ゴールへの第一歩

兵藤晴佳

第1話

 目が覚めると、僕はいつものとおりベッドの中にいた。

 でも、原子炉から漏れた放射性物質に怯える街の中の小さなひと部屋で、裸のままの身体を抱きしめてくれる大人の女の人はいない。

 薄暗い部屋の中で、僕はその名前を呼んだ。

「リュカリエール……? プシケノース?」

 青い髪のリュカリエール。

 いつも僕に小言を言う、ちょっと勝気な女の人だ。

 でも、夜中になると柔らかい胸の中に僕を埋もれさせて、ひと晩じゅう離してはくれない、

 優しいプシケノース。

 大地震と大津波のせいで荒れ果てた街で、どんなことがあっても味方になってくれる。優しくて心癒やされるお姉さんだ。

 日が暮れてから夜中まで、温かく滑らかな腕を僕の身体に回して、くすぐったいくらいに耳元で囁きかけてくる。

 でも、そのふたりの姉の身体はどちらも、肌に感じられることはなかった。

 当然だ。

 この数日、ずっと寝間着のままで、僕は部屋の中に閉じこもっているのだから。

 だいたい、僕はそんな小さな子供でもない。

 腰かけたベッドから立ち上がると、足の踏み場もないほど散らかった床を爪先立ちで窓際へと歩く。

 カーテンの隙間から外を覗いてみると、家の塀の向こうで薄暗く、こんもりと咲いた土手の桜並木が見える。

 走る足音が遠くで聞こえないか、耳を澄ましてみた。

 だが、辺りは静まり返っている。

 朝から低く垂れ込めた雲の重さが、ただでさえ浮かない僕の気分を、更に沈ませた。

「……寝よう」

 眠かった。ただ、ひたすらに眠かった。

 このひと月ばかり、僕はこの部屋にいた。

 毎日、何をするわけでもなく、床に座り込んでいるか、ベッドで横になっているかだった。

 立っていることは、ほとんどない。せいぜい、作り置きの冷めた食事が待つ階下のテーブルへ向かうときと、その後にトイレへ入るときぐらいだ。

 家族はいるが、誰とも口を利くことはない。僕が寝ている間に、出かけては帰ってくるのだから。

 腹は減っていたが、朝食を取るのも面倒臭かった。

 ベッドに戻ろうとしたとき、壁にデカデカと張られた紙に自分で書いた言葉が目に飛び込んできた。


  天上天下唯我独尊。


 もともとは、こういう意味らしい。


  私だけが持つ尊いものは、この世の誰にも冒すことができない。

 

 でも、僕は冗談交じりに、こういう意味で書いていた。


  この世でオレ最強。


 そんなことでも書かないと、やっていられなかった。

 なぜなら。

 行って当たり前の学校という場所に、僕は去年から通ってはいなかったのだった。


 家の中に閉じこもってばかりの暮らしは、正直、息苦しい。

 でも、外へ出たら、僕は死んでしまう。

 そのくらい、たいへんなことが起こっていた。

 

