時間を漂流する二人

友幸友幸

第1話





 静かな潮騒と、ウミネコの鳴き声だけが、風に乗って届いてくる。 


 さざ波が退いていく瞬間を狙って、榎室えむろ祐一は一眼レフのシャッターを切った。すぐさま背面のライブビュー画面を覗きこみ、出来栄えを確認する。


 これでは駄目だ。どれも色が翳りすぎる。

 三脚ごと設置し直した。撮影モードダイヤルを回し、F値とホワイトバランスを試行錯誤しながら調整すると、同じタイミングを見計らって連射を行う。


 今度はどうだ。


 背面をのぞく。解像度は高くなく、光量の関係もあるため仔細に確認することはできないが、並んでいる十数枚はどれも粒揃いの出来だと確信した。


 榎室は唸った。これだ。いつも決まって訪れるこの感覚。自分は今、確かにこの世界に実在しているのだ。


「上手く撮れた?私にも見せてよ」

ミラーレスを首に下げた去来川春乃いさがわはるのが、長い髪を揺らしながら駆け寄ってくる。


 そこには、濡れた砂浜が日光を反射して構造色をきらめかせる、美しい風景が写っていた。


「綺麗.....。これなら、応募する分には問題なさそうね」


「ああ。間に合ってよかったよ」


 『朝戸フォトコンテスト』の締め切りは明後日____________六月十日に迫っている。ここ最近は理想とする天候に恵まれずやきもきしていたのだが、これで枕を高くして寝ることができそうだ。


「まだ日がある、まだ日があるって先送りしてるからよ」


まばゆい陽光が降りそそぐ中、手庇てびさしをつくりながら、春乃が満足感に水を差してくる。


「野外の撮影ってのは天候がすごく大事なんだよ。欲しい気象条件とほんのちょっぴりでも違っていたり、時間帯がずれて日光の具合が変わったりすると、それだけでその日はお開きになる。いい写真のためにはとにかく機を待つことさ」


 内心、近づいてくる締め切りに対して日に日に焦燥を覚えていたことは言わないでおく。


「それより君の方はどうだった?いい感じの磯辺、撮れたのか?」


「私は応募する気はないから遅れてもいいの」


 どうやら、からっきし収穫が無かったらしい。


 太陽に厚い雲がかかる。世界が一瞬にして色を失ったように翳るのが分かった。これでは暗い風景しか撮ることができない。


「あー.....これじゃあ、今日は続行できそうにないな」


「まだ撮ろうと思ってたのに。じゃあ、明日は?」


 スマートフォンの天気予報を立ち上げる。しばらくは太陽のマークが並ぶようだ。


「大丈夫。明日も晴れる」


「じゃあ、明日、3限が終わったあとにでも再開ね」


「そうするか。俺も早く帰って、応募する一枚を決めなきゃならないしな」


 そうして二人は、それぞれの帰路につくことにした。





 翌日の講堂は、座席数の半分ほどの聴講生によってスペースが埋められていた。光学の講義は大人気というほどのものでもなければ過疎でもなく、需要は程々だ。今は、白衣に短パン姿の下村教授が、筋道から脱線した世間話を展開している。こうなると全員の集中力が途切れがちで、突っ伏す奴もちらほらと出てくる。


 頬杖をつきながら益体のない事をあれこれ考えていると、隣に座っている春乃が抑えた声で呟きかけてきた。


「ねえ。結局あのあと一枚に絞り込めた?」


 その表情には悪戯げな笑みが浮かんでいる。彼女は、こと写真に関するかぎり浮き彫りになる、榎室の優柔不断さを知っているのだ。


「絞りこめたよ」


「何枚に?」


「......二枚」


 春乃はくすくすと笑った。


「やっぱりね。いつも期日ギリギリまで悩んでるから、今回もどうせそんなことだろうって思ってた」


「前のときは締め切り当日の時点で四枚だっただろ。俺だって学習能力のない男じゃない。これでも確実に前進してるさ」


 深夜まで、PC上に並ぶ成果を眺めながら頭を悩ませていたことは黙っておく。


 そうこうしているうち、ようやく講義が本筋を取り戻したようだ。スクリーンには眼球と視神経の構造図が映し出されている。


 瞳孔、虹彩、角膜、網膜、水晶体......ひとえに目と言っても部分部分で様々な名称がつけられている。それでいて視覚というのは光と密接に関わっている感覚である。要はそういった内容のことを、ぐだぐだと長い話を混ぜながら教示していた。講師の性格によって内容の分かりやすさが異なるというのは全国の学生に共通する取っ掛かりの一つだが、このタイプは特に退屈だ。


 構造図を見つめながら思考は横道に逸れていく。なんだかカメラに似てるな。虹彩はしぼり、水晶体はレンズ、網膜はフィルム.....。


 落雷がフラッシュの役割を果たして、夫の死に様が永久に視界に焼き付いてしまった未亡人を描いた漫画を、昔どこかで読んだっけ。あれはまだ田舎の実家に並んでいるだろうか......。


 終了時間を知らせるチャイムが鳴る。今日はここまでという教授の言葉とともに、聴講生がばらばらと立ち上がり、榎室たちも流れに乗じて室内を出た。


 敷地を通り、奥まった石階段を降りると、潮の匂いが風に乗って届いてくる。


 青々とした海と、淡い光をはなつ砂浜が、そこには広がっていた。


 大学敷地の裏手にあるこの朝戸海岸は、空き時間を持て余した学生たちの人気のスポットだが、今は人はまばらなようだった。降りそそぐ陽光は、昨日と変わらない加減で海岸を照らしている。


「思った通り、いい天気だ。人も少ないし、これなら集中できそうだな」


 春乃は、磯辺へと歩いていって、コンパクト三脚を設置した。コンテストへの野心をいだく榎室とは違い、彼女は個人的な趣味で、それも磯や岩礁をテーマに撮るのだと言っていた。初めはコントラストの加減に手間取っていたようだが、ちょうどよい塩梅を見つけてからしばし後、満足げな表情を浮かべてみせる。よい収穫があったようだ。


「もう撮れたのか?どれどれ.......綺麗に映ってる。俺なんて、カメラ構えてから一時間は粘ったのに」


「ふふ。なら、もっと早く撮れそうな構想にすればよかったじゃない」


「いや、あれで後悔はしてないさ。写真撮影には忍耐がつきものだって、俺はよく分かってるからね。理想の一枚のためなら何時間だって何日だって粘ってやるさ」


 自前の撮影論を説いてみせたが、耳を傾けている相手には感服した様子がない。それどころか、どこかに疑問を抱いたような気配を漂わせていたが、その理由を彼女はすぐに口にした。


「前から聞きたかったんだけど、祐一君ってどうしてそんなに写真が好きなの?」


 ぎくり、とした。


 ついに来てしまったか。気恥ずかしいのであまり答えたくない質問だったのだが、観念して打ち明けることにした。


「すごく変な理由なんだけどね。俺にとって写真はなんていうか、実在感を与えてくれる物なんだ」


「実在感?」

聞き返しながら、納得できない様子で首をかしげている。


「子供の頃、疑った事があるんだ。もしかしたら自分の見ている景色は自分だけの物でしかなくって、他の人にとっては全く違う風に見えているんじゃないかってね」


 それは幼年期にありがちな妄想だった。白雲は空をたゆたい、新緑の木々は風に揺られて葉擦れを奏で、人々は愛する誰かとともに生活を営む。そんな当たり前の風景を誰もが共有しているという保証が、一体どこにあるのだろう?


 もしかしたらそんな風に見えているのは自分だけであって、実際には七〇億人分の主観世界が各人の眼前に広がっているのではないか。そこでは空に赤い暗雲が立ちこめ、奇怪な構造物がそこかしこに林立し、異形の生物が跳梁する.......。


 一度始めた妄想は止まることなく幼心を侵していった。ありもしない恐怖に震えあがり、大人達に泣きついておののいた。そんな中にあった榎室を唯一慰めてくれた存在。それが写真だった。


「写真はそこにあるものを真実として提示してくれる。写真を見ると安心したんだよ。ああ、自分の見ている景色は確かなものなんだな。確かに自分は、皆と同じ世界を生きているんだなって」


 見やると、それを聞いていた春乃は案の定、笑っていた。


「笑われると思ってた」


「だっておかしいもの。本当に私たちの見えてるものがそれぞれ違ったとしたら、写真だってそれを否定する証明にはならないじゃない。そうして見てる写真もけっきょく風景の一つなんだもの」


 この話をすると誰もがそう反応してくるので、その度に赤面しなければならない。


「そんな簡単な理屈も理解できないくらい、子供だったってことだよ」


 流石にしばらくしてそんな妄想は捨ててしまったが、写真に対する肯定的な思いだけは、その後も尾を引き続けたのだった。

 以来、榎室は大学生となった現在に至るまで、風景を中心とした写真撮影に没頭した。ここの大学を選んだ理由も、敷地裏手にあるこの朝戸あさど海岸の存在が多くを占めている。ここは空き時間に涼みに来るだけでも心身を癒してくれる存在なのだが、何より暇なときに風景を撮りに来られるのは喜びだった。


