神崎ひかげVS豪傑院さゆり

尾八原ジュージ

神崎ひかげVS豪傑院さゆり

 その令嬢は、限界飲酒OL神崎かんざきひかげの前に突如として現れた。

 肩に流れる艶やかな黒髪。切れ長の涼しい眼にすっきりと通った鼻筋。愛らしい唇の下の大胆な割れアゴが、見るものの目を否応なしに惹きつける。年月を重ねた大樹を思わせる太い首を慎ましく隠す襟の高いブラウスは、シンプルだがシルクの高級品のようだ。

 神崎には、彼女の立つ見慣れた自宅アパートの玄関が、異様に小さく、狭く見えた。

「はじめまして神崎ひかげさま。突然の訪問、どうぞお許しくださいませ」

 身長2メートルはあろう巨体で淑やかなお辞儀をしつつ、彼女は名乗った。

「わたくし、豪傑院ごうけついんさゆりと申します」


「ご、豪傑院さゆり……ですって!?」

 あっけにとられる神崎の後ろで、様子を見に来た友人の藤原ふじわら――通称たまちゃんの声がした。休日を話題の映画のDVDでも観て過ごそう、と神崎の部屋を訪れていたのである。

「玉ちゃん、知ってるの?」

 最近の玉ちゃんは時々解説役っぽくなるな、と思いながら、神崎は尋ねた。

「ひかげちゃんこそ知らないの!? 豪傑院家といえば日本有数の名家にしてお金持ち、それ以上に多くの豪傑を輩出した家柄として有名なんだよ!」

「ご、豪傑を?」

「それほど大したものでもございませんのよ」

 さゆりは白く滑らかなグローブのごとき手を口元にあて、慎ましい笑い声をたてた。

「でも、その豪傑院家のお嬢様が、なんでこんなちっちゃいアパートに来た……ええと、いらしたんですか?」

「神崎さまのお噂は豪傑界隈に広く知れ渡っておりましてよ。何でも数々の猛獣を斃し、怪人の類を退治なさってきたとか……その腕前を見込んでわたくし、お願いがございますの」

 さゆりは口元に当てていた手をぐっと握り、岩のような拳を見せつけた。

「わたくしとアームレスリングをしてくださらないかしら?」

「アームレスリング?」

「ええ、かねてよりの趣味なのですけど、もう国内にめぼしい対戦相手がおりませんの……もちろんお手間をとらせる以上、ただでとは申しませんわ。松代まつよ

「はい、お嬢様」

 いつの間にか玄関に立っていたメイド服の女性が、一升瓶を持って現れた。

「神崎さまが勝った暁には、この『限界漢祭げんかいおとこまつり・純米大吟醸』を十本、進呈させていただきますわ」

「げっ、限界漢祭」

 今度は神崎が声を上げる番だった。「限界漢祭」といえば、低い等級のものでさえ一升瓶一本で十万円を超える高級酒である。まして純米大吟醸ともなれば……値札をチェックしたことすらないレベルだ。

「いかがかしら」

「やっ、やりましゅ!」

 前のめりになるあまり噛んでしまった神崎。その様を見たさゆりは満足げににんまりと笑った。

「では、お相手していただけますのね? ところで……」

 玄関の内側を不思議そうにのぞき込みながら、彼女は首をかしげた。

「神崎さまの本宅はどちらですの? こちらの建物、倉庫かなにかとお見受けしましたが……」


 数十分後、彼女たちは豪傑院家の経営するジムの一室へと移動していた。

「本当にお恥ずかしゅうございますわ。わたくしったらものを知りませんので、とんだ御無礼を申しまして……」

 さゆりは白い頬を赤く染め、未だ失言を悔いている様子である。

「い、いいんですよ。お嬢様があんなアパートに来る機会なんて今までなかっただろうし……」

「神崎さまはお優しくていらっしゃいますのね」

 木の床はよく磨き上げられ、ダンスの練習にでも使われるのか、壁に大きな鏡が張られている。その中央には世界公式規格のアームレスリング台がひとつ、ぽつんと置かれていた。

「こちらに肘をおつきください」

 メイドの松代が、神崎を台の前へと案内した。

「こんな感じ?」

「さようでございます」

 神崎の構えを見て、驚いたのは豪傑院さゆりである。

(なんと……アームレスリングをやったことがないというの!?)

 誘われるがまま勝負に乗ってきた神崎の様子から、さゆりは「神崎にはアームレスリングの心得がある」と思い込んでいたのだ。しかし目の前の神崎の構えを見た途端、彼女には目の前にいる対戦相手がずぶの素人だと瞬時にわかった。

(まったく知らない競技だというのに、一切臆せず、わたくしとの勝負を受けたというの……!? なんという強い心!)

