第33話


 額にざらざらとした温かいものが触ってきた。

 温かい、いや・・・燃えるように熱い。熱いのは額だけではない。体中が・・・火にくべられているように熱い。これは、罰であろうか。朦朧もうろうとした意識の中で萬はすがるように手を伸ばした。その瞑ったままの瞼の後ろでは別の光景が映っている。

 寺を焼く業火の向こうに、あくた浮く川の上を舟に乗った首なしの石仏が粛然しゅくぜんと進んでいく。その仏像が微かに揺らいだ。揺らぎはどんどん大きくなり石仏は大きくかしいで水へと落ちていく。激しく飛沫しぶきが上がった向こう側に突如、大きな眼が現れる。丸い黒みの眼。鷹の眼である。谷底へ落ちていく筈の鷹の雛がぎょっとするような速さで巨大化しながら己を見詰めてくる。その雛の眼が一瞬に、己を売ることを父に強要された時の妻に変わる。まなじりを決したような表情は直ぐに溶け、現れたのは笞に打たれる少女の噛みしめた白い唇である。その女の肌から滲む血。笞打たれるたびに少女の体が膨らんでいく。最後の笞の一振りで女の体が弾け、その中から鬼の形相をして襲い掛かって来たのは義父である。萬は必死にそれを避ける。

 仏は・・・やはり罰を己に与えているのか?

 うっと呻き声をあげて萬は漸く目を醒ました。陽は既に傾いて山の頂が長い影を作っている。

「おお・・・」

 萬は弱弱しく呟いた。体中が、とりわけ腹が燃えるように熱く、痛む。さしずめ箭には毒が塗ってあったのだろう。水に濡れた箭は重い。狙いを定めるのも打つのもよほどに難しい。相当な鍛錬をしてきたのであろう。毒も脂で塗らねば水に溶ける。用意周到に準備した相手の執念を萬は思った。その執念はどこから湧いたのであったのか?それは仏の望みであったのか?


 額を舐めていたのは犬であった。

「シロよ・・・」

 とそう言って片手を挙げたが、その手はシロの頭を一度撫でるのが精いっぱいであった。シロの毛が、血で点々と薄紅に染まっているのを見て萬はため息を吐いた。

「傷か?体が冷たいぞ、大丈夫か」

 そう尋ねた萬を、シロは一つ尾を振っただけで静かに見守っていた。大丈夫なのか、と問うことができる資格があるのはどうやら自分の方ではないようだ。萬はもう一度ため息をついたが、それだけで全身に痛みが走った。

「ここで死ぬか・・・」

 そう言うと萬は目を見開いた。群青の空は暗く、その西端が夕陽にほのかに染まっている。その紅の空にあたかも人形ひとがたの隊列のような雲がむらむらと進んでくる。命が尽き掛けた自分の目にそう見えるだけなのか、分明ぶんみょうではない。だがそれを見るとふっと唇の端に笑みを浮かべ、萬は

「うねは・・。助かるであろうかの?」

 と呟いた。

 義父の久邇は己の命を投げ捨て萬を襲い、そして死んだ。久邇自身は成し遂げなかったとはいえ、久邇が狙った萬自身もまた同じ場所で死ぬのだ。せめて、うね位は生き永らえさせても罪にはなるまい。そもそも、義父の命に頷いてからといって、妻が萬に痺れ薬を盛ったかどうかなど、分かろうか?

 萬の問いにシロはうべなうように首を下げた。

「そうか・・・」

 萬は微笑んだ。その脳裏に昔の事が再び脈絡もなく思い起こされる。

 授かった子が死に遺骸を穴に埋め土を掛けた時の事・・・。わが子のまつげに黒い土くれが引っ掛かった。それがひどく悲しくいままわしく、思わず土を払おうとしたが、妻が止め無言で首を振った。その時の妻の辛そうな顔が思い起こされた。あの時妻は何を思っていたのだろうか?