 春乃とは、同じ学部を縁として出会った。交際を開始してから榎室に影響されて写真を始めた彼女が、今現在、首に下げているのは、榎室の勧めで買ったミラーレスカメラだ。一眼レフは重厚で高価なため、こういったレンズ着脱式の軽量なカメラが入門には向いている。そう教えて以来、彼女は、趣味の範疇でそれを愛用している。


 たわいのない四方山話が一段落すると、二人の意思は帰宅することで合意した。榎室にはこの後、二枚までに絞り込んだ作品を、さらに一枚に決めなければならない作業が待っている。悠長してはいられなかった。


 そうして踵を返しかけたとき、ふと榎室は、波打ち際に何かが漂着しているのを見咎めた。


 それが何なのか、近づいて確認しようとする。


春乃は「何、それ?」と眉をひそめていた。


 それは奇妙な石だった。一見すると、平べったいだけのただの石だったが、その表面には二人の人間が手を繋いでいる様子が抽象的に描かれている。


 榎室はエルサルバドルの洞窟にある『宇宙人の恋人』という壁画を連想した。古い漫画の知識だったが、紀元前に刻まれたその壁画には、なぜか宇宙飛行士のような恰好をした二人組が象られているという.....。目の前にある、子供の落書きじみた図はそれと似ていた。


 拾ってみると、それは真ん中で割れて、二人の棒人間は離れ離れになってしまう。


 その瞬間、榎室はなぜか途轍もなく恐ろしいことをしてしまったような寒気を感じたが、その正体は分からなかった。


「なんだか面白いね」


横で、春乃が興味を示している。


「ねえ、これ二人で持ち帰らない?合わせて一つになる石なんて、なんだか思い出になるじゃない」


そう言うと、トートバッグに片方をしまい込む。


「ああ......そう、だな」


 やめたほうがいい気がしたが、榎室は、鞄に片割れをしまい込んだ。







  翌朝、目を覚ましてまず抱いたものは違和感だった。


 ぼやけた視界で辺りを見る。変わらぬ一人暮らしの部屋、変わらぬ朝特有の倦怠感......。何も変化のない、いつもの朝だ。なんだ、どこにも異常などないではないか。


 大きな欠伸をしてベッドから這い出る。いつまでも寝てはいられない。一時間後には授業があるのだ。簡単な朝食をとり、髭を剃って、顔を洗った。着替えたあとに寝癖を直し、鞄を持って玄関を出る。


 車通りの少ないいつもの通学路を歩いていくと、十分後には大学に到着した。


「さっき起きたばかりでしょ。目、重たそう」


 隣席の春乃がぼやいた。講堂は、開講前に特有の喧騒に包まれている。


「俺が朝に弱いの知ってるだろ」


「まあ、サボらなかっただけ偉いかもね」


「結局、応募作決めは夜までかかったよ」

言いながら欠伸をする。昨夜はずっと画面と睨めっこをしていたのだ。


「応募?」春乃は怪訝そうに聞き返した。

「応募って祐一くん、いつの間に撮ったの?」


「え?ほら一昨日、一緒に撮っただろ、海岸で」

榎室は肩をしかめてみせる。「どれも同じように見えて微妙な違いがあるんだけどさ、審査員のウケがいい一枚と考えると途端に悩ましくなるんだ。下手したら撮ること自体より、そこから選ぶ過程の方が難しいんじゃないかとさえ思ったよ」


 聞いている相手の柳眉が、いっそう曲がる。


「何を言ってるかわからないわ」


 どうも会話が噛み合わない。「そっちこそ何の話してるんだ?」


「私たち、一昨日は会ってないじゃない」と、素っ頓狂なことを言い出す。「応募ってコンテストの話よね?」


「そうだよ。締め切りは十日だから今日だろう?」


「今日は三日じゃない」春乃は携帯の画面表示を見せた。


「あれ?」


 そこには確かに2019_06_03の日付がある。

 締め切りは確かに十日だった。今日がその日のはずなのだ。しかし日付はそれに反論するかのごとく、今日が三日だと告げている.....。


「まだ夢が覚めてないんじゃない?」そう言って春乃はまた笑ってみせている。


 開講の合図が鳴って、講師が壇上に現れた。室内に静寂が広がっていく。


 何かがおかしいという歯痒さがこびりついて離れなかったが、事実として世界は今日を三日だと豪語しているのだから、反駁のしようもない。一時間前に目を覚ましたばかりだから、やはり自分はまだ頭が回っていないのかもしれない。目の前に集中することにしよう......。


 あれ?と思った。


 この講義で話している内容は聞いたことがある。確か先週も同じことを学ばされてはいなかったか。しかし、辺りを見回しても、不審がる者は誰もいない。これも自分の勘違いだろうか......?


 結局、何もノートに書き留めることのないまま一限目が終わると、春乃は一足先に講堂を出ていった。ここからの時間割は彼女とは異なる。自分はまだここで二限目を聴講しなければならないし、空きコマをいくつか置いて五限目も受講する必要がある。


 だがそこで聞く内容もまた、記憶に新しいものばかりだった。


 全てが終わって外に出ると、街は茜色に染まっていた。


 榎室は、どこか上の空で帰路を歩く。募りに募った猜疑心に、榎室自身、混乱しているのを感じていた。今日起こったことは一体、何だったのだろう。強力なデジャヴの一種だという説が一番有力かもしれない。それか、極度に疲労しているかのどちらかだ。


 まあ、いい。明日になれば、何もかも解決しているだろう.....。


 見上げれば、線香花火のような太陽が、稜線に沈んでいくのが見えた。


 そのとき、酷い目眩が襲った。激しい頭痛が、脳を掻き回すように意識を混沌とさせる。 榎室はそのまま倒れ込んだ。






 意識が像を結び始め、見慣れた天井が飛び込んでくる。


 寝ぼけ眼にも理解できた。どうやら自分は今、自室のベッドで眠っていたらしい.....。 ゆっくりと身を起こしながら、記憶を探る。


 俺は、先程まで帰り道を歩いていたのではなかったか。そこから現状に至るまでの過程が思い出せない。いや、思い出せないというより、過程そのものをすっ飛ばしたような感覚だ。とても強い目眩がやってきたと思ったら、気付いた時にはベッドの柔らかい感触がそこにあった。


 チュンチュンという囀りが窓外を通り過ぎる。見やると、朝の柔らかな陽射しが部屋を満たしている。


 朝なのか?どうも時間感覚が狂っている。


 帰路で倒れた自分のことを誰かが運んでくれて、そのまま一晩寝てしまっていたのかもしれない。だとしたら、運んでくれたのは誰だろうか。


 瞬間、抱いたことのない強烈な違和感が、質量をもって到来した。


 榎室は、胸を抑えると、警戒する動物のように部屋を素早く見回した。異様なまでの名状しがたい違和感......。いつもと変わらぬ朝のように見えて、そこからは巨大な何かが決定的に欠けている。その正体を必死に探ろうとしたが、何がそこまでの異様さを生み出しているのか判明することはなかった。


 携帯電話を取り出す。だが、そこでもやはり何かが違うという感覚が起こる。


 それはあえて形容するならば触覚だった。今、自分が握りしめている携帯電話......いじり慣れているはずのそれからは、奇妙にも、手になじむ感じがしない。


 よく検分してみて、ようやく気付く。違う。これは自分の物ではない。似ているが型式が古い。いつの間にか誰かのものと入れ違ってしまったのか?


