5 - この罪を雪ぐために

「開けてくれ! 頼むよっ、開けてくれってば!」


 僕は聳える白亜の壁を殴りつける。〈天傘領域アンブレラ〉と圏外アンフェイスとの境界線。つまりそれは人間と人間でないものを隔てる壁だった。

 医療用義腕に被せてある人工皮膚スキンが剥げ、露出した鈍色の指は折れて内部機構を露出した。構わなかった。義腕なんて代わりが利く。だけど命は一度失われてしまえば二度と戻ってはこないのだ。


「開けろっ! 頼むっ! 開けてくれぇっ!」


 握った拳を振り下ろす。衝撃に耐えかねて肘のスプリングが弾け飛び、その反動で僕は尻もちを突いた。


「クソったれがっ!」


 喉を裂く勢いで叫ぶ。しかし切実な雄叫びも、降りしきる〈黒灰ダスト〉混じりの風が掻き消してしまう。

 僕は再び立ち上がった。人の力などで揺らぐはずもない壁に向かって突進し、既に無惨に破損している腕を何度も振るった。

 やがて騒ぎ続ける僕を追い払うべく〈天傘領域アンブレラ〉のセキュリティが作動。どこからともなく現れた円盤にプロペラを括りつけたようなかたちの無人機ドローンたちが、搭載される照準装置ポインターで僕を威嚇した。


『騒擾行為ヲ確認。直チニ立チ去レ。サモナクバ発砲スル。繰リ返ス。騒擾行為ヲ――』

「頼む! カメラから見てるんだだろっ? このままじゃヒナタ……彼女が死んじゃうんだ! 助けてくれよ。ほんの少し薬を分けてくれるだけでいいんだ! なあ! 頼むよっ!」


 僕は無人機ドローンに向けて叫ぶ。こんなところで死なせるわけにはいかない。だってまだ聞いていないのだ。言いかけたままになっているヒナタの返事すら、僕はまだ聞いていない。

 しかし無人機ドローンは夜の闇のなかを静かに滞空しているだけで、向けられた銃口が僕から逸れることはない。


「聞こえてるんだろ! 助けてくれよ、頼む。僕はどうなってもいい! 彼女だけでも助けてやってほしいんだ。おねが――――」


 無人機ドローンが容赦なく発砲した。弾丸は不明瞭な視界のなか、全くぶれることなく的確に飛んで僕へと襲い掛かる。僕は咄嗟に腕で防御――手首のあたりに弾丸が命中して火花が散った。

 射撃を受けた反動で吹き飛ぶ。地面を転がり、積もった〈黒灰ダスト〉が宙を舞う。

 どうやら無人機ドローンに搭載されるのは非殺傷性の麻酔弾らしい。弾速が遅く、威力も抑えられているからこそ反応することができた。

 僕は起き上がり、そのまま地面に両手をついて額を地面に押し付けた。


「お願いだ! 助けてやってくれ!」


 馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。叫ぶと口のなかに〈黒灰ダスト〉が入った。だがそれでも構わず叫び続けた。他にできることは僕にはなかった。

 やがて無人機ドローンは叫び続ける僕に呆れたように去っていった。精一杯の懇願が突き放されたことに絶望していると、継ぎ目のなかった白亜の壁に四角く切り取られたような筋が走る。それが扉だと気づくや、扉は内側から押し開けられ、その隙間から重量感のある筒が投げて寄越された。


「助けてやることはできねえ。決まりだからな。それ持ってとっとと失せな。あんまり騒ぎ続けると、もっと厳めしい無人機ドローンがお前らを処分しにくるぞ」


 薄く開いた扉の向こう側から声が聞こえた。僕は地面を這い、〈黒灰ダスト〉のなかに埋まる筒を抱え上げる。


「これは……?」

「ったく、圏外アンフェイスの連中はそんなことも知らねえのか。青券の連中がこっちに入るときに使う洗浄液の余りだよ。治療ってほどにはならねえが、〈黒灰ダスト〉の症状を多少は抑制できるはずだ」

「……っ!」


 僕は赤ん坊を抱きかかえるみたいにその筒を胸に抱いた。ひんやりとした金属の感触が熱を持った僕の身体に滲みた。


「……ありがとう……ありがとう!」

「分かったからさっさと行け。ここで起きたことは他言するんじゃねえぞ」

「でもどうして……」


 僕は扉の向こうにいる姿の見えない恩人に問う。


「んなこと聞くんじゃねえよ。野暮か、おめえ。俺たちだってな、好き好んで圏外アンフェイスの連中を見殺しにしてるんじゃねえんだ。生きてくために仕方なく選り分けてんだよ。分かったらさっさと行けって」


