社獣の門(Bestia della compagnia)

鱗青

社獣の門(Bestia della compagnia)

「ははあ31日。成程なるほど一粒万倍日に天赦日、ついでに寅の日と重なるわけですな。運勢を掴むにはもってこいだ」

 死刑宣告のゴングか。或いは破滅の警笛か。柱の掛け時計は朝八時。

 部長は上目遣いに頭をもたと不敵な笑みを片唇に乗せた。とてもゲームメーカーのリードエンジニアには見えない。Netflixのクライムドラマに出てくる違法薬品の売人ディーラーと言われた方がしっくりくる。

「了解。納期ゴールを十日早めやしょう」

 僕、入社五年目のピーノ=ゼッピは通話の始まりから部長が子機をフックに戻すまでをつぶさに眺めていたので、部長と目が合った。豚のように太り、豚のように鼻が低く、豚のように手足が短い東洋人。毛一本残さず剃った頭には電球の光がテカテカと反射している。

 部長のタケオ=イワクニ、年齢は五十三。日本で人を殺して逃亡してきたとも実は中国の元軍人とも噂される、社内で最も実力・性格が激烈な男である。

顧客クライアントのご希望だ。こなせば特別賞与ボーナス!さあ総員戦闘再開!GOGOGO!」

 塩辛い大音声。リノリウムの床に直接寝袋を被っていた部署の面々が、そちこちのブースの陰からゆっくりと身を起こす。ホラーゲームで死体袋から現れるゾンビの演出にそっくりだと僕はカフェインの切れた頭でぼんやり思った。

 我が社はアメリカが世界に誇るカリフォルニアはシリコンバレーのIT企業のゆう。社長と部長、たった二人で立ち上げた名門ソフトメーカー。

 …などと口が裂けても言えやしない。

「設立二十年もしない内にアメリカでも有数の会社になったのは事実。だがその間に転職・離職した人間は二個大隊にのぼる。パワハラにモラハラで訴訟されること五十件。昨年度の決算では訴訟費用が全売り上げの5%を消費する事態に…」

「もういいってシブ。皮肉言ってるよりも動かして」

 舌打ちし、モニタに剣呑な視線を戻すシブシソ=ンガリ。顔立ちから指先までバイソンの風格を漂わせているにも関わらず、繊細で天才的な構成のプログラミングが得意なアフリカ系の大男。しかも本物の一国の王子でもある。留学したまま祖国をクーデターに奪われたが、帰国よりもアメリカの永住権グリーンカードを選んだ部長にも負けず劣らずの変わり者だ。

「今更十日も短縮させたら人死ひとじにが出るぞ。ただでさえ強行スケジュールで皆疲労しているというのに」

 シブシソの言葉通り。僕は首肯の代わりに冷めた珈琲をマグカップからがぶりと一口で飲み込んだ。

 現在僕達開発部が一丸となって関わっている社内開発プロジェクト家庭向けコンシューマVRゲームソフト。人気シリーズで、パッケージ版とダウンロード版の両方で北米売上No. 1の座を不動のものにしている。──のだが、怪物モンスタークラスのソフトにありがちな内容・構成の複雑さと膨大な作業量の為、スタッフは全員ここ一ヶ月はフロアに泊まり込みになっている。会社の敷地から出た記憶もおぼろ太陽おひさまを最後に拝んだのはいつだっけ?

 …いや、一人だけ例外がいた。シブシソだ。背景グラフィック担当の彼だけは、恐ろしいスピードで己に課せられた分担ノルマを完璧にこなし、定時に仕事を上がっている。

「ピーノは何故そこまで部長に肩入れする。彼のやり方スタイルは合理的なビジネス観に欠けた根性主義、悪しきプラス思考の権化、石器時代の老害とは思う」

 ユーモアもエスプリも無い批評はシブシソの長所だ。確かに部長のような仕事のやり方は70年代のバブリーな前進主義世代の人間ベビーブーマーの見本。

「けれどね、そんな彼のやり方に僕は惚れ込んだんだ」

 情け無い笑いを漏らす僕をシブシソは空虚な瞳で見つめる。

 かくいう僕は合衆国ステイツの五本の指に入る財閥の中心に近い血統に生まれた。所謂いわゆる御曹司おんぞうしというやつ。寄宿舎プレップ育ちで名門大学アイビーリーグで優秀な成績を修めた。上流白人WASPの教本通りに生きてきた。この社に入るまでは正直、鼻持ちならないエリート根性丸出しで打たれ弱いお坊ちゃんだったと自分でも思う。

 なんせ婆やに尻を叩かれたり頬をつねられた事もない、鳥籠入りの王子だった僕。プログラミングなら誰にも負けない、ましてや東洋人の禿親父ハゲおやじなんかに。そう自負していた。

 その鼻っ柱を完膚なきまでにへし折られ、おまけに「使えねえ餓鬼だ」と酷評コメントされた。

「確かに部長のプログラマーとしての能力は人間の範疇を超えているが…」 

 少し離れた僕達のブースからでもやかましい部長のタイピングが耳に響く。鮮やかにキーボードを叩く音は雨垂れかドラムロールのように繋がっており、指先は速度スピードのあまり半透明に透けて見える。これで五十代というのだから控えめに言って化物だ。

 十日縮めた納期は明朝八時。きっかり24時間後。いけるだろうか?否、やるしかない!

