社獣の門(Bestia della compagnia)
鱗青
社獣の門(Bestia della compagnia)
「ははあ31日。
死刑宣告のゴングか。或いは破滅の警笛か。柱の掛け時計は朝八時。
部長は上目遣いに頭を
「了解。
僕、入社五年目のピーノ=ゼッピは通話の始まりから部長が子機をフックに戻すまでを
部長のタケオ=イワクニ、年齢は五十三。日本で人を殺して逃亡してきたとも実は中国の元軍人とも噂される、社内で最も実力・性格が激烈な男である。
「
塩辛い大音声。リノリウムの床に直接寝袋を被っていた部署の面々が、そちこちのブースの陰からゆっくりと身を起こす。ホラーゲームで死体袋から現れるゾンビの演出にそっくりだと僕はカフェインの切れた頭でぼんやり思った。
我が社はアメリカが世界に誇るカリフォルニアはシリコンバレーのIT企業の
…などと口が裂けても言えやしない。
「設立二十年もしない内にアメリカでも有数の会社になったのは事実。だがその間に転職・離職した人間は二個大隊に
「もういいってシブ。皮肉言ってるよりも指動かして」
舌打ちし、モニタに剣呑な視線を戻すシブシソ=ンガリ。顔立ちから指先までバイソンの風格を漂わせているにも関わらず、繊細で天才的な構成のプログラミングが得意なアフリカ系の大男。しかも本物の一国の王子でもある。留学したまま祖国をクーデターに奪われたが、帰国よりもアメリカの
「今更十日も短縮させたら
シブシソの言葉通り。僕は首肯の代わりに冷めた珈琲をマグカップからがぶりと一口で飲み込んだ。
現在僕達開発部が一丸となって関わっている社内
…いや、一人だけ例外がいた。シブシソだ。背景グラフィック担当の彼だけは、恐ろしいスピードで己に課せられた
「ピーノは何故そこまで部長に肩入れする。彼の
ユーモアもエスプリも無い批評はシブシソの長所だ。確かに部長のような仕事のやり方は70年代のバブリーな
「けれどね、そんな彼のやり方に僕は惚れ込んだんだ」
情け無い笑いを漏らす僕をシブシソは空虚な瞳で見つめる。
かくいう僕は
なんせ婆やに尻を叩かれたり頬をつねられた事もない、鳥籠入りの王子だった僕。プログラミングなら誰にも負けない、ましてや東洋人の
その鼻っ柱を完膚なきまでにへし折られ、おまけに「使えねえ餓鬼だ」と
「確かに部長のプログラマーとしての能力は人間の範疇を超えているが…」
少し離れた僕達のブースからでも
十日縮めた納期は明朝八時。きっかり24時間後。いけるだろうか?否、やるしかない!
僕は作業に没頭する。担当は各キャラのモーションと
「通信ネットワークにバグが」「ここメインキャラのグラフィックス、ガタつきます」「AIの処理に遅延が発生」「サーバのデータが飛びました」
無茶な納期短縮で発生する
「いけるいける何とかなる何とかする!なぁにメインデータにウィルス感染した時よりゃマシってもんだ!」
部長の野卑な表情に拍車がかかる。まるで餌をぶら下げられた猪だ。
「CPUが焼けちゃいます!」
「水ぶっかけとけ!」
「あああハードディスクが軋んでます」
「唾つけときゃ直る!」
「ジョーが倒れました!」
「シャブでもコカでも
皆の悲鳴に部長の怒号が
「イイぜぇ…ヒリついてきやがったぁ!
実際のところ
社畜という表現でも
犠牲者も多数。混乱と酸鼻を極めるフロアで、涼やかにボディバッグを提げてシブシソが立ち上がる。──午後五時!帰宅時間か…
「おいマジで帰るのかよ⁉︎」「この状況見て⁉︎」「空気読め‼︎」「人非人!」
皆が
「余はグラフィック専門。他の分野は知らぬ。自分の仕事は成し終えた。帰宅して何の問題が?」
「分かってる。──お疲れ様」
薄情にも
自分の後には
珈琲を追加しようと立ち上がった時、天井が歪んだ。アレ?と思う暇もなく世界が
次に天井を見上げた時、僕はフロア唯一のソファに横になっていた。首を
額に乗せられた冷えピタをなぞりながら身を起こす。
「まだ寝てろピーノ。丸五日も睡眠をとっていなかったらしいじゃないか」
両手に珈琲のカップを持ったシブシソがやって来た。ん?まだ出社時間じゃない筈…
手渡されたカップが熱いので頭がハッキリした。
「ソフトは⁉︎納期は⁉︎」
「完成した。お前が抜けた分は他のスタッフと戻ってきた余が補った。全く…体調など自己管理すべきものの代表だぞ」
シブシソが?戻ってきた?契約時間外なのに?
「デバッグは専門外だからな。家で勉強してきた」
シブシソは珈琲を啜り、渋面をきつくした。猫舌らしい。それにしてもたった一晩で…
「
無骨なへの字口がクスリと笑う。おお珍しい、シブシソの笑顔。
「有難う。このお礼は必ずするよ」
「そんな事より…あまり部長ばかり見るな。余の事も…」
シブシソが珍しく言い淀む。頬が
「おうピー公、生き返ったか」
人を殺した後のような顔で笑いながら、咥え
「良い仕事だったぜ。お陰であの後の作業もスムーズだった。この次はブっ倒れんなよ。お前、割と重ぇからよ」
褒められた歓喜と部長から抱き上げられたという衝撃が全身を駆け巡り、顔から沸騰する気がした。
「ン?まだ
頷く僕に、好きな物を何でも奢ってやるぞと言う。
「それならココイチのカレーで!」
「なんじゃそりゃ?いつも仕事帰りに俺が食わしてやってるやつじゃねぇか」
「だから良いんですよ!…特別って感じがして」
「OK牧場。シブシソ、お前も来るな?」
元王子は尊大な腕組みで三十も年上の相手を
「行ってやろう。店で一番高いメニューにするがいい」
部長の、甲まで剛毛だらけの手がさしのべられた。僕は既に胸
「あの、部長は
馬鹿な質問をしようとしているのに気付いて僕は
しかし。
「死ぬなら戦場で。撤退の後ろ向きじゃなく、前のめりにくたばる。それが俺の夢だ」
部長は紫煙を太く吐きながら、詰まらなさそうに…いや、興が乗ったように応える。そして僕の背中を力強く叩いた。
戦友。部長にとってそうであるのなら、僕もまた社獣に率いられそれを援護する事に命をかけられる。
他のスタッフ達の待つロビーに向かいながら、僕は背中に触れられた温もりをしっかりと噛み締めていた。
社獣の門(Bestia della compagnia) 鱗青 @ringsei
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