星をさされて
石濱ウミ
・・・
ようこそ。おいでくださいました。
ご連絡を頂いてからこちらずっと、お待ちしておりました。
さあサ、遠慮なさらずどうぞ奥へ。
この廊下を、まっすぐに行って突き当たりの部屋が、先日お話させて頂いた
……それにしても、物好きな方だ。
いえいえ、こちらのこと。気にしないでください。
……。
……。
開かない? 鍵ですか?
そのようなものは、ありませんよ。
ちょっと、失礼。
どうも古い建物でして。扉の建て付けが悪くてかないませんな。……コツがあるんですよ。ホラ、これで……。
……どうです?
やあ、やはり驚かれましたか。
随分と異様な光景でしょう?
大小さまざまの鏡が、四方の壁にほとんど隙間なく、びっしりとあるんですからね?
……そうです、そうです。
あなたは随分と勘の良いお方だ。
ええ。
この部屋の住人は、聾者で御座います。
叔母は耳の聞こえない人でした。
ええ、もちろん。
お喋りは出来るんですよ。完全に聴覚を失ったのは、叔母が七つの頃だといいます。それもあって見事に唇を読みますからね。家に出入りする人も、気づかないほどでした。
まあ、そのせいで縁談はいつも途中で断られたのですがね。
ええ、そうです。叔母は、一度も嫁ぐことは御座いませんでした。
それにしても、この部屋は異様すぎると?
確かにその通りです。
始めはホラ、そこの……壁の半分をほとんど占める大きなオーバル型の一枚でした。花をモチーフにした繊細なレリーフの上品な佇まいのある金色の額縁。叔母はそれを大層気に入っておりましてね。
部屋に誰かが入って来た時にすぐに気づくように、あるいは自分が背を向けている時でも話が出来るようにと、その場所に掛けてありました。
あ、どうぞ気付きませんで。
もちろん、中に入って構いませんとも。
……それ、それです。ご覧になっているその壁掛けのアンティークミラーの一枚から始まったのです。
叔母とは私が幼い頃からずっと、この家で一緒に暮らしておりました。
長男である父とは親子ほど歳の離れた末の妹に当たる叔母は、幼い私の目から見ましても美しい姉のように近しい存在で、早くに母を亡くした私にとってはまた、優しい母のようでもあります。
晩年その叔母が、鏡が曇って見えると言いだしたのが、部屋を拵えたときに一緒に買い誂えたあのお気に入りの鏡からでした。
磨いても、磨いても右端の一角が白く曇って汚れが取れない。それが見るうちに、どんどんと大きくなってゆくのだと言うのです。
私が見ましても、その曇りなどは少しも見当たらず、叔母にそう言えば不機嫌になるばかり。それとなく医者にかかるように申しましても、別の部屋の他の鏡や視界には変わりがないから悪いのは眼ではなく、この鏡だとの一点張りでございました。
使えずに不便ならば他の鏡に取り替えたら、と何気なく言った私の言葉にはひどく狼狽しまして、お気に入りの鏡だからそんなことは出来ないと言うんですから困ってしまいます。
その鏡は、叔母の父……私の祖父が外国から買い求めたアンティークと申しましても、そんな大層なものではありません。何がそんなに気に入っているの、と聞きましても額縁の意匠がどうのとか、大きさがほどよいとか、私にすれば大した話ではありませんが叔母にとっては代わりになるものはないほどの気に入りようで。
だったら捨てずに新しく掛け直して、近くに置いたらと言ったのが、悪かったのかもしれません。
叔母は素直に新しく鏡を掛け、その隣に……はい。左側にあるその横に細長い四角い鏡が次に掛けたものです。
しばらくは、何事もないようでした。その鏡もまた、曇ってきたと叔母が言うまでは。
これらの鏡ですか?
