第29話

 翌日、まだ明けやらぬ阿都の郷ではそこここで篝火が焚かれていた。中央で殊更に明るいものは守屋の邸の篝火で、それを囲むように焚かれているのは后の軍のものである。

 とはいえ、火から少し遠ざかればそこには深遠の闇が覆っている。その闇の中をもぐって一人の男が守屋の邸に最も近い稲城に取りつくと音一つ立てずにするすると登って行った。

 新月の空はただ満天の星が静かに地を照らしている。

 稲城の下では昼間の戦いに疲れ切った守屋の兵たちが寝穢いぎたなく眠り込んでおり、守屋の陣では誰一人として男に気付くものはいなかった。それどころか馬子の陣でもたった一人の男を除いてその行動を知るものはなかった。

 やがてその男は稲城の頂近くまでよじ登ると妙な仕草を始めた。稲わらを少しずつ抜き目立たぬように下へと落としていく。やがて人一人がすっぽりと入る穴を作ると男はそこへと潜り込んだ。


 朝日が昇ると共に双方の陣の動きは慌ただしくなった。

 ぐっすり休んだおかげで、気力十分に目覚めた守屋はいつものように家の一番高い榎にとりつき、体格に似合わぬ素早さでするすると登りきると戦場を見渡した。

 そこからは陣をひく蘇我の軍まですべてを見渡すことができる。こちらを見れば横木の率いる軍の陣立ては整っているが、まだ出陣させる頃合いではない。四方で小競り合いを仕掛けて相手の主力を分散させ、手薄になったところで主力を全力で馬子の軍めがけて突進させるつもりである。

「戦いの主導権はこちらにある。今日のうちに蹴散らしてやるわ」

 守屋はにんまりと笑った。

「兵を出せ」

 と叫んだ守屋はふと眼下にある稲城の頂で何かがうごめいたのに気づいて目を遣った。


 一矢で仕留めねばならぬ、と弓を引きながら男は思っている。さもなければ、逆に相手の箭が己に突き刺さることであろう。

 引き絞った弦の向こうに見えていた相手がこちらに向いたその瞬間、男は箭を放った。ぶんと唸るような音がして放った箭はあやまつことなく狙った男の胸を貫いた。

 箭の勢いで相手がもんどりうつように地面へ落ちるのを目の端で確かめると男は稲城から滑るように地面へ降りたった。駆けだした男の背後では怒声と共に落ちた男に駆け寄る足音が響いている。

「大連さまっ」

「主が・・・射られたぞ」

 叫ぶ声は落ちた男が守屋であると証している。逃げて行く男はそれを聞きながら内心、快哉かいさいを叫んだ。


 守屋が強力に支配をしていた軍は、その守屋を失った瞬間急速に統制を失った。

 浮足立った奴の軍は、あっという間に総崩れとなり、逃げ出すものはその半数に及んだ。彼らは守屋を信じてはいたが、物部氏そのものを信じていたわけではなかった。彼らを陰から支援していたいくさ人も守屋を失った途端、手を引いた。

 残った一族と家人たちは必死に防戦したが、守る者を失った稲城は次々と突き崩され、邸には火がかけられた。守屋の三人の息子はとらわれ、その場で首を斬られた。一族や家人の中には火を放たれた邸から命からがら逃げおおせる男もいたが、その半数は逃げる最中に矢にあたり、また切り伏せられて命を失った。残りの者は身を窶し、身分を偽って逼塞ひっそくしていった。

 女たちも逃げ惑うだけであった。その中のある者たちは殺され、別の者は捕らわれ辱めをうけた。ただ、その中で守屋の美しい娘、桐子の消息だけは、ようとして誰も知らなかった。


 逃げようとした家人の中に久邇がいる。萬の妻の父親である。久邇は稲城で兵を率いて防戦にあたっていたが主が殺されたと知って一度は邸へ立ち戻った。

 戦況は一変していた。物部の軍は総崩れし、邸の中に残っているのは箭に当たって死んでいる者ばかりである。久邇は邸の裏口から逃げにかかったがすぐに蘇我の兵に取り囲まれた。命乞いをする久邇の首に殺気を帯びた剣が当てられた時、久邇は萬の名を出した。

「まだ、大連さまの軍には残党がおります。萬という者も難波におります。そのままにしておいてよろしいのでございましょうか」

 と。すると、兵の後ろに控えていた一人の男が、ずいと前に出て

「萬とは・・・物部の資人、捕鳥部萬のことか?」

 と尋ねた。久邇は必死に首を縦に振った。

「ならばこの男、殺すな」

 尋ねた男は剣を構えた男に命じた。

「この男、まだ使いでがある。心配するな、男を殺さずともお前には褒美が出る」

 その一言で剣を持った男の殺気が引いた。


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