終末の治療薬(ポーション)

卯月 幾哉

終末の治療薬(ポーション)

 ドアベルの音がして、セーシュは薬の調合をしていた手を止めた。

 治療院の入り口には、年頃の娘が一人で立っていた。


「どうしました、ニルデさん?」


 彼女の顔色からは疲労がにじみ出ていた。目の下にはくまがあり、髪もほつれかかっていた。

 とはいえ、患者は彼女ではないだろう。セーシュには予感があった。


「父の具合が悪くて……。家まで来てもらえますか」


 嫌な予感が当たった。

 ニルデの言葉を聞いてセーシュはそう思ったが、努めて表情には出さないようにした。

 彼女の父ジュゼッペが最後に治療院に来たのは二週間前のことだ。


 セーシュは、この町で妻と共に治療院を開業している薬師だ。

 わけあって仕事を休んでいる妻に代わり、現在は一人で治療院を切り盛りしている。


 一年ほど前から、治療院を訪れる患者の数は増加の一途を辿たどっている。

 セーシュは一人でも多くの患者を治療するために、昼夜を問わず働き続けていた。


 ニルデの頼みを聞くため、セーシュは家族に事情を告げてから、彼女の家に向かうことにした。

 治療院の入り口には、『ただいま、往診中』と書かれた札を提げておいた。


 ニルデの家に着くと、父親のジュゼッペが寝室のベッドで臥せていた。

 彼は高熱にうなされ、意識は朦朧としていた。

 セーシュはすぐに病状を確認した。


「熱を下げる薬は?」

「飲ませています。でも、段々効かなくなって……」


 ニルデの答えに、セーシュは下唇を噛んだ。


「……先生、来てくれたのか」


 ややあって、意識を取り戻したジュゼッペは、セーシュと二人で話したいと訴えた。


「ニルデ、少しあっちへ行っててくれ」


 ニルデは父の言葉に素直に従い、一礼して寝室を後にした。


 ジュゼッペは、ぜいぜいと苦しげに呼吸をしながら、熱を帯びた手でセーシュの手首を掴んだ。


「先生、例の薬を処方してくれ。ダニロが最期さいごに飲んだってやつだ」

「……知ってたんですか」


 セーシュが溜め息を吐くように応えると、ジュゼッペは頷いた。


 『アカナイタム』というその薬は、別名「死のポーション」と言われる劇毒で、古来、安楽死に用いられていたものだ。

 魔法を用いた代替薬が普及したため、今日では廃れてしまった薬だった。


 魔力欠乏症が深刻化し、死期にあったダニロに対して、セーシュがその薬を飲ませたのは先週のことだ。

 ジュゼッペはその話をどこからか聞きつけたらしい。


「全身が痛くて苦しいんだ。毎晩うなされて、あいつに迷惑を掛けている。どうせもう助からない」


 古い文献を解き明かし、『アカナイタム』を現代に蘇らせたのはセーシュだ。

 しかし、それは死の床にある患者の苦しみを少しでも和らげたいと思ってのことだった。決して、安易に生を諦めるためではない。


 セーシュははっきりと首を振った。


「そんなことできませんよ。娘さんが一人になってしまうじゃありませんか」


 ジュゼッペは大きく息を吐いた。


「ニルデを呼んできてくれ。あいつと話をする」


 セーシュは部屋の外で待っていたニルデと入れ替わるようにして、ジュゼッペの寝室を離れた。

 ややあって、室内からニルデの大声が響く。それから、すすり泣くような嗚咽の声が聴こえてきた。


 しばらくして、ニルデがセーシュを呼びに出てきた。その目は赤いが、決意を固めた表情だった。