 ホームボタンを押し、画面を点灯させてみた。そこに表示された壁紙を見て、はたりと手が止まる。


 それは随分前に、自分の一眼レフで撮った夜桜の写真だった。自身で撮影したのだから間違いはない。だが問題は、その写真を誰にも共有したことがないという点だった。


 誰にも渡していないはずの写真が、なぜ、誰の所有物とも知れない携帯電話の壁紙に設定されているのか。


 はっとした。


 当然ではないか。この携帯は、自分が一年ほど前まで使っていた端末そのものなのだから。


 目の前で起こっていることが理解できない。榎室は、部屋の室温がたちまち氷点下になったような寒気を感じた。とうの昔に機種変更してしまったはずの携帯電話が、どうして手元にあるのか......。新しい方の端末は、一体どこへ。


 今までは気付かなかったが、部屋をよく見てみると、異変はその程度ではないことが分かった。


 本棚からは、今期で新たに購入したはずの教科書や参考書類、果ては写真撮影のハウツー本や分厚い資料までもが、ほとんど消えていた。代わりにそのスペースを埋めているのは、後輩に譲ってしまったはずの古い教材類だったが、それらはぎっしりと詰まっていた筈の空間をもてあまして斜めに倒れている。


 テレビや机など、家具の配置も微妙に違っていた。誰かが動かした形跡すらないのに、それらは、初めからそうであったかのように勝手な空間に収まっている。


 昨日まであったはずの物が無かったり、逆に、捨ててしまったはずの物がなぜか存在している。恐ろしく奇妙な感覚だった。確かに自分の部屋だということは確信できるのに、細部が微妙に異なっていて、にも関わらずどこかに感じる懐かしさが殊更に彼を混乱させた。


 榎室は、既に直観していた。これは自分の部屋そのものだ。ただし一年ほど前の。


 もう一度、携帯電話を見て、息が詰まった。


 そこには2018_05_12の文字が表示されている。


 もはや現実を受け入れるしかない......。信じがたいことだが、一年ほど時を遡ってしまったらしい。


 俺は、気が狂ってしまったのだろうか。


 着信履歴から春乃に電話をかけようとしたが、その名前がどこにもない。どうしてと思ったが、すぐにその理由を理解した。


 一年前、俺はまだ彼女と出会ってはいない。本当に自分がこの日付通りの時期に迷い込んでしまったなら、連絡先が登録されていなくて当然ではないか。


 すぐに家を飛び出した。誰かに、全てがまるっきりの嘘だと言って欲しかった。


 十五分ほどして、小綺麗だが大きなアパートに着いた。屋上付近の側面には『ハイツすみれ』の文字が並んでいる。リフォームしたばかりということで家賃は張るが、大学に近く、防犯機能が充実していることもあって、学生から高い支持率を得ている集合住宅だった。


 3つほど階段を駆け上がった先、通路の奥から二番目に、406号室はあった。


 息を切らしながらインターホンを押す。しばらくして、若い女性の声がスピーカー越しに響いた。


「はい。宅配さん?」

 電話では聞けなかった声がそこにあった。


「あ、あの、ええと......」


 しまったと思いながら、言葉を迷わせる。ここまで来たはいいものの、第一声を考えていなかった。どの道この状況を理解させる言葉などないだろうが。


「.....この顔、見覚えありますか」


 迷った挙句、不審者じみた文言になってしまったが、これしか切り口は思い浮かばなかった。

 少しの間を置いてインターホンが応える。


「ごめんなさい、どなただったか分からなくて.....もしかして授業か何かで一緒でしたか?」


 榎室は、それ以上会話を続けるのが辛くなった。拳に力が入る。


「......いえ、知らないならいいんです。すみませんでした。失礼します」


 困惑を背後に感じながら、うなだれるようにして後を去った。


 混線しきった頭を抱えながら、足を引きずるようにして、夕暮れに染まる道を歩く。

 携帯に彼女の番号が無かったことから察してはいたが、改めて彼女の口から突き放されるのは、思っていた以上に心に来るものがあった。本当は他の人間にも情報を聞き回るべきだったが、もはやその必要すら無いように感じられた。


 時間を遡ってこの時代にやってきたのは、どうやら俺だけらしい。

 思えば、昨日も様子がおかしかった。昨日、自分の記憶ではたしかに六月十日だったと思っていたのに、世界はあの日を六月三日だと告げていた。いまは一年前の地に立っているが、自分はあのとき一週間前の世界に飛んでしまっていたのだろう。


 ならば、明日はどうなる.......?

 こめかみから冷や汗が滴った。

 時間が狂っているのに明日という表現を使うのは考え物かもしれないが、明日といったら明日だ。初めは一週間前に遡ってしまったのが、翌日起きてみると、約一年前に飛んでしまっていた。


 その二つに規則性を見出すことができない。次に同じ現象が起きたとき、自分はどこに立っているのか......。

 かぶりを振って、思考を追い払う。先の見通せない事を考えても仕方がなかった。

 それよりも考えるべきことは、こうなってしまった原因だ。異常が昨日から起こってしまったとするなら、原因はそれよりもっと前にあるはずだ。直前に思い当たること.....。 


 ふっと、奇妙な石の映像が浮かび上がった。海岸に流れ着いていた風変りな石。表面には落書きじみた二人の人間が描かれていて、自分はそれを真っ二つに割ってしまった......。

 まさかあれが全ての発端なのだろうか。

 自分の考えている事がどれだけ荒唐無稽か、榎室は自覚していない訳ではなかった。この異常時でもそれくらいの判断力は残っていた。


 だがそう結論付ける以外に、一体どんな仮説があるのかも、榎室には分からなかった。

 夕闇が、その影をいっそう濃くした。赤く染まった日暮れが、遠い山間に消えていくのが見える。


 突如、殴られたような頭痛が襲って、榎室は倒れた。







 人々の往来の中を、自分だけが突っ立っていた。

 広い道の左右には、ビル群が聳えている。だがその光景は異様だった。ほとんどのビルの壁面が、そのまま巨大な液晶画面となって、それぞれ勝手な映像を映し出している。それは清涼飲料水の宣伝映像だったり、建物内のオフィスの広告だったりと様々だった。


 なんだ、ここは......。俺は一体、どこへ迷い込んでしまったんだ......。


『この役ねえ、演じるのは簡単じゃなかったですねえ』

 大音量の声が響いて振り返ったが、それは、大きな映像の一つから発せられた音声だった。巨大な壁面では、大写しになった男性が喋っている。『久しぶりの主演作だったでしょう?気合入れて役作ったから、リテイク少なめに抑えられて良かったですけどね』


 どうやら、映画かドラマかの宣伝のために、主演俳優が語っているらしかったが、目を引いたのは下部に表示されたテロップだった。『主演を務めた押井沢悠(42)』。


 押井沢悠......愕然とした。それは榎室の記憶では、メディアで脚光を浴びていた10歳の子役と同じ名前だった。


 尻ポケットをまさぐると、見慣れない液晶端末が出てくる。妙に前衛的なデザインで、使い方は分からなかったが、握ると勝手に画面が点灯した。


 そこには2051_10_17の文字列が躍っている。

 背筋に氷を入れられたような気分がした。

 ウインドウに自分の姿を映す。そこにあったのは見慣れた容貌ではなかった。いくつもの皺が刻まれ、頬骨の隆起した顔。よれよれのジャケットの袖から伸びた無骨な手には、青い血管のうねりが浮き出ている。


 これが、俺の姿......?


 信じられなかった。体中をぺたぺたとまさぐると、今度はジャケットの裏から財布が出てくる。そこには免許証があり、ガラスの向こうと同じ顔が載っていた。


 名前は『榎室祐一』。そして自分とまったく同一の生年月日。


 なんということだ......。超常続きだったが、今回ばかりは目の前の出来事を受け入れることができない。どうやら今度は未来にやってきてしまったらしい。

 今まで榎室は、この狂った現象の規則性を疑っていた。初めは一週間前へと遡ったのが、次はおよそ一年前へと飛んだ。そして今、自分は32年後の地に足をつけている......。


 自分の浅薄さに、冷笑すら出そうだった。

 規則性。そんなものはいくら探しても見つかるはずはなかった。この跳躍は、これまで生きた、あるいはこれから生きる生涯のどこか一日を乱数的に徘徊させられるだけ......。


 つまりランダムだったのだから。


 もはや榎室の中には確信が宿っていた。元凶があるとするならただ一つ......あの石だ。信じがたいことだが、あの石には何らかの自我が宿っていて、それを離れ離れにしてしまった俺に、こうした形で報復しているのかもしれない......。








 世界から音が消えてしまったかのように静まりかえった公園のベンチで、榎室は脂汗をかきながら考えを整理していた。


 これは石の報復......そう考えると、ある恐ろしい仮説が同時に浮き上がってくる。

 落書きの人間たちを引き裂いたのは、自分だけではない。あの日、片割れを持って行ったのは、春乃も同じだ。

 自分と同じように、彼女も時空のどこかを彷徨っているのだとしたら......。


 必死にかぶりを振り、自戒する。そうだと決めつけるには情報が少なすぎるではないか。あまりにも話が飛躍している。

 だが一度抱いてしまった疑念は、意思に反するようにして思考を支配していく。そんなことは有り得ないといくら言い聞かせても、背後霊のように取りついて耳元で囁き続ける。


 もしそうだったとしたら、俺たちが再会することはあるのだろうか......。

 貧血のように頭が重くなり、ぐらりと体が傾いだが、すんでの所で耐えた。通行人が、こちらを怪しげに眇めながら通り過ぎていく。

 拍動する胸を、力の限り押さえる。落ち着け、落ち着け。

 だがそうだったとしたら、たった一つだけ希望はあるように思った。


 根拠のない憶測にすぎないが、石を割ってしまったことが事の発端なのだとしたら、それを元通り戻してやることが終焉に繋がるのではないか。遠く離されてしまった二つの欠片を、もう一度、自分たちの手で惹き合わせてやることが。

