同時、僕の視界が凄まじい衝撃とともに暗転した。


   ◇


 天井から射す照明が瞼を焼く。遠退いていた罵声と野次が津波のように押し寄せて戻ってくる。何重にも重なって見えた視界はようやく焦点を結び、審判レフェリーが刻むカウントが耳に入って、僕は起きたことをようやく理解した。

 試合開始ゴングと同時に見舞われた右フックが僕を捉えたのだ。咄嗟の反応で防いだにも関わらず、衝撃は僕の脳を揺らし、膝を砕いた。

 信じられない。公式のリングと違い、闇拳闘では頭部装備ヘッドギアとグローブをつけないが、たったそれだけでここまで打撃の威力が増すというのだろうか。

 僕は右手でロープを掴み、ゆらゆらと立ち上がる。審判レフェリーがカウントを八まで数えたところで僕は両拳を構えて戦意を示す。

 だが構えると同時、僕は唖然とした。マッドブルの右フックを受け止めた左腕がくの字に歪んでいるのだ。外部の補強骨格が折れ、内側からは人工筋肉がはみ出している。潤滑液が肘から滴り、リングに滲みを作っている。

 たったの一撃で、左腕はほとんど使い物にならなくなっていた。

 試合が再開。マッドブルは首を鳴らしながら口角を獰猛に歪める。


「いきなり倒れんなよなぁ? 頼むぜ、坊や。震えてるぞ?」


 マッドブルが踏み込み、拳を繰り出す素振りを見せる。僕がそれに合わせて身体を引くと、マッドブルはげらげらと笑った。

 足が竦んでいた。膝はがくがくと笑い、大して動いてもいないのに息は苦しい。僕は目の前の相手ではなく、自分の臓腑から込み上げる吐き気に注意を払うので精一杯だ。

 貪るように酸素を吸う。歪んでいた視界は急速に狭くなる。


「ビビってんじゃねえよッ!」


 マッドブルが踏み込み、今度こそ拳を見舞う。軽いジャブにも関わらず、僕の体躯はロープまで吹き飛ばされる。僕は追撃が来る前にロープの反動をうまく使いながら逃れる。それはフットワークなどと呼べる代物ではない。ほとんどただ走って逃げただけだ。

 観客からは激しいブーイングが沸き起こる。それがまた僕の動悸と震えを加速させる。


「逃げてばっかりじゃ勝負にならねえじゃねえか。勘弁しろよなぁっ!」


 言葉とは裏腹に、マッドブルは獲物を追い立てる肉食獣のように悪辣な笑みを浮かべながら迫ってくる。リングのなかをたどたどしく逃げ回るだけの僕に対し、マッドブルもただ真っ直ぐ無造作に距離を詰めて拳を振るう。

 アッパー気味の一撃が僕の防御ガードを崩す。仰け反って無防備を晒したボディにすかさずブローが見舞われる。内臓を握り潰されたような激痛に喘ぎ、僕は膝を折った。息ができなくなって発情した犬みたいに無様に喘ぐ。

 前のめりになっていた僕の顔面を、マッドブルが容赦なく蹴り上げる。僕は仰け反り、仰向けにリングに沈む。顎が痺れ、口のなかには鉄の味が広がる。

 もちろん倒れている相手への攻撃も、蹴りも反則だ。だがそれすらも有耶無耶になるのが闇拳闘。狂った猛牛の暴挙を止める人間はどこにもいない。

 立ち上がった僕を挑発するようにマッドブルが手招きをする。僕は口腔の血を吐き捨て、左腕を前にするオーソドックスな構えを取った。

 マッドブルが防御なしノーガードで間合いを詰めてくる。完全に侮られている。しかし握った拳を繰り出そうとすると胸の奥が激しく脈打ち、全身の細胞が頑なにそれを拒む。

 マッドブルの大樹のような腕が鞭のように撓る。僕はウィービングと呼ぶにはあまりに不恰好な仰け反りでマッドブルの打撃を辛うじて躱し、足を動かしながら距離を取る。空拳が鼻先を掠め、鼻梁が折れる。まるで蛇口を捻ったように鼻血が噴き出した。

 僕は距離を取りながら血塗れになった顔の下半分を乱暴に拭う。闇拳闘では出血した際に塗る止血剤などはない。血を流し続ければ集中力は削がれ、やがて失った血とともに命がこぼれていく。


「へへっ、どうしたどうしたぁっ!」


 マッドブルが距離を詰めてきていた。血を拭うために下がった僕は不用意にもコーナーに追い込まれている。繰り出される左フックを右腕で防御。防御ガードを上げたところに腰下への打撃ローブローが繰り出される。慣れない衝撃と激痛に僕の体勢が傾ぎ、そこをすかさず打ち下ろされるマッドブルの拳が襲う。僕は咄嗟に背中を丸めて体勢を低くしながらマッドブルの連撃ラッシュに耐える。