「お願いします。父を楽にしてあげてください」



「私があの薬の話なんてしなければ……」


 ジュゼッペが眠るように息を引き取った後、ニルデはセーシュに涙を見せた。

 『アカナイタム』の話をジュゼッペに聞かせたのは彼女だったようだ。一時の気の迷いか、父親の介護に疲れ果てていたのかもしれない。

 セーシュには、そんな彼女に対して掛けるべき言葉を見つけられなかった。


「先生、ありがとうございました。おかげで、父は安らかに逝けました」


 セーシュは首を横に振る。


「礼を言われるようなことは何もできていません。それで、お父さんのご遺体については――」

「はい。知人に頼んで、処置を手伝ってもらいます。先生に言われた通りに」


 ニルデとそんなやりとりをした後、セーシュは自宅でもある治療院に足を向けた。


 魔力欠乏症。

 マナが枯渇した世界で、ほぼ全ての人間が罹患りかんした病はそう呼ばれている。


 魔法現象を引き起こすエネルギー源となる「マナ」は、昔日せきじつの文明の根幹を成していた。

 かつては無尽蔵にあると言われていたマナだったが、今では小さな種火を起こすだけの魔法すら発動しない。

 マナを動力とする家庭用機械の普及や、産業用機械の大型化によって、人類が消費するマナは等比級数的に増えていった。

 急激なマナの減少による精霊の集団失踪や魔物の大量死、森林の砂漠化などの異常現象が立て続けに起こっていたが、一部の魔導学者がマナの節約を叫ぶ声は間に合わなかった。

 歯止めを失った人類の文明は、この星のマナをあっという間に食いつぶした。


 それによって、マナに頼りきりだった人間の生活は一変した。

 あらゆる機械が動きを止め、仕事どころか、日々の暮らしさえままならなくなった者がほとんどだった。

 人々の生産活動や物資の流通は停止し、中央政府は機能不全となって、存在意義を失った。


 巨大な棺桶と化した都市部から脱出しようとした人々が地方にあふれ、その先の各地で食糧をめぐる争いが起こった。

 そんな初期の混乱を乗り越え、中世以前の暮らしに適応し始めた人類に追い打ちを掛けたのが、魔力欠乏症の流行だ。


 この世界の人間は誰しも、生まれながらにして大なり小なりマナを保有している。ただし、このマナは何もしなくても体から外界へ漏出ろうしゅつしていく。

 マナが枯渇する以前であれば、呼吸によって大気中のマナを取り込むことができたが、マナが枯渇した後、それを補う術が失われてしまった。

 魔力欠乏症は、マナを多く保有する者ほど発症が早く、症状が深刻化する性質を持っていた。


(皮肉なもんだな)


 と、セーシュは思う。

 マナをほとんど持たない彼は、未だ魔力欠乏症の発症を免れている。


 若い頃はこのマナの少なさから魔術師になる夢を諦めざるを得なかった。悩んだ末に見つけたのが薬師という道だ。

 その頃から身に着けてきた薬の知識と技術によって、世界がおかしくなった今でも、なんとか人の役に立つことができている。


 セーシュは決して万能ではない。

 どんなに手を尽くしても、ダニロやジュゼッペのように、生かしてやれない人はいる。


 ――ひょっとしたら、この世界はもう滅びを待つだけなのではないか。


 ふとしたときにそんな疑念が頭をもたげる。

 その度に、彼は頭を振ってそれを否定する。


(まだまだ、諦められるもんか)


