後半
秋雨の雨粒が窓ガラスに尾を引くのを珍しく乙女チックに眺めているクルミに、ユキは声を掛けた。
「ねえ、クルミちゃん。やっぱりユウイチさん彼女が出来たんじゃないかな。」
「どうしてそう思うの?」クルミは窓に張り付く水滴から目を離さず、ユキに問い返した。
「この間ユウイチさん、新しい服買ってきてた。それから新しいワックスと、新しい香水も。」
「うーん、じゃあやっぱりできたのかもしれないねぇ。」クルミはしみじみと言った。
「テンサゲなんだけど。」しょんぼりするユキに、あっ、そういえばと思い出したようにクルミが言う。
「ユウイチ最近週末になると嬉しそうにそわそわしてるよね。」
「それって・・・」
「こっそりデートとか行ってるのかもね。」
クルミは窓の外を見たまま言った。
「マジテンサゲなんだけど。ていうかクルミちゃんさっきから窓の外ばっかり見て何してるの?」ユキの質問にクルミが深いため息をこぼす。
「こんな雨の日は彼に会いに行けないなあと思って・・・。」
「あっそ。」ユキはそうクルミをあしらってから、クルミの隣で同じように窓の外を眺めた。雨の日はちょっぴり憂鬱な気分になる。別にユウイチはいつも通り夕方には帰って来るのだからクルミのように気を落とす必要はないはずなのに、それが分かっていても気分は晴れなかった。もしユウイチに仮に彼女が出来ていたとしたら、自分の気持ちが晴れる事なんて一生ないだろう、とユキは思う。
ねえユキ、もしユウイチに彼女が居たらあんたどうすんのよ?
いつだったか、クルミがユキに尋ねた質問だ。ユキはその時、分からないと答えた。だけど実際にユウイチに彼女が居たとしても、ユウイチの事を諦めることはないだろうとユキは思う。ユウイチはユキにとってそれだけ近しい存在だった。それなのにどうしてか、ユキにとって最も遠い存在でもあるような気がした。
十一月になると公園のイチョウ並木が一斉に黄葉し、幻想的な風景を作り出していた。絶え間なく続く落葉を、どちらが多く掴めるかでユキとクルミは競い合った。遊び疲れたら、近くにあった青色のベンチで休んだ。そんな折、落葉に打たれながらこっちに近づいて来る男の姿があった。大柄な男で、ユキとクルミは一目見ただけでそれが誰なのか分かった。ユキは不思議に思った。彼の目つきからは以前のようないやらしさが一切消え失せていた。今の彼は何かに怯えているような、緊張しているような、それでいて覚悟を決めたような、そんな顔をして一心にユキを見ていた。
「ちょっとあんた、どの面下げてうちらの前に出て来たわけ?」クルミが立ち上がって凄む。
「クルミちゃん。」ユキはクルミにそう声を掛けると、驚くクルミをよそに男の前まで歩いて行った。男はユキが近づくとさらに緊張を募らせたように顔をこわばらせた。今にも逃げ出してしまいそうだ。だが彼は震える足で落ち葉に覆われた地面にしっかりと立っていた。自分に伝えなければいけないことがあるのだ、とユキは思った。
「自分は、」男は声を出したが、そこで言葉を詰まらせた。そこで一呼吸おいて再び話し始めた。
「自分はノブって言います。この間は、怖い思いをさせてしまって、申し訳ありませんでした。だけど、おれ、ユキさんの事、好きなんです。初めてこの公園であなたを見た時から、ずっと好きでした。おれみたいなブ男がおこがましいとは思ってるんですけど、でもこの気持ちを伝えておかないと、どうにかなってしまいそうで・・・。」ノブと名乗った男はそれ以上の言葉が出てこないようだった。じっとノブの目を見て話を聞いていたユキは一言、
「そうだったんだ・・・。」と呟いた。それから言葉を慎重に選びながら、気持ちを込めて言った。
「ごめんなさい。私、他に好きな人がいるの。だから、あなたの気持ちには応えられない。ごめんなさい。」
その時のノブという男の顔を一生忘れることはないだろうとユキは思った。きっと彼はフラれることも覚悟してきたのだろう。解っていたのに、予想していたよりもはるかに大きな衝撃に襲われ、それでも必死で平静を装っているような、そんな顔だった。
「そうですか。」ノブは声を絞り出すように言った。それから俯き、
「失礼します。」と言い、踵を返して離れていった。
