統合版 『わが世の春は俺だらけ』

人生最高の日はいつかと問われたら、今日と答えるはずだった。

この日のために俺は生まれて、この日を一生忘れないと誓うはずだった。

――やり直したい。

後悔のない人生を送ってきたつもりだった。後悔をした奴はやるべきことをしなかった奴だと思っていた。けど、違ったんだ。

世の中にはどうしようもない後悔もある。

人は体験して初めて後悔の本当の意味を知るんだ。

俺はどうすればよかったのだろう。どうすれば、ああならなかった。始まりはいつだって唐突で、始まってしまったら止められない。俺はこの日を一生忘れないだろう。……忘れたくても忘れられないだろうけど。

* * *

夕焼けの神社の境内、可愛い彼女と二人きり。肌寒い風に肩を寄せ合ってベンチに腰掛けていた。何気ない世間話から始まり、言葉少なになり、やがて互いに口を閉じていた。会話がつまらないからではないことは言わずもがなだ。頬は紅潮、ムードは最高潮。

やるなら今しかない。今やらないでいつやるのか。

俺の熱い視線の意味を理解したのか、彼女は震えながらもその目を閉じた。

高校のマドンナ、天川春乃≪あまかわはるの≫とファーストキス。

人生最高の瞬間。俺は春乃の両肩を掴み、今まさに熱いベーゼを交わそうとしたその時だった。

彼女の顔が俺の顔になっていた。

……何を言っているのか分からないと思うが俺にもわからない。

まばたきを幾度も繰り返すが、その顔はやはり洗面所で向かい合う己の顔だった。

夢か。夢なのか。夢じゃなきゃおかしいよな。夢だと思いたいのに両手に感じるぬくもりがこれが現実であることを突き付けてくる。

どうしてこうなった。これまで誰かが俺に見えたことなどない。ましてや彼女が俺と同じに見える要素など微塵もない。容姿端麗、眉目秀麗、才色兼備。高い鼻筋、艶やかな唇が今や平たい顔にたらこだ。悪い冗談にも程がある。

これまで付き合った経験のない俺の理性がキスというキャパオーバーな幸福を前にフィルターをかけたとでもいうのだろうか。なるほど確かに彼女は高嶺の花だ。俺なんかには不釣り合いだ。だからといって俺と同じ顔にするとはどういう了見だ!?

自分のキス待ちの顔が見ていられない。何だその顔は。干からびたフグでもそんな顔しないぞ。こんなに気色悪い顔をしていたとは思わなかった。一生キス待ちの顔だけはすまい。

「ん……」

小さく声を上げ、春乃の体がピクリと動いた。

まずい。時間経ち過ぎた。とはいえどうする。彼女が異常を感じた様子はない。俺にだけ起きている症状なのだろう。いや、そうであってくれ。かわいそうだ。その状況にある俺もかわいそうだ。誰か助けてくれ。

どうする。打ち明けるべきだろうか。

いや、駄目だ。相手の顔が俺の顔に見えましたって言われて信じるか? 俺なら信じない。気を悪くさせたらどうする。それで別れるなんてなったらどうしてくれる。

このままキスできるか。無理だ。いや、無理でもやらなくては。彼女もファーストキスかもしれない。春乃は可愛いから付き合った経験があってもおかしくないけども。というか、いない方がおかしいよな。あれ? ファーストキスもしかして俺だけ? ……うん。知らなかったらファーストキスだよな。春乃もファーストキスだ。ファーストキスなことにする。

顔を近づけてみる。クソ、自分の顔なのにいい香りする。脳がおかしくなりそうだ。こうなったら目をつむる他にない。唇の位置を確認して目を閉じる。最初からこうすればよかった。視覚情報があるからダメなんだ。強くいつもの春乃をイメージする。

唇が重なったとき、俺の脳裏に浮かんだのは自分の顔だった。クソが。

永遠にも思える一瞬が過ぎた頃、春乃が離れた。その動きに会わせて肩から手を放す。俺は恐る恐る目を開けた。

「そんなに唇すぼめなくてもいいんだよ」

彼女の顔は元に戻っていなかった。だがはにかんだ笑顔を見て、どうやら悪い印象は持たれていなかったようだと胸を撫で下す。なんだか打ち明けるのが難しくなったような気がするけど、彼女の笑顔には変えられない。できれば彼女の顔で見たかった。

「なんか、緊張してさ」

そう答えると「わたしも」と春乃が笑った。

そうだ。緊張していた。実際、キスの仕方なんて知らない。漫画とかでキスするときに歯が当たって痛いだのなんだの見たのを思い出し、できるだけソフトにキスをした。そしたらつい唇をきゅっとしてしまったわけだよ。わかったかね。ははは。……決して、接触面積を最小限にしたかったわけではない。

「どうかしたの?」

春乃が怪訝そうな顔をして訪ねてくる。付き合って一ヵ月も一緒にいるんだ。そりゃ動揺くらい見抜かれるか。

「い、いや? 何でもないよ」

「もしかしてエッチな気分になっちゃった? ちょっとなら、いいよ」

「あ〝?」

しまった。反射的に威圧してしまった。あわてて自分の口を塞ぐが、どう考えてもこの反応はおかしい。

お前は馬鹿か。夢のような台詞じゃないか。ちょっとならいいよだぞ。向こうから誘ってくれてるんだぞ。乗らない理由がない。断るほうが失礼だ。据え膳食わぬは何とやらだ。

でも考えてみて欲しい。自分に興奮した? いいよとか言われたらどうする。どう考えても煽っているようにしか思えない。俺ならぶん殴る。手が出なかっただけ御の字だ。だが、これは流石に春乃を傷つけたに違いない。

「ご、ごめんなさい」

 ほら見ろ。委縮してるじゃないか。

 ああ、もう終わりだ。こんなDV気質見せたら駄目だ。そんな捻じ曲がった独占欲は俺にはないのに、違うって言っても分かってもらえない。終わった……。

「い、いやいやいや謝るのは俺の方だ。ごめん。俺が悪かった。こんなことするつもりじゃ……」

「ううん。嬉しかった」

……はい?

「だって、私が露骨に誘惑したから怒ってくれたんでしょ。それって私を大事にしてくれてるってことだよね」

……ごめんちょっと何言ってるかわからない。どMというわけじゃないよな?

つまり、えっと、なんだ。安易に体を許そうとしたことに怒ってるって解釈されたってことか。

……へー。こんなに可愛い子に誘われて、そんな風にできる奴がいるのか。すごいな。性欲パンダかよ。逆に羨ましくないな。

童貞にそんな咄嗟な判断できるはずがない。顔が俺になっていなければ、これっていいんですか? いいんですよね? となっていたに違いない。冷静に考えたら違うことは分かるのに、目の前に人参がぶら下げられたら必死になって走る。それが本能だ。

全くもって予想外の反応だが、乗るしかない。このビックウェーブに。

「そ、うだよ。うん。でも怖がらせる必要はなかったよな、ごめん」

「うん。だけど私も悪かったからお互い様だね」

なんだ。俺の彼女は天使か?

顔も内面もいいなんて非の打ちどころがなさすぎないか。

対して俺はどうだ。自分のことばかりじゃないか。嫌われるかもしれないからって隠し事をして、嘘をついて。

……打ち明けよう。それで振られることになっても受け入れる。不細工ではないがイケメンでもない。そんな俺が彼女と対等になれるのは心だけだ。それだけは折れちゃいけない。

決意を固め口を開こうとしたそのとき、春乃が耳元で囁いた。

「でもね、私は君だからいいっていうんだからね」

……やっぱり打ち明けるのは今度にしよう。

* * *

翌朝、けたたましい目覚ましの騒音で覚醒した。

布団から這い出て、窓の外を見る。すると道行く人々全てが俺の顔をしていた。サラリーマンは勿論のこと、登校中の小学生もご老体も誰も彼もだ。

「うわぁ……」

見ろ、人がゴミのようだ。ランドセルのツインテールで俺の顔で、もうなんか筆舌に尽くしがたい。

やはり昨日の出来事は夢じゃなかった。

帰宅する最中も道行く人が皆、自分の顔になっていたのだ。あまりにもおぞましい光景に気を失いそうになりながら帰宅したのだが、出迎えた母さんも俺の顔をしていて卒倒した。すぐに意識を取り戻したが、心理的負担が想像以上だと認識できたのは収穫と言うかなんというか。

今日は金曜日。高校の授業がある。休みたいのは山々だが、春乃に心配をかけるべきじゃない。何を理由に休んだとしても体調不良のときにキスしたと思われるのは嫌だ……いや、全くもってその通りなのだが、まあ、それは置いておくとして。

一日寝ても治らないのだ。いつこの症状が治るのか皆目見当もつかない。学校を休んでも治らなかったら余計学校に行きづらくなる。

ならば無理を押し通してでも登校し、この状況に慣れるしかない。幸い一日行ったら土日と休みなんだ。病院なんかはそのときでいい。

二階の自分の部屋から出ると洗面所で顔を洗い、リビングで朝食をとる。いつものルーティンのはずなのだが、体が鉛のように重かった。

「ねえ、今日は休んだ方がいいんじゃないの?」

向かいに座った母さんが額に手を当て、そんな提案をしてきた。

まあ、当然だろう。帰ってきてすぐ倒れられたら、心配もする。だが、俺の症状を明かしたりはしない。どこから春乃に情報が洩れるか分からないからだ。その辺、母さんは信用できない。井戸端会議で広められたりなどしたら最悪だ。