 きっと、どこかに人々を救う手だてはあるはずだ。

 セーシュはそんな一縷いちるの望みを胸に抱き、今日も診療を続けている。



「ただいま」

「あ、パパ! お帰りなさい」


 自宅兼治療院に帰ってきたセーシュを出迎えたのは、六歳になる彼の娘のフローラだ。


「ちゃんとお薬は飲んだかい?」

「うん!」

 セーシュの問いに、フローラは元気よく返事をした。


 その日の診療を終えたセーシュは、妻であるエリザの寝室に一人で入った。

 彼女の顔色は、先ほどのジュゼッペに劣らず、悪い。

 ベッドから身を起こそうとするエリザをセーシュは手で制す。

 そのまま彼は、その日あった出来事を妻に語って聞かせた。


「――それで、ジュゼッペさんにも『アカナイタム』を処方したよ」

「そう」


 セーシュの言葉に対して、エリザは短く返事をした。

 『アカナイタム』――「死のポーション」の効能は、彼女も知っていた。


「……すまない。僕は君みたいに人々を救うことができない」


 セーシュはまるで懺悔ざんげするかのように肩を落とした。

 エリザはわずかに身を起こし、そんな彼の肩に手を添える。


「治癒魔術師の私がこのざまなのよ。あなたを責められる人なんてどこにもいないわ」


 彼女は自嘲するかのように、口元で小さな笑みを作った。


 今でこそセーシュが一人で切り盛りしているこの治療院は、元々エリザが主体となって開業したものだった。

 薬師のセーシュは、当初、治癒魔術師である彼女の助手に過ぎなかった。


 しかし、優れた治癒魔術師であり、大きなマナを保持していたエリザは、世界中でマナが枯渇した後、真っ先に魔力欠乏症にかかった。

 なお悪いことに、彼女は自身が魔力欠乏症に苦しみながらも、同じ病の患者にマナを分け与え、その結果、ますます症状を悪化させた。

 今では、一人で食事をすることさえままならない。


「――ねえ、魔法で異世界に行こうとした人の話、知ってる?」


 とりとめのない話の流れで、エリザはそんな問いを発した。

 セーシュは頭の中で記憶を探る。


「『ベルナルドの冒険譚』かい? あれは創作の話だろう」


 エリザは微笑みながら首を振る。


「ベルナルドは実在した大魔術師よ。でも、世界を渡った彼がその後どうなったか、誰も知らないの」


 そう聞いても、セーシュにはおとぎ話のようにしか感じられなかった。


大方おおかた、魔法が失敗して大惨事になったんじゃないのか」

「かもしれないわね。でも、もし別の世界に行けたなら、私たちも助かるんじゃないかしら」


 少しでも明るい話をしようとしているのだろう。

 セーシュはそう思い、彼女との会話に付き合うことにする。


「その世界にマナがあればね。どっちにしろ、今はマナがないから、世界を渡る魔法も使えないよ」

「そうね。奇特な異世界人が私たちの世界を救いにでも来てくれない限りはね」

「神様に祈るしかないね。もっとも、異世界の神様の名前なんか、僕は知らないけど」


 そんな話の後で、エリザはセーシュに懇願した。


「ねえ、お願い。セーシュ、私にもあの薬を飲ませてくれる」


 あの薬が何を指しているかは明白だった。

 セーシュは俯いて首を振った。


「できない。僕にはそんなことは」


 そう、とエリザは落胆したようにつぶやいた。


「あなたにマナがなくて良かったわ」


 この時の会話の最後に、彼女はそう言った。


「きっと、無茶して誰かにマナを与えて、私より先に逝ってたと思うから」


 そうかもしれないね、とだけセーシュは答えた。



「……ねぇ、パパ。起きて」


 翌朝早く、セーシュはフローラに起こされた。


「ママが動かないの」


 そう聞いてベッドから飛び降りたセーシュは、足をもつれさせながら妻の寝室に入った。


「エリザ!!」


 セーシュが触れると、彼女の身体は既に、生命あるものの温かさを失っていた。

 彼女のベッドの脇には、空になった『アカナイタム』の薬瓶が転がっていた。


 セーシュはその場で泣き崩れそうになったが、娘の手前、唇を強く噛んでこらえた。


「ママはどうしたの?」


 フローラが問いかけた。


「眠っているみたいだね。ここのところずっと苦しそうだったから、しばらく休ませておいてあげよう」

「……うん」


 エリザの寝室を出た二人だが、フローラが足を止めた。


「フローラ、どうした?」


 彼女は片手で頭を抑えていた。


「ねえ、パパ。頭が痛い」


 セーシュはフローラを抱き上げた。


「朝のお薬を飲もうな。そしたら、きっと大丈夫だ」

「うん……」



 それから、一年の月日が流れた。


 キィと音を立てて、木造の戸が開く。

 セーシュの自宅兼治療院の屋上からは、町を一望することができた。


 屋上に上がったセーシュは、激しく咳き込んだ。

 彼がどんなに目を凝らしても、町中に動いている人の姿を見ることはできなかった。


(何もかも無駄だったか……)


 セーシュがフローラに『アカナイタム』を飲ませたのは、エリザが亡くなった半年後のことだ。彼は手を尽くしたが、娘を救うことはできなかった。


 そして、今やセーシュ自身も魔力欠乏症に体をむしばまれていた。


(誰も、誰も助けられなかった……!!)


 セーシュは目を涙で滲ませながら、力なく石壁を殴りつけた。


 どれだけの人に『アカナイタム』を飲ませたか、セーシュはもはや覚えていない。材料を集めに行く時間が惜しかったが、ある程度は町の住人にも協力してもらうことができた。

 この二年間、セーシュは治療院での診療のかたわら様々な文献を調べ、実験と研究を繰り返したが、遂に魔力欠乏症を食い止める術を見つけることはできなかった。


 この町にはもう、彼以外に生きている者はいない。


 残った『アカナイタム』はたったの一人分だ。


 セーシュは薬瓶のキャップを開けた。


(エリザ、フローラ……待たせたね。今から僕もそっちに行くよ)


 セーシュはアカナイタムを一気にあおった。


(あれ……は……?)


 意識を失う寸前、彼は大空の果てに小さな亀裂が走ったかのように見えた。



 セーシュが次に目を覚ましたとき、自分が柔らかい清潔なベッドの上にいることに気づいた。


(ここはいったい……?)


