なにも

亜済公

なにも

 へードウィークスの都市部から、乗り合いタクシーを拾って三時間ほど郊外へ走った。もうじき昼になろうという時間帯。行き先を同じにする者はなかったようで、十人用の空間に一人、遠ざかっていくビル群を眺めているばかりであった。これが前世紀のタクシーであれば、運転手と会話を楽しむこともできたろうに。車の制御が機械に委ねられた現代とあっては、孤独に身を委ねる意外、方法はなかった。

 プラスティックで舗装された道路の脇に、だんだんと草花が増えていく。建築物は姿を隠し、地下シェルターへの入り口だけが、時折思い出したように浮かんでいた。背の高い木、背の低い木、背の高い花、背の低い花……そして細かく、絵筆のような雑草が、周囲に広がる全てなのだ。

 ――景観のために作られた、人工植物ではあるけれど。

 車内には一切の音がなかった。窓に耳をこすりつけても、風を切る気配すら感じられない。風景は絶えず後方へ走り、決して立ち止まることがないというのに、内部では何もかもが停滞していた。

 差し込む日差し、座席に張られた布の香り。そして何よりも退屈が、わたしの眠気を誘っている。

 ――到着予定時刻まで、あと十分です。

 眼球に設置された視覚素子が、視界にそう表示した。どうやら、居眠りの時間はないらしい。わたしは手元の鞄を探り、身分証を確認した。

「第五種特定臨床心理士」

 窓の向こう――遙か彼方に、目的の屋敷が見えている。


   ※


 見上げると、屋敷の外壁は白く塗られ、横二列に並んだ窓が、風を取り込もうと一杯に開けられているのだった。館の端から端までは、五十メートル程だろう。傾斜した台形の茶色い屋根から、ひょっこり尖塔が飛び出している。そのてっぺんで、風見鶏が狂ったように回転していた。カラカラ、カラカラ、カラカラ、カラカラ……。次第に速度が上がっていって、上がって、上がって、そして突然、ぴたりと静止してしまう。そのまま飛び上がってしまえばいいのに、とわたしは少し残念に思う。

「いらっしゃい、アニー」

 呼び鈴を鳴らすと、一人の老婆が扉を開けた。木製のそれは、軋むような音を立て、内部の埃っぽい空気をほっと吐き出す。今時、手動の扉なんて、この家以外で見たことがない。

「さ、入ってちょうだい。一週間ぶりだったかしら。あなたが来ること、ずっと楽しみにしていたのよ」

 ありがとう、と、わたしは作り物の笑みを浮かべる。それを見て、相手は満足したようだった。

「二日前、ミカエルが逝ったわ」

 わたしは既に、知っている。

「そうですか。……それは、とても、残念です」

「とうとう、わたし一人になっちゃったのね」

 板張りの廊下を進んでいく。ぱたぱたという老婆の足音は、びっくりするほど軽かった。

「お茶を煎れてくるから、少し待っていてちょうだい」

 見慣れた応接間に通されて、いつもの椅子に腰掛ける。木を模した壁を背景にして、ソファが二つたたずんでいた。それらに挟まれた四角く小さなテーブルの上に、柑橘類の山盛りになった一皿が、うっすらと埃を被っている。腰を下ろすと、ちょうど視線が向かう先に、稚拙な絵画が飾られていた。聞くところによると、ゴッホという男が描いたものらしい。

 老婆が立ち去るのを見届けてから、わたしは天井に目を向ける。細かな凹凸のある、光沢を押さえた白い壁紙。そろそろ交換しなければならない、古びて弱った電灯の明かり。そして隅には、よほど注意して見なければ分からないだろう、小型カメラが据えられている。

「……ごめんなさいね、お待たせして」

 扉が開いた。わたしは、尋ねた。

「最近、調子はどうですか? やはり、変わらず思い出します?」

 彼女はことり、と微かな音を伴いながら、カップをテーブルの上に置く。手が小刻みに震えていて、水面が波打っているのが分かる。筋力の衰えがこの頃顕著だ。彼女が未だに歩けているのは、きっと医療のおかげだろう。しかしそれは、戦時に発展したものでもある。

「そうね……最近は、少なくなったわ。……でも」

 彼女寂しそうに、くすりと笑った。

「それが返って、今は怖い」

 なぜ? とわたしは多少の苛立ちをもって老婆に尋ねた。

「あなたは忘れたかったはずです。そうでしょう? この前ご自分で、仰ったじゃないですか」

「知らないわ。……分からないわよ」

 こんなのは何でもないことだ、というような、素っ気ない口調。

「そう。……確かに、わたしは忘れたいと願ってる。それは本当だわ。だってもう、思い出したくないんだもの」

 ――ねぇ、今日も聞いてくれるかしら?

