第31話

「良くぞ見つけた。まことに仏の意にかなう働きじゃ」

 久邇は貴人の満足げな声を聞くなり、零れる笑みを隠すようにひれ伏した。

褒美ほうびとしてお前の娘は返して進ぜよう。ただ、そのまえにお前にはもうひと働きしてもらわねばならぬ」

「はは」

 久邇は平伏していた体を更に地面へ深く押し付けた。

「それが済めば、お前を蘇我の家でってやろう。一族も安泰じゃ。但し、お前はすぐにその山へ赴き、萬が死ぬまで追い続けるのだ。必ずや討て。兵は有り余るほどつけて遣わす」

「わかりました」

 そのまま、体をあとずらせて馬子の前から去った男の姿を一瞥すると、馬子はくつろいだ表情となった。喉に刺さった骨のような男の行方が明らかになったのである。

 だが、何故かくも執念深くあの男の行方を追ったのか・・・。問われれば、仏を盗み、寺を焼き、仏を海に棄て、その上三輪逆を殺したから、と答えるだろうが、それが守屋の命に従った結果だという事は重々馬子も理解している。上に従うのは下の役目であり、時代の掟である。上の者が死んでなお、下の者にも責を問うのは血族であることか、よほどの残虐な行為をしたものに対してであり、萬がそれにあたるかと言われれば違う。それは馬子も承知している。

 しかし、それにも関わらず馬子は萬を許す気にはなれなかった。いや、むしろ守屋に対してよりまさる執念で男を追ったのである。あの男は・・・守屋などより深く自分の本性を見抜いている、と馬子は密かに思っている。それが許せない。

 男が去ってすぐに

「大臣。厩戸王がお訪ねでございます」

 という声があり、

「よし、通っていただけ」

 と答えた声には張りが漲っていた。

「大叔父様。おひさしぶりでございます」

 そう言いながら入ってきた厩戸王に満面の笑みを投げかけ、

「これは、これは皇子様、ご機嫌麗しゅう」

 と答えたのは守屋との戦いで一歩も退くな、と声を上げた厩戸王に大臣は益々重きを置いているからである。万が一にも、あそこで兵を引いていたなら、今の物部が自分の姿であったのかもしれぬ。

「何でございましょうか」

 うやうやしく馬子は頭を下げたが、眉を顰めた厩戸王が尋ねると、

「・・・今下がっていった者は?」

「あれでございますか?あれは以前守屋に仕えていたものでございますよ」

 馬子はもはやかつての仇を呼び捨てている。いや、厩戸王の前でこそ守屋と呼んでいるが、下の者には物乞の捨屋などと呼んでいる。名を以ってはずかしめるのはこのころ既に習わしである。

「あの一族に連なるものを探し出すのに役立てております。少しの禄で幾らでも裏切る・・・。そんな者たちがおったから族もあのような目に遭ったのでございましょう」

「しかし・・・あの男・・・」

 厩戸王は男の体から仏の道と相いれない異臭を嗅いでいた。だが、それ以上その男の事に触れることもなく、眼差しを上げると遠くを見て、

「もはや、物部は滅びたと言って差し支えないでしょう。そのようなことをなさらなくても・・・。いやこれ以上のことをすれば仏の道に背くことになりかねません」

 諭すように言った厩戸王の言葉に、いや、と馬子は首を振ると、

「中にはその仏の道にかんがみて許せぬものもまだございましてな」

 と応じた。

「それだけではない。守屋の息子はすべて戦いの中で死にましたが、娘が生き残っておる」

 戦いの中で死んだというのは詭弁きべんである。三人の息子たちは戦いの中で囚われ、馬子の眼前で首を刎ねられたと厩戸王は側聞そくぶんしている。

 諦めたように一つ大きな溜息を吐くと、厩戸王は、

「さて、今日参りましたのはそろそろあの者をお返し願いたいと思いまして。

あの者は本来、吾が弟、来目に仕えている者」

 と本題を切り出した。あの者とは赤禱の事である。

「ははあ」

 馬子は大きく頷いた。

「確かにその通りでございますな。あの者は守屋を射た戦いの功、となれば来目皇子も傍においておけば安心なさるというもの。それは確かに」

 と言いながらも、にやりと笑うと、

「いかがでございましょうか。先ほどの男が良い知らせを持って参りましてな、どうしても罪をあがなわせたい男の居所が漸く知れたのでございます。それからということでは?」

 と問い返した。

「その者とは?」

 厩戸王は疑うように馬子を見遣った。

「罪深い男でございます。仏の道に反する数々の非道を行った者、その者さえ罰すればもはや物部の残党を追うことはやめたいと思っております。何、あと三日もすれば片付きましょう」

 そう言うと馬子は厩戸王に向かって笑いかけた。


 翌日、守屋の別業から宮の方角へと連なる山に、大臣の命で分け入った人の数は五百を下らない異例の大掛かりなものであった。

 それほどまでに大臣が萬を憎んでいるのだと、軍に加わっている久邇は思っている。ならば自分に与えられる褒賞ほうしょうもそれに見合ったものになるに違いあるまい。

 娘婿とは死んだ孫が生まれる前は極めて親しかった。だが、資人になり、更に資人の長へと昇っていくと萬は次第に仕事の話をすることもなくなり、それまでのざっくばらんな関係も次第に薄れていった。萬はその地位を以って、義父に格別の利を与えることもしなかった。