 ついで鷹の雛を一羽、谷底に投げ棄てた時の雛の骨の形と温みがてのひらに蘇った。弱まっていく意識の中で萬は思う。飛丸は元気でいるであろうか。鷹の寿命はせいぜい二十年である。生きているならさぞかし立派な鷹となっていることであろう。別れの時、自分の頭上を掠めて飛び去った飛丸の羽音が耳の底で蘇った。

 そして、最初に2人の子どもとして目見まみえた時、年長の子が呼んだ犬の名がふと蘇った。

 「お前の名はウパーリだったか?」

 と弱々しく尋ねた萬に犬がクーンと啼き返した。その顔があの時の、年長の子、即ち厩戸王に変わっていく。ああ、と萬は呟き、天を仰いだ。茜色に染まった雲がどんどんと近づいてくる。その雲の中に見覚えのある優しい顔が映った。昔、どこかで見た顔、ああ、仏像の顔だ・・・。あのどこを見ているのか分からぬ表情は今は自分を見つめてくれている。だが・・・その仏像をどこで見たものなのか、萬にはもはや思いが及ばない。その優しげな表情がへばりつくように記憶の中で固定し、厩戸王の顔と重なった時、突然すべてが消えた。


「確かに死んでおりました」

 這いつくばったまま馬子にそう報告した男の名を河内国司かふちのくにのみこともちという。萬を討つために集めた兵を率いていた男である。

「一刻の間、身動みじろぎもしませなんだ。そのすぐそばには、こちらへと寝返った久邇という男と思われる胴が転がっておりました。おそらくは相打ちかと」

 傍に転がっていた胴は運び込まれている。だがその首がどこへ消えたのか見つからぬ。川に落ちたか、獣が運び去ったのでございましょう、と河内国司はぼそぼそとした声で付け加えた。

「では、なぜ萬のむくろを持ち帰らなかったのだ。なぜ、一刻の間、黙って見ていただけなのか?」

 馬子は鋭い目で自分の前に畏まっている男を見据えた。

「それが・・・」

 と顔を上げた河内国司の顔は困惑している。山に一旦分け入ったものの、跡を見つけられずに引き返した兵たちが翌朝、川のほとりで倒れている男の骸を見つけたのは、獣の吠える声に導かれて川へと下る道を降りて行った時である。その骸は獣の群れに囲まれていた。

 囲んでいる獣を最初は狼かと思ったがよく見ると野犬である。骸の横には白い大きな犬が骸を守るかのようにその野犬たちと対峙たいじしていた。野犬の群れは痩せた犬十頭たらずの集まりで、よほど飢えているのであろう目をぎらつかせ、体格の勝る犬を恐れることなく戦いを挑んでいた。白い犬は萬が連れていた犬に違いない。

 多勢に無勢、いずれ骸を守っている犬も野犬に倒されるに違いあるまいと河内国司が思った時、突然空から羽音と共に大きな影が現れた。その影があっと思う間もなく野犬を統率している一頭を無造作に爪に引っ掛け軽々と空に持ち上げた。

 その野犬も決して小さくはない犬であったが、キャイーンという情けない悲鳴を上げ必死に藻掻もがいた。だが空から襲った影は怯むことなく遥か高みへと犬を持ち上げると、躊躇いもせずに地面へと叩きつけた。ギャンという断末魔と共に犬は絶命した。

 驚いて見上げると空にはみたこともないほど大きな鷹が悠々と舞っている。その鷹が落とす影で一瞬日が陰るほどである。

 首領を失った犬の群れは空を見上げ、怯えたような吠え声を挙げ乍ら藪の中へ逃げ隠れて行ったが、萬の骸の脇に座った白い犬は平然と空を見上げていた。

 鷹が高い梢に止まったのを見て兵たちは骸を引き上げようとした。久邇の胴体はなんなく収めることができたのだが、萬の骸に近づこうとすると白い犬が唸り声をあげて脅してくる。そればかりでなく、鷹が再び悠然と飛び立つと兵を上から襲う気配を見せた。

 仕方なく萬の骸はそのままにして戻って来たのだと訥々とつとつと伝えた河内国司に向かって、馬子は憤然として怒鳴りつけた。

「萬というもの、寺を焼き、帝に楯突き、仏の道を妨げた大罪人であるぞ。なんぞ禽獣きんじゅうを恐れることがある?すぐに戻り八つに引き裂いて八つの国に串刺しにして掲げよ。それが罪の重さと知らしめよ」

