自分が選んだゴールを

成井露丸

🏁

 白い机の上にはサーキットに似つかわしい装飾が置かれていた。

 小さなガラス製の花瓶に白と黒のチェッカーフラッグ。

 颯人はやとは微笑ましいような懐かしいような寂しいような妙な気分に囚われる。

 その妙な気分の原因は何だろう? ――と考え始めた時に名前を呼ばれた。


「あ、たちばなさん! ここに居たんですね?」


 成宮なりみやさくらはパドックのオープンカフェに橘颯人の姿を見つけた。プラクティス走行初日、Formula *フォーミュラアスタリスクの舞台となるサーキット裏の特設カフェには各チームのユニフォーム姿やレースクイーン、報道カメラマンなどが思い思いの時間を過ごしていた。

 そのうちの一つ、日除けのパラソル下、白い丸テーブルの椅子に黒髪の青年がアイスコーヒーのグラスを片手に座っていた。紫色のユニフォームはチームメサイアのあかし


「――成宮さん。何かあった? ピットに戻ろうか?」

「あ、大丈夫です! 大丈夫です!」


 テーブルにグラスを置いた颯人に、さくらは両手を振る。


「辰巳監督がちょっと話したいことがあるって言っていたから、それだけ。特に急がないみたいですし、休憩終わったら行ってもらえたらいいです」

「そっか。わかった」

「ふへー。それにしても暑いですねぇ」

 

 さくらはパラソルの日陰に飛び込むと、颯人の前の席へと腰を下ろした。


「暑いね。真夏日だしね。日本より緯度が低いから。――でもさっき見たら日本の刈谷の方が気温高かったけど」

「――日本の気温は最近やばいですからね〜。あ、それアイスコーヒーですか?」

「そうだけど? 成宮さんも何か飲む?」

「ですね。ちょっと待っていて下さい。買ってきますから」


 さくらはそう言って移動販売車の方へと小走りに向かっていった。背中のポニーテールを揺らしながら。その後ろ姿に橘颯人は目を細めた。

 しばらくして透明の炭酸水が入ったグラスを持って帰ってくる。


「なにそれ? ジンジャエールか何か?」

「あ、惜しいです。レモネードです。レモネード」


 さくらは先の曲がったストローを唇で挟む。

 音を立てて透明な炭酸水がプラスチックのストローを駆け上がる。

 グラスの中の氷が音を立てた。


「ふぅ〜! いーきーかーえーるー」

「ははは。暑いからね。マジで」


 沖縄より南のタイ王国。ノンタブリーの地に作られた特設サーキットは湿気と熱気に満ちている。南国らしい過酷なレース環境に関係者は悲鳴をあげていた。


「ほんと今日は暑いですよね〜。スコールに来られても困りますけどね。――あ、むしろ私たちにはチャンス? 特に本戦?」

「――まぁ、ほどほどにね」


 Formula *フォーミュラアスタリスクは完全自動運転車によるフォーミュラカーレース。二〇三九年、最速を目指す役割は人間からAIへと手渡されていた。

 しかし人間の役割が無くなったわけではない。車両やAIを作るのは人間だ。それからスタート時やピットイン時、また非常時に運転を代替するのも人間の役割なのだ。ヒューマンドライバー――人間の運転手という肩書きがチームメサイアにおける橘颯人の肩書きだった。


 颯人はさくらに声を掛けられる前に感じていた違和感が気になって、テーブルの上の置き物に手を伸ばした。チェッカーフラッグのミニチュア。


「――あ、かわいいですね。チェッカー」

「そうだね。なんだか良いね」

「チェッカーは勝利の証ですもんね。レース関係者の永遠の憧れ」


 フォーミュラカーがレースでゴールする時に振られるその旗――チェッカーフラッグ。それは勝利の証。栄光の印。

 そこでふと颯人は自分の違和感の正体に気づいた気がした。


「――そうか。そういうことか……」

「どうしたんですか?」


 同僚の急な独白にさくらは首を傾げる。

 颯人は少し決まり悪そうに肩を窄めた。


「いや、大したことじゃないよ。まぁ、ちょっとした違和感みたいなのがあったからさ」

「――チェッカーにですか?」

「そう、チェッカーに」


 颯人はシンプルに答える。


「今期はチェッカーからは程遠いですからね、私たち。アメリカGPでは良い結果を残せましたけど、半分は偶然ですし」

「――半分は実力だけどな」

「異議なし」


 さくらが真剣な顔をして漫画のキャラクターみたいにキリリと眉を寄せるから、思わず颯人は吹き出した。


「――それで、どんな違和感だったんです?」


 それは友人としての心配か、研究者としての好奇心か。

 颯人は口に含んだ氷を噛み砕くとアイスコーヒーを含んで飲み干した。


「最近ずっと、チェッカーを振られてないなって思って」

「本当にメサイア、勝ててないですからね〜。うーん、悔しいです」

「――違うんだ。そういう意味じゃなくってさ……」


 自嘲気味に溜め息を吐くさくらの理解を、颯人は首を振って否定した。

 さくらは首を傾げる。どういう意味だろう? ――と。


Formula *フォーミュラアスタリスクはAIによるモータースポーツ。だから僕らヒューマンドライバーが部分的に運転することはあってもそれはとても限定的。スタート時にピットイン、雨天の一時走行とかね。――だからゴールの瞬間にヒューマンドライバーが運転していることはほとんど無いんだ」

