終章 終わり良ければ始まりも良し
「向こうに着く頃には、ラリス課長補佐が諸々の場を整えているはずだ。お前に十分な休養が必要なのは承知しているが、時が来たら証言を求めることになるが」
「平気です。事実を答えます」
語尾を濁したストルゲの意を察し、エメインは太鼓判を押すように自分の胸を叩いてみせた。
元の職場には居づらくなるだろうが、自分だけ逃げるという選択肢はエメインにはもうない。今後も入るだろう新人のためにも、禍根は断たねばならない。
それに職場でいえば、ザラの方も心配だ。
「ザラはどうするの?」
「別に、選択肢なんかないだろ」
隣ですっかり生気を無くして小さくなっているゴーニアーを、生ゴミにたかる羽虫のように見下していたザラが、興味がないという風に答える。
「証言しろと言われればするし、前線に戻れと言われれば戻るだけだ」
ザラもエメインも帝国内では木っ端の下っ端だから、求められれば拒否することは難しい。だが、軍に戻るという答えはエメインには意外に思えた。
「戻るの? 殺されそうになったのに」
「いつものことだ」
不貞腐れるでもなく、ザラは淡白に答える。その後で、僅かに視線を伏せた。
「だが、向こうは迷惑かもな」
それは、今まで他者のことなど気にもかけてこなかったザラからは、決して出ない配慮だった。良い傾向だ。思わず笑みが漏れる。
「……なんだよ」
目敏く気付いたザラが、今度は不服そうに半眼になる。だが少しも怖くないなと、エメインは正直に白状した。
「お前にも壊せない枠組みがあるんだと思うと、なんだか可笑しいなと思って」
「喧嘩売ってんのか」
「まさか。その壊せない枠組みを僕が一緒に壊したら、ザラはきっと一生頭が上がらないんじゃないかなと思ってさ」
それはつまり
だが、今まで劣等感のせいで夢や目標がなかったエメインにとって、初めて目指してみたいと思える理想でもあった。
「……弱虫の泣き虫なんかに出来るかよ」
ザラが、間違って味付けを忘れたタマルでも食べたような微妙な顔で目を逸らす。
めそめそと泣いていたのは最初の数日くらいのはずと反論したいところだが、ザラにはまだエメインがそんな風に見えるらしい。
「うん。今はまだ、ね」
先は長そうだと、エメインはまた、笑みを深めた。
◆
エメインとザラの話が一段落した頃、ケーフィが軽やかな足取りを保ったまま桟橋に戻りついた。
「ラリス下一等左官、哨戒任務より戻って参りました! 魔獣とは遭遇せず。異常なし。大変遺憾であります」
「うむ。ご苦労」
ストルゲが瞬時に軍人の顔に戻って報告を受ける。それから、しかつめらしい顔を崩さずにこう続けた。
「では次の任務だ。帰還中、アドホック・ゴーニアーの監視を命じる」
「えええっ!?」
ケーフィが絶叫した。二十五歳とは思えない大人気なさでストルゲに飛びつく。
「そりゃないですよ! ただでさえ島で一匹も魔獣と遭遇しなかったのに、帰りは部屋に閉じこもって何にもするななんて!」
「そもそも帰路は何も起こらん」
大袈裟に抵抗するケーフィに、ストルゲがそれでも呆れは見せずに即答する。
実際、嵐の海域や海獣の巣を警戒するのは海軍兵士の仕事で、陸軍兵士の出る幕ではない。
航海中の危険を退ける法術が組み込まれているお陰で、古い海洋冒険のような、海獣が甲板に乗り上げて一大決戦のような事態もまず起こらない。
通常の航海よりも半分ほどの日程とはいえ、戦いが趣味のようなケーフィには堪えがたい苦行となること請け合いだ。
「そんな……そんな……!」
ストルゲの仕打ちが信じられないとでもいうように、ケーフィがよろよろと後ろに下がる。
その背後に、むくりと黒い影が現れた。
「……む」
「ん?」
「あ」
エメインが気付いた時には、ストルゲとザラが油断なく身構えていた。
桟橋の向こうのゴミ山から赤黒い頭を出したのは、潰れた鼻面と涎滴る剥き出しの太い牙を持った、小型の熊に似た魔獣――
「なんで……まだ船があるのに」
「サイルのせいで突然獲物が消えて、腹が減ってんのかもな」
囁き交わす二人の会話も、そこで終わった。
「俺は……! 魔獣がゴキブリ並みにわらわら出てきてエメインを襲ってるって聞いたから来たのに……ッ」
「…………」
これからの一週間を思って半ば涙目になりながら、ケーフィが踵を返して走り出していた。
少しも同情できないなとエメインは思ったが、ケーフィの体からはいまだ警戒心や戦闘意欲が感じられない。本人は至って本気らしい。
そんな無防備な獲物が自分めがけて一直線に近寄ってくるのだから、毒穴熊は当然その大きな顎を開いて待ち構え、