それにしても遺伝子を引いているはずなのに俺の顔になると母さんの面影が全くない。ちゃんと血繋がってるか心配になるほどだ。まあ、流石に考え過ぎだろうけど。

「いや、大丈夫。ちょっと貧血だっただけ。昨日寝付けなくてさ」

「そう? じゃあ今日は多めに食べていきなさい」

母さんがそう言って自分の分の皿を渡してくる。

正直、胃に何も入れたくないぐらいなのだが、仕方ない。腹八分目に抑えるところをしっかり満腹にしてから支度をして玄関で靴を履く。すると今頃になって二階から降りてくる影があった。

「おはよう、兄ちゃん」

「お、おう……おはよう。遅刻するなよ」

可愛がっていた妹まで俺の顔だ。母さんのときも辛かったが、これはまた別のベクトルのダメージがある。

ああ、もう駄目だ。玄関で心が折れそうになった。

もうこれ、行かない方がいいんじゃないか。この調子だと春乃と顔合わせたときにボロが出そうだ。そもそも顔が俺になったから制服姿だと区別できないよな。手を振ってきたときにわかんなかったらどうしよう。

駄目だ駄目だ。雑念を捨てろ。そうじゃないとこの先、やっていけないぞ。

負の感情に飲まれそうになり、両手で頬を叩く。力を入れ過ぎてバチンといい音がなった。

「うわ、びっくりした。何してんの」

「い、いや。ちょっと、気合入れようと」

「流石に自分を殴って欲求解消するのは、いくら兄ちゃんでも引く……」

「違うぞ? お兄ちゃんはそんな高度なMじゃないからな」

「あ、じゃあMなのは認めるわけですか」

「おいふざけんな。違うからな。違うからな?」

「兄ちゃん早く行かないと遅刻するよ」

「いや、お前が言うなよ……」

なんだが行く前から疲れたけど、いつもと変わらない調子に少しだけ気が楽になった。ありがたいな妹ってやつは。ビバ妹。こんな妹欲しかった。いや、実在するんだけどさ。

「あ、そうだ。妹さんよ」

「何さ。兄ちゃんさんよ」

「髪留めくれないか。できるだけ特徴的なやつ。学校でつけても怒られないぐらいのがいいな」

「え、何。本当にどうしたの。女装趣味まで目覚めたの」

「違う違う。説明しにくいんだけど、ちょうど今必要なんだ。頼む。兄ちゃんを助けると思って。今度お礼するからさ」

「うぇえ……たくさんあるから、別にいいけどさあ」

「めんどくさいな」と言いながらも妹は部屋に戻って髪留めを持ってきてくれた。前髪留めで一見すると一般的なものだが、よく見ると黒色の中に独特な文様が刻まれている一点もので、実にオシャレだ。流石だな。普段から付け過ぎて髪留めがメインになっているだけはある。

「ありがとな」

「いや、兄ちゃん。それ本当に何に使うの? 兄ちゃんでも変なことに使うのは許さないよ」

「どうやってこんなもので変態的なことができると……? いやでも用途的には変な使い方をすることにはなるのか」

「殺す」

「待て待て、違う違う!」

「殺されたくなかったら、返して」

「ああもう、解決したら説明するから。じゃあな」

このまま言い合いしていたら本当に遅刻してしまう。目的は果たした。勢いよく玄関を開けると扉の前に俺の顔。

「うおぉおおおおお!?」

 誰だ!? 玄関前に立ってたのか? 変質者か?

「あ、ごめんね。驚かせちゃった」

なんだ春乃だったか。心臓止まるかと思ったぞ。

「あれ? 春ちゃんじゃん。どしたの」

「おはよう、ミカちゃん」

俺が混乱していると二人で和気あいあいと話し出した。息を整えて、問いかける。

「ふ、二人とも面識あったのか」

「何言ってんの兄ちゃん。学校に通ってたら皆知り合いみたいなもんでしょ」

いや、それはおかしいだろ。全校生徒どんだけいると思ってんだ。

「ミカちゃん顔が広いから生徒会の手伝いしてくれてるんだよ。寝坊ばっかりだから生徒会に推薦しても落ちちゃったけどね」

え、マジなの? ほんとなの?

「春ちゃん聞いてよ。兄ちゃんが――」

「春乃、プレゼントしたいものがあるんだ」

妹が怪訝な顔をしている。すまん。今は話を合わせてくれ。

「え? 何だろう」

「こういうのってどういうのがいいかわからないから妹に選んでもらったんだけどさ。髪留めをね。つけてくれると嬉しい」

「え、いいの。ありがとう! ミカちゃんもありがとうね」

「んー、うん。そだね。どいたしまして」

妹よ。言わんとすることは分かる。そんな即興で用意したものを渡すなっていいたんだろ。でも、仕方ないんだ。春乃は綺麗な黒髪をしているが、特徴的な髪型ではない。身長も高いわけでもなく、低いわけでもない。皆が制服を着る中で春乃を見分けるのは至難の業だ。そこで髪留めだ。特徴的な髪留めを付けていればいい。

普段なら何もなくても分かるんだけどな。

髪留めを付けてニマニマしている春乃を見ると心が痛む。ごめんな。こんな目的で渡すべきじゃないんだけど、許してくれ。

「あ、そうだよ。遅刻しちゃうね。行こっか」

腕時計を確認するといつも家を出る時間より十五分も遅くなっていた。

「うわ、もうこんな時間なのか。急がないとな」

さて、登校だ。ただ家出るだけで時間かけ過ぎだ。

「兄ちゃん」

呼ばれて振り返ると口パクで何か言っていた。何だ? えっと……さ・い・て・い。かな? ははは、こやつめ。

……はい、その通りです。

「ミカちゃん?」

「いってらっしゃい言ってなかったからさー。そんだけ」

「お、おう。いってきます」

やっぱりそうだよな。最低なことをしている自覚は持ち続けなきゃ駄目だ。

美香は正しい。できた妹だ。俺にはもったいないな。

さて、まだ一日は始まったばかりだ。取り合えず乗り越えよう。それができなきゃ始まらない。ネットでも調べてみたけど、どうにもこういった病気はわからない。図書室に何かいい本はないだろうか。

そんな考え事をしていると春乃が「ねぇ」と声を掛けてきた。

「どうした?」

「ミカちゃんも学校あるのに、置いてきてよかったのかな」

「あ……」

まあ、うん。なんだ。今に始まったことじゃないし、ね?

でも、あいつのそういう気負わなさってやつを俺は見習う必要があるのかもしれない。

そんなことを想いながら、俺だらけの一日目が始まった。

* * *

登校中は外がやけに新鮮に思えた。日差しに焼かれるが、朝のすがすがしい風が暑さを和らげてくれる。公園の前では青々とした木々のざわめきが耳に心地よかった。ほら、新緑の緑が眩しい。

素晴らしいな。自然ってやつは。

……断じて通りがかり人の顔から目を背けていた訳じゃない。

学校に到着してすぐ、俺は猛烈な眩暈に襲われた。脳が理解を拒んでいる。

右を見ても俺、左を見ても俺、そして隣の彼女も俺だ。

頭がおかしくなりそうだ。これまでは服装が違うため、まだ自分と違うものという認識ができた。だが制服となるとどうだろう。

まるで俺が分裂したみたいだ。こんなことなら髪を個性的にまとめておくんだった。そうでもなければ個性を確立できない。案外金髪に染めてたヤンキーたちも同じ気分だったのかもしれない。

双子や三つ子ならまだしも、全校生徒全部俺だぞ。なんなら校門の強面教師ですら、ぶっさいくな俺の顔だ。

駄目だ早くも吐き気がしてきた。

「どうしたの?」

春乃が心配そうに顔を覗き込んできた。いつもならときめきを感じる首を傾げる仕草だ。二度とやらないでくれ。俺はナルシストではないが、自分のことはあんまり好きじゃない程度だったのに今は大嫌いだ畜生。

「あ、朝から食べ過ぎたからからかな。調子悪くて」

「へぇ。朝は何も食べたくないくらいって言ってたのに、珍しいね」

「そ、うだな。えっと、母さんが作りすぎたみたいで」

「無理しちゃ駄目だよ」

俺の彼女は優しいなあ。気持ちだけもらっておく。だから顔覗き込むのはやめてくれ。

「おーす。お二人さん。朝からラブラブですなあ」

背後から声がかけられ、振り返ると俺がいた。

やめろ。わかんねぇって。喋る前に名前と所属と階級を言いやがれこの野郎。

……いや待てよ。おちゃらけた感じは。

「い、岩崎か?」

「え、なんで疑問形?」

ナチュラルに確認してしまった。隣に春乃がいるってのに何やってんだ俺は。

何か、何かないか。髪、普通だ。服装、普通だ。顔、俺だ。駄目だコイツ何もないぞ。ふざけやがって。

くそ何も思いつかねぇ。

「な、なんか雰囲気ちがうなって、思って」

苦しい言い訳だ。だがどうにか乗り越えるしかない。

「お? わかっちゃう? オーラってやつ、出ちゃったかー」

え、マジで? これでいけるの?

