Answer:『妥協』(7/16 花金参加作)

 普通に生きていくことなんて、無理だと思っていた。

 世界は譲れる限りの妥協。バカみたいに笑ってふざけ合う奴らは、金魚鉢の外のキラキラした別次元に生きていて。

 ただ黙って、静かに、醜い姿を見せないように。せまっ苦しい水の中で、息を殺しているだけの存在なんて目にも入らない。

 それでいい。見つかって不快に思われるよりは。

 俺はただ、壁に描かれた壁紙の絵でいたかった。



 普通だったことはない。

 幼い頃の記憶はあまり定かではないが、始まりははっきりと覚えている。

 ある日、着飾った母が知らない男の車に俺を乗せて寂れた学校みたいな建物に置いて行った。それからもう二度と、戻ってくることはなかった。

 養護施設の前に子どもを捨てていく親は、そこそこの数いるらしい。


 親に捨てられた子。


 そう言われて、憐れみと優越感を向けられて育った。

 別に体罰や虐待が酷いとか、そんな劣悪な環境じゃなかった。

 でも、職員は立派な方針に基づいて子どもたちを預かり育てる、先生みたいなもので家族ではない。子どもたちは、いつか一人で生きていくため、それまで世話をしてもらうだけだ。

「普通の子」の輪には入れない、狭い世界。そして、愛情に飢えた子どもたち。

 強いボスに従うカースト。むやみに性を振りまく少女たち。いつか両親が迎えに来ると言って失笑を買う子。情緒不安定で、急に叫んだり騒ぎ出す奴がいるのも日常茶飯事。

 俺たちはずっと変わらず、まともな人間になれずに生きていくんだって。当然のようにそう思ってた。それ以外になれるなんて夢は見られなかった。

 だけど、自分も含めてだ。そんな人間の弱っちい様に、辟易とした鬱憤が降り積もっていた。



 だけど、10歳を過ぎたある日。親父が迎えに来た。

 会いに来た親父の姿は、坊主頭に無精髭。白いシャツが汗に濡れて、うっすらと肌の模様が透けていた。見るからにカタギの人間じゃない。

「お前、聡か」

 にやりと笑った顔は、ただのオジサンで。

「覚えてねぇわな。あの女、ガキを置いて逃げるとか薄情モンが」

 今まで父親の顔なんて知らないと思っていた。なのに、その声がしっくりと心のどこかにしみこんでいった。

「遅くなって悪かったな。お前を迎えに来た」

 こんな見た目の男に、心底安堵した。父さんが迎えに来てくれたんだって、触れ回りたい気持ちになった。

 自分は誰にも望まれず、可哀そうだからただ生かされている訳ではないと。叫びたいほどに嬉しく思った。


 親父はこまめに面会に通って、律儀に課せられた制約だって守った。

 何度か外泊して一緒に過ごして。それから、問題ないと判断されて一緒に暮らせるようになった。



 一緒にいると、親父の話はあちこちから聞こえてきた。

 組を抜ける時に、落とし前として組の罪を被って刑務所に入ったこと。

 それで、正式に縁を切ったこと。その際に、元々欠けてた指がもっと少なくなっただとか。

 親父の知り合いは皆だいたい柄が悪い。

 だけど、それ以外の世界に知り合いなどいないのだから仕方ないんだろうな。

 そんな柄の悪い知り合いに紹介を受けた仕事をして生計を立てていた。

 だから、俺はせめて家事をした。

 こんな生活も、嫌いじゃなかった。



 ヤクザの息子。

 お父さんが物騒な事して刑務所に入ってたんだって。

 関わってはダメ。


 俺は、親に捨てられた子ではなくなったけど、そう言われるようになった。

 世界は相変わらず遠巻きだった。

 だけど、ずっと「普通」になれないんだって思い続けて生きてきたから。

 親父ひとりいてくれた方がいいと思った。

 相手も嫌な気持ちにさせて、必ず親父が悪く言われるなら。

 他人と関わるのはやめようと思った。

 普通のふりをして、深くは付き合わず、詮索もされない。

 そうすれば誰もがマイナスになることはない。

 上手くやる自信はあった。

 俺個人は、人に溶け込むのが得意だし嫌われるタイプではない。友達付き合いを諦める程度のことは、俺にとってはもうなんでもないことだった。



 親父は元々器用ではない。

 身を張って極道をしてきたくせに、逃げた女の子を育てるために足を洗うなんて間抜けだ。

 元々カタギの世界に生きたことがなかった世間知らずだし、自分の世話も満足にできない。

 苦労して飲み潰れて家に帰ってきて、その世話をするのはいつも俺だ。

 泥酔して、妙にご機嫌で俺の頭を撫でたりする。

 幾つだと思ってんのか、聡、聡ってにやつきながら。

 その不器用さを見るたびに、馬鹿だなって思う。

 俺を引き取ろうなんて思わなければ、自分の知ってる世界でいつまでもアウトローしてられたのに。まっとうな世界の底辺になることなんてなかったんだ。

 俺のために、馬鹿だな。

 だから恨むことも嫌いになることもできなかった。


 景気につられて、親父の仕事はだんだん少なくなった。

 奨学金で高校に通いながら、俺はひたすらアルバイトした。

 ガキの稼ぎじゃ足しにしかならないけど。

 足しにでもしてやれりゃ、ないよりもいい。


 柄の悪い金貸しは、俺にも接触してくることが度々あった。

 俺に聞こえてることが分かっていながら、親父を脅す。

 そしてそれをもとに俺を脅す小悪党だった。

 親父は結構追い詰められてたと思う。

「息子に保険金たんまりとかけてやったぞ」

 証書を見せて親父に脅しをかける小悪党をみて、ちょっと嬉しくなるくらいにひらめいた。

 ああ、この金があったなら、親父は楽になれるだろうな。

 そして俺を背負いこまなくていいなら、こんな苦労ばっかしなくて済むんだ。



『さようなら』

 このバスに乗るのも、この景色を見るのも最後だと思ったら。一言くらい別れを言いたくなった。

 誰にも言えない別れの言葉を色のはげかけたバスの壁に書き込む。

 こんなくそったれな世界だけど、嫌いじゃなかった。だから、恨み言はない。

 さようなら。世界。

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