 捲し立てるように言われ、扉が閉められる。白亜の壁に浮かんでいた四角い亀裂は再び見えなくなった。

 僕はもう一度感謝を唱えてから洗浄液の筒を抱えて立ち上がり、車椅子の上で意識を失ったままのヒナタのもとへと戻る。彼女にかぶせていた僕の上着を払って〈黒灰ダスト〉を散らし、少しでも〈黒灰ダスト〉除けになればと再びそれを被せる。


「ありがとう」


 僕は厳然と聳える壁をもう一度振り返って、すぐにその場を後にした。


   ◇


 洗浄液を滲み込ませたタオルでヒナタの身体を一通り拭い終えた僕は深い息を吐いた。

 不安を誤魔化すための吐息だ。

 ヒナタは依然として眠ったまま。自分が今施した処置が正しいものなのかも分からない。それでもできることは精一杯やった。僕には自分にそう言い聞かせて納得するしかなかった。

 彼女が再び目を覚ますよう、僕は普段これっぽっちも信じていない神に祈る。人事を尽くして何とやらとはかつてよく言ったらしいが、人は本当にどうしようもないとき常識の埒外にいる何かに願わずにはいられないらしい。

 僕はもう一度深く息を吐いて壁に背中を預ける。六畳程度の広さの部屋を見回した。こんなかたちにはなってしまったが女性の生活空間に足を踏み入れるのは初めてだったので、やはりどうにも落ち着かなかった。

 花屋の奥はヒナタの住居になっている。六畳一間にキッチンがあるだけの簡素な空間だ。調度品もベッドとほとんど中身のない本棚以外には見当たらない。〈黒灰ダスト〉が入ってくるのを防ぐため、ベッド脇にある窓は木の板で塞いであるので部屋のなかはだいぶ薄暗い。どうやら雨漏りするらしく、キッチンの目の前には水滴を受け止める錆びたバケツが置いてあった。

 僕は所在なく視線を彷徨わせる。不意に本棚の上に置いてある写真立てに目が留まった。

 家族写真だ。ベッドの上で灰貌症を患う母親を囲み、ヒナタとそのお兄さんが笑顔を作っている。

 僕に家族の記憶はない。物心ついたときには一人で、残飯を漁り、汚水を啜りながら生きる他になかった。だからその写真に込められた幸せが、僕の想像など及ばないほどに綺麗で輝いたものに感じられた。

 僕は身体を起こし、写真立てに手を伸ばす。勝手に見たらヒナタは怒るかもしれない。彼女が怒る様子は想像できなかったが、もし目を覚ましてくれるならばそれもいいかもしれないと思った。

 写真に収められているのは思った通りのいい笑顔だ。ヒナタは母親によく似ている。目元のあたりなんかはそっくりだ。何年くらい前の写真なのだろう――。

 そんなことを考えていた僕の思考は、しかし一瞬で凍りついた。

 手から力が抜け、写真立てが滑り落ちる。上を向いて落ちたその写真から、僕は驚愕の余り目が離せない。

 その顔を一日だって忘れたことはない。あの日リングに沈んだまま、ずっと僕を呪い続ける対戦相手の顔がそこにあった。

 眩暈がして視界が歪む。僕は壁に手をつき、なんとか倒れ込むのを堪える。ゆっくりと震える手を伸ばし、取り落した写真立てを拾い上げる。

 もはや結論は考えるまでもない。

 兄は事故で死んだと言っていた、いつかのヒナタの声が頭の奥で響いていた。

 ヒナタの兄は一攫千金を狙い、あるいは〈天傘領域アンブレラ〉への居住権を得られるファースト・ギア昇格を目指し、〈機鋼拳闘アイアンフィスト〉に身を投じていたのだ。もちろん病を患う母親のためだろう。しかしそんな彼の思いは僕が放った一撃によって粉微塵に粉砕された。そして資金繰りの伝手を失ったヒナタは追い詰められた末に詐欺に遭い、母親を助けることすらできずに〈ヴォルケイノ〉への多額の借金を背負った。そして今、今度は彼女自身が治すあてのない灰貌症を患って死の危険に瀕している。