 神崎ひかげ、その心意気やよし。万が一、この素人くさい構えが罠であってもかまわない……そう思ったさゆりは神崎の対面に向かい、相手と同じように構えた。なお、酒につられただけ、とは思わない箱入りお嬢様なのである。

 アームレスリングはただの力比べではなく、「卓上の格闘技」と呼ばれることもあるれっきとしたスポーツである。勝敗を決めるのは単純な腕力だけでなく、競技者のテクニックも重要な要素となるのだ。そのテクニックに長けていれば、自分より力の強い相手に勝つことも可能である。

 しかし今さゆりはその持てる技術を捨て、神崎と同様に腕力勝負に出ようとしていた。アームレスリングというよりは、ただの腕相撲である。しかしあえて策を弄さず、相手に合わせてかつ正々堂々と倒す。それが名誉ある豪傑院家の子女としてあるべき姿なのだ。

 ところが両者が手を組み合わせる直前、神崎が「あっ、ちょっと待って!」と言って体を起こした。そして一緒についてきた藤原に、「玉ちゃん、私のスキレットある?」と声をかけた。

「あるよー。これないと本気出ないもんね」

 今日は特別だよ! と念を押す藤原から受け取ったスキレットを、神崎は勢いよく傾けた。中身は安いウイスキーだが、これが彼女の起爆剤なのだ。

 飲酒を終えた神崎は、ふたたびアームレスリング台へと戻ってきた。手を組み合わせた瞬間、さゆりの全身に激震が走る。ごく普通のOLにしか見えない神崎から、ただならぬ覇気が発せられているのを感じ取ったのだ。

「神崎さま……この豪傑院さゆり、あなた様に巡り会えたことを感謝いたしますわ。準備はよろしくて?」

「ええ、いつでも」

「では僭越ながら私が、試合の審判を勤めさせていただきます」

 しずしずと歩み寄ってきた松代が台の横に立つ。

「では……レディー、ゴウ!」

 見えないゴングが打ち鳴らされ、闘いの火蓋は切って落とされた。


(ど、どうなってるの……?)

 観戦する藤原は困惑していた。神崎とさゆり、ふたりはアームレスリング台の上で右手を握りあったまま、彫像のようにぴたりと動かなかった。

 時間がじりじりと流れる。神崎の顔が次第に赤くなり、さゆりの額にしっとりと汗がにじみ始める。

 藤原だけでなく、さゆりもまた、困惑に近い感情を覚えていた。

(華奢な見かけによらず、なんという膂力! これが限界酔拳ですの……?)

 神崎の鬼気迫る表情は、酒によって顔が紅潮してきたこともあり、まるで赤鬼のようにさゆりの目に映った。何か人ならざるものと闘っている……そのような感覚すら覚えたのである。しかし彼女の唇には、知らず知らずのうちに笑みが浮かんでいた。数々の豪傑を生み出してきた豪傑院の遺伝子が、今この強敵と相まみえたことに歓喜しているのだ。

 一方の神崎も、やはり驚かずにはいられなかった。アルコールを摂取した自分の全力を受けてなお動かないさゆりの見るからに強靭な右腕。がっちりと握り合った右手の力強い感触。まるで巨大な岩と組み合っているかのようだ。彼女は、この終わりのない闘いに、ともすれば折れそうになる心を励ました。

(勝ったら「限界漢祭」十本……絶対に負けられない!)

 松代はひとり冷静に、壁にかけられた時計を見ている。試合が膠着状態のままあまりに長引くのであれば、一旦仕切り直しをしようと考えているのだ。しかしその思案は、思いがけず打ち砕かれることとなった。


 ボゴォーーーーーン!!!


 突然の轟音と共に、部屋のドアが爆発で吹き飛んだ。

 濛々と立つ煙の影から現れたのは……黒装束に覆面、見るからに忍者である! まったく忍ぶ様子なし!

「あいつは……神崎さま、勝負は中断ですわ! 皆さん、下がってくださいまし!」

 さゆりが瞬時に神崎の手を離し、忍者の前に立ち塞がった。

「豪傑院さゆりィ! 今日こそ貴様を倒し、儂が里長となる!」

「まだそんなことをおっしゃっておられますの? わたくしはもう、跡目争いとは何の関係もなくてよ!」

「えっ、さゆりさん、忍者と何かあったの?」

 戸惑う神崎。その肩をポンと叩いた松代が、「過ぎたことでございます」と首を振った。

「よしんばまだ関係があったとしても、あなたがわたくしと闘って勝てるとお思い?」

「ふははは! 忍びの儂が、正々堂々と闘うわけがなかろう!」

 謎の忍者は哄笑し、次の瞬間足元に向かって煙玉を投げつけた。ふたたび煙が室内を覆う。そしてそれが晴れたとき、そこにいたのは忍び装束の忍者ではなかった! なんと、巨大なガマガエルではないか!

