第34話

 「・・・と、大臣には伝えておきましたよ。もう心配することはありません。来目のもとに帰る前にここで暫くゆっくりと休むがいいでしょう」

 馬子との遣り取りを淡々と告げた厩戸王を男は焦点の定まらぬ眼で見上げた。その様子を気遣うように

「体の具合はいかがですか?」

 と尋ねた皇子に

「・・・。ええ」

 俯くと、ぼそぼそとした声で

「たいした怪我はないとのことで、もうすぐ立つこともできるであろうと」

 答えたのは赤檮である。だが、あの日稲城に素早く登り大連を木から射落とした時の精悍な姿はそこにはない。白い衣に包まれた体はやせ衰え、その頬はこけ、目は、ぱちぱちと神経質な瞬きを伴って、うつろに宙を彷徨さまよっている。

「しかし、良かった。大臣の筋の者から首のない骸が見つかったと聞いた時は、そなたかと心配しましたよ」

「・・・」

 男は優し気な言葉にこくりと頷いただけだった。

「年恰好が違うらしいと聞いてすぐに手の者を差し向けたのですが、川を下った岸にそなたが打ち上げられていたと報せてまいりました。その折の事を・・・覚えておりますか?」

「いえ・・・。箭を放ったところまでは覚えておりますが、その先は・・・。何か白い大きなものが目の前にとびかかってきたことしか・・・」

 そう答えると赤檮は目を再び伏せた。その様子を憐れむように厩戸王は言葉を継いだ。

「さようですか。ですが、そなたを見つけた時、そなたは水に攫われぬように土手の上まで引き上げられていたと」

「・・・」

「おそらく土手へと引き上げたのは、そなたを襲ったという犬でしょう。ウパーリですよ。覚えておられますか?」

 赤檮は最初、虚ろな目のまま厩戸王の顔を見ていたが、やがて思い当たったのか

「ずいぶんと昔の事、、、あの消えた犬のことでございましょうか?」

 と声を上げた。虚ろだった目は、はし、と厩戸王を見詰めている。

 厩戸王は頷いた。

「あの子はそなたのことを覚えていたのかもしれませんね。だから襲いはしたが溺れるのを助けたのでしょう。かわいそうなことをしました。あの犬はそなたと意に沿わぬ争いをしたあと、飢えて死んだそうです。おそらく・・・あの犬には御仏がお移りになっていたのかと・・・」

 赤檮はそれを聞いて、再び呆然と遠くを見るような目つきになった。そして、突然一つ激しく胴震いをするなり、

「・・・。皇子」

 と籠るような口調で呟いた。

「何ですか?」

 聞き返した厩戸王の声は琵琶の音色のように澄んでいる。

「今のお言葉ですべてが腑に落ちました。実は・・・今まで申し上げていなかったのですが、実は記憶を失った時、私は夢を見てたのでございます」

「どのような?」

 首を傾げた厩戸王を盗み見るようにすると、

「どことも知れぬ、霧がかった場所に私は一人でおりました。何もないところでございます。私は死んだのだと思いました。死ぬとはかようなところで一人いる事なのであろうか、と次第に恐ろしくなりました。ですが・・・やがてそこに一筋の光が差し、声がしたのでございます」

「なんと?」

「そなたが・・・、と声は言いました」

 そう言うと赤檮はちらりと目を上げた。

「そなたがやったようなことを私は望まぬ。私の伝える真理とは岩に染み入る水のようにゆっくりと伝わるものだ、と。気に染まぬものを亡き者にし、滅ぼしてまで伝えるような教えを私は持たぬ」

