第30話
難波の地を棄て、萬が向かった先は故郷の有真香の家であった。そこには妻がいる。
海に程近い地ではあるが山へと続く小高い丘があり、その
思えば身分不相応に贅沢な暮らしであった、と思う。だがもはや物部は滅んだ。後はこの地で田や畑を耕し、生きていくほかはあるまい。あるいは山に暮らすのも悪くはあるまい。
鷹でもまた飼おうか?
そんな事を考えつつ丘を下った萬であったが、家の前に繋いである馬を見て、ふと首を傾げた。草を物憂げについばんでいる
家の裏手から回って勝手知ったる家に密やかに忍び込み、居間の脇に身を寄せると萬は耳を澄ませた。
「うねよ。物部は滅びたのだ。それに連なる者たちも、皆殺された」
聞こえてきたのは久邇の押し殺したような声である。
「ですが・・・」
義父に抗っているのは妻の声であった。
「よく聞くのだ」
妻の声に押しかぶせるように義父は説いている。
「そなたの夫は大臣に憎まれておる。物部の家人で唯一、名を挙げて探されている者はそなたの夫だ。大臣の寺を焼き、仏を海に捨てた事がよほどお気に障ったらしい。わしはたまたまそなたの夫を知っているから命を長らえさせて貰えた。その上、もしそなたの夫を捕えたら命を助けてくれるだけではなく、蘇我の家人として使ってやろうと言われたのだ」
妻は黙した。
「こうなってしまった以上、夫とはいえ、罪人と関わりをもつ必要はない。大臣は萬には仏の罪障があると申されている」
子を喪った時、仏に復讐をしてくれとせがんだのは妻である。寺を焼いたのが妻のせいだとまでは言わないが、あの時の妻は萬と同じ心境であった筈である。なんと答えるであろうかと萬は耳を澄ませたが、聞こえたのは義父の言葉であった。
「そなたの夫がこちらに戻っていることは確かだ。近くで馬を預けたことは確かめておる。この家に来るに違いあるまい。その時にこの薬を酒に混ぜて飲ませるのだ。何、死ぬことはない。ただ体が
それから暫く押し問答は続いた。だが最後に父の言葉に妻は頷いたようである。
「良く決心をしてくれた。それで吾が族も生き延びれるというもの。お前には誰か別の男を世話してやる。なに、お前はまだ十分に若い。子もまだ産めよう」
安心したような義父の声を聞くと萬はそっと身を引いた。義父に躍りかかって切り伏せてしまうのは
萬自身は気に染まなかったが強いものについて身の
だが、己自身は・・・寝返るどころか、素知らぬ顔をして生きていくことも許されないらしい。さて、どうしたものかと考えながら
「シロか?」
「シロなのか?」
もう一度、小声で萬が問うと犬は尾を振って小走りに萬の方に駆け寄ってきた。
やはりシロであった。鳴き声を上げようとしない。鳴き声を上げれば家の者が感づいて出て来るのを知っているかのようであった。萬は溜息を吐き、賢いやつ、と呟いた。中腰になってシロの頭を撫でると居所を失った思いが慰められた。
しばらく萬に乱暴に撫でられるのを堪えた後、シロはクゥンと小さな声を上げると、萬を見上げた。そして軽やかに身を翻すと、一緒に来いとでもいうように裏山へと続く道へと主人を誘った。
それから四十日の間、萬はシロと共に過ごした。
妻に裏切られたあの日シロは山道を掻き分け仮の
最初の一晩そこに草を敷いて寝て過ごした萬は翌朝、起きてみると足元に弓と矢を入れた袋があるのを見つけて驚いた。袋には犬の噛んだ跡らしい
「賢い犬じゃ」
声に出して頭を撫でるとシロは心地よさげに鳴いた。そればかりではない。弓矢で狩りをすると落とした鳥や、射た鹿を必ず見つけて運んできたり、
「いつ、狩を習ったのだ?」
と問いかけてもシロはじっと萬を見返して来るだけである。だが、肉を分けてやっても食べることはしない。
「相も変わらず変わった犬じゃ。だが・・・
萬はいつの間にか寝る時もシロと一緒に休むようになった。
そうして二十日の時が過ぎた。狩と小川に棲む魚を獲ることで食うにはさほど困らなかったが、髪や髭は伸び放題である。着ている物も時折洗って乾かしても
「まるで昔話に聞いた
萬はシロに向かって愚痴を零した。シロは困ったような顔をして首を持ち上げ息を吐いただけだが、
「いくら何でも自分ごときを大臣ともあろうお方がそれほどまでにしつこく捕まえようとは思うまい。着替えを取りに行けぬだろうか」
そう呟いた萬が里に下りようとすると、シロはその前に立ちはだかって吠えた。
「そうか・・・」
と萬は頷いた。シロは時折姿を消して里に下りて行っているようである。恐らくまだ見張っている者がいると教えているのであろう。
そのまま萬はあと二十日の間、その穴で昇る陽、墜ちる陽を見続けた。着る物には穴が開き、後ろで縛った髪も背に触ってこそばゆいほど伸びてきた。
「そろそろ里にはいけぬか?」
とシロに再び問うと、シロは首を傾げ、クンと鳴いた。どうやら了、ということであろうと見当をつけ萬が山を下り始めると、シロは大人しく萬の後ろをついてきた。
風の強い日であった。
長くなった髪をその風に
萬は戻ってきたときに預けた馬をそのまま放置していた。その馬を一月以上引き取りに戻らぬという事をしり、萬が感づきどこか別の場所へ逃げたのだと結論をつけたのだろう。
閂を外し、中に入るとあらかたのものは持ち去られていたが古い装束はそのまま打ち捨てられていた。それを大事に
それを取り出すと気持ちが少し大きくなった。やはり身を守るものが手元にあるのとないのとでは気持ちに
妻については諦めた。
どんな目に遭わされるかと思えば哀れであったが仕方あるまい。妻が義父の言う事に頷いた時、義父と妻を殺す代わりに妻を諦めることで気持ちの均衡を図ったのである。妻の事はもはや他人と思うしかあるまい。
閂を元通りに掛け、外に出るとシロは不安げに頻りに鼻をひくつかせて何かの匂いを嗅いでいた。だが風の強さでその匂いがどこから漂ってきているのか見当がつかぬようである。
「シロ、済んだぞ」
と短く声を掛けると、シロはすぐに駆けだした。萬は慌ててその後をついていった。
だが・・・その一人と一匹が立ち去っていく姿を遥か彼方から眺めていた者がいる。
久邇であった。娘は役人に牢へと引き立てられていったが、久邇は乞うて、今少しの猶予を以って萬を捕まえる役に留まることを許されたのだった。
もし萬を捕まえれば娘も許される。久邇は必死であった。必ず萬はここに現れるに違いないと昼夜を分かたず遠くから見張っていたのである。
いや・・・それしか当てがなかったのである。
犬と共に萬が姿を消すのを久邇は歯噛みして見送った。
だが、萬の向かった道ははっきりと確かめている。その道が続く山はただ一つであった。
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