それでも、嫌いになれない。

ミヤシタ桜

温度

 頭に柔らかな優しさと、確かな温度を持って手が触れた——そんな錯覚で目を覚ましたのは、湿った空気がそこら中を漂い始めた梅雨の夕方だった。その錯覚は、錯覚ではあったものの、たしかに現実であった。というのも、僕の頭を夕日が照らしていた。その温かさは確かだった。その時、微かに頬に感じる温かく冷たい涙が、気怠い体ととてつもない憂鬱をやって来させた。


 それでも何とかして体を起こす。するとどうしようもないほどの憂鬱に、『梅雨に入ってから初めて雨が降らないでしょう』という笑顔の気象予報士の言葉に、昨日見た深夜アニメの希望に満ちたワンシーンに。そういうものが走馬灯のようにどっと焦げた空気に乗ってやってきた。


 それらを掻き消して、僕は今日という一日の反省会をする。でも、反省会と言えるほど立派なものではなくて、ただひたすら自己を否定し続けるだけ。


 お前はダメなやつだ。社会に必要とされることもなく、ただ東京のワンルームで一人寂しく缶ビールを飲んで酔えば、自分は世界の中心だ、みたいな勘違いをして。『限りある時間を有効活用せずチクタクとただ繰り返し生産性のかけらもない行為だけをして過ごす惰性的な人間』がそんな勘違いをするのは甚だしい。馬鹿だ。馬鹿だ。アホだアホ野郎だ。死ね。死んでしまえばいい。さっさと消えてしまえ。消えろ消えろ消えろ消えろ。


 

 そういった類の自虐をすることで、僕は心の均衡を保っている。自分を傷つけないと、自虐していないと、生きていけない。そういう考えの中には、誰かに助けてほしい、なんていう希望的観測を抱いていて、そういうところに我ながら腹が立つ。素直にもなれないくせに人に助けを求めるなんて、と。


 ふと、部屋を見渡す。実を言うと、僕にはあまり欲がない。だから部屋には最低限のものしかない。中古で買った薄汚れた白色の冷蔵庫には缶チューハイが一本しかないし、透明なガラス板が貼られた小さなテーブルの上にはテレビのリモコンが一つあってその周りには、端から綿が出ている青い座布団が一つだけ。そして、その貪欲さからか食事はカップラーメンかコンビニのおにぎりで済ませてしまうことが多く、現に台所には積み重なったカップラーメンの残骸と飲み終わった缶チューハイがあった。そんな台所の近くには、木でできた人一人分入りそうなクローゼットがあってそこには、社会人をしていた頃のスーツがあった。ハンガーに掛かったそのスーツの真ん中あたりに置いてあった無地のネクタイに、僕は少しだけ、学生の頃のことを思い出した。それは、自己嫌悪にまみれた過去をちょっとしたきっかけで思い出し、正体不明の痛みが胸を締め付ける感覚に似ていた。



 


 学生の頃、男の僕は男だと言うのに、男である彼のことを、本気で好きになってしまった。彼は誰からも好かれる人気者で、クラスの女子にも好きだった人が多くいたと思う。どこか落ち着きを持った優しい声に、それに相反するような野球部だった彼の筋肉質な腕も、眩しい太陽が綺麗に反射する滴る汗も、爽やかな香りも、彼の全てが好きだった。特に好きだったのは、彼の手と彼のネクタイだった。彼の手は練習によるものなのか肌が荒れ痛々しく、でもそういう所がより彼の事を魅力的に感じさせた。そしてよく彼はその手で、僕の頭を撫でた。それは、単なる友達同士の馴れ合いであることを、分かってはいたけれどそれでも、僕は嬉しかった。柔らかな優しさと確かな温度を持ったその手が、本当に本当に嬉しかった。


 また彼のネクタイは、学校指定の黒色三本ストライプのではなくて、無地で紺色のネクタイだった。それは彼が大人になる過程で、大人に反抗をしてみたくなり、小さな抵抗をしめした。ただそれだけのことだろう。ただそういうちょっとした抵抗も、僕から見ればとてつもなく彼のことを魅力的にさせた。