「――あ、確かに、そうですね」

「だから僕自身が最後のコントロールラインを通過して、チェッカーを受けることは、――もう無いんだ」


 だからか――と、颯人は自分の中の違和感に気づいた。


 F3で走っていたころ、最速を目指すことと、一番にゴールへと飛び込んでチェッカーを受けることは等価だった。幸運にも先頭でゴールし、振られるチェッカーフラッグで歓喜に身を震わせたこともあった。稀にしか得られない栄冠だけど、それを仲間と分かちあうのはドライバーとして最高の喜びだった。

 でもFormula *フォーミュラアスタリスクのヒューマンドライバーとして走る以上、自分自身がドライバーとしてチェッカーを受けることはないのだ。


 机の上に置かれたそのミニチュアを颯人は摘んで動かした。


「なるほど。確かにそうですね。ドライバーの人にとってみたら、チェッカーフラッグこそがゴールですもんね。今、私たちのチームでチェッカーを受けるのはあの子」


 それはさくらが心を注いで育てているAIのメサイア。人間のドライバーではない。


「分かっているんだけどさ。僕は今、Formula *フォーミュラアスタリスクのヒューマンドライバーだから。でも、もう自らの手でチェッカーを受けることはないのかと思うと、ちょっと寂しい気がしてさ。僕が目指すゴールって何なんだろうなって、思ってさ」


 それは些細な違和感だった。

 ドライバーとして、チェッカーを目指すことが全てだった。それはヒューマンドライバーとなった今でも変わらない気がしていた。でも何かが、違うみたいだ。


「そういうことですか」

「――わかる? 成宮さん」

「なんとなくですけど。まぁ、私はAI研究者であって、ドライバーではないですからね。感覚は想像でしかないですけど」


 さくらはレモネードを吸い込むと喉を鳴らす。グラスを机の上に置いた。

 

「でも、そもそも私たちのゴールってチェッカーじゃないんだと――思います」

「――チェッカーじゃない?」


 颯人は二歳年下の彼女の返答に首を傾げる。さくらは小さく頷いた。

 レースにおいてチェッカーはゴールの象徴。それを目指すことが全てなのに。


「もともとAI研究者にはドライバーみたいな明確なゴールなんてないんです。研究成果だってそんな綺麗に出るわけじゃないですし、メサイアが完璧な子になる瞬間があるわけでもない。トップ国際会議に論文が採択されたりした瞬間はチェッカーフラッグにも似てゴールっぽいですけどね」

「確かに。AI研究者にとってのゴールかぁ。考えたこともなかったな」


 ゴールとは何だろう。自分は何を目指して走るのだろう。


「じゃあ、成宮さんにとってのゴールは何?」

「それはもちろん私のメサイアを一番速くてかっこいい車――アスタリスクマシンに育て上げることですっ」


 ほぼ即答だった。そんな成宮さくらの無邪気な笑みに颯人は目を細める。

 本当に子煩悩というか、メサイア煩悩な彼女。


 机の上でアイスコーヒーの氷はほぼ溶けていた。


「橘さんは、どうなんです?」

「僕は――最速のヒューマンドライバーになることかな? そしてメサイアと一緒にチェッカーを受ける。最後の瞬間、コントロールラインを通過するのがあいつであっても構わないから」


 そうなんだ。もう自分は一人で走るF3のドライバーじゃない。

 AIが最速を競い合う世界最高速のモータースポーツFormula *フォーミュラアスタリスクのヒューマンドライバーなのだ。チェッカーは――全員で受ければいい。


「一人ひとりに違うゴールがあって、それでもチームには一つのゴールがある。――月並みだけど、そういうことなのかな?」

「そうですね。きっと」


 アイスコーヒーの最後を飲み干して橘颯人は周囲を見回す。そこには数多くのFormula *フォーミュラアスタリスク関係者がいた。それぞれの仕事、それぞれのゴール。

 ピット方向に目を遣ると、見知った姿を見つけた。

 こんな暑いのに黒いサマーコートを羽織り、怪しげな黒いサングラスを掛けた細身のイケメン。チームメサイアのAI責任者――天沢あまさわ翔太郎しょうたろうの姿があった。


「――あいつのゴールは何なんだろうな」

「何なんでしょうね?」


 さくらも颯人の視線の先に気づき、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 天才AI研究者――天沢翔太郎がアメリカのスクルドノヴァを離脱し、チームメサイアに電撃加入してから全ては動き出した。ただ彼が何を目指しているのか、二人にはまだ本当のところよくわからなかった。

 ただまださくらたちは逆境の中にある。だから力を合わせて、前に進むしかない。


「じゃあ行くか?」

「ですね」


 パラソルの日陰を出て、二人はサングラスの奥で目を細める男の元へと歩きだす。


 それぞれの道を選んでここまで来た。

 だから後悔はしない。自分が選んだゴールを目指して走るのだ。

 それぞれのチェッカーをそれぞれの心の目で見据えながら。


 二〇三九年シリーズFormula *フォーミュラアスタリスク第五戦タイGPノンタブリーサーキット――プラクティス走行が始まる。


 <了>




 

 

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