第32話
そして・・・。
話は冒頭に立ち戻る。
己の仕掛けた罠にかかり、自分の放った弓矢に倒れた男たちの骸を眺め、
「哀れな・・・」
と独り言ちた萬の横にシロが座っている。純真な眼で萬を見つめてくるが、息は荒かった。
「どうした?」
その頭を乱暴に撫でた萬は犬の後ろ脚から血が流れているのに気付いた。腰掛けて丹念に探るとどうやら流れ箭に当たったらしい。右の後ろ脚の肉がこそげ落ちている。
「やられたか・・・」
上目遣いに主人を見上げたシロは、面目なさげにクンと
その体が温かかった。
萬とシロは最初に目指した宮へと続く道とは別の山を登っていた。
追手は罠の仕掛けた場所に連なる道を捜すに違いあるまいが、萬が今登っている山も蛇行して宮に行く道に続いている。道はより険しいが、おそらくこの山をすぐに登ってくることはあるまい。それだけ時間が稼げる。
シロは後ろ脚を引きずるように萬の跡を追ってきた。だが、時折振り返りシロの姿を見ていた萬は、
「山道は難儀か・・・。暫く休むとするか」
と独り言ちた。休むには思い当たるところがある。
「もう少しだ。踏ん張れ」
と声を掛けると、萬は下草に覆われた道を踏み出した。向かっている山は昔、萬が鷹を見つけた山に連なる。道を逸れると萬はその山の方へと向かった。山に入れば地形も風も目を
その山の中腹になだらかな丘があった。岩が固く木々が生えずに原のように開けたその場所の上に昇りつめると萬は腰を据えた。その横にシロが腹ばいになって座った。
そこで萬とシロは一晩を過ごした。萬は人の傷に効くという草を採って石の上で、小刀で叩くとシロの傷に塗り込んだ。そのせいか、シロの足はやや持ち直した様子であった。
しかし、翌日の昼頃、意外にも早く追手が彼らを追って山を登って姿を現した。萬が子供の頃に遊びなれたその山へと向かったのではないかと言ったのは久邇であった。現れた追手を見ると萬はすっくと立ちあがった。その姿を見てぎょっとしたように立ち止まった兵たちの最後尾に久邇と謎めいた男がいる。
「赤檮どの、居りましたぞ」
と久邇は囁いた。
「あの男こそ、捕鳥部萬。そしてこの場所はあの者が以前鷹を飼っていた場所・・・。あの男の死に場所に相応しいところでございます」
傍らの男を見上げると、男は頷いた。
「あなた様の弓であの男を撃ち貫いてくださいませ。ここならばあの男も悔いを残すことなく死にましょう」
と久邇は
「何をなされておられる」
久邇はじれったげに
萬の声であった。久邇は身を竦めると声のした方を見遣った。
「聞け、者ども」
朗々と落ち着いた声である。
「お主らに尋ねることがある。吾が主、物部の大連は大臣に殺されたと聞く。しかし主に何の罪があったのだ?大連は皇祖を敬い、以って異国の神が、われらが国、この
萬はいったん話を止め、敵を見回した。久邇はこそこそと連れの男の陰に身を隠した。
「仏の道と言うが、蘇我の大臣のなされていることは異国の神を用いて大連の力を削ぎ、よって国の政を自らの
問われた兵たちのいくたりかは顔を見合わせたが、残りの者は目の先にいる萬を見据えたままである。
「吾は帝の
萬の問いに答えるものはおらず、兵を指揮する者が腕を前に振るとそれに合わせるようにじりじりと歩を進めた。
「答えられぬか?答えがないなら、吾は宮へと赴き貴いお方に尋ねてみよう。心当たりのお方がいる」
久邇は傍らの男が強く舌打ちをしたのを聞いてその顔を見た。苦々し気な表情で、
「なにを・・・愚かなことを」
と呟いたその男の腕を
「赤檮どの・・・」
と久邇は掴んだ。
「早く・・・早くあの男を射殺してくださいませ」
だが男は岩のように一歩も動かない久邇の手を振り払うと、男は、
「動くな。そのままにしていろ」
と短く命じた。
「者ども、射よ」
という指揮官の掛け声と共に味方の陣から次々に矢が放たれた。
その光景を見ると萬はシロを振り返り
それを見届けると、萬は弓をゆっくりと引いた。
放った矢は物凄い唸りを上げ、先頭にいた兵の胸板を貫いた。その倒れる勢いに四・五人の兵が巻き込まれ転倒した。次いで放たれた矢もその後ろにいた兵を刺し貫き、俄かに軍には動揺が走った。
「風じゃ・・・」
赤檮が呟いた。