 八国とは畿内を囲む近江を始めとした八つの国で死骸を掲げることを馬子は命令したのである。

 苛烈かれつと言える。命を受けた側も気が滅入るような罰である。

 しぶしぶと兵と共に骸の許に引き返した河内国司は、その前夜萬の骸が犬と共に消えてなくなったと知って肝を潰した。大臣のあの怒りようである。骸を失ったなどと言ったら何の刑を受けるか知れたものではない。

 必死に捜索をしていると兵の一人が若い男から妙なことを聞きつけてきた。大きな白い犬が男を背負って古家に運ぶのを見たというのである。その男を召して話を聞くと、男は神妙な面持ちで

「倒れた行人こうじんを犬が食うのはさして不思議でもねえですが」

 と話し始めた。

「でも、その犬は骸を背中に乗せて運んで行ったんで・・・。そんな景色は今まで見たこともございません。そもそもどうやって背の上に骸を乗せたのか、と思うと気味の悪いこって・・・」

 その男が言っていた古家を訪れるとそこに萬の骸が置いて有った。おそるおそる近づいてみると、その手は胸の前で合わさっていて、横に白い犬が眠るように死んでいた。犬の死骸はあばら骨が浮かび、暫く物を食べていなかったことは明白であった。犬は萬の死骸を食らうために運んだのではない。

「これは・・・」

 と河内国司は呆然と呟くと、果たして馬子の言った通り八つに引き裂いて良いものか悩んだ。取り敢えずそのままにして立ち戻って馬子に報告をすることとし、兵をそのままにして宮へ戻った河内国司の報告を聞いて馬子は妙な顔をした。

「手を・・・胸の前で?」

 はあ、と言って河内国司は萬の骸がしていた通りの格好をしてみせた。

「まことに・・・か?」

 と馬子が躊躇ったのはその姿は己が仏を祈る時と同じものであったからである。万一にでもそれが仏の乗り移った姿ででもあったとしたら、どのような罪障ざいしょうが下るかと恐れた。

 しかし、寺を焼いた張本人に仏が慈悲をかけ、まして乗り移ることなどあろうか?

苦虫を噛み潰したような顔で馬子は宙を睨んだ。


「ということでございます。いかがすればよろしいでしょうか」

 結局、馬子が相談を持ち掛けたのは厩戸王であった。家出した僧や尼も馬子の周りにいるにはいるが、仏の道に関して厩戸王を凌ぐ者はいない。

「その男の素性は・・・?」

 厩戸王は暫し沈思した後に尋ねた。

「守屋の資人で捕鳥部萬と申すものでございます。皇子もご存じでございましょう?そもそもその名を聞いたのは皇子ご自身のお口から・・・」

 馬子の答えに厩戸王は、顔を上げて瞬きをすると、

「なぜ、大臣はその者を・・・萬をさほどに憎んでおられるのですか?」

 と尋ねた。吐き捨てるように

「あの男は、寺を焼き、石仏を難波の海に捨てそればかりか、三輪君を殺した者でございます。ですが、何より憎いのは・・・。あの男は守屋と共にわが邸に来て、それ以来、貴い木仏が失せたのでございますよ。あの者は盗人、生まれついての盗人でございます」

 と馬子は答えた。それを見てふっと、厩戸王の唇に暗い笑みが浮かんだがすぐに消えた。

「では、河内国司とやらに話を直に聞いてみましょう」

 と厩戸王は諾った。

つぶさに聞いてみたいことがあります」


 河内国司はひどく緊張していた。

 馬子に報告をする時でさえ体が震えるのである。皇統に連なるお方と話をしたことなど嘗てない。まして厩戸王は一を聞けば十を知ると評判のお方である。

 石ころが玉と出会う時はこんな心持であろうかと思い、体が小刻みに震えるのを止めることができない。衣擦れの音に厩戸王が近づいてくるのを感じながらひたすら体を屈めて恐縮している。   

 だが、

「そなたが、河内国司か?」

 と尋ねた優しい声音を聞いた時、それまで強張っていた河内国司の体から力がすっと抜けた。頭を上げると、そこにはまだ稚いといっても良い男が微笑んで自分を見つめている。その微笑にうっとりとしかけ、慌てて頭を下げると、

