幼虫少女

阿賀沢 隼尾

幼虫少女

 私たちはいつになったら空を大きく羽ばたくことが出来るのだろう。


 無力で不自由な【幼虫】の私たちはそんな夢を見る。


「マリエ」


 後ろから、透明で囀りのような綺麗な意味のある音を響かせる少女の声。


「湊ちゃん」


 声の主の名を呼ぶ。

 影が差すと視界の端に、彼女のたなびく黒髪がちらりと映った。


「もうすぐ、私たちは【成虫】になるんだね」

「そうだね。その前に【蛹】にならないといけないよ。私達」

「そうだった」


 彼女の声色から、不安と焦燥が入り混じっているのが分かる。

 彼女の横顔は丹精に造られた日本人形のように美麗で端整だった。

 いつも他の人の前では澄ましているのに、私と一緒だとコロコロと感情が変化していくのが分かる。


「湊ちゃんはやっぱり大人になりたいの?」

「うん。なりたい。早く大人になって自由になりたい。もう、こんな窮屈な生活私はいやよ」

「私はこのままでいいかなって思う」

「なんで? マリエは自由になりたくないの?」

「だって、最近の大人を見ていると全然自由じゃないよ。私達は大人に縛られて。大人は社会に縛られてる。結局、私達は自由にはなれないんだよ」


「そんなことないよ。私たちは大人になれる。【蝶】になれるんだよ。確かに、縛りはあるかもしれない。それでも、自由に羽ばたくっていうのは、『自分の好き勝手にする』っていうことじゃないと思うんだ。ある程度の縛りの中で泳ぐの。魚と一緒だよ。魚は水の中でしか泳げない。ある一定の空間内で自分を最大限に表現する。能力の限りを尽くして生きる。それが『自由』っていうことだと私は思う」


「確かにそうかもしれない。けど、それは湊ちゃんのような優秀な人間だからこそ言えることだよ。私のように力のない。能力が平凡な人間は湊ちゃんの言うような『自由』ですら得ることが出来ない。能力のない人間は能力のある人間に従属――――寄生――――して生きることしかできないんだよ。努力しても努力しても成りあがることなんて出来ないの。努力が足りないって言うかもしれないけれど、どれだけ努力しても凡人は天才には勝てないの」


「私は言わないわ。そんなこと。それは勝たないといけないものなの?」

「え?」

「能力は先天的なものと後天的なもので広く、深くなるわ。それに人は自分の役割を見つけていくものよ。人生って言うのはね、そういう自分の役割を全うしていく、見つけていくものだと私は思っているわ」

「それじゃ、勝つ必要は無いの?」


「そうよ。それぞれの力を活用して協力し合うことが大切なの。でもね、それはとても難しいことなの。人はどうしても勝敗を決めたがる生きもの。それはかつての【旧時代】も【新時代】の今も変わらない。優越感を人は得たいから。人の能力を認める、見出すってとても難しいことよ。優越感を得ることは大切なことだけれども、人を蹴落として、侮蔑して得る優越感は人の恨みと憎しみを買い、悪循環の沼地へと人を誘うわ」


 それじゃ、私たちはどうすることも出来ないのか。


 対して、彼女は異なる視点の言葉を放った。


「平地に生きる事が一番難しいのよ。でも、平地が一番見渡せる。広い視野で物事を見ることが出来るわ。でも、自分の位置が分からないととても不安でしょうね。どこに自分は行くべきか。どこへ向かうべきか分からない。だから、【自分探し】をし始める。一方で山を登る生き方をする人達は、行き方が決まっている一方で、自分が抜かれないかと下を向く人間。一番になると上を見て努力する人間。もう自分はダメだと無気力になる人間。弱肉強食の世界は人の視野を狭めるわ。もちろん、そこから一緒に協力して登ることが出来る人間もいる。これはね、何がいい。何が悪いっていう優劣を決める問題じゃないの。考え方の問題なのよ」