 そうして彼女は、記憶の糸を辿るように、ぽつり、ぽつりと、もう何十回も繰り返した物語を始めるのである。

 わたしには、この人間が分からない。


 あの頃わたしが住んでいたのは、メティオールの片隅にある、小さく綺麗なお屋敷だった。西に大きな山がそびえ、中央には時計塔が建っていたわ。根元の広場では毎週市場が開かれて、パプリカだとか、カボチャだとか、あるいはずっと東の方の、見たことのない果物だとかが、石畳の広場を綺麗に彩っていたものよ。わたしは、その頃まだ子供で――今思うと不思議だけれど――人混みに紛れるのが大好きだった。色々な服、色々な靴、色々な声、色々な匂い……。何もかもが、まるで生き物のようにうねっている! こんな素晴らしいことって、あるかしら?

 勿論、いいところばかり、なんてことはなかったけれど。ちょっと裏通りに迷い込んでしまったなら、酒臭い汚れた男だとか、泥棒をして回る家なし子のグループだとか、いやなものがたくさんあった。……そう。一度、野良猫を追い掛けて、路地の奥深くまで入ってしまったことがある。何かが腐ったような臭いに満ちて、苔も生えないくらい湿っていたわ。そこで、わたし、いじめられてる女の人を見つけたのよ。真っ白いお化粧をして、口紅がびっくりするくらい綺麗な赤で、そのくせ髪の毛には白髪が交じっているんだわ。……そう、あの口紅! まるで椿、あるいは磨いた林檎みたい。真っ白く塗られた肌の上に、それだけがくっきり浮かんでいた。水面に浮かぶ、一輪の花びらか何かのよう。彼女は、舞踏会でも着ないような、派手すぎるドレスを身につけていた。きっと、娼婦だったのね。その周りに、男の人が三人くらい。おぼつかない足取りでふらふらしてた。顔が、くすんだ赤色だったわ。お酒に全身を浸したって、あんな風にはならないでしょうよ。

「気に入らねぇ!」

 と、一人がいった。彼は、帽子を被っていた。それは酷くくたびれて、頭に乗せていなければ、とても帽子だとは分からなかったわ。

「何が気に入らねぇか、分かるか!」

 と、別の一人がそういった。彼は、ヒビの入った眼鏡をしていた。髭がぼうぼうに生えていて、そこにパン屑がシラミのようにくっついている。

「分かるわ! 分かるわ!」

 と、女の人は一生懸命叫んでいるの。綺麗な唇から、茶色く染まった歯が見える。

「分かるか! 分かるか!」

「分かるわ! 分かるわ!」

 帽子が、拳を振り上げて、女の人の頬を殴った。何も、音はしなかった。彼女は地面に倒れてしまって、起き上がる気力もないようだった。

 その時、あの女の人、わたしのことを確かに見たのよ。今でもはっきり、思い出せる。ぽつんと立っている子供に気づいて、びっくりしたように見開いた目。わたしの服装を撫でるように見つめた後、羨ましいような、悲しいような、何かに怒っているような……そんな不思議な表情をした。

 わたしは何となく怖くなって、背中を向けて走ったわ。いつもの明るい通りに出て、一目散に家に帰って、着ていたものを皆脱いだ。なんだか酷く、汚れているような感じがしたから。お気に入りの黄色いワンピースだったけれど、お手伝いさんにこっそり頼んで、ゴミと一緒に庭で燃やしてしまったの。それから、あの人の唇を思い出して、母親の化粧道具を持ち出してみたこともあったっけ……。