「いかにも・・・・その通りでございます」

 と答えた。

 厩戸王の尋ねるままに答えていた河内国司は、やがて厩戸王が質問を終えたのか言葉を発しなくなると、顔を上げた。目の前の若者は眠るように目を閉じて沈黙している。その男がふっと瞼を開いたのを見て、河内国司は慌てて額を地面に擦り付けた。

「さて、その犬の事だが・・・色が白く大きいという他に何か覚えていることはないか」

 という問いに

「はい、特には・・・」

 と犬の様子を思い浮かべながら答えた河内国司は、

「全身が白であったか?」

 と重ねて問う厩戸王の言葉に、

「そう言えば・・・」

 骸になった犬の姿を思い浮かべ、

「右の耳に僅かに茶が混じっておりました」

 と答えた。

「そうか・・・」

 答えた厩戸王が再びそのまま暫く黙りこみ、河内国司はまたぞろ頭を上げて目の前にいる貴人を盗み見た。叶うことであればいつまでもその美しい顔を眺めていたいと思っている。厩戸王の表情は夢を見ているかのように美しく、風のないときの湖面の静かであった。

「大臣よ。その犬はウパーリでありましょうよ」

 やがて、伏せていた目線を上げるとゆっくりとそう言った厩戸王の言葉に、馬子は驚いたように目を瞠り、

「木像と共に居なくなった子犬でございますか?」

 と尋ね返した。

「その通り・・・」

 と大きく頷くと、

「大臣にも話していませんでしたが、実は不思議なことが私の身周りにもおきたのです」

 と厩戸王は語った。

「先日、朝起きると枕元に、あの時犬と共に失せた仏の像が戻っておられたのです」

「なんと?あの仏像が?」

 馬子は床に手を付けると厩戸王にいざり寄った。

「あの男が盗み出した像がなぜ・・・?」

 厩戸王は首を振った。

「いえ、確かにあの男が去った時には像は塔の中にありました。だから盗んでいったわけではない。それに考えてもごらんなさい。死んだ男がどうやって仏の像を返しにこられるのか」

 首を傾げ

「それはその通りですが・・・では、なぜ?なぜ仏は失せたのでございますか」

 と反問した馬子に向かって厩戸王は驚くべきことを言った。。

「おそらくは像は犬と共に萬と言う男の許へ自ら進んで行ったのでございましょう」

「まさか・・・」

 馬子は抗弁した。

「あの男は仏を盗んだかはともかく、帝に楯ついたばかりではなく、寺を焼き、仏を海に沈めた大悪党でございます。その上、忠臣であった三輪君を殺したのでございますよ。そのような男に仏が・・・」

「大臣よ。それは仏の御心次第ですよ」

 厩戸王は遮った。

「われわれは仏を敬うことしかできませぬ。仏がどのように考えられているか、われわれが評することはできませぬ」

 そう言うと厩戸王は二人の会話を唖然としながら聞いている河内国司を見遣るとちらりと微笑を投げかけた。

「よくぞ思いとどまった。もしそなたが遺体を壊しでもしていたら、そなたのみならずこの宮にも大きな災いが降りかかったかもしれぬ」

 そう言って面を糺すと

「大臣よ」

 厩戸王は呆然としている馬子に向かって、

「その犬、世にも珍しい犬と讃え、後の世に伝えるべしと触れなさい。そして萬というものと共に墓へと手厚く葬るように萬の族に伝え、族を許してさしあげなさい。墓は元の地である有真香に作ればよろしいでしょう。それこそ御仏の心に適うこと。慈悲の心に適うことでございますよ。ゆめ、違うことのなきように」

 と告げた。そして、

「ご苦労であったな」

 と河内国司にねぎらいの言葉を授けると、すっと座を立ったが、ふと足を止めると、

「大臣よ」

 と呼びかけた。

「は?」

 声に応じた馬子に向かって、

「そなたが居なくなったと仰っていた赤檮は戻って参りましたよ。よって、もう放念いただいて結構です。ただ、あの男、ひどく傷ついておりました。申し訳ないが、二度と召さないでくださいませ」

 そう言葉を残して立ち去った厩戸王の後ろ姿を馬子は無表情になって、見つめている。


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