なんだ。一体何が違う。でも一見して分かるようなものはないはず。新しいバックにでもしたのか。なら普段から見てるわけでもないし分かんないよな。

「ついに飲んでみちゃったのさ、プロテインってやつをね!」

「……は?」

「いやーもう。筋肉が喜んじゃってる的な? 今日も朝から一杯ね。はー、もう飲むと飲まないじゃ天と地の差っていうかさ、あるわけでね」

棒切れみたいな腕でなーに言ってんだこいつは。

筋トレしてから飲んでるんだよな。まさか、飲んで満足してないよな。

「もう、私がシャンプー変えても気づかないくせになんで岩崎くんのときは気づくのかなー。傷ついちゃうなー」

「え?」

嘘だろ春乃。俺がそんな微細な変化に気づくわけない。偶然に決まってんだろ。そもそも変化してないぞこいつ。

「もー。可愛い恋人がいるくせして。俺様のこと好きになったらダ・メ・だ・ぞ?」

「あ〝あ〝 ?」

「ご、ごめんて。そんな怒ることないだろ」

すまん岩崎。俺の顔でそういうことされると殺意が沸いてくるんだ。あと俺にそっちの気はない。

とはいえ、彼氏として弁明しないといけないな。周りに見せつけておく意味でも。なんたって春乃は絶世の美女だ。俺の目がとち狂ってるだけで、周りからはそう映っている。仲違いしているようなら奪ってやろうとする輩ばかりだ。

「ごめんな春乃。二人の時間を邪魔されて岩崎がいつもより邪悪に見えたんだ。俺の目に他の奴は映らないよ」

だって皆、俺の顔してるからな。目移りしようがねぇよ。何なら春乃の顔さえ見たくない。

「ひゅーお熱いねぇ。ていうか待て。なんだ邪悪って。聞いてんのかコラ」

「やだ、もう恥ずかしいな」

春乃が顔を赤く染めながら体をくねらせている。俺の顔だと実に気持ち悪い。くねくねすんな。昆布かてめぇは。

見せつけはこんなもんで十分だろ。

周囲の羨望の眼差しが気持ちよく……ねぇな、うん。

だって四方八方から俺の顔で睨んでくるんだもん。普通に怖い。頼むからお前ら今度にしてくれ。

そんなやり取りをしつつ教室に入るとひしめく俺の顔、顔、顔。

思わずたじろいでしまう。

「うわぁ……」

「何突っ立ってんだ。早く入ろうぜ」

突っ伏していると岩崎に背中を押された。 そうだ。こんなところで挫折してたら体がもたない。そう思って顔を上げると、もう誰が岩崎なのかわからなかった。

……やっぱり駄目かもしれない。

* * *

一限目、二限目の授業はまるで頭に入ってこなかった。

一限目は希少な面白い授業をしてくれる国語の先生だったのに、自分の顔をしているだけで気が逸れてしまう。ちょっと俺の顔なだけなのに。いや、ちょっとどころじゃないんだけども。生活に支障はでないと思っていたが、そんなことはなかった。大損害だ。

なんだコレ。こんなに俺がいるなら俺いらなくないか。

二限目に関しては美人教師だったのに、俺の顔なものだから微塵も嬉しくない。俺の顔で鼻の下伸ばす野郎どもを端から叩き潰したい衝動を必死に抑えるので精いっぱいだった。何より、あの先生見てるときの俺の顔ってこんななんだと見せつけられて何とも言えない気持ちになっていた。

「もう帰りたい……」

予想外の方向から精神がゴリゴリ削られていく。気にしないでいればいいとか思っていた今朝の自分をぶん殴りたい。このままでは精神崩壊まっしぐらだ。さっさと母さんに打ち明けて病院に行くべきだった。

机に突っ伏していると岩崎と思われる鳴き声が聞こえてきた。

「おいおい。今帰るなんて正気かお前」

「うっせえ。話しかけんな馬鹿」

「今日はいつにもまして当たり強くないか? それより、わかってんだろ。忘れちまったのかよ。今日は水泳なんだぜ」

「あー涼しくていいな、そりゃ……って、今日は女子の番だろ」

高校生ともなると出るとこでるから仕方ないだろうが、交代制のせいでプールに入る回数も半減だ。それは女子も同じことだが、こうも暑い日は羨ましい。

「だから、いいんだろうが」

「このご時世に覗きか。命知らずだなお前」

勝手にやってろ。いつもだったら興味ないねといいつつ気になって仕方がないところだが、生憎みーんな俺の顔なんですわー。むしろ見せないでくれと懇願するところだね。

そういや、あいにくって漢字で生を憎むだよな。まさしく俺は今、生けとし生けるもの全てを憎んでいる。お似合いな言葉だぜ全く。生きとし生ける人間をだけども。あれ、でももしかして人間に近い生き物も俺の顔に見えるのか? 人面犬とか出ても俺の顔とか言わないよな。まさか天井のシミまで?

鳥肌が立った。こうなったら家に引き籠る他にない。

「覗きじゃねぇよ。わかってる癖してとぼけちゃって。うちのプールは室内、そしてガラス張り。その隣には運動コート。わかるか? つまり覗いてるんじゃない。あいつらが見せているのだから問題ないのさ!」

問題……ないか?あるよな絶対。

「でも水中眼鏡とかかけてるから顔が隠れてるみたいなところはマイナスだよな」

「俺、体育大好き!」

付けると不細工になりがちの水中眼鏡に俺は生まれて初めて感謝した。

* * *

体育の時間は散々だった。

炎天下の野球ほど気が滅入ることはない。運動は嫌いじゃないが、物事には程度がある。体育教師様は日陰からご指示とは、全くよいご身分だ.

ただでさえ腹が立つのに、その顔は俺の顔に見えているので二割増し。

加えてプールの方に目を向けているとバカでかい声で注意を受ける。しかも名前とともにだ。勘弁して欲しい。絶対に女子の方にも声が聞こえている。そして変態のレッテルを貼られるのだ。岩崎が名前を呼ばれていたが、周知の変態なので大丈夫だろう。

結局俺はスク水女子を見ることはできなかった。

体力を使い果たした後に4限の授業はきつかったが、皆が俺の顔をしていることは不思議と気にならなくなっていた。慣れてきたというより、感覚が麻痺してきたのだろう。

良い兆候というべきか悪い兆候と言うべきか。

「調子戻ってきたみだいだね」

中庭で弁当を食べていると、隣に座った春乃がそう言った。

きっと俺がもりもり食っているからだろう。自分のお弁当のから揚げをあーんと食べさせくれた。うまい。けどな、これはやけ食いっていうんだぜ。

周囲の視線が痛い。代わって欲しいか。ならまずは俺と同じ症状になれ。話はそれからだ。

「おいしい?」

「うまい」

「でしょ。うまくできたんだー」

「え、手作り!?」

初めての彼女の手作りをやけ食いで胃に収めてしまった。もっと味わいたかったのに。どうにか胃から取り出せないだろうか。でもなあ、吐いたように見えるかもしれないなあ。ああ、時を巻き戻したい。

なんだろう。短い期間にものすごい勢いで業を背負っている気がする。

春乃からは貰ってばかりだ。何か返せるものはないか。例えばアクセサリーとかいいかもしれないな……って、今朝渡したな。髪飾り。あれもなんだかんだで春乃のことを思ってのことというより、自分のためのような気がする。

……つくづく救えない男だ、俺は。

あのとき、明かしておけばこんなに後ろめたさを感じる必要もなかったのに。

いや、それも俺が楽になろうとしているだけなのだろうか。

「春乃、どこか行きたい場所とかないか」

「え? ど、どうしたの急に」

「いや、なんかさ。春乃を喜ばせたいっていうか、なんというか」

「えっと、つまり、その。デートのお誘いってことでいいのかな」

デートかぁ。うん、言われてみれば確かにデートだな。え、デート?

ちょっと待って。俺と春乃って付き合ってから一緒に出掛けるのって初めてじゃないか。駄目だ駄目だ。お前はまた、そんな大事なイベントを雑に扱いやがって。      

一つ咳ばらいをして、制服を整える。そして春乃の手をとった。

「わ、どうしたの」

「春乃、俺とデートしてください」

「え、あ、う……は、はい」

春乃は目をぐるぐるさせて顔を赤くしている。

俺の彼女は可愛いなあ。俺の顔のせいで台無しだけども。

この症状で一ついいことがあったとしたら、全く緊張しないことだろうか。いつもだったら恥ずかしさが勝って、うまく誘うことはできなかった。今なら強盗に鉢合わせても物おじしない気がする。悪いことばかりじゃないな。いいことの比率のほうが圧倒的に低いことに目を瞑れば。

「どこにいきたい。俺はどこでも連れていくよ」

「ほ、本当にどこでもいいの?」

「男に二言はないよ」

ネズミの王国だろうが銀行の名前みたいな遊園地だろうがどんとこい。

「じゃあ、近くの遊園地に行きたい。来週には廃園になっちゃうんだけど、これから潰れる場所に行くのは縁起も悪いし、古いし、行きたくないかなって思ってて」

「近くの遊園地?」

あれ? 近くに遊園地なんてあったか? スマホで調べてみると確かにある。でも名前も知らない遊園地だ。

「や、やっぱり駄目だよね」

「え? ああ、違う違う。行ったことない場所だったから、案内はできないなって思っただけ。情けないけど、案内任せてもいいかな」

春乃はぱちぱちとまばたきをした。断られると思っていたらしい。

信用がないな。春乃にお願いされたら余程のことがなければ断らないのに。今、俺の顔で上目遣いされたりすると逆効果かもしれないが。

「うん、うん。任せて!」

無邪気に笑みを浮かべる春乃を見てホッとする。誘ってよかった。話し込んでしまったようで、昼休憩が終わるチャイムが鳴る。いそいそと弁当を閉まって教室に向かう。上機嫌で先を歩く春乃の後ろで、俺はふと気が付いた。

あれ……? 俺、土日を休むために今日、頑張ったんじゃなかったっけ。

笑顔の春乃の背で、俺は顔を青くした。

* * *

午後の授業は明日をどう乗り越えるかを考えていたらあっという間に過ぎていた。

普通にデートを楽しめばいいのだろうが、それだけで済むだろうか。いや、確実にそうはならない。今日だって甘く見積もっていた。すれ違う他人にまで気にしてしまうとは思わなかったし、自分の顔で痴態を晒されると自分のことのように心がざわつく。春乃は今朝渡したヘアピンを付けてくるだろうし、見分けがつかないことはないはずだ。それでも、もし何かの拍子でヘアピンを落としてしまったら、それが原因で見分けられなかったら。

失敗は未然に防がなければならない。

取り合えず、手を繋いでいればヘアピンを落としたとしても見分けがつかなくなることはない。そもそも服装を覚えていれば、同じ服で尚且つ同じ髪型の人が現れない限り間違える心配はない。……フラグじゃないよな?