 僕は作業に没頭する。担当は各キャラのモーションとSE効果音とシナリオ展開の統合。毛細血管のように集まってくるデータとプログラムを一本に纏めていく役職。狂戦士バーサーカさながらの部長を必死で追いかけている内に叩き上げられた、僕自身の力。それを存分に振るえる事は純粋シンプルに誇らしい。

「通信ネットワークにバグが」「ここメインキャラのグラフィックス、ガタつきます」「AIの処理に遅延が発生」「サーバのデータが飛びました」

 無茶な納期短縮で発生する問題トラブルは数も重大さも半端ない。それを抑えながら完成を目指す。防弾チョッキ無しで敵陣に特攻を仕掛けるようなものだ。

「いけるいける何とかなる何とかする!なぁにメインデータにウィルス感染した時よりゃマシってもんだ!」

 部長の野卑な表情に拍車がかかる。まるで餌をぶら下げられた猪だ。

「CPUが焼けちゃいます!」

「水ぶっかけとけ!」

「あああハードディスクが軋んでます」

「唾つけときゃ直る!」

「ジョーが倒れました!」

「シャブでもコカでもッ込んで目ン玉開けさせろィ!」

 皆の悲鳴に部長の怒号がかぶさる。

「イイぜぇ…ヒリついてきやがったぁ!ケツに火ぃいてからが本番だぜぃ‼︎わはははははは‼︎」

 実際のところ火達磨ひだるまになって溶鉱炉に親指立てて浸かる程度にはヤバい状況。にも関わらず、部長はますます艶々ツヤツヤと照り輝いている。地獄のデーモンも裸足で逃げ出す狂気と鬼気が周りを巻き込んで増大していくようだ。

 社畜という表現でも生温なまぬるい。仕事を好み、膨大な作業をあぎとに砕き呑み込んでいく。それは巨大な一匹の野獣。まさにそのもの。

 犠牲者も多数。混乱と酸鼻を極めるフロアで、涼やかにボディバッグを提げてシブシソが立ち上がる。──午後五時!帰宅時間か…

「おいマジで帰るのかよ⁉︎」「この状況見て⁉︎」「空気読め‼︎」「人非人!」

 皆が口々くちぐちに彼を責めるのを、片手を挙げて僕は制した。シブシソも当然だと目線で彼らに語る。

「余はグラフィック専門。他の分野は知らぬ。自分の仕事は成し終えた。帰宅して何の問題が?」

「分かってる。──お疲れ様」

 薄情にもきびすを返す広い背中に舌打ちが殺到する。合理性を重んじるアメリカ人としては彼の行動も納得できる。彼程かれほどの逸材が手伝ってくれれば…という思いを何とか断ち切り、僕は作業に没頭する。

 自分の後には問題修正デバッガ要員が控えている。ソフトの完成は見えてきた。彼らと連携協調しながらラストスパートだ。

 珈琲を追加しようと立ち上がった時、天井が歪んだ。アレ?と思う暇もなく世界が天井扇風機シーリングファンの如く回転し、僕の意識は霧散した。

 次に天井を見上げた時、僕はフロア唯一のソファに横になっていた。首をひねる。柱の掛け時計は九時を指していた。ブラインドの隙間から差している朝陽。

 額に乗せられた冷えピタをなぞりながら身を起こす。

「まだ寝てろピーノ。丸五日も睡眠をとっていなかったらしいじゃないか」

 両手に珈琲のカップを持ったシブシソがやって来た。ん?まだ出社時間じゃない筈…

 手渡されたカップが熱いので頭がハッキリした。

「ソフトは⁉︎納期は⁉︎」

「完成した。お前が抜けた分は他のスタッフと戻ってきた余が補った。全く…体調など自己管理すべきものの代表だぞ」

 シブシソが?戻ってきた?契約時間外なのに?

「デバッグは専門外だからな。家で勉強してきた」

 シブシソは珈琲を啜り、渋面をきつくした。猫舌らしい。それにしてもたった一晩で…

何程なにほどの事もない。日本ではこういうのを『ジェバンニが一晩で』というらしいな」

 無骨なへの字口がクスリと笑う。おお珍しい、シブシソの笑顔。

「有難う。このお礼は必ずするよ」

「そんな事より…あまり部長ばかり見るな。余の事も…」

 シブシソが珍しく言い淀む。頬があかい?

「おうピー公、生き返ったか」

 人を殺した後のような顔で笑いながら、咥え煙草タバコの部長の登場。

「良い仕事だったぜ。お陰であの後の作業もスムーズだった。この次はブっ倒れんなよ。お前、割と重ぇからよ」

 褒められた歓喜と部長から抱き上げられたという衝撃が全身を駆け巡り、顔から沸騰する気がした。

「ン?まだツラ赤いな…起きれるか?」

 頷く僕に、好きな物を何でも奢ってやるぞと言う。

「それならココイチのカレーで!」

「なんじゃそりゃ?いつも仕事帰りに俺が食わしてやってるやつじゃねぇか」

「だから良いんですよ!…特別って感じがして」

「OK牧場。シブシソ、お前も来るな?」

 元王子は尊大な腕組みで三十も年上の相手を睥睨へいげいする。

「行ってやろう。店で一番高いメニューにするがいい」

 部長の、甲まで剛毛だらけの手がさしのべられた。僕は既に胸一杯いっぱいになりながら立ち上がる。そしてつい…

「あの、部長は何故なぜ…」

 馬鹿な質問をしようとしているのに気付いて僕はうつむいた。生き物に向かって「何故生きようとするのか」と尋ねるようなものだ。

 しかし。

「死ぬなら戦場で。撤退の後ろ向きじゃなく、前のめりにくたばる。それが俺の夢だ」

 部長は紫煙を太く吐きながら、詰まらなさそうに…いや、応える。そして僕の背中を力強く叩いた。

 戦友。部長にとってそうであるのなら、僕もまた社獣に率いられそれを援護する事に命をかけられる。

 他のスタッフ達の待つロビーに向かいながら、僕は背中に触れられた温もりをしっかりと噛み締めていた。

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