「きゃーーー!!!」

 絹を引き裂くようなさゆりの悲鳴が、部屋中に響き渡った。彼女は電光石火の足運びで、神崎たちが固まっていた部屋の隅まで後退した。

「ど、どうしたの!?」

「わ、わたくし……カエルが駄目なのですー!!」

 さゆりは両手で目を覆いながら叫んだ。「あの皮膚のヌメッとした感じとか、不気味な顔つきとか……もうなんか全部もう、生理的に駄目なのです! カエル全般がそういう感じで無理なのですわー!! 無理無理無理無理」

「マジか」

 先ほどの逞しい姿とは打って変わって、か弱い小鹿のように……いや、奇怪にも鳴動する大理石の固まりのようと言った方が見た感じ近いかもしれないが、ともかく怯えるさゆりの姿に、神崎は衝撃を受けていた。しかし堂々たる令嬢とて、ひとりの乙女に変わりはない。人にはそれぞれ苦手なものがあって当然だ。

 神崎とてカエルの類は決して得意ではない……が、ここは自分が何とかしなければならないのだ。さゆりですら見上げるほどの巨大なカエルならば、人間などいとも簡単に捕食してしまうだろう。早々に倒さなければみんなが危ない!

 しかし、ここに問題がひとつあった。酒が足りないのである!

 先ほどスキレットの中身は空けてしまった。しかも忍者が登場した驚きで、酔いが半ば醒めてしまっている。スポーツジムの一室に酒があろうとも思えない。

 もはや万事休すかと思われたその時、神崎のすぐ横に音もなく松代が現れた。

「神崎さま、御酒ならばここにございます」

 その手に抱かれているのは、なんと「限界漢祭・純米大吟醸」ではないか!

「本来ならば勝負ののちにお渡しするべきものですが……ようございますね? お嬢様」

 松代の声に、青ざめて震えていたさゆりがうなずいた。

「松代さん、ありがとう!」

 神崎は手刀で一升瓶の口を切り飛ばすなり、上を向いて大きく開いた口の中に「限界漢祭」を流し込んだ!

(えっ、なにこれすごい。すごいいい香りするし、なにこの……フルーティーな感じ? 語彙が追い付かないこれ。あっ、なんか日本の原風景みたいなのが見えてきた。一面の緑の田んぼ……清らかな小川……神輿を担ぐ褌姿の漢たち……)

 一瞬の幻覚ののち、神崎はふたたび全身に力がみなぎるのを感じた。そう、酒の力である! しかも高級品!

「限界酔拳!!」

 人間離れした跳躍力! 右腕を大きく振りかぶった神崎は、ガマガエルの脳天に向けてその拳を叩き込んだ!


 空を切るような手ごたえに続いて、「ぎゃっ!」という汚い悲鳴が聞こえた。気づけばガマガエルの姿は消え、床には先ほどの忍者が伸びていた。

「なんと……幻術でしたのね。ガマガエルなど最初からいなかったのですわ」

 さゆりが胸元に手を当て、ほっと溜息をついた。

「お見事でしたわ、神崎さま……約束どおり『限界漢祭・純米大吟醸』十本、進呈させてくださいまし」

「えっ、いやっ」

 一瞬めちゃくちゃ嬉しい顔をしてしまったものの、神崎は慌てた。

「勝負はお流れになっちゃったんだし、ただでそんな高価なもの、う、受け取れません!」

「いいえ、貴女の勝ちですわ」

 さゆりは立ち上がり、神崎の前に立った。

「限界酔拳が使えないかもしれないのに、それでも闘おうとなさったあなたの本当の強さ……まさに豪傑にふさわしゅうございますわ。わたくしは自らのカエル嫌いに負けてしまい、無様なところをお見せしてしまいました。恥ずかしゅうございます。こんなことで友人を危機にさらすなど」

 そう言うと、さゆりはふと照れ臭そうに笑った。「神崎さま。わたくしたち、もうお友達でよろしいかしら? だって途中までですけど、あんなにいい試合をしたのですもの」

「さゆりさん……」

 神崎は胸に、酔いとは違う熱いものがこみ上げてくるのを感じた。「もちろんです!」

「うふふ。わたくしも、ひかげさんとお呼びしてよくって?」

「よ……よろしくってよ!」

「あー! なんかずるい! 私も! 玉さんって呼んでください!」

 藤原が二人の間に駆け寄ってきた。


 その後、忍者は不法侵入と器物損壊のために、パトカーに乗せられていった。

「ではひかげさん、お約束どおり『限界漢祭・純米大吟醸』一升瓶十本……のはずだったのですけど、ハーフサイズ一本をお渡ししますわ」

 さゆりは満面の笑みを浮かべながら、小さめの瓶を差し出した。

「へ? ハーフサイズ一本?」

「玉さんと相談して、残り19本は毎月一本ずつ、ひかげさんのお宅に届けさせることにいたしましたの」

「だってひかげちゃん、あるだけ飲んじゃうじゃない!」

「ええー! ま、まぁいいか……」

 あの銘酒を思いっきり飲めると思ったのに……とは言ったものの、神崎の心は晴れやかであった。


 なお、さっそく持ち帰った一本を勢いに乗ってパカパカと空けた後、ふとネットで値段を調べた神崎が思わず悲鳴をあげたのは、また別のお話。


<終劇>

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神崎ひかげVS豪傑院さゆり 尾八原ジュージ @zi-yon

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