 そして孫が死んだ後、いっそう関係は薄くなったように思う。

「そこがあの男の面憎つらにくさよ、薄情なところよ」

 今となっては娘婿を売った久邇は思っている。それが、自分が萬を裏切ったことに起因した自分勝手な正当化などとは思いもしない。

 その久邇には一人の男が連れ添っている。久邇より頭一つ上背があり、太い首の下にはみっしりとした筋肉が覆っている。見るからに腕の立ちそうなその男は山狩りの最後方に自分と一緒にいて、自分の横で峰の方を凝視している。

 男が今までに何人かはしらぬが、人を殺したことがあると久邇は男を一目見るなり直感した。山に入る者たちの指揮を執っているのは別の男であるが、萬を仕留めるのは必ずや横にいるこの男であろう。

 人を殺せば殺すほど、殺した方の人間の気は冷たくなる、と久邇は聞いたことがある。その男の傍らにいると、ひやりとした冷気さえ覚えるのだ。この男は萬をほふるという目的のためだけに自分の横を離れないのに違いあるまい。そして必ずや目的を果たすであろう。

 それは久邇を安心させ、不安にもさせた。

 萬は自分が彼を売ったと感づいているに違いない、とこの男は考えているのであろう。そして萬が裏切った自分を殺すだろうと踏んだに相違ない。だからこそ自分に張り付いているのだ。だが、この男は萬に引けを取らぬ腕を持っている。

 それに、と久邇は目の前で山にとりついている男たちを見遣った。こちらには二百になんなんとする兵がついている。

 一方でこの男はもし萬を屠るためであれば、自分を見捨てることを躊躇いはしないであろう、とも思う。獲物を捕らえるにはなりたくない・・・。

「煙か、あれは?」

 兵たちの叫ぶ声に我に返った久邇は手を翳して山の中腹を見た。一本の煙が細い筋を引いて立ち上り、先細って山の緑の中に消えている。

「違いありませぬぞ」

 久邇は叫ぶ声は裏返った。

「あそこに萬がおるに違いありませぬ」


 時はその朝に戻る。

 いつも通りの刻に目覚めた萬は、日課の通り沢に降りて口をそそぎ、次いでひうちで火をおっこすと前日獲ったきじの肉と山草を煮た。

 ぽこりと浮き上がった泡を見つつ、のんびりとした口調で、

「これでしおがあればの・・・。よほど味が増すのだが」

 などと吞気に呟いた。だが、いつもなら落ち着いてその様子を見守るシロが、気もそぞろ気に辺りをうろつきまわっているのに気付くと、犬に向かって尋ねた。

「どうした?」

 シロが人の言葉を解すると萬は今や真剣に思っている。人と共にいなくてもシロがいるだけで人と共に暮らしているような気さえする。萬の問い掛けにシロは黒い瞳で何か言いたげに萬を暫く眺めていたが、急に意を決したように独り山を下りて行った。

「どうしたというのだ?」

 肉を頬張りながら萬は怪訝そうに呟くと、そのまま横目で連なる山波を望んだ。稜線りょうせんは白く霞んでいるもののその上にくっきりと青い空が見える。雨が降ることはあるまい、今日は狩にでも行くか・・・。

 しかし、ゆっくりと食事を済ませ沢に降りて木の器を洗っている最中に、シロが物凄い勢いで戻ってくるなり萬に向かって吠えかけた。萬は急いで穴のある高さまで戻り、シロが吠えている方角を見遣った。

 シロはむだに吠えるような犬ではない。

 手をかざし、目を細めた萬の視線の遥か先で何やら蠢く人影が見え隠れする。

「追手か?」

 舌打ちをすると萬は穴から弓と剣を取り、箭筒を腰に下げ一目散に走りだした。貴重な住まいではあったが、そこに居続けることはもはやできぬ、とすぐさま見切ったのである。

 シロがその姿を追っていく。山の道はこの四十日の間歩き回って知悉ちしつしている。兵たちが登ってきそうな道を避け、獣が通る道を一人と一匹が音もたてずに駆け下りていく。


 萬が目指したのは、以前主の別業のあったあたりであった。別業は火を掛けられ今はもう跡形もない。だがそこは宮へ行く道、海沿いを辿る道、山へ分け入る道の分岐点にあった。

 降りるすがら、時折人の気配を感じて身を隠し、木々の間から盗み見た兵の数は思ったよりずっと多い。山の隅々まで調べ尽くすつもりであろう。大臣の見せる執念に些か辟易へきえきしながら、兵の姿が山の上へと消えるとその地に向け萬は駆けおりた。

 だが、漸く山の麓に辿り着いたところで萬は敵の一人に見つかってしまった。麓は木が低く身を隠すところが少なかったのである。

 見つけた男に萬が放った矢は違うことなくその男の胸を刺し貫いたが、その前に男が発した、「いたぞ」という叫び声に気付いた者たちがいた。

 驚いた男たちが向ける視線を横目に萬は竹藪を走り抜けた。

 昔から勝手知ったる場所である。敵が態勢を整える前に竹藪を駆け抜け、熊笹が密集している別の山の入り口に辿り着くとそこに萬は罠を仕掛けた。

 その山は孤立した山ではない。遠く奈良の都へと続く山である。

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