「もう二度とユキに近づくんじゃねえぞ!」クルミは彼の大きくて弱弱しい後ろ姿に追い打ちをかけるように叫んだ。落葉の中遠ざかっていく彼の姿を見ていると、ユキはその姿がユウイチを一心に求める自分と重なり、胸が圧迫されるような切なさを感じた。
ユキは独り家路についた。と言うのも先ほど偶然にもクルミが想いを寄せる男性に遭遇し、クルミは彼と一緒にどこかに行ってしまったからだ。幸せそうにしているクルミを見ると素直に応援してあげたいと思うのだが、それでもどうしてかため息がこぼれた。ユキの脳裏にはノブという男の悲し気な後ろ姿が焼き付いていた。そして、自分とユウイチの関係が今後どうなっていくのかを考え、不安が募った。再び深いため息が零れ落ちる。そこに哀愁漂う秋の風が吹き込み、ユキはたまらなく切なくなった。ユウイチさんに会いたい。たまらなく会いたい。会って、好きだと伝えたら何か変わるだろうか。何も変わらないかもしれない。むしろユウイチとの関係は今よりも悪くなってしまうかもしれない。
だけど、しっかりとユウイチに自分の気持ちが伝えられないと、ユキはどうにかなってしまいそうだった。
夕方になってもクルミは帰って来なかった。先に帰って来たのはユウイチの方だった。ユキは心躍る気持ちで、玄関先でユウイチを迎えた。
「おかえりなさい!」
「ただいま、ユキ。」ユウイチは笑顔でそう言うと、ポンとユキの頭に手を乗せた。それだけでユキは気持ちが満たされていくような気がした。今まで感じていた切なさも、全部忘れさせてくれるようだった。
「待っててね、すぐご飯用意するから。クルミは?」
「クルミちゃん、デートだって」
「クルミが居ないんだったら、この家にはおれ達二人っきりだな。」いたずらっぽく笑ってそう言うユウイチを見て、ユキは胸にときめきをふつふつと感じた。と言うより狂おしい気持ちになった。
「ユウイチさん、あの、私・・・。」
その時、ユウイチのポケットに入ったスマホが鳴った。画面を見て顔を輝かせるユウイチの姿に、ユキはそれが自分とユウイチとを引き裂く電話であることを悟った。
「もしもし、カナちゃん?どうしたの?うん。今週の日曜?空いてるよ。うん。いいよ・・・。」
ユウイチの様子を鋭く窺うユキの事を気にも留めずに彼は通話を続けた。
「付き合ってたんだって!」
いつの間にか帰って来ていたクルミの泣き出してしまいそうな声で、ユキは我に返った。
「え?うん。おかえりなさい。何が?ていうか誰が?」
「だから、例の好きピが!彼女いたんだって!」クルミは叫んだ。
「マ?」ユキは呆気にとられた。碌な言葉が出て来ない。
「クルミ、帰ったのか?もう夜なんだからあんまり大きい声出すなよ。」キッチンの方からユウイチの声がする。
「あんなに仲良さそうだったのに、マジか。それで、彼はどうしたの?」ユキは声を抑えてクルミに尋ねる。
「お別れを告げてきました。」
「・・・そっか。」
二人の間に沈黙が流れる。キッチンからはユウイチが野菜をトントンと切る音が聞こえた。
「ユキ!もうちょっと励ましてよ!メンブレ気味なんだから構ってよ!」クルミはせがむようにそう言ったが、ユキの浮かない顔を見て表情を変えた。
「ユキ、あんた、なんかあったの?」
「え、いや、別に・・・。」ユキが顔を逸らす。
「何よ?」
「ユウイチさん、日曜出掛けるんだって。多分彼女と・・・。」
「うそ、ユウイチほんとに彼女出来てたの?」クルミが驚いた顔をして尋ねる。
「分からないけど、日曜日女の人と出掛けるのは確かみたい。ユウイチさんすごくうれしそうな顔してたよ。」
ユキの言葉を聞いてクルミは神妙な顔つきになる。
「もしそれが本当だったら、あんたはどうするのよ?」
それは前にもされた質問だったが、前よりもずっと現実味を帯びていた。自分の気持ちに折り合いをつける時が近づいているのかもしれない。しかしユキにとってそれはあまりに困難な事だった。だからユキは結局、
「分からない。」と答えた。
「けど、本当にユウイチさんに彼女が出来たのかは、ちゃんと確かめたい。」ユキは言った。
「どうやって?」クルミは尋ねる。
「日曜日ユウイチさんの後をつけるの。」
「マ?」
来る日曜日、ユウイチは整髪料で髪を固め、新調した秋物のジャケットに身を包んで、ふんわりと香水のにおいを漂わせながら朝から出掛けて行った。ユキとクルミは玄関先でユウイチを見送ると急いで裏口に回って家を抜け、気づかれないようにユウイチの後を追う。