春乃が一緒に帰ろうと言うので、図書室で調べものもできなかった。似たような症状でネットで調べてみると身体醜形障害というものが目に留まったが、これは自分の姿形に過度な嫌悪感を感じる症状だ。同じ症状に陥りそうになってはいるが、俺の症状と合致はしない。解離性障害がそれらしいかとも思ったのだが、何か違う気がする。俺のこの症状はいつ治るのやら。

「ねぇねぇ。どんな服が好き?」

俺の心の内を知る由もなく、春乃は上機嫌だ。おてて繋いじゃって、まあ。俺の手、鳥肌立ったりしてないよな。

おかしいな。いつもなら手汗を気にしているところなのに。

さて。難しい質問だ。だがSNSやネットのおかげで俺は乙女心を欠片ぐらいは理解している。どんな服でも似合うよ、なんて言うのは悪手だ。女の子はそんなことは分かっている。二つ服を持ってきたら、どっちも似合うけど俺はこっちの色合いの方が綺麗だと思うな、と言うのが吉だ。

だがまさかどんな服が好きと聞かれるとは。

つい欲望に従って「暑いからホットパンツを」とか言い出しそうになって口を塞ぐ。彼女は今、俺の顔だ。そんな状態で自分の趣味全開の服をされたらどうなる。今後その服を見たら、自分の顔が思い浮かんでしまうのだ。

「え、っとぉ……」

やばい。選べなくなってしまった。

どんな答えを言っても不幸になる気がする。俺は深い葛藤の後、答えた。

「ど、どんな服でも似合うよ」

……悪手って言って、すいませんでした。

* * *

昔話をしよう。昔話と言ってもつい一ヵ月ほど前の話だ。当時の俺は恋愛を毛嫌いしていた。

恋愛などしなくても生きていけるし、また映画のような美しい恋愛物語は存在しない。それに誰も彼も恋愛というものに理想を抱いている。

そんないいものじゃないはずだ。どこかで恋愛とは病気のようなものと聞いた。若さゆえの間違いだと。恋の病に罹らなければ、恋愛などできない。しかし冷静な頭をもってしなければ相手の熱が冷めてしまう。そして冷静な頭で恋愛などできないのだ。

まあ、長々と語ってみたが、ぶっちゃけてしまえば俺はモテなかった。告白する勇気も情熱もなかった。恋愛など縁のない話で、へそを曲げて恋愛なんて興味ないとふて腐っていたわけだ。

そんな俺に転機がやってきた。二年生になったばかりの頃だ。そんな俺にモテ期が到来した。

きっかけはあの事件だ。

あの日、学校に不審者が入り込み、避難警告が出た。三階から降りようとしていた俺は、階段の中腹で運悪く鉢合わせてしまった。なんで追われてるのに上に登ってくるんだと呆れたものだ。加えて他の生徒は俺を置いて逃げ出すもんだから、たまったもんじゃなかった。

不審者は人類がどうだの、文明がなんたらかんちゃらと喚いたいた。そこに教師たちの走る音が聞こえてきた。

不審者は俺を突き飛ばして上に逃げようとしたのだが、俺の背後には大きめの窓があった。さらに運が悪いことにその窓は開いていた。ちょっと寄り掛かった程度では落ちないだろう。だが押されたのならその限りではない。後ろに壁があると思っていたので反応も遅れた。

そのまま宙に投げ出されそうになった俺を救ったのは、なんとその不審者だった。……いや、救ったも何もそいつに突き飛ばされたんだけども。まあ、何はともあれ救われたのだ。不審者はそのまま逮捕されていった。

で、ここからが本題だ。どういうわけか、不審者を捕まえたのは俺だということになっていた。

否定も謙遜と見なされ、学校中の噂になる始末。最初は辟易していたのだが、女子にもてはやされては気分もよくなってくる。当然、俺は調子に乗った。話す回数が増えればそれだけ仲良くなる。鼻の下伸ばして、みんなにいい顔だ。周りに女子を囲んで「これが本当の八方美人」などと自己優越感に浸っていた。

思い返して見ると実にゲスい。

皆が俺の話を聞きたがった。「どんなやつだった」「窓から落とされても這い上がったってマジなの」「空飛んだんだろ」「実は人間じゃないんじゃないの」「不審者ってやっぱ黒ずくめなの」「膝固めで捕まえたって本当?」「柔道部に入らないか」とエトセトラエトセトラ。

俺はどうすれば盛り上がるか分かっていた。嘘を重ねればいい。ただ嘘をつくだけじゃ飽きられる。なら内容を更新してやれば何度だって聞きたがるわけだ。今日も面白可笑しく語ってやろうとしているといつもと違うことを質問された。

「大丈夫だった? 怪我しなかった?」

それが天川春乃だった。

あの日、天川は風邪で休んでいて、事の顛末を全く知らなかった。

ただ気遣ってくれただけ。それだけのことに俺は呆気に取られてしまった。心配されるなど想定していなかった。心配してくれた人もきっといただろう。何ともないように振る舞っていたので声をかけなかったに違いない。春乃はある意味、空気を読めていたなかった。

おもしろおかしく虚構を紡ぎあげようとしていたのに、全て頭から吹き飛んだ。気づけば、ただただあったことを彼女に話していた。

つまらない話にそれまで集まっていた人たちは去っていった。疎外感を覚えるはずの状況を俺は何とも思わなかった。皆が背を背ける中、俺と彼女だけが向かい合っていた。

「怖かったね」「大変だったね」

月並みな言葉だった。でもそれがやけに身に染みた。

肝試しなら怖い話も聞きたがるだろう。だが俺を突き飛ばしたのは実体のある人間だった。訳も分からないまま突き落とされそうになったなんて、そんな話をわざわざ聞いて追体験したい奴なんて普通はいない。

だから、彼女の月並みは異常だった。聞かないようにしてたのに、と周囲からは非難の視線が向けられている。

でも俺は救われていた。あんな体験をして、何も感じないはずがない。強がっていただけ。

本当に、怖かったんだ。

何を考えているか分からない相手を前に足が竦んでいた。どこかに刃物や凶器を隠し持っていてもおかしくない。相手はいつでも襲い掛かることができた。そんな状況下で意味の分からない話を聞かされていた。

相手は結局何も持っていなかったし、結果としては押し飛ばされただけだ。でもそんなことが分かるはずもない。意図的ではなかったとしても、落とされそうにもなった。

あの出来事があってから生活に現実感を感じられない日々。

あのときに俺は死んでいて、自分に都合のいい夢を見ているんじゃないかとさえ思えた。

嘘を重ねたのも本当にあったことだと思いたくないからだった。だが嘘を重ねても意味はなかった。それどころか歯止めが効かなくなって、虚栄心が膨らむばかり。

誰かに止めて欲しかった。

面白がって誰も俺を留めなかったし、俺も止まれなった。そうなったのは俺のせいだし自業自得ともいえる。話している間は楽しんでくれるものだから、こっちも気分がよかった。でも終わるとすぐに虚しさが押し寄せてくる。俺の話を聞きに来る奴らを喜ばしくも疎ましく思っていた。誰かが悪いわけじゃない。ただ集団の強制力のようなものが生まれていた。

春乃はそれをいとも簡単に壊したのだ。

取り巻きはいなくなったが、清々しい気分だった。曇っていた視界が鮮明になって、窓からの風や太陽の光とったありふれたものが新鮮に思えるほどにだ。

俺の体験談を話し終わって、会話が途切れそうになる。何か話題はないかと探してみるが何も思いつかなかった。

「天川……さんはもう風邪大丈夫なのか」

「さんはいらないよ。何なら下の名前で呼んだっていいんだよ?」

「そういうのは彼女になってからだろ。天川さんは俺の彼女になりたいのか?」

あのときの俺はピュアだった。高校二年生にあるまじき事態だ。だが俺の同志は世の中にたくさんいるだろう。……いるよな?

「それって、えっと。プロポーズ?」

「は、はあ!?」

「そ、そうだよね。違うよね。ごめんごめん」

後から知ったことなのだが、春乃はこういった発言を天然でかましている。彼女のような容姿でそんなことを言ってしまうとどうなるか。当然、遊び慣れている人だと思われてしまう。そういう噂を聞きつけてやってきた本物のプレイボーイどもは軒並み振られることから、いつしか大人の相手しか相手にしないと言う根も葉もない噂が広まってしまったとか。

ピュアな俺はそんな噂のことは知らなかった。そして何をとち狂ったのか春乃の言葉を聞いてチャンスはここにしかないと思った。

「ち、違くない。あ、天川さん。付き合ってください!」

今思い返しても悶える。周りにはさっきまでいた取り巻きたち。そのど真ん中でプロポーズだ。

振られて笑い者にされる。冷静な頭で考えればわかったことだった。

「わ、私でよければ、その。よろしくお願いします」

男子たちの絶叫と女子たちの歓声の中、こうして俺たちは付き合うことになったのだ。

* * *

快晴に新緑の並木が映えていた。連なった木陰を進み、川のせせらぎに耳を傾ける。風が吹けば木々もさざめき、自然の合唱会だ。ここで鼻歌を口ずさむのはマナー違反。ただあるがままでいい。

そう、ただあるがままで……。

並木を抜けると、朝のランニングをしている人とすれ違った。かなり鍛えているようで腕の筋肉が隆起している。実に憧れる。どんないかした面かと拝んでみれば俺の顔。

ほーん。マッチョになったら俺もあんな感じか。はっはっはっは。

頼むから元に戻してくれ神様!

