劉裕103 彭城二教   

王鎮悪おうちんあく檀道済だんどうさい洛陽らくようを陥落させた頃、劉裕りゅうゆう彭城ほうじょうに駐屯していました。そこで何をしたかといえば、いわゆるかんの三傑の一人である張良ちょうりょうや、劉裕の先祖という「公式見解」が流布されている劉交りゅうこう(※劉邦りゅうほうの弟)の霊が眠るとされる廟の修繕を行ったのです。そのあたりの意図を表明したもの。ちなみに後者は宋書にはなく、文選に残されています。


タイミングとしては

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888050025/episodes/1177354054888912063

この頃の話。一周目のころにはそんなに重要性がないと思って飛ばしちゃったやつでしたけど、いやいや。




○修張良廟教


盛德不泯 義在祀典

微管之歎 撫事彌深

 世には、偉大なる徳は決して滅ばず、

 その大義はいつまでも祀られてゆく、

 と語られている。

 ならば孔子こうし管仲かんちゅうの偉大さに

 感嘆したかのごとく、

 先人への敬慕はますます募るものである。


張子房

道亞黃中 照隣殆庶

風雲玄感 蔚為帝師

大拯橫流 夷項定漢

固以

參軌伊望 冠德如仁

 張良、あざな、子房しぼうよ。

 そなたは皇帝の隣にあり、

 あらゆるものを照らし出された。

 天地はその才に気付かれ、

 その豊かな才能もって

 漢の高帝・劉邦りゅうほう様の師とされた。

 そして動乱を泳ぐ劉邦様を助け、

 ついには項羽こううを倒し、

 漢を打ち立てられた。

 まことその功績は

 伊尹いいん太公望たいこうぼうにも比すべきもの。

 その徳望は仁にも等しきもの。


若乃

神交圯上 道契商洛

顯晦之間 窈然難究

源流淵浩 莫測其端矣

 橋の上で老人より兵書を授かり、

 また商山の隠者より道理を学ばれた。

 その深きお考えの真髄には、

 誰ひとりとして

 たどり着かなかったであろう。


塗次舊沛 佇駕留城

靈廟荒殘 遺象陳昧

撫迹懷人 慨然永歎

 我々はいま劉邦様の産まれた地、

 はい国にやって参り、留城りゅうじょうに至った。

 いまや霊廟は荒れ果て、

 いにしえの栄華は見て取れぬ。

 その遺跡を眺め、当時の人々を思えば、

 我が胸中には悲しみが押し寄せる。


過大梁者 或佇想於夷門

遊九原者 亦流連於隨會

 大梁の地を過ぎれば、

 夷門のそばでたたずんでいた

 異能の士、侯嬴こうえいが思い出されよう。

 彼は異能を懐きながらも、年七十まで

 とりたてて誰かに仕えはしなかった。

 中原をゆけば、また春秋晋の士会しかいを思う。

 彼はお国の大権を

 握りうる立場にありながら、

 速やかに身を引いている。

 そなたの振る舞いには、

 彼らに通じるものを感じられてならぬ。


改構榱桷 修飾丹青

蘋蘩行潦 以時致薦

 いまここに、張良殿の廟を再建し、

 その廟を赤と青で塗り上げよう。

 そしてせせらぎで取れたもぐさを、

 その廟に祀って差し上げよう。


以紓 懷古之情

用存 不刊之烈

 かくて古のそなたを思う気持ちを表し、

 またその不滅の烈功を思うのである。




經張良廟,令曰:「夫盛德不泯,義在祀典,微管之歎,撫事彌深。張子房道亞黃中,照隣殆庶,風雲玄感,蔚為帝師,大拯橫流,夷項定漢,固以參軌伊、望,冠德如仁。若乃神交圯上,道契商洛,顯晦之間,窈然難究,源流淵浩,莫測其端矣。塗次舊沛,佇駕留城,靈廟荒殘,遺象陳昧,撫迹懷人,慨然永歎。過大梁者或佇想於夷門,遊九原者亦流連於隨會。可改構榱桷,修飾丹青,蘋蘩行潦,以時致薦。以紓懷古之情,用存不刊之烈。」