 あまりに細い光芒だが、今はそれを信じるしかない。


 しかし、それにも重大な問題がいくつか引っ掛かった。

 まず第一に、割れた石の片方を持ち帰ったのは自分だが、この時代においてそれが何処に存在するのか、何の保証もない事だった。なにせ、見かけは薄汚い石なのだから、未来でとっくに捨てられていたとしても何の不思議もないし、どこかに現存していたとしても、在りかが不明な以上は同じことだった。


 第二には、もう片方の所在を知っているのが春乃だけだという事だった。所在を知るためにはこの時代の彼女に直接聞く必要がある。だが......榎室は、先ほど見た、人々の絶え間ない往来を思い出した。一体、この時代のどこを探せば彼女が見つかるというのか。


 ふと思う。この時代で生きている俺は、この逆境を乗り越えてきた筈ではないのか。残念ながら本人に直接聞くことはできないようだが、自分のために何らかの策を講じてくれているかも知れない。


 ヒントとなるメモ書きか何かが出てこないかと思い、あちこちをまさぐったが、それらしき気配はなかった。

 だが、それ以上、助け舟を探す必要はすぐに失くなった。続く第三の問題点が、期待を粉々に打ち砕いたからだ。


 それは、仮に今ここで石が揃い、狂った現象が止まったとして、元の時代に戻れる保証が全くないという事だった。ただちに跳躍が収まるということは、自分がこの未来に取り残されてしまう事を意味する。もしかしたら現象が収まると同時にスタート地点へ帰してくれるのかもしれないが、確実に青春を取り戻したいなら、いっそのこと跳躍を繰り返して適切なタイミングを見計らうべきなのだ。


 だが.....かといって、開始点より過去に飛んでしまうのも無意味ではないか。そこに辿り着いた所で、その地点ではそもそも自分たちは石を拾っていないから、離れ離れになってしまった棒人間たちを再会させてやることもできない。


 駄目だ......。構造について分かっていることが少なすぎる.......。

 老けてしまった自分の顔が写る免許証を茫然と眺めながら、深く嘆息した。何故、こんなことになってしまったのだろう。これから過ごすはずだった青春の日々は、泡沫のように、一瞬にして弾けて、どこかへ消えてしまったのか.......。


 そこで、はたと気付くことがあった。

 始めは見落としていたが、よく見ると、免許証には馴染みのない住所が記載されていた。考えてみれば当然だった。これは、この時代における自分の住所なのだ。若かりし記憶しか保持していない自分に馴染みがなくて当たり前なのだ。


 しばらく逡巡していたが、やがてゆっくりと立ち上がって、榎室は住所の示す方向へと足を向け始めた。

 この歳の自分は、どんな暮らしをしているのだろう。








 悪くない大きさと清潔さの一軒家が見えてきた。榎室は少し驚いた。住所の指し示す物件がそこだったからである。マンションか何かだろうと思っていたのだが、まさか繁華街からさほど遠くない土地に一軒家を立てて生活しているとは。どのようにして生計を立てているのか見当もつかないが、未来の自分はそこそこに裕福な身分であるらしい。


 戸口を開けようとして逡巡した。どのような態度で入ればいいのだろう。もしかしたら俺以外の家の者は出払っているだろうか。いや、それ以前に、ここには俺以外に誰が住んでいるのだろう。


「ただいま」


 土間に踏み入るなり、思い切って言ってみた。靴を脱ぎながら、誰かの足音が近づいてくるのを聞いた。


「あら?おかえりなさい。ずいぶん早かったね」


「え....?」


 帰宅を迎えた人物に、榎室は戦慄した。それは自分がよく知る.......自分がずっと求めていた去来川春乃その人だったからだ。


「どうしたの、ぽかんとしちゃって。変なの」


 ただしそこに立っている姿は、見慣れたものとはかけ離れていた。彼女は、ガラスの向こうの自分と同じく、32年の年季を刻んでそこに立っていた。


「ああいや、その......春乃か?」


 混乱の中で絞り出した、しどろもどろな発言に、中年女性はぽかんと立ち尽くしていた。その様子も、まぎれもなく記憶の中の彼女そのものだった。


「相手の名前も知らずに20年以上、一緒に暮らしてきたのかしら?」


 そう言うと呆れたように肩をすくめた。榎室はようやく状況を理解しつつあった......どうやら自分と春乃は、ここでは居を共にしているらしい。


 だがもはや、それすら些事に過ぎなかった。探すべきだった人物が今ここに居るのだ。とりあえず石の所在だけでも聞いておけば糸口になるだろう。それにもし、彼女も逆境を乗り越えてここに居るのだとしたら、どうやって解決させたのかを教えてもらえるかもしれない。


「石を知らないか?」


「石?」応える声は訝っている。「石って?」


「ええとほら、僕たちが若いころ......海で写真を撮っていたときに、子供の落書きみたいなものが描かれた変な石を拾ったことがあったろう?」


「そんなことあったかしら」


「あったはずだ。すごくヘンテコなやつだったから覚えていないはずはない。片っぽは君が持って帰ったはずなんだ、その在りかを知りたい」


 必死さのあまり早口でまくし立ててしまうが、なりふり構ってはいられない。


 春乃はしばらくウーンと黙考してから顔を上げた。


「やっぱりそんな思い出はないわよ」


「なんだって......?」


 榎室は、背筋がうそ寒くなるのを感じた。


「わたしたち、確かに若い頃いろんな所に写真を撮りにいったけど、石なんて持ち帰った覚えは全然ないわ。ましてや、落書きみたいな模様の石?何かの勘違いじゃない?」


 こめかみを冷たい汗が伝い落ちる。どういうことだ。拾ったものの所在を忘れるくらいのことはあるだろうが、石そのものの記憶がないなんて事はないはずだ。


「なあ、俺は過去からやってきたんだ。見た目はオヤジだが、中身はまぎれもなく20歳の自分なんだ。若い頃、君も、過去や未来を流浪したことがあったんじゃないか?教えてくれ。その時、俺や君はどうやって乗り越え.......」


 言葉を切った。この人は何を言っているのか、と言わんばかりの彼女の顔を見て、耐えられなくなったからだった。


「あなた.....本当に大丈夫?」


 ぐわんぐわんと平衡感覚が揺らされたみたいで、足取りがふらつく。


「ああ.......ごめん、混乱してるみたいだ。少し休ませてくれ.......」


 榎室は、ダイニングのソファに倒れこむようにして横になった。冷たいタオルを受け取り、しばらく頭を冷やす。


 自分の考えの、何かが間違っている。


 思い浮かんだ可能性は2つあった。一つは、自分と同じく春乃も跳躍を繰り返しているという、そもそもの思い込みが間違っていたこと。この怪現象に巻き込まれているのが自分だけだという可能性だが、もしそうなのであれば一安心だった。彼女が苦しんでいないのならば、それに越した事はない。


 だが.......もう一つの推測が真実な気がしてならなかった。


 石についての記憶を保持しているのは時空体のどこかを彷徨っている春乃一人だけ、という可能性が。


 発汗が尋常ではなかったらしく、婦人が心配そうにこちらを見つめていた。

 もはや、自分たちに込められた悪意の全貌が感じ取れたようだった。


 離れ離れにさせられた棒人間たちは、そっくりそのままの仕返しを二人にけしかけた。これまで生きた、あるいはこれから生きる生涯のどこか一日を、互い違いに徘徊させられる呪縛。そこに法則性はなく、偶然的に同じ一日を引かない限り、二人は狂った時の中を出会うことなく永久に彷徨い続ける......。

 この無限回廊から脱する方法はただ一つ。限りなく低い確率の壁を越えて、二人が再会すること。


 自分たちがそうされたように、愛し合うお前たちを離れ離れにしてやる。なんとかしたければ出会ってみせろ。彼ら《・ ・》はそう言っているのだ。


 だがそれは、一体どのくらいの確率なのだろう.......。いや、確率の壁を越えれば終着するという考えが、そもそも希望的観測なのだ。もし、確率など関係なく絶対に出会うことのできないような構造になっているのだとしたら。


 俺達は、永劫に救援の訪れない無限の大海を、いつまでも漂流し続けることになるのではないか。


 顔を上げると、窓から差し込む光が暮色に染まっているのが分かった。


 タイムリミットなのか......。


 こちらを見つめる春乃の顔が歪んでいく。目に映るすべてが形を失っていく。やがてそれらは渦潮のように一点に収斂していき、榎室自身すらも飲み込まれて消えていった。









 畳の匂いと、木造家屋の香り。それらの背後でうるさいほどに響く蝉の声.....。


 初めに感じたのはそういった外部情報だった。


 木造の天井は、木目が集まって顔のように見える。右手には扇ぐためと思わしき下敷きを、左手にはすっかり溶けてしまったアイスキャンデーの棒が雫を垂らしている。足元では白いタオルがあらぬ方向へと身を投げやっていた。寝ているうちに蹴とばしてしまったのかもしれない。