やはり寝ても俺の視界に映る人々は俺の顔をしていた。そして春乃との初デートが二時間後に差し迫っている。大丈夫だよな、俺。嫌がっているような顔はしないだろうな。血管が額に浮き出たりしないよな。手をつないでも鳥肌立たないよな。ああ、心配だ。大丈夫だろうか。

なんか、こう、違うよな。初デートって、手を繋いでもいいのかな、とかどんな服着てくるんだろうってドキドキワクワクするものだよな。決してドキドキハラハラするもんじゃないよな。

今日は春乃にめいいっぱい楽しんでもらわないといけない。彼女に最高の思い出を用意することだけに集中しなくては。

コーディネートも妹様に頼んだから完璧だ。調子乗りすぎじゃないかと思えるチョイスをやってのける。そこに痺れる憧れる。土下座したかいがあった。

さて。二時間も前に来たのには当然理由がある。春乃と合ったとき、顔を見ても引かないようにするためだ。……ひどい言い草だが許してほしい。それ、俺の顔なんだ。

昨日も玄関前で腰を抜かしそうになったし、話しているとどうしても顔に意識が向いてしまった。そのため対策としてあらかじめ俺の顔をした人たちで慣れてしまおうというわけだ。寝たことで感覚の麻痺が解けてしまったのか、他人が俺の顔をしていると気色悪くて仕方ない。

自分の顔を気持ち悪い気持ち悪いと言うべきじゃないのはわかっている。だが俺の視界だけとはいえ人の顔を上塗りしているのだ。本当に申し訳がない。俺の顔がとんだ粗相を。

「あれ?」

集合場所の公園に着くと見覚えのある姿があった。俺の顔をしているのだから、見覚えしかないのは当然なのだが、なんというか、うん。集合場所なんだから、そうだよな。

春乃がすでに集合場所にいた。

……嘘だろ、二時間前だぞ。女子は支度に時間がかかるだろうに。そんなに楽しみにしてくれるのは嬉しい。彼氏冥利に尽きる。

けど、けどさ。早くね? 早すぎじゃね?

いつからいるんだ本当。まさか三時間前とか言わないよな。俺が時間きっかりに来たらどうすんだ。頼む、今きたとこであってくれ。頼むから。

「お、お待たせ。待った?」

「うぇえ!?」

いや驚きすぎだろ。赤の他人に声を掛けたのかと不安に駆られたが、プレゼントした髪飾りのおかげで迷うことはない。

「え、え。早すぎじゃない?」

「こっちの台詞というか、お互いさまというか。取り合えず、おはよう春乃」

「う、うん。おはようございます」

なんで敬語だ。

よくわからないがどうやら混乱している様子。こっちも計画が狂ったせいで心の準備ができていない。顔が気になってしまう。思わず目を逸らしてしまいそうだ。だが待っている彼女を放置して自分を優先できるわけがない。落ち着け。まず言うべきことは決まっている。

「その服、似合ってるよ。可愛い」

白いワンピース……確かシャツワンピースって呼ぶんだったか。春乃のボブカットの黒髪によく似合っている。

赤い靴と赤い鞄が実にキュートだ。

一歩間違えたら井戸から出てくる女の幽霊と赤い靴の怪談とかの怪異のブレンドになりかねないコーデだな。

俺がそんな失礼なことを考えているとも知らずに春乃はありがとうといってニマニマしている。俺の顔のせいでニマニマというよりニチャニチャしている。ふざけんなお前ぶっ殺すぞ。

「そっちも似合ってるよ。カッコいい」

「だろ?」

なんたって妹に頭踏まれて選んでもらったんだからな。足裏で撫でられたけど、そんな優しさはいらなかった。

「ところで、春乃はいつ着いたんだ。待たせちゃったか?」

「ううん、全然。10分くらい前かな」

待ってんじゃねぇか。

まじかー初めてのデートで彼女待たせたか。なんか凹むな。でもこれ俺悪くないような気が……いや駄目だ駄目だ。悪い悪くないって決めると片方が悪役っぽく聞こえるからな。そんなことしてもマイナスにしかならない。

「は、春乃はどうしてこんなに早い時間に」

「君が来てるんじゃないかなって。待たせちゃ悪いかなーって」

なんてことはないように春乃は言った。

背筋に冷や汗が流れる。確かに俺は早めに来るだろう。だが彼女の顔が俺じゃなかったら、せいぜい一時間前だ。つまり一時間待たせる可能性があったということだ。

春乃が度を過ぎたお人好しなことは知っていたが、認識が甘かった。将来悪い男に騙されないか心配だ。俺が守らねば。

……あれ? 俺すでに騙してね?

「でもこんな早く来るとは思わなかったよ。びっくりしちゃった」

「俺もびっくりした。まだ遊園地開園してないだろ。時間通りに来たらどうするつもりだったんだよ」

「どうもしないよ。待ってる。当たり前でしょ」

当たり前、ではないかな。

今までこういうところを指摘してくれる友達はいなかったのか。一部の女子からは嫌われているものの春乃は人気者だ。それなりに遊んだりしてるだろうに。

「あのな、春乃。俺を思ってくれた気持ちは嬉しい。だけど何時間も待たせたかもしれないとか申し訳ないからさ、今度から早く来すぎるのは止めような」

春乃は目を丸くした。まさか初めて言われたのか? んな馬鹿な。

「でも、君は二時間前に来てたよね」

「それはちょっと、緊張を紛らわそうと思って」

「前に買い物に付き合ってあげた子がね、すごい早くから来てたから」

はーん。合点がいった。前に付き合ってたやつがデートのときに早く来すぎてたってことだな。なるほど。ふむ。へー。いや、別に。わかってたけどね。

春乃は可愛いし、彼氏の一人や二人いたことあるだろ。俺が不貞腐れていると春乃が慌てて言った。

「あ、違うよ。思ってるような感じじゃないからね。本当に買い物付き合ってあげただけなの」

「いや、いいんだ。怒ることでもないしさ、普通だよ元カレくらい」

「その子は友達じゃなかったんだけど必死だったから行ってあげたの。買い物の後にデート楽しかったねっていうから、デートじゃないよって言ったらそれっきりでね」

……春乃違うそれ違う。

デートと分かって来てくれたと思ったら、いきなり突き放されて振られたと勘違いしてる奴だよそれ。

俺の彼女が純情通り越して小悪魔どころか悪女になってるぞ。

「ね、ねぇ普通ってことは君も恋人がいたりしたってことなの、かな」

「いないよ。一般的にはって話」

「そうなんだ。よかった」

春乃は純粋だ。いい意味でも悪い意味でも。

だからこそ分からないことがある。

「春乃はどうして俺の告白を受け入れてくれたんだ?」

「え? それは、その。告白してくれたから、かな」

「今までだっていただろ?」

「いないよ。皆、勝手に俺の彼女って言ったり、デートって言ってみたりだもん」

そ、そうか。うん。

言葉にするって、大事だなあ。

* * *

集合時刻の二時間前から俺たちのデートは始まった。

早い。早すぎる。ロマンスがあり余る。そんなにあっても俺は困る。隣を歩く春乃は口の端が緩んでいた。遊園地を楽しみにしているのだろう。俺は動機が不純なだけに後ろめたい。とはいえ一緒にいられる時間が伸びたのは嬉しい誤算だ。

朝だからまだ風は涼しいが、それでも公園のベンチで時間を潰せるほどじゃない。なので俺たちは近くのカフェまで来た。

シニアなマスターがレトロな店でブラックなコーヒーを入れている。革のソファやイエローな電球の暖色が趣があって実にいい。

頑張って横文字で褒めてみたけど初デートで行く場所じゃない。確かにレトロな雰囲気はアリだと思う。流行だしな。でもこの店は流行りに乗った店じゃない。リアルだ。なんならところどころボロボロだった。ソファの端とか破れて綿が出ている。

「ごめん、やっぱ別の店に――」

「すごいね! あのコーヒー淹れる道具とか初めて見たかも。こういうのを大正浪漫っていうのかな。て、ごめんね。遮っちゃった。どうしたの?」

「何でもないよ。超いい店だね」

いいよね。レトロ最高。クソぼろいなんて微塵も思わなかったよ。

マスターの視線が痛い。俺の顔に見えているせいか隠していても不満気なのが良く分かる。声を抑えていたのになぜばれた。地獄耳め。でも破けたソファは流石に直したほうがいいよマスター。

俺はコーヒーを、春乃はカフェオレを注文した。注文してからつくるようで、少し待つ必要がありそうだ。幸い時間はある。いい天気だねと俺は会話を切り出す。最初こそ会話がぎこちなかったが、コーヒーを作っている様子を眺めたり、他愛のない話をしていると途切れていた会話も続くようになった。

和気あいあいと話していると注文したコーヒーが出てきた。いい香りだ。ベテランの味はどんなだろうかと飲んでみると驚くほど苦い。一気に口に含もうものなら味覚が麻痺してしまいそうなほどだ。

マスターのほうに視線を向けるといい顔をしている。満面の笑みだ。憎たらしい。わざとか。わざとなのか。

……いや、コーヒーって苦いものだしな。初心者がブラックを頼んだら皆同じ反応をするのかもしれない。

対して春乃はカフェアートまで施され、飲むのがもったいないよと口を付けられずにいる。俺はすかさずスマホで撮った。

「ちょ、ちょっと、撮るなら言ってよ。恥ずかしいから」

「ごめんごめん。今度から先に言うよ」

撮れた写真を確認する。やはり俺の顔だ。……今はこれでいい。

写真に残しておけばあのときどんな顔をしていたのか分かるからだ。リアルタイムで見られないのが残念だが、こうしておけば治ったときの楽しみになる。

今日は写真フォルダがすごいことになりそうだ。

昨日、寝る前に地図で調べてみたが、遊園地の写真からはボロさは感じなかった。あまり期待していなかったが今日はアトラクションも楽しめるかもしれない。考えてみればそういったアトラクションに乗るのは何年振りだろう。昔乗ったんだろうけど、覚えてない。