 でも僕は告白をしなかった。告白して嫌われたら嫌だし、それだったら友達のままずっと仲良くしていたかったから。でも、現実はそう上手くはいかなかった。高校3年になると、文理でクラスが分かれた。彼は理系の特進クラス。僕はと言えば、文系クラスの普通クラス。こう言う差が、まるで神様からお前らは釣り合わないんだぞ、と言われているような気がして、ただただ悲しかった。クラスが変わると、話す機会は少なくなり廊下ですれ違っても目すら合わせなかった。互いに存在を消しているような。そういう感覚に近かった。理由はわからない。少なくとも、僕は彼と話したかったはずだ。だけど、もしかしたら嫌われているんじゃないかとか、そういう余計な不安がどんどんと膨らんで行き、話しかける勇気は隅の端っこの方に追いやられ、いつのまにか消えていた。


 そして、高校を卒業し当たり前のように違う大学へ行った。大学になったらもう、彼がいてくれる当たり前のような日々は無くなってしまった。さっきまであった当たり前が急に消えてしまって、でもそれを埋めるように講義を受けた。興味のない心理学は、空いた穴を埋めることはできなくても蓋をする程度の事はできた。



 そして社会人になる頃に、彼は一流企業に就職できたこと、そしてサークルで仲良くなった女と結婚を前提に付き合っている事を報告した。大学の講義で埋めていた蓋は、ボロボロに破壊され、喪失感が襲い、どうすることもできなくて、おさまっていたはずの心の波は嵐が来たかのように荒れ果て、ただ絶望と後悔と憂鬱の波に苛まれた。






 クローゼットにある、そのネクタイを僕は手に取る。無地、紺色のネクタイ。あぁ、そういえば。そこで僕は彼のネクタイと同じだという事に気づく。このネクタイは僕が入社する前に、買いに行ったものだ。いろんな種類があった中で、僕は何となくそのネクタイに惹かれた。今、その理由が明確に分かった。


 徐に僕はスーツに着替えた。シワのついていないズボンを履き、ワイシャツを着た。そして、僕はネクタイをつけようとした。けれど、染み付いたはずのネクタイの付け方は、僕の体からいつのまにか抜けていた。


 そう。そういえば、僕は1ヶ月前に仕事を辞めた。パワハラとかそういう仕事上の問題ではなくて、ただ仕事に飽きた。酷く子供じみている、と自分でも思った。けれど、止められなかった。そう言う部分も、彼との差をどんどんと広げていく。


 僕は、膝から床に崩れ落ちる。あぁ、僕はなぜ男なのに男を好きになってしまうのだろうか。大人にもなれないし、告白するほどの勇気もないし、ネクタイの結び方も忘れるし。一体、僕は何のために生きているのだろうか。分からない。


 そんな僕の感情を助長するように、夕日が沈んでいった。カチ、カチ、と無慈悲に規則的に時を進める時計の針は6を指す。部屋が段々と暗くなる。


 彼はまだあのネクタイをつけているのかな、なんて馬鹿みたいな希望を抱きながら、僕は冷たくなったその部屋で結ばれずにいるネクタイを握りしめる。そうすると、なんだか彼の温もりを感じれる気がした。でもそんなことが起きるわけがなくて、もし温かくなってもそれは、彼の温もりなんかではなくて、ただの痛みから伴う温度だろう。そう分かっていても、実際にネクタイを握り締めると、手が温かくなり、その事実が虚無に満ちた喜びとなってやってきた。


 


 


 そこで、僕は決心をした。僕は今から彼に伝える。二つの告白。同性が好きであること。そして、未だに君のことが好きであるという事。規則的になる受信音が8秒ほどなった時、彼は電話に出て

『おぉ、久しぶりだな。なんか用でもあるのか?』なんて、明るい声で応対をしてくれるのだろう。


 どんな返事が来るだろう。罵倒されるか、同情でもされるのか。或いは、冗談だろ? と言って笑われるかもしれない。どうなるのかは、わからない。


 でも、それでも僕は告白をする。

 

 絶望が押し寄せ、後悔に染まり、憂鬱へと沈み込んだ青春を捨てるために———或いは、拾い上げるために。




 

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それでも、嫌いになれない。 ミヤシタ桜 @2273020

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