辿りつく先に開く花 〜扁桃恋歌〜

汐凪 霖 (しおなぎ ながめ)

コーダを知らないダル・セーニョ

 初対面で恋に落ちるなんてこと、信じていなかった。

 それどころか、逞しいほどに剛直で自己主張の激しい女性ばかりを見てきたせいか、恋や愛といった感情に興味も関心も持てなかった。

 幼いころは好きな女の子もいたけれど、その彼女が度を越す凛々しさを発揮するようになると縮こまるような気持ちになってしまい、距離を置くことを選ぶしかなかった。見ていて辛かったから。話していると悲しくなったから。

 音楽漬けの生活に不満など無く、恋愛ごとで悩む友人を見ると気の毒にさえ思う。

〝理想の女性〟を思い描くことはあったけれど、現実にそんな女性が存在するとは信じていなかった。

 だから、初めて彼女に逢ったとき、その衝撃は、カルミレッリの世界を変えた。

 視界に彼女がいるだけで、空気が輝いて見える。

 音楽に神聖な響きを感じる。

 生まれてきたこと、生きていること、死に行くことさえ、尊く思えた。

 柔らかく揺れる亜麻色の髪も、みどりを帯びた明るい茶色の瞳も、形のよい見事な鼻梁も、名画の美女たちが一人残らず悔しがりそうなほどに美しい。

 控えめで温柔な雰囲気は周囲を穏やかに和ませ、その蕾のような唇から発される清雅な声が胸を打つ。

 そして、細く長い綺麗な指が生み出すチェンバロの典雅な音色ねいろは、魂を洗うほどに至純で、美妙だった。

 ひとつの花として見れば清純可憐でありつつ、一本の樹として見れば優美にして風雅で、群生していれば絢爛豪華にも見える、アーモンドの花を思わせる女性。

 彼女を知れば知るほどに、どんどん愛慕の情が高まっていくのを自覚した。

 誰よりも大切で、慕わしく、どうにかして自分を見て欲しいと望む。

 機会を窺いつつ根気よく近づいて、好意を示したつもりだった。

 けれど、思えば最初から、彼女の瞳は、真っ直ぐに一人だけを見つめていた気がする。

 アジア人であれほどまでに美しい男性を、カルミレッリは他に知らない。

 カルミレッリ自身も「よく出来た彫刻や人形のように端正だ」と誉められることが多かったけれど、彼は人工的というより超自然的な美貌を備えていると思う。それは、彼女と似ていた。妬ましいほどに。

 最初のうち、彼女は彼に必要以上に近づこうとせず、寧ろ避けているのではないかというほどの態度でいた。それは、彼だけにではなく、楽団の皆に、平等に。

 どうにか彼よりも先に、彼女と親しくなりたい。

 そう焦っていたが、彼女の心に最初に存在できる居場所を構築したのは、マルグリット・ド・フランソワーズ。その人だった。

 古典絵画に描かれた女神のような容姿でありつつ、近代女性の強さを隠さない性格。けれど、カルミレッリは不思議と好感を抱いた。大らかで面倒見のよい姉御肌なところが頼もしかった。

「マルガリータと呼んで」

 自信に溢れつつ、天真爛漫なようでいて、実は周囲に細やかな配慮を自然に行使している。馴れ馴れしいようにも思えるのに、何故か迷惑に感じない。そんな女性を姉のように彼女が慕うようになるのも、ごく当然だと考えた。

 そして。

 マルガリータときたら、彼女の伴侶に、彼が相応しいと狙いを定めたようだった。

「違うわよ。あの二人なら、別に、わたしが何もしなくても、いつかは恋人同士になっていたでしょうね。じれったかったから、ちょっとばかり干渉したけど、あなただって、早いところ引導を渡してもらったほうが楽でしょう」

 なんて無情なことを言うんだろうと憤慨したが、その言葉の正確さは認めざるを得ない。

 結架は集一と心を交わし、やがて、互いしか目に入らないと言わんばかりの相愛っぷりを見せつけるようになった。

「恋って、こんなに苦しいんだね」

 吐露した悲嘆を幾人かの友人にして仲間である人々に慰められながら、カルミレッリはダル・セーニョからセーニョへと戻り続けてコーダのない、行きつく終わりの見えない気持ちを手放せないまま時を重ねた。

 一度、集一と話したことがある。

「ぼくはユイカが好きで好きで、たまらない。ずっと想ってた。いまも、恋しく想ってる。だけど、君の隣で幸せそうな笑顔をしているユイカのことは、大好きなんだ。そんな君たちを守りたいとも思うよ」

「カルミレッリ……」

 ありがとうと言われる前に、言葉を続ける。

「それでも、ぼくは望んでしまうんだ。ユイカと一緒に過ごしたい。話をしたい。音楽を共にしたい。ときには君なしでね」

 苦しさを伴った言葉を口にしながら、そのときカルミレッリは、笑ってしまっていた。

「心配しないでいいよ。ユイカってば、君に夢中なんだもん。ぼくのことなんて、きっと、いつもは忘れてるんだろうね。だからね、シューイチ。ここはひとつ、君の寛容さを示すと思って、ぼくがユイカを愛しつづけるってことは認めちゃってくれない?」

 強がりな笑みだと、彼は当然ながら気づいていただろう。

 得られない恋。

 報われない愛。

 その痛みに独りで涙することも、解っていた筈。

 だけど、否、だから、彼は微笑んだ。

「……結架は、きみを忘れ去ったりしないよ、カルミレッリ。僕の心は広くないから、きみの気持ちを容認するのは難しいけれどね。でも、結架にとって、きみは、とても有難い、大切な存在で、決して失えない関係だと思う」

 拒絶でありながらも尊重するという言葉。

 ──ほんと、厭なくらい出来た男だよね、君ってばさ。

 ゴールにボールが入ったことは一度もないけれど、実は結構、ぎりぎりのところでキーパーに阻止されてたことだって、あるのかもしれない。

 心は広くないと明言した集一に、余裕は無かったのだろう。

 結架は、多くの人を惹きつけるから。

 カルミレッリの祖父母が住むアグリジェントの古代遺跡で春先に催されるアーモンドの花祭り。結架が好きな日本の桜とそっくりな花なのだと聞いてから、いつか一緒に眺めたいと願ってきた。それが叶ったときには、この恋の終着地点とするべきなのかもしれない。ゴールが幸せとは限らないのだから。

 けれど、無理に終わらせなくてもいいのではないかとも思う。

 報われないままに人生を閉じることになったとしても、誰かを愛しつづけて、その幸福を尊ぶことは、きっと、神の御心にも背かないだろう。

 果敢はかなく散る花弁が夢を見させてくれなくてもいい。

 どこか風に飛ばされて、その景色の中で憐れまれても、花は開けたことが嬉しいのだから。

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辿りつく先に開く花 〜扁桃恋歌〜 汐凪 霖 (しおなぎ ながめ) @Akiko-Albinoni

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