「ぐるるる――」
「こんなんじゃ、消化不良で死んじまうよぉぅぅっ!」
「ぎゃん!?」
その凶暴な歯列めがけて、ケーフィが捩じり込むような打拳を真下から突き上げた。
ひゅぅるるるー……と、毒穴熊の体が凧のように打ち上がる。
「相変わらず、すげー
「え、あれ神法じゃないの?」
ザラとエメインが呑気に見上げる中、常に低く垂れ込めていた雨雲が僅かに揺らめく。
そこから更に雲が風に流れ、光が射した。
「「あ」」
エメインとザラの声が揃う。
魔獣が空けた雲間から、微かではあるが薄明が漏れ、海上まで届く細いほそい一閃の光芒を作り出していた。
光を辿って顔を上げれば、ネフェロディス島ではまずお目にかかれない青空が僅かに覗ている。
(久しぶりに見る青空が、こんな冗談みたいな産物だなんて……)
なんかちょっと虚しいぞ、と思っていると、遠くでガシャンッと鈍い衝突音が上がった。毒穴熊が落ちてきたようだ。
「あー。ちょっとスッキリした」
ケーフィが、満足したと言いたげに腕を回して戻ってくる。
貴重で幻想的な光の柱も一片の青空も、嘘のように消えていた。
◆
晴れ晴れとした顔で戻ってきたケーフィが意気揚々とストルゲからゴーニアーの麻縄を受け取ると、エメインたちも後に続いて船に乗り込んだ。
ストルゲは早速僅かに数人しか連れて来ていない部下を集めて采配し、完全に委縮しきっている海軍兵士へ指示を飛ばした。渡り橋を回収し、錨を上げ、畳んでいた帆を広げと、途端に甲板が慌しく動き始める。
それを端に避けて躱しながら、エメインはザラと二人、船尾楼甲板に上がった。
調査班が出港した時と違って人や積荷の上げ下ろしがないためか、船尾楼甲板は記憶よりも人の動きは少ない。
海軍兵士たちの怒号と、帆が風にはためく騒がしい音が飛び交う喧噪の中、二人は声を掛け合うでもなく、自然とネフェロディス島を見送るような位置で足を止めた。
(見えるわけない、けど)
島の東側の、少し高くなっている丘一帯の、緑生い茂る森を眺める。
(イーシュ)
心の中でも、さよならと別れを告げるのは寂しくて、ただ名を呼ぶ。動き出した潮風に栗色の髪が暴れる。大きく手を伸ばして、数度、左右に振った。
ザラは、隣でただ、ネフェロディス島を見ていた。右額から伸びた灰紫色の角が薄曇りの朝日を受けて艶やかに光り、どこか清々しくも見える。その横顔は相変わらず三白眼の悪人面だが、どこか憑き物が落ちたように穏やかだった。
エメインは、もう一つ、気になっていることを訊いてみることにした。
「もし軍に戻らないでもいいなら、どうする? また、フィービーさんと旅に出る?」
ザラはどうするのかと聞いた時、本当は軍など見切りを付けて、ついに迎えにきた師匠についていくと言うのかと思っていた。
別れ際に喧嘩をしたという師匠から贈られたバンダナをずっと大切に付けていたのは、当人に自覚がなくとも待っているからだと、エメインには思えたからだ。
けれど。
「……どうせ、また捨てられるのがオチだ」
ザラはエメインを一瞥もせず、詰まらなそうにそう答えた。
フィービーが帝国軍にザラを置いて行った理由は分からないが、きっとその当時はそれが二人にとって最善の選択だったのだろう。
なにせ国家的反逆者の嫌疑がかけられていたのだ。一緒に捕まろうものなら、ザラも命はなかったろう。
そして次に似たような事態が訪れれば、彼女はやはり躊躇わないだろうと思われた。
だから、次の言葉を口にするのに、遠慮は消えた。
「じゃあ、もしザラが旅に出たくなったなら、僕が一緒に行こうかな」
「は?」
ザラが、やっとエメインを振り向いた。鳩が豆鉄砲を食ったような間抜け面が、なんとも味わい深い。
「……なんで俺が赤ん坊並みのヘタレの世話をしなきゃなんねぇんだよ」
「料理を教えてよ。そうしたら、僕が作るからさ」
ぷいと視線を海に戻したザラに、微笑みながら勝手に続ける。まともな調理器具などなかった研究棟でも作れたのだから、きっと旅の空でもそれなりには出来るだろう。
「……お前も狙われるぞ」
「そうならないように、一緒にいるんだろ? それに、実戦が積めるのは良いことだ」
神法への苦手意識がなくなったとはいえ、城仕えのままでは中々上達する機会は少ない。軍に入れれば良いだろうが、六級神法士ではそもそも入隊が許されない。
戻ったら、せめて護身用の短剣か弓を次姉に習おうか。
「……どうかしてる」
新しい目標が次々に湧いてくることにわくわくしているエメインとは反対に、ザラの声は戸惑うように沈んでいた。