カフェでイチャイチャしているとすぐに時間は過ぎていった。長い時間居座ってしまったが途中で小さめのケーキを注文したんだから許してくれ。財布には少し痛いが問題ない。春乃は割り勘にするといったが、初デートだからとかっこつけさせてもらった。チケットは割り勘ねと決められてしまったが。

奢られていればいいのに、俺の彼女は本当に律儀だ。

遊園地に向かって俺たちは歩いた。徒歩圏内にあるとはリーズブル。それなりに敷地もあるだろうに、どうして今まで気づかなかったのだろう。

まあ、行かない場所は近所でもわからないか。

デートは順調。春乃が俺の顔をしているのは相変わらず慣れないが、それでも楽しく会話することはできる。顔を見ても平気だ。これなら今日一日を楽しいだけで乗り切れるかもしれない。

……そう思っていた時期が俺にもありました。

春乃に連れらて来た場所にあったのは、錆びついた門。側に立っているマスコット人形は塗装が剥げ、牙剥き出しの凶悪な顔の門番と化している。奥にそびえたつ城は魔王城か。快晴なのが逆に不気味だ。

そりゃあ、廃園にもなるだろう。こんな禍々しいところに子どもは遊びに来ない。来るのは勇者だ。姫も連れ去れてくるかもしれない。

写真とまるで違う。地図で見たときの外観の写真ではもっときれいだった。いつの写真を使ったんだ。詐欺って言われても仕方ないぞ。

「チケットはこっちだよ」

春乃はこの風貌に何も感じないらしい。一体どうなっているんだ。

外見で判断しないって素敵だとは思う。でも遊園地だから錆はどうにかした方がいいんじゃないかな。観覧車とかジェットコースターの支柱錆びてたりしないよな。違うって。ドキドキハラハラするのはそっちじゃないんだって。

「見て見て! 閉園だから普通のチケットで全部乗り放題だって」

「の、乗り放題かあ。お得だなぁ」

不安だ。整備面とか安全面とか。

人もぜっんぜんいない。迷子の子供とかいたら幽霊と見間違う。絶対何か住み着いている。園そのものがお化け屋敷よりもホラーだ。

俺の想定してた予定と違いすぎる。

スタッフが平然としているのが怖い。おかしいのは俺なのか。俺のほうが間違っているのか。

「ではいってらっしゃいませ」

受付のお姉さんが入場ゲートから声を掛けてくれる。

うきうきの春乃は行ってきまーすと変えているが、俺は生贄に出された気分だ。今に魔王軍の幹部とかが襲撃してくるぞ。

「あのまろランドへようこそー!」

ほら出た。さっきの門番に似た奴がでてきたぞ。きっとあのマスコットの皮を剥いで被っているんだ。だからこんな普通のぬいぐるみが……。

……あれ? 普通だ。なんか顔に突き出した鉤爪みたいなひげ生えておかしいけど普通のぬいぐるみだった。何これ。何の生き物なんだ。

駄目だ感覚が麻痺してやがる。俺の病状並みの精神汚染してくるとは恐るべしあのまろランド。その名前も今知ったよ。

「見て見て、あのまろくんだよ。私ぬいぐるみ持ってる」

「あのまろくんって、なんか言いにくいな。あれはかわいい、のか?」

「顔のところとか見て。触覚があるでしょ。アノマロカリスがモデルなんだよ」

まさかのアノマロカリス。チョイスがニッチ過ぎる。門番の牙みたいだったアレ触覚なのかよ。

というか、あれ多分主役だよな。猫とか犬とか恐竜でもなくアノマロカリスて。ある意味この遊園地も化石だからお似合いではあるんだけど、どうなんだコレ。笑えないぞ。

「あんもくんとさんよちゃんはいないみたいだね」

あんもはアンモナイトだよな。さんよ、ってまさか三葉虫か。よりによってなんであれを女の子にしたんだよ。せめてアンモナイトと逆だろ。というか三葉虫のマスコットってなんだよ……。

ツッコミどころがありすぎる。どういう経緯でこうなったんだ。

「は、春乃。あの城みたいな場所は何かな」

「あれはね、げにあ伯爵の城だよ」

「げにあ伯爵って、何」

「ハルキゲニアで、げにあ伯爵だよ」

ハルキゲニア! 感性とち狂ってやがる。せめて城っていったらお姫様だろ。なぜ伯爵。なぜハルキゲニア。確か細長くて長い脚のついたハリガネムシみたいなやつだったよな。マスコットにするの大変だろうに。

「何でも聞いてね! 今日一日であのまろランド博士にしてあげるんだから」

「お、おう」

……デートはまだ始まったばかりだ。

* * *

普通の遊園地だと高を括っていたら、そこは魔王城だった。

門番が鋭く長い牙をちらつかせ、近づくものを威圧している。だが門番は来るものを拒まない。入ったら帰って来られないと知っているからだ。

囚われの姫がいるならば決死の覚悟で突撃しよう。きっと恐怖に怯え、夜も眠れぬ日々を送っているに違いない。いや、それだけでない。あの醜悪な化け物たちが姫に何をするかわからない。だから勇者はその地獄へと足を踏み出すのだ。

ところがどうだろう。お姫様は隣にいるのに魔王城へとランデヴーだ。魔王に催眠でもかけられているに違いない。

……現実逃避はここまでにしよう。

彼女とともに来た廃園目前のボロボロ遊園地は、アノマロカリスやアンモナイトといった古代生物をモチーフにした異色のレジャー施設だった。

まあ、遊園地なんてありふれているし独自の色を出そうとしたのだろう。時代が少し後だったら逆に流行ったかもしれない。時代を先取りしし過ぎだ。マスコットたちは古代だったが。

そういえば新しい発見もあった。

どうやら他人が自分の顔に見える症状は人間からかけ離れたものには適応されないらしい。本当に良かった。口から触覚が映えている自分なんて想像したくもない。リアルなアノマロカリスの顔に寄せるセンスはわからないがおかげで助かった。マスコットまで俺の顔に見えていたら遊園地を楽しむどころではなかっただろう。

「ねぇねぇ次はジェットコースターに乗ろうよ!」

「わかった、わかったからそんなに走るなって」

春乃に手を引かれるままに俺はついていく。飼い犬になってリードを引かれている気分だ。まあ何はともあれ楽しんでいるようでなにより。俺はもうすでにお腹いっぱいだ。アトラクションがいちいちツッコミどころが多すぎる。先ほど乗ったメリーゴーランドは馬がアノマロカリスだった。

乗りにくいわ無駄に精巧な作りをしているわで俺の頭はツッコミの大渋滞だ。実物のアノマロカリスは人間が乗れるほど大きくないだろう。リアルに寄せるのか寄せないのかどっちかにして欲しい。

意気揚々と春乃はアノマロカリスに跨り、満面の笑みを浮かべていた。当然、写真を撮ったのだがアノマロカリスの存在感が強すぎる。畜生。俺の病気が治ってからの楽しみに不純物混ぜ込みやがって。

「コースにあのまろくんたちがいるから探してみてね。目指せコンプリート!」

「へえ。何ひ……何人くらいいるの?」

「十人だよ。最後が難しいけど形を見分ければわかるからね」

あんなのがあと七体もいるの!?

マジか。世界は広い。知っている二体もまだどんな姿かわからないしな。あとなんか最後のやつに関してはニュアンス的に擬態してないか。古代の生き物って他に何がいるんだ。どんなやつがいるのか、ちょっと楽しくなってきた。よし。何でも来い。

いつの間にか俺は遊園地を楽しんでいた。春乃を喜ばせようとアレコレ考えていたはずが、今や童心に帰っている。彼氏としてそれでいいのかという気もするが、難しいことは後だ。今はアトラクションをめいいっぱい満喫しよう。

ジェットコースターってどんな体感だったかな。思い出せない。

小さい子供でも平気なんだし、まあ、大丈夫だろ。

数秒後、俺は大絶叫を上げた。

「……うっぷ」

「大丈夫? お水買ってくるから待っててね」

ジェットコースターのすぐ近くのベンチで俺はべばっていた。

どうやら俺は絶叫マシーンが駄目らしい。外から見る分には大したことない高さだったのに、乗ってみると二倍はあった。そして風とともに意識が取り残されて体だけが持っていかれるようなあの感覚。あんな恐怖体験は他にない。遊園地って子どもの感性破壊装置だったんだな。道理で最近の子どもは肝っ玉が据わっている。なんか、マスコットに混ざってエイリアンがいた気がしたけど気のせいだよな……。

「うーん、エイリアンっぽいなら多分オパビニアのビニアくんだね。はい、お茶」

……それは見間違いであって欲しかった。お礼を言って春乃からペットボトルを受け取り、喉を鳴らして飲む。途中から心の声が漏れていたのか。変なこと言ってないよな。

「感性破壊装置はひどいと思うなー」

「そ、そんなこと言ってたかな」

結構前から口に出していたらしい。危ない。本当にばれちゃいけないことは言っていなくてよかった。こんな間抜けなバレ方したくない。マスコットが俺の顔に見えなくてよかった。ありがとうオパビニア。どんなやつか全然わかんないけど。

水を飲んだら、吐き気も収まった。とはいえすぐに動くのはきつそうだ。

「もー。ジェットコースター駄目なら言ってよね。そしたら乗せなかったのに」

「俺も知らなかったんだよ」

「乗ったことなかったの? 珍しいね。ここの遊園地も知らなかったし。もしかして遊園地も初めて?」

「いや、流石にあると思うんだけど、覚えてないからなぁ」

うちの親はいかにも遊園地好きそうだし、連れていったはずだ。妹だって絶対好きだろうし。ジェットコースターがトラウマで忘れていたとかかな。いや、それなら逆に覚えていそうだしな。今度アルバムでも探してみよう。