 そう言った時、赤檮の語尾が震えた。

「お聞き。そなたは二度と同じようなことをしてはならぬ・・・と」

 そう言うと赤檮は縋るような眼で厩戸王を見た。

「さようですか・・・」

 厩戸王は天をふと見上げると、

「赤檮はそれをどう聞いたのですか?」

「畏れ多くも仏の声と・・・私を難じる御仏みほとけの声と、今やっとわかりました」

「さようですか・・・」

 厩戸王は頷くと、

「さすれば、私はそれをあなたを通しての・・・私への叱正しっせいの声と聴きましょう。どうやら私の考えは浅はかだったようです」

 と答えると目を瞑った。

 重い沈黙が二人の間に漂った。

 その時、器に入れた白湯を持った美しい女子が現れた。厩戸王と同じ年頃の娘で、今まで赤檮の見たことのない娘である。湯を二人の前に置くと娘は黙ったまま礼をすると姿を消した。

「どなたですか?」

 尋ねた赤檮に厩戸王は、

「父兄弟を失った哀れな娘ですよ。縁がありまして私が引き取ることにしました。桐子という名です」

 と答えた。

「そうですか・・・」

 と赤檮は去っていった娘の方へ目を泳がせたが娘への関心はさほど強くなかったのか、

「私が川の中で争ったのは、やはり御仏という事にございましょうか?」

 と呟いた。

「そうですね」

 厩戸王は微かな笑みを浮かべて答えた。

「この国広しといえど、御仏と生身で争ったのはそなたしかおらぬでしょう」

「でございますれば・・・この身に必ず何らかの仏罰がございましょう」

 重苦しく呟いた赤檮の耳に、ははは、と若やいだ笑い声が響いた。

「赤檮はそんなことを心配しておるか?」

 悪戯好きの子供のからかうような言い方に赤檮は憤然として

「御仏と争った私に仏罰が下らないわけがありましょうか?」

 目を剥いて目の前の男を睨んだが、視線の先にあった厩戸王の表情は闊達な笑い声と反対に重く沈んでおり、どこか遠くを見つめていた。暫くして赤檮が言葉もなく自分を見つめているのに気付いたのか、厩戸王は一度は受け止めた赤檮の視線から眼を逸らすと、

「仏の罰とはそのようなものではございませんよ。御仏は道を示される、正しい者にも誤った者にも」

 と言った。

「では仏罰とはどのように下るのでございましょうか?」

 尋ねた赤檮に、

「さて・・・」

 とはぐらかすように厩戸王は呟くと視線を逸らせた。しかし赤檮が真剣な目で自分を見つめているのを知ると、諦めたように、

「それは心の裡のこと、そして人の一生にわたって決められることです」

 と答えた。

「教えてくださいませ。いずれ皇子はこの国の帝となられるお方、そのお方から聞きたく思います」

 と言い募った赤檮に、ふっと微笑を浮かべると

「では、そなたにだけ教えましょう。そなたは私が帝になると申した。ですが私は帝にはならぬ、いえ、なれぬ・・・。それが御仏の罰ということです。そなたが私に伝えた言葉の中味です。だから・・・これから私がどれほど功徳を積もうとも」

 囁くように答えていた厩戸王は言葉を切って空を見つめていたが、やがて言葉を継いだ

「萬が死んだ地はいかるがというところだそうです。そこに寺を建立したいと・・・考えております。萬にしてみれば余計なことに見えるかもしれぬが、ぜひともせねばならぬ功徳くどくの一つがそれ・・・。なぜならあの漢は今や仏に仕える身となった筈ですから」

 目を瞠り自分を見つめている赤檮から再び視線を逸らすと、厩戸王は外を見遣った。

「さて、なんと名付けましょうか。法興寺というのは馬子の立てる寺に与えた名前、やがて建立されましょう。法を興させた後に・・・隆盛させる、そう法隆寺とでも名付けましょうか。寺一つ建てて功徳を成す・・・」

 いつのまにか重たげな曇が空一面を覆っている。俄かに強い雨が二人の籠る堂の屋根を襲った。

「それでもなお、畏みつつ私は功徳を積み続けねばならぬ。それこそが仏の罰というものなのですよ」

 その激しい雨音に厩戸王の語尾が、打たれたかのように微かに震えた。


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萬(よろず)という漢    日本書紀外伝 西尾 諒 @RNishio

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