○為宋公修楚元王墓教


褒賢崇德 千載彌光

尊本敬始 義隆自遠

 さて、賢人を褒め、徳者を称えれば、

 国は千歳の先にも輝くものだ。

 また根本を尊び、始まりを敬えば、

 遠き先より降った子孫の道義もまた

 盛んとなるものである。


楚元王

積仁基德 啟藩斯境

素風道業 作範後昆

 かん高帝こうてい劉邦りゅうほう様の弟にして、

 に封爵を賜った、

 元王げんおう劉交りゅうこう様。

 かの地に封爵を賜ったは、

 まさにその仁徳のゆえであり、

 そのなさりようは、

 子孫の規範であらせられた。


本支之祚 實隆鄙宗

遺芳餘烈 奮乎百世

 劉交様より伝えられた恩沢は、

 この支流傍流の身をも盛んとし、

 遺された威徳は、

 百代の後にもなお奮っておられる。


丘封翳然 墳塋莫翦

感遠存往 慨然永懷

 しかしながら、

 いまその墳墓に参拝してみれば、

 墳墓をまともに管理するものもなく、

 荒れ果ててしまっていた。

 いまし日の劉交様の徳を思えば、

 ただただ、詠嘆に堪えぬ。


愛人懷樹 甘棠且猶勿翦

追甄墟墓 信陵尚或不泯

 しゅう召公奭しょうこうせきが甘棠の木の下で

 政務を取られたのち、

 召公が薨じられても、甘棠の木は

 切られなかったと言う。

 戦国四君せんごくしくん信陵君しんりょうくんは、

 劉邦様が墳墓を整えられたため、

 その祭祀が滅びなかったと言う。


瓜瓞所興 開元自本者乎

 ならば、我がルーツを顧みるに、

 どうして劉交様の墳墓を

 粗雑になぞ扱えようか。


可 蠲復

近墓五家 長給灑掃

 故に、劉交様の墳墓近くに

 居を構える五つの彭城ほうじょう劉氏に、

 この陵墓の管理を任ずる。


便可施行

 いますぐ施行せよ。

 マジで。とっとと。

 ダラダラしてんじゃねえぞおい。




夫褒賢崇德,千載彌光,尊本敬始,義隆自遠。楚元王積仁基德,啟藩斯境;素風道業,作範後昆。本支之祚,實隆鄙宗;遺芳餘烈,奮乎百世。而丘封翳然,墳塋莫翦。感遠存往,慨然永懷。夫愛人懷樹,甘棠且猶勿翦;追甄墟墓,信陵尚或不泯。況瓜瓞所興,開元自本者乎!可蠲復近墓五家,長給灑掃。便可施行。


(宋書2-36_文学)




召南 采蘋

https://kakuyomu.jp/works/1177354054918856069/episodes/1177354054921020583

からの引用があった。こわっ。「もぐさを供える」ことの意味はもうちょっときっちり掘り込まないといけなさそうですねー。


張良を讃える文章は、併せてこれと同時期に引退を宣言した孔靖こうせいの恬淡とした振る舞いをも讃えるのにつながったのだとされるそうです。


なお孔靖は劉裕を桓玄かんげん打倒決起の前から支えた、譜代中の譜代。狡兎死して走狗烹らるではないけど、結局創業メンバーをそのまま引きずるのはその後の国体運営にとってトラブルの元でしかないのは千古の昔から変わらなかった、ってことなんでしょうね。


ところでいきなり本文中に出ていない侯嬴(戦国四君・信陵君の食客)の名前が挙がっていますが、これは「大梁の夷門」で検索すると、ばかすかこの人の名前が出てくるためです。隠者同然の暮らしをしていたけれども信陵君に礼遇されたため、彼のために命を賭して仕えた人物、とのことです。そのラストはともかく、隠者として老境に至るまでは身を全うしたのですね。


ところで文選にもこれが載ってるんですが、そっちを覗いてみたら「流連於隨會」句のあとに「擬之若人,亦足以云。」って句が挟まれているようでした。うーん、沈約しんやくのことだから、きっとわざとなんだろうなー。

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