「ごめんね。わたしが遊園地行こうって言ったから……」

「いやいや、春乃は悪くない。俺だってわかんなかったんだからしょうがない。情けなくてごめんな。ちゃんと楽しいよ、遊園地」

「本当に? 無理してない?」

「してないよ。春乃と一緒だから二倍楽しい」

感極まったのか春乃が抱きついてきた。俺の目には野郎が襲い掛かってきている。思わず仰け反るが、がっしり捕獲されてしまう。

最初こそ「おい馬鹿やめろ」と思ったが、今の気分は最高だ。顔が見えないから忌避感がない。こんな簡単な解決策があったなんて。俺も春乃を抱き寄せた。

思わぬ天啓。素晴らしい。俺の心臓はお手々の代わりに早鐘打って大喝采だ。気恥ずかしさもあるが心地いい。春乃の体温を感じる。……なんか一気に変態っぽくなったな。じゃあなんだ。温度か。いや、ぬくもりだな。うん。ぬくもりと言い換えよう。春乃のぬくもりを感じる。ハグにはリラックス効果があるというのは本当だった。オキシトシンだかなんだかが脳で分泌されるんだったか。

「嬉しい」

耳元で春乃が囁いた。こそばゆい。ぐりぐりと顔を埋めてくる。汗臭かったりしないか心配だ。というか春乃は自分の汗の匂いが気になったりしないのだろうか。いい匂いだけども。

香水とかかな。でも付けてるところ見たことないな。見えないところでおしゃれしてるのだろうか。

というか、そろそろやばい。名残惜しいけども。

「は、春乃。ちょっと暑い、かな」

雲一つない炎天下。影のある場所を選んで座っているとはいえ抱きついていれるほどじゃない。あとジェットコースターの受付さんの視線が痛い。俺の顔でそんな顔しないでくれ。遊園地で働いてんだからくるだろカップルぐらい。

「あ、そ、そうだね」

あわてて春乃が離れる。顔が真っ赤だ。きっと俺もそうだろう。というか、春乃と同じ顔をしている。やっぱり駄目だな。俺の顔だと興奮が半減どころじゃない。

「じゃ、じゃあ行こっか。絶叫系は他にないから安心して」

「……ごめん。もう少しだけ座ってていいかな」

「まだ調子悪い? なんか前屈みだけど」

「いや、調子はすこぶるいいんだけど、ちょっと元気過ぎるっていうか、なんというか……」

よくわからないと春乃が首を傾げる。座っていてよかった。ハグされたのだ。その、なんていうか当たっていた。柔らかいものが。だから、その、うん。あとは察してくれ。生理現象なんだ。

俺はただとぼけるしかなかった。

* * *

ジェットコースターに乗った後、俺たちは昼食をとることにした。

選んだのは無難にホットドック。廃園直前に加えて、アノマロカリスを主役に沿えるような遊園地だ。どんなゲテモノが売っているのかと身構えたものだが食べ物に関しては普通だった。避ける財源もないのだろう。むしろグッジョブだ。隣の売店にあったマスコット人形と思わしき地球外生命体は見なかったことにする。

肝心の味は可もなく不可もなくだ。春乃はおいしいというが、多分一緒に食べているからだろう。チープな味も彼女と一緒なら三ツ星レストランだ。次の来店はない。

デザートにクレープでも食べたいところだが、売っていなかった。仕方ないので売店でカップアイスを購入したのだが、ガチガチに固まっていてスプーンが刺さらない。新幹線のアイスは相当固いと噂に聞くが、こっちは確実に売れ残っていたからだろう。何年も放置されていたのなら一大事だ。賞味期限を確認すると大丈夫ではある。しかし本当に食べても大丈夫だろうか。

「懐かしいなぁ。昔もこうやってアイス買ったんだ」

まあ、春乃はご満悦なので良しとしよう。俺はアイスはあんまり好きじゃない。おいしいとは思う。けど冷たいのは苦手だ。歯に染みるわけじゃないが、寒気がする。冷たいんだから当たり前なんだけども。

炎天下とあってアイスが解けるのも早い。もう端からドロドロになりつつある。ドロドロというとおいしそうに感じないかもしれないが、固形よりもこういう部分をすくって食うのがうまいのだ。

「春乃はよくここに来てたのか?」

「ううん。実はほとんど連れてきてもらえなかったんだ。その頃は色んな習い事していたから」

言葉の端に影がある。まだ付き合い始めて長いわけじゃないが、習い事をしているというのは聞いたことがない。していた、というのは、今はしていないということなのだろう。

繊細な問題だ。一見、完全無欠な美少女の春乃だが周囲との間に大きなズレがある。感性もそうだが習い事をしなくなったということから察するに、できなかったから辞めさせられた可能性が高い。春乃は投げ出したりはしないから。

「聞きたい?」

顔が俺だとしてもわかった。春乃の目の奥に、深い闇がある。春乃が聞きたいと言ったのは、きっと親のことだ。おしゃべりな春乃も親のことになると何も話さなくなる。体に痣はない。心に対する暴力だろう。

今の春乃は言葉少なだ。あんなにおしゃべりなのに。これが素なのかもしれない。おしゃべりの理由は気を惹くためなのだろう。なぜそうなったのか、考えられる原因は一つ。無関心、おそらくそれが春乃が受けている暴力の名前だ。

「聞かない。言いたくないことは言わなくたっていい。どんな話だったとしても俺は変わらない。だから話さなくたって同じだよ。それにせっかくの初デートなんだ。嫌なことは一切しなくていい」

「……そっか」

顔を逸らした春乃は小さく返答した。選択を間違えたのだろうか。

「アイス、溶けちゃったね」

春乃に言われて手元のアイスに視線を下す。ドロドロを通り越してもはや液体だ。そんなに話していただろうか。

顔を上げたとき、春乃はこちらへと向き直っていた。あの闇も瞳の奥に隠れてしまっている。俺の顔だというのに笑顔が眩しい。この眩しさの奥には底の見えない井戸のような闇がある。そのことに少しだけ寒気を覚えた。

* * *

アトラクションを制覇した頃、外は夕暮れに染まっていた。カラスも鳴いて帰宅を促している。

鏡の館にオパビニアのびにあくんを置いたことを俺は許さない。四方八方からエイリアンに囲まれている気分だった。お化け屋敷は普通に人間の幽霊置いていたのに、あっちの方が数倍ホラーだ。むしろなぜお化け屋敷にいないんだマスコットどもは。ツッコミどころはたくさんあったが楽しかった。心の底からそう思う。潰れてしまうのが残念だ。

さて、後は帰るだけだな。最後に門前の化け物を拝みに行くとしよう。

すたこらと出口へ向かおうとすると春乃に引き戻される。

「ちょっと、出口はまだ早いでしょ」

「あれ? まだなんかあったけ。端からぐるっと回ってきたよな」

「なんかって、全く君は。もう」

 何か言いたげに春乃がモジモジしている。なんだ。俺の顔でそんな仕草されてもトイレ行きたいようにしか見えないぞ。

「ん」

言葉にもせずに春乃は遊園地の中央へと指を指した。

そこにあるものを見て、俺は戦慄する。あんなにでかいものを見落としていただと。あり得ない。だがあり得てしまっている。最初から目に映っていたのに。そうか。脳が必死に存在をなかったことにしようとしていたのだ。

遊園地の大目玉。カップルたちのど定番。

観覧車がそこにあったのである。

錆びだらけだ。本当に乗って大丈夫なのだろうか。

赤面する春乃を前にすれば、俺は乗るしかない。

カップルのど定番と言っているだろうに、受け付けのお兄さんは鬼の形相だ。馬鹿野郎、最終日だからって曝け出すな。隠せ隠せ。お兄さんの顔も当然俺なので俺に睨まれて観覧車に乗り込むことになっている。なんだこれ。

確かにお兄さんの視点では可愛い彼女との観覧車だ。羨ましいよな、わかるよ。でも俺の目には彼女が俺の顔しているんだ。そしたらどうなると思う。俺と俺でキスだ。人は見た目じゃない、見た目じゃないよ。でも自分の顔でもないだろ。嫌だよ。せっかく可愛い彼女がいるだから彼女の顔でキスしたいよ俺。

「はーい乗り込んで下さい」

無情にも俺はお兄さんの手で押し込まれる。春乃にはお姫様を乗せるほど丁寧なのに俺は下手人の扱いだ。そんなんだから潰れるんだぞ遊園地。

ドアが占められて観覧車がゆったりと回り出した。何とろとろしてんだ、こいつ。

「もう、緊張しちゃって。何期待してるの」

「い、いや。期待なんてしたないよ」

本当にしてないよ。

落ち着け、落ち着け俺。カフェでも向かい合ってた話して平気だったろうが。キスぐらい、な、なん、なんともないし。

立ち尽くしたままだったので一先ず向かいに座ろうと動いたら観覧車はぐらりと揺れる。え、なにこれ。こんな揺れるの。

前に体重がかかりすぎだ。慌てて後ろに体重を戻すが勢いがつきすぎた。……て、まずい後ろには。

「わ」

「げふっ」

背中に思ったより衝撃があったが、春乃はさっと避けたようだ。よかった、避けてくれて。初デートで彼女を背中で押しつぶしたとか消えないトラウマになるところだった。

「大丈夫? なんか災難だね今日は」

惜しい。今日だけじゃないな。ここ三日ぐらいだよ。

「頭も打たなかったし、大丈夫だよ」

「やっぱり期待してた?」

「してない」と言いかけて、俺は言葉を失った。目の前の光景が信じられらなかったからだ。

春乃だ。春乃がいる。いや、そりゃ春乃はいるんだけど、違う。そうじゃない。

春乃の顔だ。俺の顔じゃない、春乃の顔になっている。

長いまつ毛に、少し垂れた目。筋の通った鼻筋に艶やかな唇。ずっとこの顔が見たかった。もう俺の目は戻らないんじゃないかと。

「どうしたの? そんなぼーっとして。外きれいだよービルばっかりだけどさ」

「……見惚れてた」

「ど、どうしたのいきなり。さっきからかったお返しのつもりかな?」

「キスしていいか」

「へ!? ちょ、ちょっと待ってよ。まだ心の準備が」

「ごめん、待てない」

春乃の静止も待たずに俺は彼女にキスをした。

顔が分かるようになったからって現金な奴だと思うか。結局見た目かと俺を笑うか。分からないだろう、俺の苦しみは。解放された喜びが。

二回目のキスだった。痛い。歯が当たって切ってしまったのだろう。血の味がする。でも関係なかった。ファーストキスの喪失感を取り戻すように、情熱的にキスをしていた。抵抗していた春乃も次第に力を抜いていった。

