孤月はいつも、笑っていて。
結衣 勇人
プロローグ ーあの日ー
「橘花、消えるらしいよ」
前の席に座っている康太は、椅子を逆向きに座り、何故だか嬉しそうに言った。
人はそんな簡単に姿を消し去ることなんて出来やしないさ。魔法使いじゃあるまいし。
「消える?どうやって?」
そうは言ったものの、答えはわかっていた。橘花は魔法使いでないことは言うまでもなく、偶然、昨日の放課後に女子たち数人がコソコソ話していたのを聞き、“転校”というワードを何度も耳にしていたからだ。
「その消えるじゃねーよ、転校すんだって。どこに行くかは知らないけど、新学期から」
その人に強い恋心を抱いていたり、放課後にファミレスや公園に集まって他愛もない会話をして、何年経ってからも青春の1ページに刻まれる相手だったり、そうでなければ別に転校しようがしまいが特に興味はない。1年後には卒業し、みんな各々の高校に進学し、そこでまた新しい人間関係を構築していく。懐かしい気持ちに浸りたくて、たまには遊んだりするだろうが、橘花という女子は間違いなく選択肢には、はいらないだろう。
「お前、あいつと話したことある?」
机の引き出しの奥に手を突っ込み、くしゃくしゃになった配布プリントの残骸を、いつも通学の時に使っているリュックサックの中に押し込んだ。
「話したことはあるんじゃない? なに話したかは特に覚えてないけど」
「だよね! 顔は可愛いんだけどさ、性格だよね、暗いっつうかさ。いやあれはあれで嫌いじゃないけど、話しかけにくいオーラあるじゃん? ずっと本読んでるし。他の女子たちとも仲良くしてるところ、見たことないよね。・・・・そういえば入学と同時に他のところから引っ越してきたんだっけな」
もう何週間か洗濯をしていない少し酸っぱい匂いのする体操着や、教室の後ろの小さなロッカーに押し込んでいた端の折れた教科書、技術の授業で作ったゴミ同然のブックスタンドを机の上に並べ、淡々と帰宅の準備をする。
「少なくとも俺たちみたいな男子は嫌いなんだよきっと。勉強が出来ない男子は特に」
「一緒にすんなって。俺のほうが期末の合計点高いから、27点」
笑いながら、自慢げに康太はそう言ってから、座っていた椅子から立ち上がり、
「じゃあまた新学期も宜しく。あー、塾の春期講習マジめんどくさい」
と言い残し、教室を出て行った。
少し間があいて、おもむろに席から立ちあがり、(さて帰るか)と心の中でつぶやいた時、教室には自分しかいなかった。
誰もいない教室は、腹が痛いと涙を流しながら笑う声や、誰のかもわからない叫び声、椅子の脚で床を擦ったときの重音やシャーペンで机を叩いた時の金属音、そんな日常の音はなく、自分が呼吸をする音と、微かに遠くで聞こえる話し声しか耳に入ってこなかった。
せっかくだから大声で叫んでみたりしてみようか、などどいうくだらない好奇心を抑えながら教室を出た。
下駄箱に向かう間の廊下や階段では、何人かで輪になり楽しそうに話している生徒や、新学期に向けての準備なのか山積みの資料を両手に抱えた教師とすれ違ったくらいで、人は疎らだった。
最後の角を曲がり、長い下駄箱の一番左端にある棚から自分の靴を取り出そうとしたとき、右端にも人がいる事に気が付いた。同世代の女子にしては少し大人びた顔立ちで、目鼻立ちはくっきりとしている。髪は黒以上に美しい黒髪で、長さは肩にかからないくらい、時折吹き抜ける3月の少し暖かい風が、それらを綺麗になびかせる。
橘花か。
周りには誰もいない。こういう時、特に仲が良いわけじゃない同級生に声をかけるべきかどうか、頭の中で必死に正解を探す。二択だ、声をかけるか、無視するか。
あまり話したことのない女子。共通の話題も、話し始めてから会話に花が咲くネタも思い浮かばない。しかし転校するとさっき話していたばかりだ。“元気でね”の一言でも言えばきっと、“ありがとう”と返ってきて、無難にその場はしのげるだろう。
・・・・無視だ、そう答えを導き出し、上履きを脱ぎ左手に持っていた手提げ袋に突っ込んだ。そして自分の靴を手に取ると、少し足早に彼女の後ろを通り過ぎ、地面に靴を放った時、
「あれ、いま帰り?」
周りには誰もいなかったはず、声のトーンや大きさから自分に言われているのだと気づいた。振り返ると橘花と目が合う。
「1人?」
橘花はそう言うと、自分の靴を地面にそっと置き、傘立てに差してある靴ベラに手を伸ばし、両足を靴の中に入れた。
「あぁ、そうだけど」
「そうなんだ、一緒だね私と」
(・・・・お前、友達いないもんな)
自分の靴を履き終えてから、続けて橘花が、
「転校するの、知ってる?」
と言った。何とも言えない表情、切なさや後悔でもなく、泣き顔でも笑顔でも無く。
「もう通算4回目だよ、転校するの。荷物の整理とか色々めんどくさいんだよ。転校したことある?」
「いや、ないけど」
「いいなあ、羨ましい」
そう言うと橘花は玄関に向かって歩き出す。内心ほっとした。これでこの居心地の悪い時間から解放される。放り出して、裏返った右足の靴を正しい向きに直し、足を入れた瞬間、
「ねえ」
と声をかけられた。橘花が少し先でこちらを振り返っている。
「いつか大人なって、偶然どこかで私と出会ったら、何も言わずに笑顔で抱きしめてね、じゃあね」
そう言い残し、橘花は消えていった。
「確かこんな感じだったよな」
真斗は高層ビル群に囲まれた公園のベンチでタバコに火をつけた。
煙を肺いっぱいに吸い込み、ビルとビルの間に少しばかり見える夜空に、それを吹きかける。
「そういえば、あの日も桜が咲いていたな」
ベンチ脇にある一本の大きな桜木が、街灯に照らされていた。
孤月はいつも、笑っていて。 結衣 勇人 @nsnsjmjm
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