第3話《Sophistication》

「Mark3の様子はどうだ」


  人から発せられた、肉声。しかし薄暗い研究所に響くその声は、妙な冷たさを孕んでいた。

「問題ありません。言語習得は予定よりかなり早いペースで進んでおり、今後の自己学習が上手くいけば更に早まるかと」

「そうか。早い分には問題ない。次のフェーズへの移行の判断は、君に委ねる」

 終始うかない表情をしていたピーターが、一瞬ためらった後で、小さな声で不安げに言った。

「やはり、その、アン、、いえ、彼に、Mark3には心を持たせるべきではない、気がします。言語習得などの学習は通常のAIで十分に可能ですし、その、、何も、感情まで持たせる必要はないのでは、、」

 もう片方の人間は、それを聞いて声色を変える。冷たくて、そして鋭い声。

「もう何度も説明したはずだ」

「ですが、、!」

「奴を恐れているのか?」

「い、いえそんなわけでは」

「では何を心配することがある。我々は、これまで人類の到達し得なかった領域へ足を踏み入れようとしているのだ。こんな所で足踏みしている場合ではない」

 この場合、ピーターに勝ち目はなかった。このもう片方の人間、ラドルフはピーターの上司に当たり、逆らえるはずもない。二人はかつて同じ国営研究所に勤めていた、先輩後輩の関係だ。そして今ではラドルフの個人的な計画にピーターが付き合わされる形で、この研究所で極秘裏に研究を進めている。ラドルフは初めて会った頃からずっと変わらない。自分の信念を決して曲げず、目的のためならどんな犠牲も厭わないタイプの人間だ。

「はい。わかりました。失礼します」


 部屋を出て扉を閉めたピーターは、大きなため息をついた。彼はもともと自分の考えを貫くタイプの人間ではないので、たびたび起こるこうした事をそれほど負担には感じていなかった。むしろあれこれ道筋を示してくれるラドルフに、感謝すらしていた。何も考えずに、ただ目の前の仕事をこなしていけば良い。それが世の中を生きていく上で一番楽な方法だ。

 しかし、今回の彼は少し違った。なんだろう、この胸のざわめきは。この嫌な予感は。自分の中の自分が、これじゃダメだと繰り返す。ピーターは生まれて初めて、流れに逆らおうとする自分を感じた。

 このまま彼が色んなことを学んでいって、色んなことがわかってしまったら、どうなるだろう。自分という存在の意味に気づいてしまったら、どうなるだろう。心を持たないロボットとは訳が違う。今はまだ小さいが、彼には心があり、感情があるのだ。彼はどれほどの苦しみを感じるだろうか。どれほどの絶望を、どれほどの痛みを。。

 蛍光灯に照らされた、昼か夜かもわからない、人気のない廊下。ふらふらと歩いていたピーターは立ち止まって、壁へ自分の拳をどんと叩きつけた。

「そんなの、あんまりじゃないか」




 壁一面に敷き詰められた大量の本を前に、アンディは目をキラキラ輝かせていた。

 本という存在はピーターから話には聞いていたが、実物に触れるのは生まれて初めてだった。彼は少し迷った後、一冊の本を選んで手に取ってみた。意外と重いな、とアンディは思った。表紙には「星の王子さま」と書かれている。

 パラパラと開いてみると、たくさんの文字と、時々絵が書かれていた。アンディは早速読み始めると、すぐにわからない単語に出会す。「原生林」「蛇」「再現」いくらでもあった。少し意味を予想してみたが、上手くつかめない。困りあぐねていると、あ、と思い出した。こんな時のためにピーターからあるもの借りていたのだ。机の上に置かれた、先ほどの本より明らかに分厚い本を手にとる。もっと重いな、と思った。アンディは重たいその本をぎこちない手つきで開いた。




 数時間後、他の仕事を片付けたピーターはアンディのいる部屋へ向かった。アンディの部屋は研究所の外れの方にある一室だ。コツコツと足音を響かせながら、ピーターはアンディの勉強の具合が気になっていた。本を読め!といきなり渡してみたものの、本当に大丈夫だろうか?今まではマンツーマンのやり取りがあったが、急に一人になって上手くいってるのだろうか。ピーターはドアの前へ着くと、コンコンとノックをしてからそっと部屋へ入った。

「アンディ、調子はどうだい?」

ピーターが入ってくるのに気づいたアンディは、読んでいた本を持ったまま、覗くようにしてこちらに返事した。

「問題ありません。とても面白いです」

「そうかい、よかったよかった。それにしても君、読めているのかい?わからない言葉とか、あったろう」

 アンディはすぐにでも本の続きを読みたいと言った感じだったが、机の上に置かれた本を指差しながら言った。

「まずその本を先に読んだので、他の本は特に問題なく読めています。それにここにある本の多くは比較的簡単なものばかりですし」

 ピーターはあんぐりしてしまった。机の上に置かれていたのは、分厚い辞書。これを読んだ、という意味がいまいち飲み込めなかった。

「読んだ?これを?どういうこと?」

「そのままの意味です。まずその、辞書という本を読みました。なので、他の本は問題なく読めます」

 なんとアンディは、読み終えたのだ。そう、この分厚い辞書全てを。彼は持ち前の記憶力と体力で、それをあっさりやってのけたのだ。ピーターは驚きを隠せず、暫く言葉が出なかった。その驚きには二つの感情が含まれていた。アンディの凄まじい能力への感心、そして恐れだった。


「辞書を読んじゃったのか、すごいな、、その発想はなかった。じゃあもうこの辺の本は大体わかるわけだ。今、本はどれくらい読んだんだい?」

「薄くて簡単なものはほぼ全て読みました。これから、比較的厚い本へ取り掛かるところです」

「いやぁ、すごいな。もうそんなに読んじゃったのか。今それは、何を読んでるの?」

「これは旧約聖書です」

 ピーターはそれを聞いた瞬間、全身にふるえが走り、そして咄嗟にアンディの手から本を勢いよく奪い取った。静かな部屋に、大きな物音が響く。予想外のことに、アンディは驚いた。

「どうしましたか?何か、まずいことでもありましたか?」

 ピーターは黙っていた。呼吸は荒く、ぜーはーと音が鳴る。自分の思いがけない行動に、自分で驚いた。特になんのことはない、彼はただ聖書を読んでいただけだ。それが何故か、"止めなければいけない"と途端に思ってしまったのだ。この部屋を用意したのも、置く本を選んだのもピーターだった。だからアンディがいずれ聖書を読むことは当然わかっていた。しかしいざ目の前でアンドロイドが、熱心に聖書を読んでいる様を見ると、妙なインパクトがあった。何か黒魔術の類のような、よくわからない、嫌なあの感じに近い。


「どうしましたか?」

 アンディの声に一瞬ビクッとした後、ピーターは聖書をそっと返した。アンディは、"本当によくわからない"といった様子で頭の上にハテナが乗っている。

「いや、何でもないんだ。すまない。順調なら、いいんだ。また来るよ」

 ピーターはよろよろと立ち上がり、蒼白い顔をして部屋を出て行った。廊下に出てとぼとぼと歩いていると、途中、頭の中でラドルフの言葉が響いた。「奴を恐れているのか?」違う、違う、そんなはずない。僕はただ、彼がかわいそうで、、、いや、ひょっとすると。

 ピーターは急に吐き気を感じ、トイレへ駆け込んだ。



 部屋に残されたアンディは、聖書を手に取ると、また続きを読み始めた。

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Where The Heart Is ぬま太郎 @numa_yorino_numa

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