「まともな居場所も仕事も捨てて、俺なんかと行こうだなんて」
そこには呆れに隠れて、少しの羨望があるようにも感じられた。
生まれた時から家族とともに過ごし、処世術が壊滅的ながら堅い職に就いているエメインの人生を、ザラが心から望んでいるとは思わない。けれど、少なからず眩しくは見えるようだ。
だがエメインには、捨てるという言葉はまるで当てはまらないなと思った。
「捨てないよ。物を大切にするって、ハイラムとも約束したし」
「……屁理屈は聞いてねぇ」
「そうかな?」
半眼で睨むザラに、エメインはあくまでも笑顔で応えた。
「確かに、ザラが言う通り僕の見通しなんか全然甘くて、二度と家族に会えないこともあるかもしれない。でも、僕はザラと悲愴な旅に出るつもりなんかないから」
「……なに?」
「さっき言っただろ? ザラが壊せないと思ってる枠組みを、僕が一緒に壊すって」
神法学校を無事卒業することと、一人でも生きていける職に就くこと。その程度しか人生の目標がなかったエメインにとって、それは新しい門出に等しかった。天秤にかける必要すらない。
だが、ザラにはとても本気には聞えないらしい。
「無理に決まってんだろ」
苛立つような、縋るような目を伏せて吐き捨てる。
「
そんなことはないのに、と思うけれど、ザラはきっと信じてくれないだろう。
ザラはエメインが目にしたものとは比べ物にならないくらい、強人種の悪行を見てきただろうから。
「だったら、僕の隣に居たらいい」
「……は?」
するりと出てきた言葉に、ザラが三白眼を大いに見開いた。
だがエメインは、ずっと漠然と思っていたことをついに言語化できて、とてもすっきりした。
アイルティア大陸の中とエメインの横を同列に考えるのはおこがましいにも程があるが、居場所を一つずつ作ると考えるのなら、手始めはそれくらいでも良いのではないかと思ったのだ。
少なくとも、エメインならばそれがいい。
「お前の居場所、まずは僕の隣じゃだめか?」
今度は笑顔を収め、真剣にザラの金眼を見つめる。
後で思い返せば、子供でもない男二人が見つめ合って言うにはあまりにこそばゆい発言だったろう。
けれど今は、始めるために必要な言葉だった。
「……ずっと、考えてたことがある」
ザラが、エメインの瞳を見つめ返すかどうか決めきれないように言葉を探す。
「醇正の善ってやつに、俺は本当になれるのか。なる必要が本当にあるかって。なれるならそれに越したことはないってのは分かるが、今はどうも……自信がない」
強人種の血という枷にかけられた、醇正の善という言葉が頭を過る。
ザラはその血とフィービーの教えのため、他に選べる道がなかった。
「けど、サイルと戦ってた時、思ったんだ。お前がいれば、俺はどうにか間違えずに戦っていけるんじゃないかって」
角が完全に再生しても、本能に抗えない時が来ても。
フィービーの時のように命じられて単身囮になったり突撃するのとは違う、補い合うような方法もあると知った今なら。
「俺はまだ自分のことを決めきれないし、信じきれない。でもさ、俺の世界に今のところお前しかいないなら、善も悪もどっちだって一緒だよな」
「ザラ……」
それは、聞きようによってはとても寂しい言葉でもあった。けれどそれを隠さず打ち明けてくれることが、何よりエメインには嬉しかった。
(僕がいつもザラに助けられたように、いつか僕もザラを助けたいな)
ありがとうとか、僕は信じてるとか、いつでも手を貸すとか、色んな言葉が浮かんだけれど、今はどれも違うような気がした。
だから代わりに、手を伸ばした。
「よろしく、相棒」
思えば、三週間近く二人で暮らしてきたというのに、名乗る以外まともに挨拶を交わしたこともなかった。
勿論、握手さえ。
だというのに。
「……それはこれから決める」
「えぇーっ?」
ザラは僅かに見せていた笑みも引っ込めて、ぶっきらぼうにまた海へと視線を戻してしまった。
「それはないだろ?」
「うるせぇ」
ケチかと文句を言えば、ギロリと睨まれた。
全然怖くない。
(ま、いっか)
改めて、二人でネフェロディス島を見送る。
夜が明ける。新しい朝が来る。
最果ての孤島に。
最悪の夜に。
そして、ちぐはぐで正反対な二人にも。
(了)
最弱神法士と問題児兵士、二人で始めるゴミの島生存戦略 仕黒 頓(緋目 稔) @ryozyo_kunshi
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