 今度はいつの時代へやって来たのだろう。気怠げに立ち上がったとき、何かが異質であることに気付いた。目線が、妙に低いのだ。


「夏休みだからってゴロゴロしてていいの?」


 妙に懐かしい声が届く。声の先には、洗濯カゴを抱えた、壮年の女性が立っていた。


「母さん......」


 だが、その姿は見知っている母とは少しだけ違っていた。顔貌には潤いが宿り、声や肌にも張りがあった。この人はこんなに綺麗だっただろうか、としばし見とれた程だった。


「あんた、明日は理科の宿題を出しに行かなくちゃいけないんだって、昨日言ってたじゃない。ほら、なんて言ったっけ.......ええとそう、宮内って先生の家に」


「宮内?」


「呼び捨てにするんじゃないの。先生、でしょ」

呆れたように溜息をつく。


 宮内......。その名はどこか引っかかった。そう、小学校の頃、理科の専任でそういう名前の先生がいたっけか。おおらかだが、かなり風変りな人でもあった。

 自分が漂着したのがいつの時代なのか、おおよその察しはついていたが、どうやらこれではっきりしたようだ。日めくりカレンダーが2009年8月7日を示している。


 おっさんの次は小学生か.....。


「お昼ごはん食べたら行ってくるのよ」


 洗濯カゴを抱えて、母は、身を翻して部屋を出ていった。


 所在なげに立ち尽くしたまま、榎室は、小学校時代の思い出を探っていた。


 夏休みの宿題は始業日に提出するものだったが、教師側の取り決めで、理科の課題に関してだけは、休みの間に宮内の家へ直接届けに行く運びだった。後回しにしてしまう悪癖のため、自分は提出が遅かったものだったが、今いるのが丁度そのあたりの時分らしい。


 間もなく昼食の時間がやってきた。食卓に並んだのは、母の得意料理であるゴーヤチャンプルーだった。見た目は10年経った今でも変わらないなと思ったが、味はこの頃のほうが薄く抑えてあるな、とも感じた。


 食べ終わると、「すぐ宿題出しに行ってきなさい」と再三の念を入れられた。

 逆らうことはできなさそうだ。錆びた自転車に跨りながら、自分のやっていることのおかしさに鼻を鳴らした。明日にはまた未知の地点へ跳躍しているというのに、夏休みの宿題を提出することなどにどんな意味があるだろうか。


 うだるような陽射しと蝉の合唱のもと、そう思いながら、榎室はベルの欠けた自転車をふらふらと漕ぎ出した。










「榎室祐一君だね。確かに受け取りました」


 自由研究をまとめた5ミリ方眼のノートを渡すと、和服を着た男性はそう言ってよこした。


 『5年1組 榎室祐一 カメラのレンズゴースト現象はどうやっておこるのか』表紙には崩れた字でそう書いてあった。どうやらそれが自由研究の内容らしい。そういえば写真に興味を持ち始めたのはこの辺りの時期だっただろうか。


 実家近くの畦道を自転車で15分走らせた先で、白い土塀は姿を現した。


 大仰な正門の向こうに数寄屋すきや造りの宮内邸はあった。広大な敷地には、花菖蒲はなしょうぶや桔梗の香りが染みる日本庭園が、そこだけ俗世から切り離されたような静謐さで佇んでいた。由緒は知らないが、ここまで厳かな屋敷にたった一人で住んでいるというのは、それだけで仙人じみた人物を連想させるのだが、それが小学校で教鞭を執っている一介の教育者だとまでは誰にも想像できないだろう。


 出されたまま手を付けていない湯呑みには湯気が立ち昇っている。宿題はもう提出した。用事は終わったのだ。帰って差支えはないだろう。そう思って立ち上がった。


「.......それじゃあ、僕はこれで」


「ええ。気を付けてお帰りなさい」


 宮内は鷹揚な笑みを浮かべた。そういえばこういう表情をする人だったな、と懐かしく思う。


 部屋を出ようとした時、思わずして足は止まっていた。


「先生。心だけがタイムスリップするって聞いたことありますか」


 気付けば、背中越しにそう尋ねていた。

 不意の質問を投げかけられた宮内は少しの間沈黙していたが、やがて相好を崩して応える。


「突然ですね。何か、そういう漫画でも読んだのですか?」


「違いますけど、そう思ってくれてもいいです。僕の体験について意見をもらってもいいですか?」


「面白そうですね。聞かせてください」


 榎室は顛末を語った。棒人間の恋人が描かれたおかしな石のこと。自分の精神は大人になった頃の自分からやってきて、ここに来るまでも色々と旅をしてきたこと。そして恐らく、春乃も同じ目に遭っているであろうこと。

 この狂った現象の全貌を。


「どう思いますか?」


 宮内は穏やかな表情のままこちらに正対したが、そこからは子供の空想に応える大人の態度が感じられた。要はこちらの話したことを信じず、幼い創作として認めているのだ。こちらの方でも信じてもらうつもりはなかったから不都合はないが。


「たしか君は、以前も面白いことを言って泣きついてきましたよね。人によって見えている世界が違うだの、何だのって。榎室君にはSFの才能がありそうだ」


「あっ......それは、その......」


 言われて思い出した。子供の頃の、あらぬ妄想にとりつかれて泣きわめいていた時期。あれは確か小学校の低学年ほどの時期だった。今は5年生のようだから、その時期から2、3年先だ。朧げにしか覚えていないのだが、確かに改めて言われると、あのときは宮内にも泣きついたかもしれない。少し恥ずかしくなって顔を背ける。


「今言ってくれたことですが......榎室君の体験したことは、実は、まるっきり非科学的というわけでもないんですよ。実際の問題として、まったく同じ時間の中を生きている人間なんてものはいないんです」


「えっ?」


 聞き間違いだろうか。今、彼はなんと言ったのだろう。


「そんなことはないと思います。現に僕と先生は今、こうして現在という同じ時間の中で生きてるじゃないですか」


「榎室君は『今見ている太陽は8分前のものである』という話をご存じですか?」


 突然の話題転換にたじろいだ。だが、聞いたことはある気がする。


「光の速さは無限ではないから、僕らはどうしても過去の太陽を見ることになるってやつですか」


 年齢不相応の口調になっているが構わない。宮内は、こちらの聡明さを嘆ずるような色を浮かべていたが、怪しんではいないようだ。


「そうです。我々は太陽の8分過去に生きている」


 子供ならばそういった強引なこじつけで躱せるかもしれないが、生憎だった。榎室は反論してみせる。


「でもそれは太陽の場合であって人間の話じゃないはずです。太陽はすごく遠くにあるからそんなタイムラグが起こりますけど、地球の上に生きている人間は違う」


「ところがそれは間違いです。どんなに近くにいてもラグは起こるんです」


 予想外の返答に虚を突かれて閉口する。


「そもそも『見る』とは何でしょうか?難しい言い方をすれば、視覚対象物の反射光が、水晶体の凸レンズを通して網膜に像を結ぶ。これが『見る』ということのメカニズムです。目から光を吸収することによって初めて私たちは物を見ることができる、とでも思ってくれれば大丈夫です」


 おおむね理解はできる。だが。


「それがどう関係するんですか?」


「例えば、私があの山を眺めているとしましょう」


 宮内は顔を右に向けた。硝子戸を通した遠方で、堂々とした山が新緑の樹々を繁らせている。


「榎室君は、私のいる地点から1km後方で同じ山を眺めるとします。さて、ここで質問です。二人がそれぞれ見ているのは、まったく同じ山でしょうか?」


「え?」


 あまりに意味不明な設問にぽかんとした。何を言っているんだ。同じ山を眺めるのだと、さっき自分で言ったではないか。


「同じ山、じゃないんですか?」


 その横顔に、どこか寂しそうな色が宿ったのを見た。


「ええ。同じ山です。ですが、まったく同じとは言えません。二人の間には、光の速さによる微妙なタイムラグがあるからです。二人は時間的に異なった山を見ていることになるんです」


「あ.....」


 宮内の言わんとしていることを理解し、思わず声が漏れてしまう。


 光速は無限ではない。榎室が見ているのは、1km分、過去の山なのだ。


「今は1kmという設定をしましたが、この数字に意味はありません。二人で並んで見る景色にも必ずこれは起きるんです。肝心なのは、見ている対象物と網膜との距離。つまり景色と目とを繋ぐ直線の長さです。これをどんなに一致させようとしても、ミクロレベルの誤差が必ず生まれるから、完全に一致させるのは不可能なんです」