見る間に次々と倒されていく味方の兵を見つつも、久邇の脚は恐ろしさで根を張ったかのように動かない。だが前列にいた兵たちはじりじりと後退り、赤檮と久邇を押し戻すかのように下がってきた。
その兵たちを太い腕で振り払うと赤檮は久邇に向かって声を上げた。
「良く見ておけ。萬がどこに逃げようとしているのかしっかりと目を見開いて確かめよ」
赤檮の声に、体を震わせて頷くと久邇は目を皿のようにして次々と矢を放つ萬の姿を見つめていた。
「退け、退け」
という声に続々と下がってくる味方の兵の後ろ姿に久邇は一瞬萬の姿を見失ったが、大混乱している味方の向こうで犬が萬を追って姿を消すのを捉えた。
「どっちに消えた?」
赤檮の声に、
「左でございます」
久邇は答えた。
「左に行けばどこに繋がる?」
「一つは別の山へ、もう一つは川へと・・・」
赤檮は目を瞬時彷徨わせたが、すぐに久邇に問い質した。
「川とは・・・南の水か?」
「はい・・・」
南の水とは今では大和川と呼ばれる川である。
「川の上流に早回りできる道はあるか?」
「険しくはございますが・・・」
答えた久邇に
「よし、その道を教えよ」
そういうと、赤檮は乱暴にその背中を突いた。
萬はひた走っている。
シロも山道を駆け上がるよりはよほど楽なのか、ぴったりと萬の後ろをついてくる。川へとの道へ出て、遡れば宮へと下れば海へと出る。
海へ・・・か?
萬の頭には難波に隠しおいた船の事がある。その船に乗り、淡路かその先まで逃げてしまうこともできる。さすれば・・・あの義父とも二度と会うこともあるまい。いくら姿を隠しても萬の目は鷹のごとく、敵の中にいた久邇の姿を捉えていた。だが、その姿を見ても反感は湧かなかった。胸の中に沸いたのは憐みの心ばかりである。自分と関わりを持ったばかりに義父は思いもよらない定めに翻弄されているのだ。それは己とたいして変わることのないものの姿である。
そして義父の横にいた鋭い目をした男の顔に萬は見覚えがあった。
あれは・・・昔、厩戸王と初めて出会った時に自分に箭を向けてきた男ではなかったか。
厩戸王・・・。
道を駆け下りる萬の頭にその姿が浮かんだ。あのお方であれば・・・。難波に隠した船の事は、厩戸王の姿に掻き消された。
時折立ち止まって、萬は耳を澄ました。後を付けてくるものはいないようだ。そのまま駆け続け道と川が出合う場所に出た時に、もう一度萬は躊躇った。だが、首を激しく一振りすると萬は左へと道を取った。宮へと続く道である。
萬にはどうしても厩戸王に聞きたいことがあった。これは・・・正しい事なのか?国を割り、皇子を弑し、大連を射殺してまで仏の道を広めるという事は?
シロは萬につかず離れず付いて走っている。シロもまた行き先を知っているかのようであった。
だがいくら
「少し、休むか」
走る速度を落としてシロに問いかけた時である。
ひゅうという二本の箭の唸りが別々の方向から聞こえてきた。一本目は逸れたが、二本目の箭は萬の肩を捉えている。
倒れるのを何とか堪え振り向いた萬の目に映ったのは木陰から現れた義父の鬼のような形相であった。既に次の箭を番えている久邇に向かって萬は素早く引き抜いた剣を放った。
放たれた剣は一直線に空を奔ると久邇の首をへし折り、斬り落とされた首は水しぶきを上げて川へと落ちた。見る間に川は赤い血に染まっていく。首を失った久邇の胴体はもんどりうって、地面に転がった。だが自分に突き刺さった箭を放ったのは久邇ではないと萬は直感している。それは正確に萬の首を狙っていた。
逸れた一本目の箭で体を捻ったので偶然肩に当たったのである。久邇にそれほどの腕はない。逸れた箭こそ久邇が放ったものであろう。だがもう一本の箭を放ったのはあの男に違いない。しかしどこからそれを放ったのか?
萬は慎重にあたりを見回した。
「誰だ」
道の方に目を遣りながら誰何した萬の視線の外で、川の表からぬっと立ち上がった男がいた。ちっ、と唇を鳴らす音に萬が振り向いたその瞬間、シロが岸から男に向かって飛び掛かったが箭は一瞬前に射手の手を離れ、萬の腹に突き当たった。
ぐ、と呻いて膝をついた萬の目に川の中で飛沫を上げ男と激しく争うシロの姿が映ったが、それは
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