「どうよあのユウイチの格好。」角から顔をそっと出してユウイチの姿を確認してから、クルミがユキに尋ねる。
「どうって、カッコいいかな。」
「いや、そうじゃなくて、絶対いつもよりおしゃれしてるよねってこと。」きょとんとするユキの顔を見てクルミがため息をつく。ユウイチは最寄りの無人駅まで歩いて行くとそこで電車に乗るようだった。その様子は他人が見れば平然と歩いているだけの様に見えるが、共に暮らすユキとクルミの目からは明らかにいつもより浮足立って見えた。ユキとクルミは、前を行くユウイチと距離を取りつつ無人駅の構内にある改札を抜けた。駅のホームに出ようとするユキをクルミが制する。
「待って、出て行ったらユウイチに見つかっちゃうよ。」
「どうしたらいいかな。」ユキは尋ねる。
「電車が来るまで待とう。」
まもなく、熟した富士リンゴのような色の電車がホームに到着し、数人の乗客が中から降りてきた。ユウイチが乗車したのを確認すると、ユキとクルミはユウイチが乗ったのとは別の車両へと走った。駆けこんで乗車したからか、中に居た乗客がこっちを見て驚いた顔をする。
「ユウイチさんにばれてないかな?」ユキが不安そうな顔でクルミに尋ねる。
「大丈夫だって。」とクルミ。ユキは緊張していた。もちろん尾行がユウイチにばれてしまわないだろうかという心配もあったが、それともう一つユキを緊張させていることがあった。ユキもクルミも電車に乗るのが初めてだったのだ。クルミはなぜだか楽しそうにしているのだが、ユキはとてもそんな気分にはなれなかった。周りの人たちが自分たちの事をじろじろ見ているような気がして落ち着かない。
電車がゆっくりと動き出した。規則的な上下運動と共に外の景色が流れていく。ユキは目眩がするのを感じた。
「ちょっとユキ、大丈夫?顔色悪いよ。」クルミが心配して声を掛けてくれる。
「うん、へーきへーき」
そうは言っても電車が駅に停車するたびに乗客の数は増えていき、車内の酸素濃度がどんどん薄くなっていく気がして、ユキはますます気分を悪くした。途中、制服に身を包んだ車掌と思しき男性がユキ達のいる車両に入って来た。車掌は車両の様子を見回すと、ふとユキとクルミの方をじっと見た。それから口元を少し緩めると、別の車両へと出て行った。
「何よあいつ、失礼ね。」クルミが小言を言う。
電車が六駅目に到着した時、クルミがユキの肩をたたいて声を上げた。
「ユキ、ユウイチ降りたよ。」ユキは重い頭を上げて窓の外を見た。そこには確かにユウイチの姿があった。
「ユキ、早く!」クルミにせっつかれながらユキは電車を降りる。駅のホームには人びとが行き交い、危うくユウイチの姿を見失いそうになる。人ごみに慣れていないユキとクルミはやっとの思いでホームを抜けた。
「ユキ!見て!」クルミの声にユキは再び重い頭を持ち上げた。そして目を見開いた。改札の前にはユウイチの姿があり、もう一人見たことのない女性が立っていた。茶色のダッフルコートに身を包んだ髪の長い女で、彼女はユウイチに笑い掛けていた。ユウイチの方もいつも自分やクルミに見せるのとは違った笑顔で彼女と話しているように見える。その瞬間、ユキは激しい目眩がするのを感じた。
「ちょっとユキ!」クルミが隣で声を上げている。
「ごめんクルミちゃん、少し休ませて。」ユキは身を屈めて小さな声で言った。熱に浮かされたように頭がぼーっとして、気を付けていないと意識を失いそうになる。
そしてそれ以上に、なぜだか胸がとても苦しかった。息が詰まりそうになるくらいに。
「ユキ。」クルミが耳元で声を掛ける。
「もう、帰ろう。」ユキは嫌だと言った。クルミはそれ以上何も言わなかった。
ユキが休んでいる間に、ユウイチと女はどこかに姿をくらませてしまった。だからユキとクルミは一日中町なかを探し回る羽目になった。クルミは何度も諦めて帰ろうと言ったが、ユキは意固地になって絶対に首を縦には振らなかった。まだあの女がユウイチさんの彼女と決まったわけじゃない、ユキは自分にそう言い聞かせて必死でユウイチの影を探した。