 身を起こすと、そこは広々としたドーム状の空間の中だった。壁は白く、素材は判然としない。


 天国とはこんな場所なのだろうか。

 思ったよりも無機質な印象だ。


 セーシュが周囲を見回していると、壁の一箇所に四角い切れ目があることに気がついた。出入り口だろうか。

 すると、その切れ目に沿って壁がスライドし、ぽっこりと外へ通じる穴が開いた。やはり、扉の役割を持っているようだ。


 そこから現れたのは、光沢のある銀色のスーツを着た女性だった。セーシュは生まれてこの方、そんな格好をした人間を見たことがない。

 もしも、現代日本で暮らす者が彼女の姿を見ることがあれば、宇宙物のSF映画のコスプレのようだと表現したかもしれない。


 銀色スーツの彼女は、片手に円環状の物体を携えていた。


「あなたは誰ですか? ここはいったいどこなんです?」


 セーシュが訊ねると、彼女は困ったような表情を見せた。

 彼女は手にした円環状の器具をセーシュに差し出した。

 セーシュは恐る恐るそれを受け取る。


 彼が手にとって見ると、それは完全な円環ではなく、一箇所に隙間があり、伸縮性のある素材で作られていた。


 頭に着けたら、ちょうどいいかもしれない。

 そんなセーシュの思考を読んだかのように、銀スーツの女性がそれを頭に装着するように身振りで指示してきた。


 セーシュは怪訝けげんに思いながらも、指示に従ってその器具を頭に被った。


 銀スーツの女性が口を開く。


『私の言葉がわかりますか?』


 彼女の話す声とは別の声が、セーシュの頭の中に響いてきた。

 この道具には、翻訳の機能があるらしい。


 セーシュは純粋に驚いた。

 マナによって栄えていた時代でも、こんな魔道具の存在は見たことも聞いたこともなかった。


「あなたは何者ですか?」


 セーシュは改めて訊ねた。


『お聞きなさい、ベルナルドの同胞よ。私たちは異世界から来ました。ベルナルドはかつて言いました。「マナの枯渇に気づかぬ彼らは、いずれマナを使い尽くすだろう」と。私たちは、あなた方を救いに来たのです』


「ベルナルドの――! では――」


 ベルナルドといえば、かつて異世界に渡ったといわれる大魔術師の名だ。どうやら、妻の言葉は正しかったらしい。

 ――ということは、自分は死んだわけではないのか、とセーシュは彼女の言葉を聞いて初めて自覚した。


「どうして、もっと早く……」


 来てくれなかったのか、と言いかけたセーシュだったが、すんでのところで言葉を飲み込んだ。

 彼らには何の責任もないからだ。むしろ、自分だけでも生き残れたことを感謝すべきなのだろう。


 セーシュが俯いていると、銀スーツの女性は意外な言葉を発した。


『ベルナルドの同胞よ、私はあなたを尊敬します』

「――え?」

『なぜなら――』


 そのとき、ドームの壁にある扉が再び開き、小さな女の子が駆け込んできた。


「パパ!」


 セーシュの一人娘のフローラだった。


「フローラ! どうしてここに……?」


 セーシュは慌ててベッドから下り、駆け寄ってくる幼女を抱き止めた。


 彼は混乱の最中にあった。

 ――やはりここはあの世で、自分は死んでしまったのではないか。

 胸中では、そんな疑念さえ渦巻いていた。


 銀スーツの女性が言葉を続ける。


『たった一人で、同胞に仮死の薬を与えて回っていたのでしょう? 蘇生した多くの人から話を聞きました。皆、あなたに助けられたと』


「……そんな……。本当に、そんなことが……」


 『アカナイタム』を処方した患者は例外なく、静かに息を引き取った。しかし、その遺体は不思議と腐敗することがなかった。

 もしかしたら、将来マナが回復したら蘇生できるのかもしれない。

 セーシュ自身、そんな一縷の望みを持ち、遺体を処分することをしなかった。


 しかし、実際にそんな奇跡が起こるとは信じられなかった。


 フローラが現れてから間もなく、ドームの扉からもう一人の人物が姿を見せた。

 彼女も、セーシュがよく知っている人物だ。


「――もう、フローラ。ママを置いて行かないでくれる?」


 彼女は片手で杖を突きながら、一歩々々ゆっくりと地面を踏みしめるように歩いていた。

 ごめんなさい、とフローラが大して悪びれていない口調で謝った。


「ああ……」


 その時には、セーシュの目の奥から熱いものが溢れ、彼は前がよく見えなくなっていた。


 ――これまで自分がやってきたことは、決して無駄ではなかった。

 セーシュはやっと、長く孤独な試行錯誤の日々が報われたような気がしていた。


 そんな彼の目の前まで来たとき、彼女――彼の妻であるエリザもまた目をうるませていた。


「セーシュ、また会えて嬉しいわ。あなたのことを、私は一生誇りに思う」


 二人は固く抱き合って、互いの生を確かめた。

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終末の治療薬(ポーション) 卯月 幾哉 @uduki-ikuya

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