 両方の視点が大切で、そこからどう様々な考えの人間がいる中でQOLの向上を満たしていくのか。


【幼虫】の私たちがこれから向かう先はそんな過酷な世界だ。

 多様な考え方が跋扈ばっこする世界で私たちは如何に生きるのか。


【幼虫】の私たちは無能で無力だ。

【成虫】に寄生することでしか生きることが出来ないか弱い存在。


 だからこそ、私たちは【力】を渇望する。

 熱望する。


 自分で立ち上がれる力を。


「【蛹】になればなにか分かるのかな」

「さぁ、それは【蛹】になってみないと分からないわ」


 期待と不安で胸を膨らます。


 空はどこまでも青く、澄み切って、『永遠』を描いている。


 空には永遠があるのに、私たちには永遠がない。

 私は私で居続ける事が出来なくて。


 時の鎖は私を無理矢理未来へと連れていく。


 ―――――――――――――――――――――――――――――


【蛹】になる前、私たち【幼虫】は【成虫】に地下へと連れていかれた。

 そこは蟻の巣のように目眩がしそうなほど複雑な構造をしていた。


「お前たちは今日からここに住むんだ」


 いきなりそう言われて、一人一部屋渡された。

【成虫】になる為の授業する為の場所は、予め決まっていた。


【成虫】は【蛹】の私たちをそこへ閉じ込めた。


 外へ出ることは叶わなかった。


 だから、色んな事が起こった。

【成虫】を殺したり、暴力を振るったり。


 私と湊ちゃんも顔を合わせなくなった。

 私は無気力な色褪せた少女。湊ちゃんは【モラトリアム・デイズ】という反成虫勢力を立ち上げ、日に日にその勢いは増していった。


 私達の鬱憤が、怒りが、悲しみ、が空間の中を支配していた。

 私達【蛹】の声は彼ら【成虫】に届くことは無かった。


 ある日、私が外(とは言っても、洞窟の中だけれど)をぶらぶらしていると、湊ちゃんとその他大勢の子分たちとすれ違った。

 彼女は先頭で背筋をしっかりと伸ばして歩いていた。


 そこには自信……ではなく、信念と情熱を感じた。


 私はそこまで出来ない。

 いや、寧ろ馬鹿馬鹿しいとまで思った。


 そこまでしても社会は何も変わらない。

【蛹】の私達が何をしても社会を変える事は出来ない。

【成虫】の圧力に打ち負かされるばかりだ。


 妬みも、羨ましさもあったと思う。

 けど、私には到底叶うことのない世界。

 踏み入れることの出来ない世界だった。


 何かに打ち込むことの出来る人たちは自分の内に秘めたエネルギーを何かにつぎ込むことが出来るのだから。

 その手段と方法が違うだけで。


 部活とか、勉強とか、恋愛とか。


 それを【成虫】の人々は『青春』と呼ぶ。


 でも、私にはそんなエネルギーは無い。


 私にはもう一人友人が出来た。

 とは言っても、【文学同好会】の仲間なんだけれど。


 正直言うと、無理矢理【文学同好会】の数合わせの為に仕方なく入っただけなんだけれど。

 大人になることなんて正直良く分からないし、何もすることのない私はただただ何となく参加しただけ。


【成虫】になることなんて私には良く分からないし、何をすればいいのかもよく分からない。


「将来の為に努力することの出来る人間は今現在、自分の肉体、精神共に健全であることを保障されている人間だけである」

「いつも貴方はそう言っているわね。ゆかりちゃん」


 部室で座っているもう一人の友人に話しかける。


「だって、そうでしょう。私の隣に住んでいる雅子は自室に籠ったきりだし。毎日何回も自分の手を洗うそうよ。それもい十回とかじゃない。何十回も。酷いときは五十回を超えるそうよ。私の知っている限りでは、人と話すことに恐怖感を抱く人もいるし」

「みんな、なんか閉鎖的だよね」

「そうね。自分の中に閉じこもっているわ。それは私達にも言えることなのかもしれないけれど」

「まさに、私たちは【蛹】というわけね」


【成虫】たちは私たちを閉じ込めてまで一体何を期待しているのだろう。

 私達を育てる目的とは……。


「その『未来』を守るのが私達【成虫】の役割なのじゃよ」


 振り返ると、文芸同好会の顧問である波家先生が扉の前に立っていた。

 口髭を蓄えた温和そうな顔の老人。

 私達【蛹】の総主任でもある人物だ。


 彼はコツコツと杖を突きながら近づき、どっこいせと私の隣の席に座る。

 ほう、と一つ大きな嘆息。

 口を小さく開いて再び言葉を紡ぎだした。


「真紀の言った通り、努力は自分の肉体、精神共に健全であることを保障されている人間にだけ許された特権じゃ。それと共に私は一つだけ付け加えたい。それは、時間じゃよ」


「時間、ですか?」


「そう。時間。モラトリアムの時間じゃ。【蛹】の時間は人生の準備期間なのじゃよ。全ては儂ら【成虫】の責任じゃ。【蛹】によって引き起こされる行動や社会現象は、現代の鏡なのじゃよ。【蛹】は現代社会の鏡なのじゃ。お主らは、現代社会の問題を【成虫】の儂らに痛烈に提示してくれる。儂らはそれを丁寧に読み解き、一つ一つ問題を解決していかねばならん。それが儂ら【成虫】の役割なのじゃ」