太陽が西に傾き、夕焼けが町を染め上げる時間が来ても結局二人を見つけることはできなかった。ユキとクルミはユウイチの家の近くにある公園と似た雰囲気の場所を見つけたのでそこに立ち寄った。地面はすでに一面が落ち葉で覆われているのに、それでもなお黄色いイチョウの葉は並木からとめどなく降りしきっていた。ユキは落ち葉の中にキラッと光る物を見つけた。何だろうと思って近づいてみると、それはピンク色のプラスチックで縁取られたおもちゃの手鏡だった。覗き込むと自分の姿をしっかりと映した。 その時、
「ユキ・・・あれ・・・!」クルミはある一点に目線が釘付けになっていた。ユキはクルミの視線を辿っていった。それはまるで映画のワンシーンを切り取ったような、そんな光景だった。夕日に照らされた若い二人は抱き合い、黄葉したイチョウの木の下の、二人だけの世界で口づけを交わしていた。それは涙が出そうになるぐらいに綺麗な光景で、狂おしいほど切ない光景だった。
「ユキ。」隣でクルミがそっと自分の名を呼んだ。
「もう帰ろ。」ユキは嫌だと言った。
「もう止めなよ。」クルミは優しく言った。
「やだ。」
「お願い、もう止めて。」
「やだ。」
「もう止めてってば!」クルミの懇願するような声にユキは言葉を失う。重い重い沈黙が流れた。
「でも私は、ユウイチさんの事が好きなの。初めて会った時からずっと。多分あんな女なんかより、ずっと。」ユキは遠くで身を寄せ合っている二人を見ながら言った。
「うん、知ってる。」クルミは優しく言う。
「でもねユキ。本当はユキだって解ってるんでしょ?ユウイチさんがユキに振り向くことはないんだって・・・。」
ユキは視線を落とした。落葉に埋もれたおもちゃの手鏡に映った自分と目が合う。クルミは静かに言った。ユキに言い聞かせるように。
「だってあんたは、人間じゃないんだもの。」
鏡に映った毛むくじゃらの顔。鋭い眼。三角の形をした耳。ピンと伸びた髭。ユキは自分の足元に視線を落とした。そこには手ではなく、鋭い爪の生えた前足があった。あまりに、あまりにユウイチとかけ離れた姿。自分はどうしてユウイチと一緒になれないんだろう?こんなにも彼の事を想っているのに、一体どうしてなんだろう。誰に聞いてもその答えは返ってこなかった。自分の事を全部解ってくれるクルミだってその答えを知らなかった。でも、だったらどうすればいいんだろう。どれだけ想ったって振り向いてくれないなら、何回好きと言ったって伝わらないなら、自分のこの気持ちを一体どうしたらいいんだろう。
「ユキ、あんたは頑張ったよ。頑張ってユウイチに恋した。だからもう、そんな辛そうな顔しないで。もう、楽になっていいんだよ。」
ユキは泣き出した。あまりに悲しくて、あまりに切なかったから大きな声を出して鳴いた。
にゃーん。にゃーん。
「あ、ママ、あの猫ちゃん可愛い。」通りすがっていく女の子が無慈悲な言葉を投げかける。そうだ、私は猫なんだ。ユウイチさんに絶対振り向いてはもらえないんだ。
「ユキ?」遠くから自分の名を呼ぶ大好きな人の声がする。
「ユキ!」ユウイチが彼女と共にこっちに近づいて来た。
「クルミまで。なんでこんな所にいるんだ。」ユウイチは困惑した表情を浮かべた。
「可愛い!この子たちが前話してたユウイチ君の家で飼ってる猫?」ユウイチの彼女が声を上げる。
「そうだよ。こっちの白い方がユキ。向こうの茶色くて丸っこいのがクルミ。一体何でこんなところにいるんだろう。」
「ひょっとしてユウイチ君について来たのかな。」彼女は身を屈めるとユキと呼ばれた白猫の頭に触れようとした。その瞬間、白猫は牙を剥き出し、シャーっと威嚇する。
「こら、ユキ!」ユウイチが声を上げる。
「おかしいな、いつもはおとなしい子なのに。」
白猫はユウイチに近づくと、にゃーと甘えるような声で鳴いた。
「ひょっとして、ユウイチ君を私にとられると思ってるのかな?」と彼女。
「ははっ、まさか。」ユウイチはそう言うと白猫を抱き上げた。
白猫はユウイチの温かな胸に顔をうずめると、ゴロゴロと心地良さげに喉を鳴らした。
ああ、私、幸せだ。ユウイチさんの胸に抱かれて、幸せだ。それなのにどうしてだろう。なぜだかとても、とても切なかった。
JKと猫 上海公司 @kosi-syanghai
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