 何の話でしたっけ。……そうだわ、市場。市場には、色んなものが置いてあったの。今とは違ってあの頃は、お店が健康を気遣ってくれることなんて決してなかった。食べ物の中に虫が入っているなんてざらだし、しようと思えば、とんでもなく不健康な料理だって、好きに作れてしまうのよ。……そう、イサベルって料理人がお屋敷にいた。あの人がこっそり作ってくれた、油でギトギトの塩辛いお菓子。今じゃ、どこのお店に行っても手に入りはしないでしょうよ。「お客様に、こちらの商品は推奨されておりません」ってね。いや、そもそも売っていないのかも。

 別に、今の世の中に文句があるってわけじゃないんだよ。選択肢が少ない方が、いいことだってたくさんある。不自由だってことは、自由だってことにもなるし、自由だってことが、不自由だってことにもなるから。

 あの日も、市場が開かれていて、わたしは人混みを走っていたっけ。怖そうな、髭を蓄えたおじさんの足を踏んづけて、こっぴどく叱られてた時だったよ。時計塔の鐘が、ゴロゴロ、ゴロゴロ、いつものように鳴り始める。そのうち誰かが、空を見上げたんだ。鐘に混じって、聞き慣れない音があったから。鞭を振ったときの、風を切る音が、もっともっと暗くなったような感じ。

 飛行機だ! って、誰かが言った。何人かが、山の方からやって来る機影に手を振った。笑っちゃうよ。「飛行機だ」だってさ! わたし達は、戦争なんか、まるでどこか遠い世界の出来事みたいに思っていたんだ。自分たちのいる町とは、全然違うところで、無関係に起こっている。戦況を知らせる新聞を見ながら、どちらが勝つか、賭け事をしている大人までいた。……賭け事っていうのはね、こちらとあちら、それぞれにつぎ込む人間が、うまい具合に釣り合っていないと成り立たない。つまり、そういうことなんだわ。わたし達が悲鳴を上げて逃げ出すまでに、えらく長い時間がかかったのよ。

 ——何人だったかしら? と、彼女はわたしにそう問うた。

「最終的な死者は三百三十四名と記憶しています」

 そうだった。もっといたような気がするけれども、気のせいなんだろうね。なくなった人の身体っていうのは、生きている人の身体よりもずっと目立つ。見慣れていないから。視界に入っていない場所に、生きている人なんて一人もいないような気がしてくる。赤が頭にこびりついてしまうから。桃色のパラシュートが花みたいにぱっと開いて、そこにぶら下がっていた銀色のロボットが見えたとき、わたしは何が何だか分からなかったよ。何が何だか分からないうちに、さっきまで怒鳴っていた目の前のおじさんが、突然地面に倒れてしまった。……その先が、どうしたって思い出せない。何でかしら? どうしておじさんは倒れたの? きっと撃たれたんだわ。ロボットの頭に、いやというほどたくさんの銃口が乗っかっていたんだもの。そうに違いないんだけれど……。もじゃもじゃの髭が、血を吸ったスポンジみたいな塊になって、足下に転がってきたのは覚えてる。逃げているとき、パン屋のアルクィードさんが育てていた花壇の花が、大きく咲いていたのを覚えてる。でも、それ以外が何も分からなくなってしまった。前は、はっきり思い出せたはずなのに。

 ……花! そうよ、花だったのよ。わたしは花が好きだった。でもみんな、まるでしおれた花みたいに倒れていたから……。木枯らしに実を震わせながら、この家にやって来てからしばらくの間、春になるのが、怖かった。でも、今は大丈夫だわ。

 ……ねぇ、あなた、一緒に裏庭に来て欲しいの。きっと、ミカエルも、会いたがってる。


 裏庭には、小さな花壇が設置されて、世話の不要な造花が一杯に咲いていた。冬には枯れるし、秋には種をつけもする。けれど全ては、作り物に過ぎなかった。

「最近、水やりを怠けてしまうの。少し、元気がないように見えるわ」

 申し訳なさそうに、老婆はいう。無知は罪だと、わたしは思う。

「そうかもしれません。次にここへ来るときは、とびきり上質な肥料でも、お土産に買ってきてあげますよ」

 花壇の向こう側には一本の松が立っていて、木陰に小さな墓石がある。表面を石に似せて加工した、プラスティック製の四角いそれ。十数の名前が刻まれていて、白く、陽光を反射している。