ええ、そうです。
叔母は曇って見えると言っては、ひとつふたつと鏡を増やし始めました。
ならば鏡を捨てるなりなんなりすれば良いものの、見えないはずの鏡を捨てることはなく、やがて部屋の壁は見事、鏡に埋め尽くされたのです。
ええ、私の言葉が原因かもしれません。
気がつけば、叔母のお気に入りの鏡は最初の位置に戻されておりました。
……はい。
私にはどの鏡も、曇って見えることはありません。今までも一度として、そう見えたことは御座いません。
そのうち、その曇った鏡に見えるものがあると叔母が言うようになりました。それは自分の姿じゃないのかと私が申しますと、そうではないのだと言うのです。
叔母の言葉を借りれば『白く曇った鏡の向こうから、こちらを覗く人影が見えるのよ』と言うんですから、たまったものじゃア、ありませんよ。歳もトシですからついに始まったか、とね。
鏡とは自分が映るのだと、初めてそれを見る人に説明するように私は、叔母と並んで鏡の前へ立ちました。
そうです。
叔母のお気に入りの鏡の前へ、二人で並んで立ちました。叔母には白く曇って何も映らないと言う鏡は、仲良く並ぶ私と叔母を映し出しております。
ああ、叔母も歳をとったなアと、萎んで小さくなってしまった身体に、美しかったその顔が皺だらけの、結い上げられたその白髪頭を、並ぶ私はしみじみと見ておりました。
もしかしたら叔母は、自分の年老いた姿を見たくなくて鏡が曇ると言い出したのではないだろうか。
そんな事を考えながら、じいっと鏡を見ていた私に『ホラ、ね? わたしの言った通りでしょう?』と叔母が囁いたのです。
まったく困った、さて何と言おう……と私が叔母の方を向きかけた時でした。
『動かないで頂戴……ホラ、ご覧なさいな。右端の特に厚く曇ったところよ。ね? べったりと両の掌が、向こうから押しつけられているわ。……小さな掌ね? あれは……おでこをくっつけているのかしら? わたしも、こんなにハッキリと見えたのは初めて。……まだ子供のようよ』
早口で捲し立てるようにして話す叔母の滲みだらけの骨張った手が、動かないように私の腕を痛いほどに掴んでおります。
『あなたに興味があるのかしら?』
目の前の大きなオーバル型の美しく装飾が施された額のある鏡には、私と並ぶ叔母の姿。その隣の細長い四角い鏡にも、それの上や下にある丸や楕円や四角の小さな鏡にも、部屋中のどの大きな鏡や小さな鏡を見ても、私と叔母の正面や斜めや背後の姿しか映ってはおりません。
ただ、この大きなオーバル型の鏡の反対側は丁度窓になっております。
昼なかの常ならば、気づくこともなかったでしょう。
夜、でした。
大きな窓ガラスは、合わせ鏡のように私と叔母の背後姿を、しっかりと映し出しております。
そのとき私にも、見えた。
その真っ暗なガラスには、叔母と並ぶ私の背中が。そして、その私の腰のあたり――。
悲鳴を上げ、部屋を飛び出しました。
その夜は、そのまま飛び出た勢いに任せて知人の家へと転がり込んだのです。
ええ。叔母の部屋を出たからといって、ひとりで家の他の部屋にも居られずに、私は逃げ出した。
あんなものを目にして、家に居られるわけがない。
翌日になって恥ずかしくなった私は、すごすごと家に帰り、昨夜の詫びとご機嫌伺いのため、恐る恐る叔母の部屋へと足を踏み入れました。
ええ。叔母の姿は、なかったのです。
私の悲鳴に、気を悪くした叔母が出て行った? まさか。
それに、どこへ行くと言うのでしょう。
この家から出たことなど数えるほどしかない叔母に行く当てなどなければ。必死になって探し回る私をよそに叔母のその姿は、部屋にも家の何処にもなかったのでした。
……そうです。
部屋はいつものごとく、何の変わりもないのに、叔母の姿だけがありませんでした。
え? 私が? 勢いあまって突き飛ばしたのではないかと仰るのですか?
だとしたら……。
……え? はい、そうですとも。
ご案内しておりますこの場所です。
部屋にある鏡に自分では無い人影が映る。
ああ……!!
そうでしたか。
その鏡を覗き込みさえすれば、誰でも自分ではない人影が見えるのだと思っていたのですか。
いや……何てお詫びしたら良いでしょうね? 先日の話に出て来た、鏡に映る自分ではない人影とは私の叔母のことで、それがこの部屋なのですが見えるのは今のところ私だけのようで……折角こられたのですから、あなたにも見えたら良いのですが。
……この部屋に入ると壁中にある鏡の中に叔母の姿が、目の端にちらりちらりと映るのが分かりませんか?
分からない?
……え?
目の前の、この滲みだらけの鏡では?
滲み……。
でしたら壁中にある鏡を、ひとつひとつ覗き込んでも構いませんよ。
ですがホラ、こうしてじっと部屋の中に立ち、しばらく待っていると、壁中のあちこちの鏡に叔母が時折横切るように映るのが見えてきませんか?
その様子はまるで、鏡の向こうの部屋で叔母が生活をしているようでさえあります。
ひょっとして叔母は……鏡の中に居るのかもしれません。
それともあの日、部屋から飛び出したと思った私が、間違って鏡の中へ入ってしまったのでしょうか。
だとすれば、出口は鏡の
……あゝあなたがそれを、私に教えて下されば良いのに。
《了》
星をさされて 石濱ウミ @ashika21
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