 僕は拳の嵐に晒されながらも、好きを見てマッドブルの左腕の下を掻い潜りコーナーから脱出。しかし僕のお株を奪うように放たれたマッドブルの裏拳が回避先で僕を待ち受け、ほとんど無防備な顔面を強かに打ち据える。

 頬骨が砕け散る凄絶な音ともに吹き飛んだ僕はリングロープを越えて場外へと叩き落とされる。受け身すらまともにとれず、僕は肩から冷たいコンクリートに落下した。

 倒れ伏して血と砕けた歯を吐く僕に観客の罵声が投げつけられる。しっかりしろ。殺せ。いくら払ったと思ってる。殺せ。殺せ。殺せ。身勝手で鋭い言葉が呪いの釘のように僕の魂に食い込んだ。

 自分が立っているのか寝ているのかも判然としなかった。僕はリングから伸びた手に髪を掴まれ、強引に引っ張られてリング上へと転がされる。青く腫れた頬を爪先で突かれる。こちらを見下ろすマッドブルが凶悪な笑みで僕に立てと告げていた。

 罵詈雑言が殺到する。リングには酒瓶や紙屑などが投げ込まれる。

 それでも僕は立ち上がった。勝たなければいけない。勝たなければヒナタを救うことができないのだ。

 殺せ。ヒナタの灰貌症を治すにはそれしか方法がない。過去の罪を、新たな罪で雪ぐ。それが僕のようなクズにできる全てなのだ。

 震えが弱まった。僕は拳を構えた。リングに落ちたときに捻ったらしく、左腕はもう上がらない。右腕一本の半端な構えを取り、霞む視界にマッドブルの巨躯を捉える。

 これまでのようなかたちだけのポーズではなかった。握った右拳に、明確な殺意を乗せた。


「ようやくヤる気になったな」


 マッドブルが構えを取るや、鋭く踏み込んでくる。左ジャブをパンチングで払い、右のアッパーカットをスウェーバックで躱す。

 拳を振り切ったマッドブルの左側に僅かな隙間。身体は本能的に動いていた。

 引いた脚を軸にして前に体重を乗せ、右のコークスクリューをマッドブルへ見舞う。しかし拳が頭を捉えるより先に、マッドブルの防御ガードが軌道上に割り込んだ。

 鋼同士の激しい衝突音。

 衝撃に押し返されるように僕はたたらを踏む。完全に防がれた打撃は全く効いていない。だが殴れた。あれほど恐れていたはずの拳を、また放つことができた。その手応えだけで十分だ。

 マッドブルは僕の左手側へ回り込むようにフットワークを取りながら間合いを詰めてくる。僕は攻撃を警戒しながら、上体を左右上下に揺らウェービングして足を動かす。

 典型的なインファイトボクサーのマッドブルが僕を押し込むように突き進む。鋭い牽制ジャブからの右拳。技術も戦術も存在しないが、全てを圧倒的なパワーでねじ伏せようとする。

 振るった右拳が僕の左義腕の接合部を穿つ。何かの部品が弾け飛び、付け根から蒸気が噴射。僕の意志とは無関係に、左腕が陸に捨てられた魚みたいに不気味に跳ねる。

 息を吐く間はない。畳みかけるマッドブルの右拳が斜め上の軌道を取って迫る。僕は大胆に身を捩って回避。胸元を擦過していく拳が肌を浅く抉っていく。

 ここがおそらく正念場――。

 僕はがら空きになったマッドブルの右脇腹に左拳を叩き込む。強引な駆動に耐えかねた左腕が衝撃とともに分解。体勢を崩しながら、僕は時計回りに身体を捻る。

 リングシューズが床を擦る甲高い音と、爆ぜるような打撃の音はほとんど重なって響く。

 手の甲を砕くほどの凄まじい衝撃が、マッドブルの頭蓋を打ち据えた。

 裏拳を見舞った僕はそのままスリップして背中からリングに落ちる。前のめりにたたらを踏んだマッドブルはロープに寄り掛かる。しかしその膝にはまだ力が込められている。

 ――倒れない。文字通りの捨て身。全身全霊で放った一撃は確かにマッドブルに命中クリーンヒットした。だがそれでも、この巨躯の怪物をリングに沈めることは叶わないというのか。

 にわかに過ぎる絶望に屈する暇はなかった。

 僕は気力を振り絞って立ち上がる。入れ違うように、ロープにもたれていたマッドブルの巨躯が揺らぎ、天を仰ぐようにリングへと沈んだ。

 陥没した頭蓋からは血と脳漿の混ざる液体が漏れ出し、リングに滲みを広げていく。

 もうマッドブルが動くことはなかった。かつてのヒナタの兄と同様に、見開かれた両目は差し込む光さえ反射せずに黒く淀んでいる。

 勝利を祝う鐘が鳴った。駆け寄ってきた審判レフェリーがズタズタになった僕の右手を掴んで掲げる。ぼやけた視界の先では歓声とともに赤いチケットが宙を舞っていた。

 やがて世界が白くなっていく。仰いだ天井に溢れる光のなかに、太陽のような笑顔で咲き誇るヒナタの顔が見えた気がした。

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