 緩やかな風が、頬を撫でた。先を行く老婆の曲がった背中が、温かそうな印象を与える。背後ではカラカラと風見鶏が回転し、突然、ピタリと、動きを止めた。

「ミカエルは、ラズベリーパイが好きだった」

 老婆は石の前で足を止めた。

「ええ。町に出かけたときは、いつも買ってきましたね」

「自分の身体が悪くなっても……推奨食品のリストからなくなっても、決して買うのをやめなかったわ」

「本当は、店頭で渡されるリストからしか選べないはずなのですけれど。一体どんな手を使ったのか……」

「身体が受け付けなくなってからも、楽しそうに匂いを嗅いでた」

 墓石に向かって、老婆はそっと手を合わせる。わたしは少し迷った後、それに倣うことにした。実際のところ、ミカエルという男の身体はそこにないし、魂なんてものはいうまでもない。それ以前に世を去って行った他の収容者だって同じことで、つまりこれは、何でもないオブジェクトに過ぎないわけだ。

 納められたしわくちゃの遺体は、今頃どこにあるのだろうか。墓から通じる長い通路を密かに運ばれ、もう火葬場に到着しているのだろうか。とっくに灰と化していて、もう跡形もないのだろうか……。

 老婆は、熱心に祈っていた。ここにミカエルがいるとそう信じているのだろう。それからつと立ち上がり、再び、屋敷へと戻っていった。


   ※


「もうじき、新しい住人がやって来ると思います」

 わたしは、努めて穏やかに語りかける。

「……構わないわ。一人で住んでいるのは、何だか申し訳ないものね。でも、ロボットをよこすのはやめてちょうだい。どんなによくできていたって、わたしにはちゃんと分かるんだもの。冷たくて、コーヒーが飲めなくって、パイの匂いだってかげやしない。介護ロボットなんて、わたしには必要ないのだからね」

 分かりませんよ、と先程の椅子に座りながら、わたしは内心呟いた。技術の発達は、めざましい。社会は人間に、自分がどれほどの補助の上で生活しているか、意識させないことを徹底している。彼女の食事一つをとっても、どれだけの薬品が添加されているだろう。食事も、買い物も、交流も、死体の処理ですら、人は外部に委託している。

「では、そろそろ帰らねばなりません」

 わたしは立ち上がり、会釈した。それから、先と同じ道順で、玄関の扉を押し開ける。

 もうすぐ、夕刻になるだろう。そうすれば、新しい住人が乗り合いタクシーでやって来る。彼女は気がつくだろうか? そして発作を起こしながら、わたしのことを恨むだろうか?

 いいや、とわたしは否定した。老婆はきっと、気づかない。

 わたしのことを、「素敵な人ね」と思っているのだ。コーヒーの飲み方を丁寧に教え、服に皺が寄っているわと、アイロンを掛けようとする人間だ。寒かったでしょうと、家の中に招き入れたわたしの手にそっと触れ、「温かいのね」と驚く人だ。このシリコンの皮膚も、内蔵されたヒーターも、食べたモノを貯蔵する体内の袋も、何もかも、彼女を騙すのに十分すぎる。

 彼女は何も見ていない。

 けれど、常に見られている。

 わたしは視覚素子に働きかけて、屋敷内部の映像を視界に呼び出す。天井の監視カメラから送られてくる光景は、老婆がテーブルの上を片付けているものだった。

 ――わたしは、彼女が羨ましい。

 時々、思うことがある。人間を見つめるこのわたし……いや、わたし達は、一体誰に見てもらえば良いのだろう、と。誰にも見てもらえないなら、いないのと変わらないではないか、と。

 都市へと向かう乗り合いタクシーを待ちながら、わたしは報告書を書き始めた。

「市民番号23354688/病名・心的外傷後ストレス障害/アンドロイド恐怖症の傾向は依然としてあり、今後も注意深く……」

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なにも 亜済公 @hiro1205

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