 全ては僕のせいだ。

 僕があの日、試合に勝たなければ、あの一撃を繰り出さなければ、ヒナタの兄は死なずに済んだ。兄が死んでいなければヒナタが借金をすることも、圏外アンフェイスの悪環境に身体を侵されてしまうこともなかった。彼女は今もきっと、家族三人で幸せに暮らすことができていたはずなのだ。

 何がまだ彼女の答えを聞いていないだ。そんなものを聞く資格は僕にはない。それどころか僕たちはきっと、最初から出会うべきなんかじゃなかったのだ。

 にわかに色づいていた僕の世界は、音を立てることもなく崩れ去っていった。


「僕が死ねばよかったんだ」


 僕は込み上げた吐き気に耐えられなくなってキッチンのシンクに突っ伏した。昼に食べた合成食品と黄ばんだ胃液、それから黒い痰が大量に吐き出された。

 胃が空っぽになるまで吐いて、僕はそのまま床に崩れ落ちる。涙なんて出なかった。泣くことすらも烏滸がましく思えた。僕が感じる辛さや絶望は、ヒナタのそれと比べれば余りに軽いのだから。

 ヒナタは知っていたのだろうか。気づいていたのだろうか。本当は心の底で、僕を憎んでいたのではないだろうか。いや、憎まれるべきなのだ。そして僕の口から吐き出されるのは愛や恋慕ではなく、後悔と懺悔でなければならない。

 ヒナタの運命を僕が狂わせた。僕が彼女を不幸にした。

 そんな僕にできることは、やはりもうたった一つしかないだろう。

 しばらくして立ち上がった僕はベッドに眠るヒナタに歩み寄る。静かに眠っている彼女を、僕はこの目に焼きつける。それからゆっくりと彼女に向けて頭を下げた。


「ごめんなさい。それと、さようなら」


 もう二度と会うことはない。これが僕のけじめだった。

 外に出れば、ついさっきまで激しく降っていた〈黒灰ダスト〉の勢いは少し弱まっているように感じた。

 防塵マスクをつけて踏み出し、白けた闇を僕は仰ぐ。

 降りしきる〈黒灰ダスト〉はまるで雪のようだ。

 だけどいくらその死の灰をこの身に浴びようとも、骨身に刻み込まれた罪が注がれることはない。


   ◇


 甘い香が立ち込め、毒々しい赤と黒のコントラストが目を焼いた。その視界の中央では、スカーフェイスが満足気に傷だらけの顔を歪めている。


「きっと連絡をくれると信じていましたよ。思っていたよりは随分と早かったですけどねぇ!」

「まだ試合に出ると決めたわけじゃない。条件がある」

「うひひ♡ 大金だけじゃ満足しないなんて、イエロージャケットは欲しがりさんですねぇ」


 僕はスカーフェイスの軽口を無視して条件を告げる。


「前金でヒナタ……花屋の女を〈天傘領域アンブレラ〉へ連れていき、灰貌症を治療しろ。彼女が〈天傘領域アンブレラ〉に入ることができたら試合を受ける」

「いいでしょう。その程度はお安い御用です。〈天傘領域アンブレラ〉にある伝手を使って彼女に特別二級青券を付与させます。治療の名目で〈天傘領域アンブレラ〉滞在ができるようになりますよ。ですが、諸々手数料なんかも掛かっちゃいますからねぇ。前金の五〇〇万でできるのは(天傘領域アンブレラに滞在するところまで。本格的な治療のためには後金、つまりは勝利が必要です」

「勝てばいいんだな」

「そういうことです」


 スカーフェイスは即断即決で僕の出した条件を了承した。まるで最初からそう持ち掛けられることを知っていたかのような、そういう不気味さのある素早さだった。

 僕がそんなことを考えているとこの前と同じように入り口脇で存在感を消していた赤髪の男がトレイを抱えてやって来て、スカーフェイスに一枚の書面を渡す。


「競技用の義腕はこちらで用意します。これが契約書。字が読めないとお聞きしているので、読み上げます。なので終わったら押印を。気になるところがあれば遠慮なく聞いてください」


 僕は頷く。スカーフェイスは口角をにたりと吊り上げて契約書とやらを読んでいく。

 とはいえそれがどんな内容であろうと、後に退く選択肢は僕にはない。再びリングに立つこと。それだけがヒナタを救う方法なのだ。

 やがてスカーフェイスが契約書を読み終え、机の上に出した朱肉を指差した。僕は再び頷き、朱をつけた親指を契約書の末尾に押し付ける。


「これで商談は成立。ここからは楽しい楽しいパーティーの時間です☆」

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