第30話

 空が黄昏の色に染まっていくのを、ここのところ毎日、新は与えられた自室の窓からずっと眺めていた。二つの大きな塔も、眼下に広がる街並みも、何もかもが金色を映して眩しく輝いている。綺麗だ、と思って、ただそうとだけ思えるようになったことに感慨があった。

 あたたかくて、終わりゆく一日を柔らかく包み込んでくれるような安らぎの色だ。

 コトンと音がする。窓の側にあったサイドテーブルに、いつの間にか金色の腕輪が置いてある。

 反射的に〈位置の変更〉を仕掛けた。悪魔のような黒い皮膜の羽を背負った藍川が部屋の中に現れる。

「小狡い手を覚えやがって」

「どうせ同意がないとできないって聞いたしな」

 それなら藍川相手に遠慮する必要はないし、せいぜい星径の力の使い方の練習台になってもらうだけだ。藍川は肩を竦めて窓の縁に腰掛ける。

「ここの夕日も綺麗だな」

「再現してるだけだけどな。天候は全部管理されてて、時間帯に合わせて空の色も変わる。他の観測世界の大多数がそうだから合わせてる」

「ふーん。……つくりものでも、綺麗だからいいよ」

 返事はない。特に言うことがなければ互いに黙ったままでいるのはよくあることだった。

「明日地球に帰る……っていうか接続、する」

「知ってる」

「だから置き逃げしようとしたのか」

「置き配だって。……お前が地球世界に接続したままならいらないもんだろ」

 藍川は明後日の方を向いたままだ。──これは拗ねている。

「一時帰宅だけど」

 そう続けてやれば、ばっと振り向いた。

 新が今後観測者として観測都市に正式に所属し、観測をしていくつもりであることは、藍川には言っていなかったしメムたちにも言わないようにお願いしていた。ちょっとした意趣返しだ。

「……地球の筐体、真並新の人生が終わるまでは記憶処理して普通の地球人として生きていけるって話、忘れたわけじゃないよな?」

「もちろん。でも、自分の輝度ってやつを他人任せにするのは嫌だし。シンと一緒に頑張るって決めたから。……あっちのからだだって、ほんとはあっちの連星のものだったわけだし」

 腕輪を持ち上げてみる。しっかりと重みがあって、見た目も質感もアインの選んだお守りの腕輪とそっくり同じだ。

「観測世界からの持ち出しは原則できないからレプリカだけどな」

 連星アインが、“お前”にも持っててほしいって。

「そっか」

 そうしてまたしばらくの沈黙があって。

「……色々、悪かったな」

 藍川が二度も謝ってくるのは少し意外だった。

(でもどっちにしろ謝り方が雑なんだよなあ……)

 何に対して謝ってほしかったのか、新にももうよく分からない。

「……いいよ、もう。どこにどうやって生まれるのか、選べないのは誰だっておんなじだし」

 ──ずっと居心地が悪かった、息がしにくかった。死にたいと思う自分はおかしいのだと、罪悪感があった、けれど。

「ベートに生きやすい場所に行けばいいって言われたの、結構目から鱗だったな」

 死にたがる自分を辛く思っても、環境を変えるとか、誰かに助けを求めるとか、そういう“生きるための努力”をしたことがなかった。

 あの世界で初めて覚えた“死ねない”気持ちは、今も胸の奥で熾火のように灯り続けている。

「観測都市が俺の居場所になるかはまだ分からないけど。とりあえず観測者をやりながら考えてみればいっかなって。……だからこれからは、自分でちゃんと、死なないように頑張れるから。俺にはもう、責任とか罪悪感とか、感じなくていいよ」

 藍川の動きがぴたりと止まって、薄ら笑いも消える。

「“悪魔”にも、ちゃんと罪悪感はあったんだなあ」

「……オレも知らなかったわ」

「なんだ、長生きしてても案外そんなもんなんだな」

 自分のことも友人のことも、きっといつまで経っても理解しきれないのだろう。──生きている限り、変わっていくものなのだから。

「あー、そうだよ。……お前も長生きしてみりゃ分かるだろうよ」

 藍川は素っ気なく言って、ひらひらと手を振って部屋を出ていく。

「うん、そうする」

 照れ臭がっている時の声音だとは知っていたので、聞こえるように返事をしてやった。


 

 そうして翌日、地球に帰った──再接続をした。

 新が観測しやすい世界が見つかったら呼び戻すから、それまでは地球でゆっくり休養を摂るように、とメムから念を押されている。

 連星の“真並新”の記憶と同期してみれば、今は十七時過ぎ、帰宅途中だった。放課後でラッキーと反射的に思って、普通の高校生の思考に一瞬で引き戻されたのがおかしかった。

 黄昏の中、家路を辿る。いつだって、黄昏時を避けても俯いたまませき立てられるように帰っていた道だった。地球での風景には今までの息苦しさが染みついてしまっていて、ただ綺麗だと屈託なく見上げられるようになるにはもう少し時間がかかりそうだ。

 それでも、今はもう死にたい理由はなくなったことを知っていて、生きたい理由もいくつかできた。生きていく場所を選べることも知った。地球ここにいられなくても、行ける場所が他にある。そのことが心と足取りを少しだけ軽くする。

 連星としての“真並新”は、このからだが生まれると共に存在していたが、新の星辰が接続された瞬間から半ば眠っていたようなものだと藍川は言っていた。眠っていたことも知らずに、今までもこれからも“地球世界の真並新”としてだけ生きていくのだという。

 新が地球にいる間はやはりからだを借りてしまうことを申し訳なくも思うが、新自身は「もう一人の自分が自分の代わりに活動してくれるなんてラッキー」と思える性質なので、たぶんきっと連星の新もそうだろう。明日の小テストの勉強は“いつも通り”きちんとやっておくので許して欲しい。


「ただいまー」

「新? 今、帰ってきたの? ……ひとりで?」

 家に帰ると、今日は母が家にいた。驚いた声で、手も濡れたままでわざわざ玄関に顔を出してくる。

 黄昏が空を覆う日には、いつも時間をずらして帰るか、藍川と一緒だった。

「うん、もう、平気」

 それだけで伝わったらしく、母は「そう……そう」と頷いた。声が少し揺れた気がする。

 黄昏時に死にたくなるのだとは一度も言えなかったけれど、当然新の異様な様子には気づいていただろう。自分を大事にできない新以上に、新を大事にして、そして見守ってきてくれた家族だった。

 創世世界のシンはすでに喪ってしまった。他の世界でもいるとは限らなくて、だから、今母がここにいてくれることが、ありがたいと思う。

「母さん。……ただいま」

 この言葉をもう一度言いたいと思って、もう大丈夫なのだと自分で伝えたくて、そのためにここへ帰ってきた。

 “死にたがり”の真並新は、もういない。

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観測都市 死にたがりの観測者 笹木 夕 @sasagi-yuu

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