 宮内は遠くを見るような目で続けた。


「極端な話ですが、隕石が降ってきて一瞬のうちに山が消し飛んでしまったとしても、後方にいる榎室君は、それに気付くことなく青々とした美しい風景を眺め続けるでしょう。それがとっくにこの世に存在していないとも知らず。もっとも、瞬きのような一瞬だけですが。これは世界中どこででも常に起こっている.......なんだか寂しいじゃありませんか」


 聞きながら、放心したように体から力が抜けていることに気付いた。宮内は顔をこちらへ向けて、柔らかくほほ笑んだ。


視線が交わった瞬間、榎室は何か引っかかるものを感じた気がしたが、宮内は淀みなく続ける。


「自分にとっての現在は、誰かにとっての過去か未来でしかない。誰かにとっての現在もまた、自分にとっては過去か未来のどちらかでしかない......君と君のガールフレンドが体験していることは、この事実ととてもよく似ていますね。現在という言葉はさも客観的な概念かのように使われがちですが、実際は主観的な指標でしかありません。誰もがみな自分だけの時間の中で生きている。言い換えれば誰もがみな自分だけの世界で生きているんです」










  きいきい喚く自転車を引きながらの帰途、足取りは鉛のように重く感じられた。


 子供の頃に抱いた、世界は主観によってそれぞれ違うのではないかという妄想。あれは虚構などではなかったのだ。


 榎室は思う。


 もしかしたらこの漂流現象は、俺達が元いた日常とさして変わらないのかもしれない。


 出会うことなく、噛み合うことなく漂流し続ける自分と春乃。平然と過ごしているが、その実、孤立した世界に閉じ込められて生きている、この星の全ての人々。


 そこに一体、どれだけの差があるというのだろう。


 薄暮が、熟れすぎて腐った果実のような色へと町を染め上げている。


 次はどこへ流れ着くのだろう。呆けたように眺めているうち、眼前の町並みが渦を巻いていった。田園が、電柱が、家々が歪んで、やがて榎室自身も形を失っていった。











  白い天井が、消毒薬の匂いとともに見えてくる。背中には柔らかなベッドの感触.....。


 ここはまさか、病室だろうか。


「おはよう。今日はどう?痛む?」


 柔らかな声がして、傍らを見やる。ベッドサイドのスツールに腰かけているのは母だった。


「あ......ああ、母さん.....おはよう」


 その姿は、馴染みの姿と比べてかなり歳をとっているように見えた。だとしたら今の自分は30歳、あるいは40歳くらいかもしれない。


「あのさ......俺って今何歳だっけ」


 老けた母は少し怪訝げに応えた。

「19よ。いやね、その若さで自分の年齢を忘れちゃうなんて」


「19?」思わず聞き返した。


 大部分がシーツに隠された自分の体を見下ろすと、たしかに若々しい肉感がある。声もハリが戻り、どうやら本当に青年期のようだ。


 だが......だとすれば、矛盾があった。目の前に座っている母の年齢である。彼女は一見して50歳、あるいは60歳ほどにも見える。自分が本当に19だとすれば彼女の年齢は過分なのだ。


 はっとした。違う。彼女は実際に歳を刻んでいるわけではない。10年も20年も経過したみたいに憔悴し、やつれているのだ。まるで長い間、凄まじい苦悩に曝され続けたみたいに。


 お茶でも入れるわね、と母は言いながら、家で用意してきたのだろう魔法瓶を取り出して、カップに薄い液体を注ぎ始めた。


 榎室は状況を整理し始める。


 本来の自分は20歳だ。そして今いるのは19歳の頃の体。ということは今体験しているのは、過去の経験だということになる。だが榎室は同時に、心臓を撫でられたような寒気を覚えた。


 自分は入院などしたことがない。


 母はなぜ、ここまで憔悴しているのだろう。自分はなぜ今、記憶にないことを経験しているのだろう。


 いや、そもそも。

 どうして自分は、入院などしているのだろうか。


「母さん。俺ってさ。なんで入院してるんだっけ」


 榎室は聞いた。最悪でも、入院検査か何かだろうという程度の答えを想像して。


 初老の婦人は顔を伏せたまま反応しなかったが、やがて肩を震わせ始め、泣き出してしまった。


 困惑した。なぜ泣いたのか分からなかったからというのもある。だがそれ以上に、母が涙を見せたことは今までに一度もなかった。


 慰めようとしてその小さな肩に手を伸ばしたが、なぜかそこまで腕が届かない。もう片方の手を取り出したが、そちらも同様だった。おかしいなと思い、よく検分してみる。両腕には肘から先がなかった。


 榎室はけたたましい叫び声をあげていた。












 恐慌状態に陥った榎室が、ナースセンターを騒然とさせるほどのパニックを起こし、ようやく落ち着きを得たのは、駆けつけた医師と看護師によって取り押さえられた後のことだった。落ち着いたというよりは忘我し、放心したといった方が適切だった。


「なにか怖いことでもあったんですか、榎室さん」

医師は落ち着かせようとするように問う。


「俺の.....腕.......腕......が........」


 そこにあったはずの上腕は、今やどこにも存在しなかった。


「どうし.......て........」


 母は目元を拭っている。壮年の医師が眼鏡をかけ直して言った。


「あなたにはどうやらPTSDによる混乱が起こっているらしい。あなたが事故にあったのは10歳、小学5年生の8月7日。先生の家へ夏休みの宿題を直接届けに行った帰りに、乗っていた自転車ごとトラックの下敷きになったんです。覚えていませんか」


 かすれた声を吐き出しながら、医師の言葉がリフレインするのが分かった。8月7日.......それは、ついさっき迷い込んだ日付ではないか。


「本当はすぐ終わる用事のはずだったのよ。なのに、なぜか帰りが少しだけ遅くなって.....運悪く、そのタイミングで居眠りのトラックが.......」


 震えた声で母が付け加える。


「一命はとりとめましたが、両腕切断、下半身不随が残ったんです。思い出しましたか?」


「何が.........どうなって.....るんだ......」

 思うのみに留めるつもりだった言葉は、意図せずして喉からかすれ出ていた。


「ここまで説明しても落ち着く様子がないのか......。どうやら息子さんには混乱が著しいようですね」


 医師が神妙につぶやくと、母が涙ながらに訴えた。


「先生。二人きりにしてくれませんか。刺激させないようにすれば、ゆっくり平静を取り戻すと思うんです.......」











 先程までの狂乱が嘘だったかのごとく、水を打ったように静けさを得た病室......。丸みを帯びてすっかり短くなった肘を眺めながら、榎室は、毒気を抜かれたように茫然と考えていた。


 本来ならばあの日、8月7日は、宿題を提出してすぐ帰るはずだった。だが俺はその史実をほんの少しだけ変えてしまった。宮内としばらく話し込み、数十分ほど辞去が遅くなったのだ。


 結果、運転を狂わせた車両と鉢合わせ、無残にも散った。改変された過去は、そうあるべき未来へと地続きとなって、俺の人生全体をかくも変貌させてしまったのだ.....。


「あの日以来、あなたはずっと病室暮らしの10年を強いられたのよ......。そんなだから学校なんて行けるはずもなかったわ......」


 10年を回顧するように、母はさめざめと語る。


 奈落に突き落とされたような絶望を覚えた。

 学校に行っていない、だって。それでは俺の青春は。そこで出会った思い出は、人々は。

 もうどこにも存在しないとでも言うつもりかよ......。


 春乃の明るい笑顔が浮かんだ。彼女と過ごした眩しい日々も.....いや、大学へ行くことのなかったこの世界では、そもそも彼女と出会った事実すら虚空に消えてしまった。


 榎室は今まで、一縷の希望を抱いていた。確率の壁を越えて彼女と再会し、全てが解決する日が来るかもしれないという一筋の光明を。

 だがそれすらも闇に没してしまったのが分かった。そもそも春乃と交友を持っていないこの世界では、よしんば奇跡的に彼女が漂着したとしても、日没までに顔を合わせることなど不可能なのだ......。


 榎室は絶望を感じた。底のない暗闇をどこまでも落ちていくような深い絶望を。

 まさか俺は、永久にこのままなのではないだろうか........。


そう思ったと同時に、抉られるような凄まじい痛みが両腕に迸った。


「あぁっ!.........い........痛ぁ.......!」


 母は血相を変えてナースコールを押した。


「どうしました!」間髪を置かず医師と看護師が飛び込んでくる。


「先生、息子が痛がってるんです!痛いの?どこが痛むの?」


 炙られるがごとき激痛は、存在しないはずの上腕全体をじわじわと侵していく。


「手が.......!手が.......痛い.....!」


「手......?でも手は.......」


 医師だけが状況を理解していた。「幻肢痛と呼ばれるものです」


「幻.....肢?」


「切断されたはずの四肢や指先がまるでそこにあるかのように感覚され、さらに痛みを伴いだす症状です」

語る表情は沈痛に俯いている。


「先生、お願いします!何とかしてあげてください!」


「対処する術はないんです。痛みを感じる箇所そのものが存在しないから、鎮痛剤や麻酔を施すこともできません。これは医学ですらまだ対症法を確立できていない症状なのです......」