 ……おうち時間を過ごしましょう。


 この声が、どれほど長い間に渡って街の中に流れていただろうか。

 朝は日が出る頃から、夕方は真っ暗になるまで、街の人たちに自宅退避を呼び掛けていた、優しく美しい声。

 その声が今、僕の耳元で聞こえていた。

「そろそろ、起きたらどう?」

 こんな言葉を直に聞くのは、久しぶりだ。

 いつもは部屋の戸が軽く叩かれて、返事しようかすまいか布団の中で迷っているうちに、何事もなく済んでしまうのだった。

 それなのに、今日に限って、ここまで入ってくるなんて。

 戸惑っているうちに、声がまた、聞えなくなった。

 代わりに、仰向けの顔面に別の声が降ってくる。

「そんな言い方じゃダメよ」

 だが、やはり言葉は続かない。

 重苦しい沈黙が、まだ薄暗い部屋の中を、更に更に満たしていく。

 もっとも、それは部屋から出られない僕への憐みによるものではない。

 いきなりベッドから布団が引き剥がされ、天井から降ってきたかのような甲高い罵声が耳をつんざいた。

「いい加減にしなさい、いつまでもいつまでもこんなこと!」

 好きでやってるわけじゃない。

 外に出たくても、出られないだけだ。

 僕は僕なりのやり方で、充実した時間を過ごしている。

 だから、いつも聞こえている声を真似してやった。


 ……おうち時間を。


 その声の主は、くすくす笑いだす。

 もう一方はというと、黙ってはいなかった。

 僕を強引に、首根っこを引っ掴んで、無理やり立ち上がらせる。

「甘ったれてないで、さっさと着替える!」

 そう言うなり、僕の身体から寝間着を引き剥がす。

 桜咲く春とはいえ、その咲く桜に縁がない春の朝は、空気がひときわ冷たく感じられる。

 くすくす笑いが、苦しそうな荒い息をつきながら止めた。

「ちょっと、ちょっとそれは……」

 それでも、僕の裸を晒す手は止まらない。

「何言ってるの、昔はこんなの当たり前……」

 その声は、怒りを込めてというよりも、楽しげに聞こえた。


 開け放したドアの外では、呆然と佇んでいる者たちがいた。

「あの……お姉さま方」

 僕の姉たちは慌てながら、乾いた笑い声で答える。

「あら……迎えに来てくださったんですか?」

 ちょっと年齢を食った男が、軽く会釈した。

「勝手知ったる何とやら。お邪魔しております」

 優しい声で、上の姉が答えた。

「済みません、何の弾みかこんな……」

 男が、微かに首を左右に振る。

「緊急事態が長すぎたのです。これは仕方がありません」

 そう考えるのが当然だ。

 僕が勝手に休んだわけではない。

 そこで、下の姉が甲高い声で僕を罵る。

「もともと行ってなかったでしょ、学校!」

 これは、さすがに言い返せない。

 黙ったままでいると、そのおっさんの後ろから若い男の声が聞こえてきた。

「ごめんね……もっと早く、君の気持ちに気付いてあげられてたら」

「これからは、何でも気軽に言ってよ」

 そんなら、言ってやる。


 ……とっとと帰れ。


 もちろん腹の中でだ。

 それでも、おっさんとお節介な若者ふたりは軽く会釈すると、姿を消した。

 上の姉は、それを見送ろうというのか、ひと言だけ言い残して急ぎ足に後を追っていった。

「あなたは、学校に行ってね。お願いだから」

 下の姉がぼやく。

「緊急事態に救われたわね。何で行けなくなったのか知らないけど、年貢の納め時よ」

 どうしてだか分からないのは、僕も同じだ。

 学校が嫌いなわけじゃない。辞めたくもない。それでも、心も足もそっちへ向かなくなってしまったのだ。

 少しだけ時間が欲しくなったというか、いつも明日になったら登校しようとは思ってはいたのだ。だが、そのうちに、あの時が来てしまったのだった。


 正体不明のウィルスの蔓延。

 そして、緊急事態宣言。

 

 下の姉も、慌てて部屋を出ていく。

「じゃあ、私もバイト行ってくるね……朝ごはんは自分で何とかして!」

 去年せっかく入った大学では、まだ対面授業が始まっていない。

 インターネットを介した講義の授業料を払うためのバイトだ。

 ひとりで部屋の中に残された僕は、ベッドの上に放り出されたノートを手に取る。

「リュカリエール……プシケノース……」

 もちろん、どちらの姉も僕の想像の産物だ。大地震も大津波も原子力の暴走も、この街で起こってはいない。

 全ては、僕に訪れた長い長い休暇の間に、ノートの上で書き連ねられた物語だった。

 カマボコ型をした仮設住宅の中で人々が息を殺して暮らしている中、命懸けで原子炉の暴走を食い止める少年の物語だ。


 ……おうち時間を過ごしましょう。


 物語の中で街の人を鎮める歌は、役場に勤める上の姉が実際に担っていたアナウンスだ。緊急事態宣言が解除されてからは、聞こえることもない。

 それでも耳を澄ましてみると、遠くからやってくる足音が聞こえた。

 物語の中では、街の周りを走り回る足音が、襲い来る危機から少年を何度となく救う。僕にとっての救いも、これだった。

 ベッドで、枕元のスマホが鳴る。

「もしもし?」

「起きてたか? もう何日もないぞ、終業式まで」

 毎朝、ジョギングで登校しながら電話をくれる友人だ。こういうのは、気楽でいい。わざわざ家まで迎えに来る、善人ぶった教師や親切ヅラした級友たちなんぞは、プレッシャーでしかない。かえって、学校から足を遠のかせる。

 だから、僕は理屈をこねる。

「行く気がしない」

「本当は足りないんだろ、出席日数」

 痛いところを突いてくる。でも、できないものはできない。自分でもどうしようもないのだ。

 もっとも、そんな格好悪いことは言えない。

「学校行ったら負けな気がする」

 走る足音の主は、そこでちょっと沈黙した。

 だが、すぐに明るく答えてみせる。

「学校行けるだけ、幸せだよ。僕なんか」

 胸がずきりと痛んだ。

 そこで、話を敢えて遮る。

「分かんないだろ、学校行けない本人の辛さってさ」

 言ってはいけないことを言っているのは、自分でも分かっていた。

 でも、これも真実だった。

 学校へ行けない者にとって、その重さは、ほかのどんな苦しみとも比べられない。

 うどんとパスタのどちらが美味しいかを競っても意味がないのと同じだ。

 比べられるくらいなら、とっくに学校に行っている。

 走る友人も、それは分かってくれていた。

「そうだね……悪かった、帰れない話なんかして」

 大地震と大津波で原子炉の放射性物質が漏れたせいで、故郷と家族を失ったのは彼だった。

 見ず知らずの土地で父親が再婚した家族と暮らす生活は、経済的にも人間関係の上でも、かなり苦しいはずだ。

 電話が切れて、走る足音が再び遠ざかっていく。

 僕は慌てて、通話履歴を追って掛け直す。

「待ってよ……もう、無理なのか?」

 足音が止まって、困ったような声が返ってくる。

「それがさあ、無理なんだよ、まだ」

 しまったと思っている僕への、精一杯の気遣いだった。

 分かっているだけに、答えようがない。

 お互い、ちょっとの間だけ口ごもる。

 ようやくのことで、僕はさっきと同じ言葉を言い直すことができた。

 でも、意味は少し違う。

「待ってくれるか? ……もうちょっとだけ」

 ムスっとした声が返ってくる。

「君が決めることだろ」

 それでも、僕にとっては充分だった。電話の向こうの顔は、笑ってくれているような気がする。

 走る先にはないかもしれないゴールを、彼は見せてくれたのだった。

 僕は自分で朝ご飯を準備しようと、部屋を出た。

 トーストくらいなら、焼けるはずだった。

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ゴールへの第一歩 兵藤晴佳 @hyoudo

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