「それじゃ、【成虫】は【蛹】である私達を閉じ込めたい訳じゃないんですね」

「そりゃそうじゃよ。儂ら【成虫】は【蛹】を立派な【成虫】に育て上げる事。少なくとも、儂ら【教育者】の役割と責任の中核はそこにあると儂は考えておる」

「【モラトリアム・デイズ】に関しては、先生はどうお考えですか?」


「ああ。春瀬湊さんたちのことか。あれも一種の【蛹】の反作用のようなものじゃ。儂にもそのような時期があった。世界が色褪せて見えることじゃろう。【成虫】である儂を敵視し、仲間内を大切にして。老いぼれの儂は見守ることしか出来んよ。彼女もその周りの人もそれなりの不安と不幸を抱えているのじゃろう。あれは、一種の集団幻覚じゃよ」

「集団幻覚……ですか?」

「そう。集団幻覚。春瀬湊さんは残念なことに資質があったのじゃ。教祖の資質が」


「教祖…………ですか」

「そう。教祖。信者にとっては希望。宗教とは、妄信の従僕であり、思想を盲目にさせるのじゃ。『外の世界に出る』という目的の為に【成虫】という敵を作り上げた。そう言えば、雪風真理恵さんは彼女の幼馴染みだったそうじゃな」

「あ、はい。そうです」


 誰が先生に言ったのかは一瞬で分かった。

 真紀を憎しみ一杯に一瞥する。


 そんな知らんぷりしても分かるんだよ。

 もう、バレバレなのに。


 私の知っている春瀬湊という人物は死んでしまった。

 今いる春瀬湊は私の知っている彼女じゃない。


 ここ数年顔を合わしてすらもいないし、会話も一言も交わしていない。


 ずっと仲良しだったのに。

 貴方は私から離れて行ってしまった。


 私の気持ちも知らないで。

 私がどれだけ苦しんだか。悲しんだか。

 毎日毎日毎日毎日泣いて恨んで憎んで。


 やりきれない。

 やりきれない。

 やりきれない。

 やりきれない。

 やりきれない。


 私に呪いを掛けといて、傷を負わせといて他の人の元に行くだなんて。


 正義が裁きを下すのは悪なんかじゃない。

 別の正義だ。


 私は彼女を救い出す。


 ここから私の青春は始まった。


 ―――――――――――

 準備は滞りなく進んでいる。

 問題は無い。


 私は何も悪くない。


 悪いのは全部湊ちゃんだから。


 全部。

 全部全部全部全部全部全部全部全部全部。


 だから、反【モラトリアム・デイズ】勢力として。

 私は力を蓄えてきた。


 湊ちゃんをあいつらから取り戻す為に。

 現実というものを思い知らせる為に。


 今日は【モラトリアム・デイズ】壊滅の日だ。

 それを私が成し遂げる。


 スパイとして潜り込んだ私は、情報を【成虫】たちに流した。


 ――――時が過ぎ。


 案の定、【モラトリアム・デイズ】は壊滅した。

 その瞬間を私は見ていた。


 湊ちゃんは絶望していた。

 絶叫しながら呪詛を口から巻き散らしていた。


 後日、彼女は自室から出てこなくなった。


「湊ちゃん、私だよ。覚えているでしょ」

「マリエ?」


 生気のない、喉から絞り出した声が扉を隔てた向こう側から聞こえてきた。


「湊ちゃん、大丈夫?」

「マリエ、私……。私はね、【成虫】になるってことは自分の能力を最大限に活かすことだって思ってた」

「うん。知ってるよ」


「でもね、だめだった。私は【成虫】になりたかったのに、【成虫】に殺された。自分で自分の才能を引き出したのに捨てられちゃった。【成虫】に認められないと私達【幼虫】も【蛹】も結局は生きていけない。死んでしまう。結局は、【成虫】の匙加減。運。これがすべてだったの。私はただ、外の世界を見たかっただけなのに。ただ、それだけなのに」


 絶望に打ちひしがれる彼女はとても可愛かった。


「私がいるだけじゃダメなの? 私、ずっと寂しかったんだ。【蛹】になって湊ちゃんが遠くに行ってしまったみたいで。本当はずっと一緒にいたかったの。話しかけにくくなって。湊ちゃんはさ、私の希望なの。私がずっと一緒にいるから。だから、これからはずっと私と一緒にいて」

「うん」


 再び私たちは一緒になった。

 それからの時間はとても楽しくて。

 嬉しくて。


 私たちは夜な夜な語り合い、共に授業に出た。


 私たちは死んだままだった。

 私たちに再生は訪れない。


 それでも、表面のやけどは時間と信頼できる人間がいれば治る。


 けれど、【幼虫】の、【蛹】の傷が癒える事は無かった。

 一生抱えて生きていくしかない。


 人は罪を、罰を背負って【成虫】に、大人になっていく。


 罪と罰を体に、心に刻んでいて、その傷が消えることはなくても生きることは出来る。

 人生に意味は無くても、意義と価値を見出すことはきっと出来る。

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