「あ......あぁ......あ........」


 これは夢だ。とんでもなく性悪な作為に満ちた悪夢に違いないのだ.......。












 再び母と二人きりになった病室で、榎室は自失したように宙を見据えていた。


 何を考えるべきかも分からなかったし、そもそもこれが現実なのかも判然としなかった。 鉛のように重くなった頭の中で、春乃の輪郭が浮かんでは弾ける。彼女はどこにいるのだろう。この枝分かれした世界に巻き込まれているのか、それともまだ分岐前の世界を彷徨っているのだろうか。そこまでは思いが及んだが、難しいことはもうどうでも良くなって、考えるのをやめた。


 窓から差し込む夕暮れの茜が、白い部屋を血のごとき色に染め始めた。榎室はただ、特に思うこともなく意識が朦朧とし始めるのを待っていた。どこかに飛んでしまえば、気付いた時には全てが元通りになっている気がした。


 やがて目眩がやってきて、渦に飲み込まれた。意識を取り戻したとき、榎室は46歳だった。


 だが初めに見えたのは純白の天井だった。


 次の日も、その次の日も、何度漂流を繰り返しても、彼を迎えたのは白い天井だけだった。










 何かに反応する感性は既に摩耗してしまっていた。だから、何時ぶりかわからない木造の天井が見えたときも、特別の感慨は湧いてはこなかった。


 鼻孔にほのかに舞い込んでくる畳の香り。バックでやかましいほどに鳴りひびく油蝉のさざめき.......。汗でじっとりと張り付く肌着。なんとなく、ああ小学校時代の夏休みだな、と思った。思っただけで、それ以上なにも行動する気力は漲ってはこない。


 腕はある。体も動くし、寝返りもうてる。どうやら事故に遭う前のようだ。4年生かもしれないし、3年生かもしれないな。久しぶりに五体を満足に動かすことができる。


 だが、そんな事がどうだと言うのか。


 何度も絶望を叩きつけられて、榎室には分かっていた。一度定まってしまった運命は、二度と変えられない。あの忌まわしい事故の日が来れば、再び俺は白い部屋に幽閉されることになる.......。そう定まってしまったのだ。


 一瞬だけ、視界の端に日めくりカレンダーが映った。2009年8月1日。どうやら俺は小学5年生。死神がやってきて何もかも奪い去っていくのは同年の8月7日だから、今から6日後には、この健気な体は不具と化してしまう。


 手を、陽にかざした。輪郭が赤く仄めき、血潮が巡っているのがわかる。今は随意で動かせるが、もうすぐ吹き飛んでしまい、跡形もなくなるのだ......。


 がばっと、腕を抱くようにして縮こまった。嫌だ.......。怖い。失うのが.......。

 どうして俺がこんな目に曝されなければならない。俺が、俺達が何をした。明日なんて来なければいい.......。その為なら何でもする。何でも捧げるから、頼むからこれだけは奪っていかないでくれ.........。


 蝉の合唱が音量を増す。耳朶をつんざくような高音が重なり、それだけで不快さを誘った。


 宮内邸になんて行かなければ良かった。だが今の自分がいくらそう思っても、6日後の無垢な俺には届かない。決められてしまった運命通り、操り人形のように死地に赴くのみなのだ。路線を変えてしまった運命の軌道は、二度とその進路を戻すことはない......。

 榎室は、後悔のあまり涙した。宮内の家で無駄話さえしなければ.....。


 しばらくそうしていたが、やがて、がばりと身を起こした。


 ある考えが灯篭のごとく、ふっと灯る。

 俺は、定められた行動を変えてしまったために、世界を改悪してしまった。


 過去の行動選択が未来に影響を与える......ならば、そう定まってしまっている凄惨な未来を、別の進路で上塗りすることも、行動次第で可能ということではないのか?


 今俺が立っているのは、枝分かれするより前の時点なのだ。


「何ぼーっとしてるのよ。あんた、宿題は済んだの?」


 いつの間にか若かりし母がそこに佇んでいたが、榎室は顧みることなく思案を続けた。


 変えるためにはどうすればいい......。決まっている。6日後、自分がトラックと接触しないようにすればいいのだ。だがその為に必要なことは?まだ幼い自分自身の、それも6日後の行動を操るのは容易なことではないように思われた。


 そのとき医師の言葉がふっと思い出された。


『あなたが事故にあったのは10歳、小学5年生の8月7日。先生の家へ夏休みの宿題を直接届けに行った帰りに、乗っていた自転車ごとトラックの下敷きになったんです』


 はっとした。自転車ごと、というのが肝心なのだ。不幸な事故は、宮内との長話だけが招いたわけではない。それに加えて、徒歩でなく自転車で帰ったことが、たまたま車両の襲来時刻と合点したのだ。


 つまり、トラックが襲ってくる時間と、自分の帰宅時刻を、少しだけずらしてやれば、衝突は起こりえないのではないか。


動じることなく沈思黙考する息子に、母は痺れを切らした。

「祐一。人の話は聞きなさいっていつも___________」


「母さん。工具箱ってどこにあったっけ」


 不意打ちを食らったようで、母は狼狽する。


「工具箱?確か物置にあったと思うけど.....何に使うの?」


 そう答える母と視線が合ったとき、胸中にふたたび何かが浮上した。

 何だこの、捉えがたい漠とした取っ掛かりは......。いや、そんなことはどうでもいい。

 それよりも今は。


「ちょっと。あと、数十分ほど出かけてくるから」


 榎室は裏手に向かい、物置の戸を引いた。塗装の剥げた工具箱を見つけると、それを自転車のカゴに乗せ、きいきい鳴らしながらペダルを漕ぎだした。


 15分ほどかけて到着したのは、ガラクタの山積するゴミ集積所だった。自転車を降りると、工具を使ってまずチェーンを外した。油まみれになった手で、次にペダルを取り外し、サドルを外し、あらゆるネジを緩めてフレームやタイヤを解体した。バラバラにした自転車を、念を入れてゴミ山に散りばめるように埋めた。


 来た道を歩いて帰りながら、榎室は思う。


 自転車はたった今、なくなった。6日後、交通手段を失った俺は、歩いて宮内邸に向かうしかなくなるだろう。帰宅時間がズレてしまえば、きっと暴走車両と接触することもないはずだ.......。


 帰宅した榎室を待っていたのは母の詰問だった。自転車をどうしたのと聞かれ、どこかへ置いてきてしまったと返した。大目玉を食らったが、どうしてかその怒声は耳に心地よかった。


 やがて日が没し、気が付いたとき、榎室は27歳だった。


 もう白い天井は、そこにはなかった。












 それから何度時空を漂ったことか、榎室はもう数えてはいない。


 世界が大きく改変されたようなことは、あれ以来一度もなかった。だがそれは漂着した先々での榎室の指針が、あの改変以来、一貫していたからだった。


 何も行動することなく、ただ怯えて日没を待つこと。


 いつ訪れる、どんな選択が、おぞましい世界への引き金になっていたとしてもおかしくはない。家を出る時刻。試験の解答の一字一句。陳列された商品を手に取る順番。電車内の座席シートの座る位置。会話相手との受け答え。


 そんなありふれた日常の選択肢は、榎室にとって地雷原だった。どこに罠が設置されているとも知れない恐怖に怯えながら、薄氷を踏むように生きねばならない理不尽.....。何も行動せず縮こまっている時が最も安全だった。ただそうして何も選択せずに丸まっていれば、その時だけは明日に恐怖せずに済んだ。


 周囲の人間にとって、その様子はさぞかし奇異に映ったことだろう。昨日まで快活だったはずの榎室が、ある朝突然、得体の知れない強迫観念に震え上がっていた......。そんな奇態を見咎めた周囲は、明らかに強い困惑と狼狽を向けていた。外にでも出て気晴らししたらと提案されると、榎室はとたんに歯をがちがちと鳴らしだして強烈な拒絶を示した。そうして周囲の人間はますます混乱していった。


 嵐のごとき大海原を漂う中で、ある日、生命維持装置や無数の管に繋がれた病床で目覚めたことがある。腕は失っていなかったが、かなりの高齢だということがわかった。意識は朦朧としていて、あらゆる感覚は鈍く、機能として残っているのかどうかも判然としなかった。もしかしたらこれが寿命というやつなのかもしれないと漠然と思った。


 窓から西日が見えた。それはゆっくりとではあるが、確実に稜線に向かって落ちようとしていた。それに伴って、過度に熟れていく果実のように赤みを帯びていった。


 見つめながら思った。あれが沈むより前に、この肉体の命の灯が消えてしまったらどうなるのだろう、と。


 それは肉体とともにこの精神も朽ちることを意味するのではないか。そのとき自分は本当の意味で死んでしまい、二度と目覚めることはない....。


 そう思い当たったとき、それまでとは比較にならないほどの根源的な恐怖がこみ上げてきた。嫌だ。俺はまだ生きたい。死にたくない、死にたくない、死にたくない......。

 耳元で囁きかける声を聴いたのはその時だった。


 もう諦めてしまえ。春乃は、この荒漠たる時間の潮流のどこかでとっくに死んだに決まっている。すでに存在しない人間を探し求めるのは、それだけ徒労だ。


 うるさいと叫んでその声を振り払ったが、整然と反論する力を持ち合わせてはいなかった。現に今、自分は死にかけているのだ......。春乃がまだ生きていて、どこかで自分に助けを求めているのだと、一体誰が保証してくれるというのだろう。


 あらゆる方向から押しつぶしてくる数多の理不尽が、すでに彼を限界へと追い詰めていた。


 今日も彼は、薄れた意識の底から目を覚ました。そこは真っ暗で何もない空間だった。周囲を把握しようとするが、なぜか視界は朧げなままはっきりした焦点を結ばない。どこか非常に狭い場所にいるらしいことと、そこには入口も出口もないらしいことは分かった。


 だがそこは形容しがたい安息と包容感に包まれていた。


 直観的に確信した。ここには何も危険はない。脅かすものも、苦しめるものもない。行動を起こす必要性すら存在しない。息をつく間もなかった嵐の漂流の先で、一時ではあるが羽を休めることのできる場所に、ようやく辿り着いたのだ。


 周りを満たす温かな水と、空間に射すほのかな赤み。揺られているうち、今さっき覚醒したばかりだというのに眠気がやってきた。


 今の榎室にとっては、全てのしがらみがどうでも良かった。

 今はただ眠りたかった。











 夢を見た。そこでは誰かがうずくまって泣いていた。


 彼がどんな姿をしていたのかはよく覚えていない。不思議と思い出すことはできない。その小さな背中に話しかけた。


 どうして泣いてるんだい。


 ____________人と離れ離れになってしまったんだ。


 背中が応えた。女性のような声にも感じたし、男性のようにも思えた。子供みたいにも感じたが、成熟したような声だったとも思う。


 奇遇だな。俺も、人とはぐれてしまったんだ。


 ____________僕たちを会わせてよ。


 済まない。俺だって君たちを会わせてあげたい。けど、そんなことは無理なんだよ。

 元から、この星に生きる誰もが独りぼっちなんだ......。


 ____________違うよ。一つだけ、一緒の世界を分かちあえる方法がある。それができたとき、僕たちも、君たちも、会いたい人に会うことが叶う。


 何だ、それは。教えてくれ。


 ____________それは。


 意識が激しく揺さぶられた。やがてそれは渦潮のように巡り始めて榎室を包みこみ、彼をすさまじい勢いで浮上させようとする。

 最後の言葉を聞くことはできなかった。気が付いた先は、病室でも田舎の生家でもなかった。


 アパートの一室らしき7畳ほどの空間。一眼レフや教科書類が置かれた棚の横には、春物の衣類がかけられたクローゼットがそびえている。


 取り出した携帯電話の画面が、2019年6月14日を示していた。













 聞こえてくるのは、打ち寄せては返す向岸流のさざめきと、靴底が砂を踏みしめる音。


潮風の薫る朝戸海岸は、自分以外には誰もおらず、森閑と静まり返っている。


 榎室は、先ほど見た夢の内容について考えを巡らせていた。暗い部屋でうずくまっていたのが誰なのかは分からない。だがその余りに小さな背中は、悲泣に暮れていた。


 そして、最後の言葉.......彼は何と言うつもりだったのだろう。


 人がまったく同じ時間を共有できる唯一の方法.....。


 渚をうろつきながらずっと思案していたが、何も閃いてはこなかった。何度も往復しているため、自分の足跡が幾重にも交錯している。


「さっきから難しい顔して、何考えてるの?」


 聞き慣れた声がして振り返ると、そこにはずっと探し求めている女性の姿が佇んでいた。


「.....どうしてここに?」


 まさか本来・・の彼女が宿っているのか?一瞬その疑念がよぎったが、そんな挙措は感じられなかった。


 思い過ごしか.....。


 髪を揺らしながら、春乃は、横を通過する。

「海辺に向かって歩いてたのを見かけて声をかけようと思ったけど、様子がおかしかったからついてきたのよ。ここに着いてからもしばらく眺めてたんだけど、ずっとウロウロ歩き回ってるだけだったから、誰がどう見ても変に思うわよ」


 どうやら、うなだれた様子の自分を見咎めて、心配してくれていたらしい。


「何があったの」


 問いかける表情には、心からの慮りが現れている。だからこそ胸が苦しくなる......。この問題ばかりは、君が力になれる事なんて無いんだ。


「何もないよ」

取りつく島もなく突き放す。


「祐一くん!」


「君にはどうすることもできないさ。これは俺一人だけの問題なんだ」


 本当の事など言えるはずもない。君を探して旅をしているんだ、とは。


 これで彼女は、愛想を尽かしてどこかへ行ってしまうだろう......。そう思ったのだが、意に反して、彼女は毅然としていた。


「どうして決めつけるの?」


 その問いかけに不意を打たれ、「え?」とたじろぐばかりだった。


「私じゃ解決できないことで悩んでるのかもしれない。けど、それが何だって言うの?」


 舌鋒には決意めいたものがこもっている。彼女のこんな芯の強さを見たのは初めてだった。


「一緒に頭を抱えて、呻いて、苦しみを共有することぐらいはできるかもしれない。それとも、そんな事すら期待できないくらい私は頼りない?」


「春乃........」


 言い終わるや、揺らがざる瞳をもってこちらを見据えた。


「もっとよく私を見て」


 そのとき、榎室に大きな閃きがあった。ずっとどこかに引っ掛かっていた大きな何かが、快音を立てて転がり出でたような、そんな感覚が。


 まさか......これなのか。


 榎室はゆっくりと彼女に近づいた。春乃は身を引くこともなく、怪訝な色を浮かべている。




 榎室はただ、まっすぐにその瞳を見つめた。




 ただ、見つめ続けた。決して逸らさぬよう、一線に。互いの距離を確かめるように。


 一体どれだけそうしていたかも分からぬ時が流れた。


 駄目、だったか.......。


そう思った時、困惑していた彼女が目を見開いて驚愕の色になり、それから柔らかな表情へと徐々に落ち着いていく。

瞬間、帰ってきたんだな、と確信した。


「祐一くん......祐一くんなのね」


 凪いだ海面が、中天に差しかかった日の光を浴びて、散りばめた金粉のように乱反射を返している。それらは星のように瞬いて、ゆらめきながら、ただ静かに二人を照らし続けていた。










 二つの片割れを近づけると、それらは初めからそうであったかのように、亀裂すら残さずぴったりと合わさった。


「引き離しちゃってごめんね」

春乃が、石に囁いた。


 渚にそっと置くと、ざあっという音とともに白く泡立った波が到来した。


「あっ」


 砕けた波頭は、彼らを乗せると、あっという間に目の届かない奥深くまで攫き、間もなく見えなくなる。


 きっと彼らはもう、誰にも邪魔されることなく漂うのだろう。


 ありがとう、という声がどこかから聞こえた気がしたが、翻っても誰も居なかった。


「....遅くなってすまなかった」


 海を見つめながら呟く。それが聞こえたのか、春乃は冗談めかすように微笑んだ。


「それは私に言ってるの?それとも、あの子たちに?」


「両方だよ」


 旅路に思いを馳せる。長く、苦しく、溺れてしまいそうだった遠い旅を。


「ここに来るまで俺は色々な未来を見てきたけど、そこは必ずしも良い所ばかりじゃなかった。次に飛ぶ世界がどうなってるのか知るのが怖くて、丸まって怯えたりした事さえもある」


 横で聞いている彼女が無言になる。きっと彼女も、似たようなものを見てきたのだろう。


「でもウジウジしてても仕方ないって分かったよ。何をするか、何を成すかでこれからが変わるって言うなら、輝きに満ちた未来を想像したって一向に構いやしないはずだ」


 これから何が待っているのだろう。それは誰にも予想できる事ではないが、榎室は少し前向きに生きていける気がした。


 柔らかな手が、自分の左手に絡んでくる。


 横を見ると、春乃と目が合った。だが二人とも決して視線を逸らすことはなかった。繋ぎあった手から、実在感のある確かな体温が伝わってくる。


 榎室は思う。


 この星に生きる誰もが、孤立した世界で生きることを強いられている。

 それでも誰かと寄り添える確かな一瞬があるとするなら、それはきっとこの瞬間なのだろう。


 互いの温もりを隣に感じるようにして、二人は明日へと続く道を踏み出した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

時間を漂流する二人 友幸友幸 @suruo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