「……ぷは」

肺が限界を迎え、離れて酸素を取り入れる。熱暴走を起こしていた頭が覚めてきた頃、春乃も冷静さを取り戻していた。口を拭い、赤面し、わなわな震え、そして俺の頬を思いっきり叩いた。

「待ってって言ったのに!」

直後扉が開き、春乃が出て行った。慌てて追いかけようと外に出てて、案内のお兄さんと目が合い思考が停止する。

「あちゃー。彼女さん怒らせちゃいました?」

その顔は、俺の顔だった。目が覚めたのは一瞬で、ドアを開ければ地獄が続いている。俺の悪夢は終わらない。

* * *

翌日の目覚めは最低の気分だった。

最低だ。無理やりキスして、怒らせて、逃げられて。追いかけて謝罪はしたが春乃はあの後ずっと不機嫌だった。自分の軽率な行動に後悔しかない。楽しいだけの思い出にしようと言ったのに、俺がぶち壊してしまった。

でも、仕方ないじゃないか。一瞬とはいえ、他人が全て自分の顔に見える症状が治ったのだから。写真や漫画の登場人物まで自分の顔に見える、そんな極限状態にいたのだ。まだ三日目だったとしても、治る保証のない症状に俺の精神は摩耗していた。そんなときに彼女の顔が見えるようになって、「期待した?」なんて言われたらどうなると思う。そりゃ暴走もする。むしろあれでも我慢したほうだ。

「おはよゴミ兄ちゃん。いい朝だね。回収日だよ」

ノックもなしに美香が部屋に入ってきた。朝からとんでもない悪口が聞こえた気がする。貰ったヘアピンを目の前で春乃にプレゼントして以来、こんな扱いだ。まあ俺が百パーセント悪いんだけどさ。

入ってきた美香の顔は俺と同じ。やっぱり治ったのは一瞬だけだった。窓の外を眺める手間が省けたが、俺の部屋に別の俺の顔があるとドッペルゲンガーが居場所を奪いに来たみたいな気持ち悪さがある。

「……おはよう」

「どしたの、元気ない。春ちゃんに襲い掛かって殴られでもしたの」

「な、なんで知ってるんだ!?」

「やったの!?」

 やべぇ冗談だった。普通ピンポイントでそんな冗談くるとか思わない。ああ、クソ。とぼけりゃよかった。

「兄ちゃんはそういうことしないと思ってたのに……このゴミクズ野郎」

「いや、あ、あの。美香ちゃん? これには訳があってね」

「訳があったら襲い掛かってもいいんだ。ふーん。じゃあ訳がある私は警察に連絡するべきだよね」

「待って待って待って」

「じゃあ何やったのか言えるよね。言わなかったら、わかってるよね」

スマホに百十番を打ち込んだ画面を見せてくる。そして、このままだとつながっちゃうからね、と言って一文字消した。

やばい泣きそう。実の妹が脅迫してくるんだけど。居場所を追われるにしても豚箱なんて聞いてない。

美香は見下した目で椅子にふんぞり返った。

「一回だけ聞いたげるから弁明しなよ。くれぐれも慎重にね」

「え、一回て。なんていうか、その、誤解なんだ」

「何? そーゆう人は皆そういうんだよ。そんなんで納得できるわけないよね。言ったよね、慎重にって。考えて出てくる言葉がそんだけなのかな。違うよね? 兄ちゃんは賢いもん。ちゃんと説明できるよね。それとも一回がさっきのでいいのかなあ」

怖いわ! 何で手慣れてんだよ。やくざかお前は。変な知識ばっか覚えやがって。兄ちゃんはお前の将来が心配だ。まさか生徒会のお手伝いって悪いことしてないよな。

震えが止まらない。俺は気づけば布団の上で正座していた。

「えっと、ですね。その、遊園地で観覧車に乗ることになって、ですね。そこで春乃が期待しただなんて言うものだから、その、盛り上がっちゃって。キスしたいって言ったら、ちょっと待ってって言われたんですけど、止められなくて、ですね。なんというか、その、しました。キス」

供述取られたみたいになっちゃったよ。やくざみたいな迫り方しといてなんで警察みたいな感じになるんだ。そりゃ、悪いのは俺だけどさ。お前のもそれもどうなのよ。

病気のことだけは話さなかった。

「……そんだけ?」

「はい」

「なぁーんだ、つまんないのー」

椅子から降りて美香は床をごろごろ転がった。どうやら許されたらしい。

「もっと爛れたのがよかったー。つまんないー」

「女子高生が爛れたとかいっちゃいけません」

「さっきの話の流れ的にどして兄ちゃん凹んでるのさ」

「え。いや、だって駄目って言われたのに、無理矢理、その、しちゃっただろ」

「キスくらいでまごつくなんて、純情が過ぎるよ兄ちゃん。キスくらい今どき小学生だってしてるって」

え、嘘だろ。進んでんな今どきの小学生。

美香もまさかあるのか、経験あるのか。まさか俺より先のステージに。ああ、なんてこった妹に先を越されるなんて。いや、まあ別にいいんだけど。

「兄ちゃんのそのくらい普通だよ、普通。誘ってきたんだから、キスする気はあったんでしょ。意外とむっつりだね春ちゃん」

兄ちゃんの彼女をむっつり言うのは止めて欲しい……。

いや、でもそうか。普通なんだな。春乃は怒ってたけど、考えてみればこれまでもたまに喧嘩になるときもあったし。そっか、普通か。

「ありがとうな美香。おかげで安心したよ。てっきり春乃に嫌われたかと」

「考え過ぎ。求められてるんだから困ることはあっても嫌わないて」

「求められてるんだから、か。なるほどなぁ。困るね。確かに求め過ぎたかもなあ。舌入れるのはやりすぎだった」

「ちょっと待ってディープキスしたの」

あ、やべ。

「多分初めてのデートだよね。キスはしたことあったのかな」

「あ、あったよ」

「いつ」

「いや、あの、その」

「いつ!」

「よ、四日前、です」

「早すぎるでしょうが!」

その日、二回目のかみなりが落ちた。

* * *

怒髪天の妹にこってり絞られた後、リビングに降りて冷めきった朝食を食べた。辛かったな。いつも朝食のときにいない妹が向かいに座っていたのが特に。

その美香はというと心なしか肌がてかてかしている。聞きたかった話ができたからだろう。爛れた話を。

なんか途中からディープキスってどんなのだったという話になっていた。あんだけ語っていたのに結局美香は付き合ったことはないらしい。耳年魔という奴だ。年増なんて言ったら殺されるから言わないが。

「そういや、なんか忘れてる気がするんだよなぁ」

「なんかって何さゴミ兄ちゃん」

「あ、それ継続なんだ」

「いいからいいから。続けて」

俺は良くないのだが……。

「何か探そうと思ってたんだよ」

「探すって、何を」

「何かわからないんだよ。忘れてることを思い出すために必要なものだった気がするんだけどさ。なんだったかな」

「ふーん」

美香はたくさんつけているヘアピンの一つを外してカチカチ鳴らした。そして違う位置に付け替える。

興味なさげだな、おい。

「最近、多いんだよ。忘れてるみたいな感じ。お前はないのか」

「ないかな。んなことより見たい映画あるから連れてって」

「え、ちょっと兄ちゃん人がいっぱいいるところに行きたくないんだけど」

「……春ちゃんにあげたヘアピン」

「連れて行かせてください妹様」

平穏な日曜日は来なかった。代わりに映画に出てくる自分の顔と座席に座った自分の顔の群れで、新しいトラウマができた。くそったれだ、日曜日。

* * * * *

また一週間がやってきた。

楽しいときは時間は一瞬だが、そうでないときは一日はひたすらに長い。今日もまた長い一日になるに違いない。窓の外を確認してみんなが俺の顔をしていることを確認し、朝の支度をする。

やはり治っていなかった。快復の兆しもない。

元に戻ったのは観覧車でのあの一瞬だけだった。あれ以降ちょくちょく人の顔を見るようにしていたのだが、同じことは起きていない。何がきっかけで戻っただろう。それがわからないと再現も難しい。

階下に向かい、母さんにおはようと声を掛け、朝食の並ぶ机に座る。作業のように俺は口に食事を運ぶ。

一度整理してみるか。まず春乃とキスする前に発症した。で、今度は春乃とキスする前に一瞬治ったと。

意味が分からない。共通点は春乃と一緒にいたときだが、春乃といないときだって症状が出ている。もし春乃が原因だというなら、これまでならなかったんだから関係ないはずだ。他に変わったことなんて……。

いやあるな。とびきりでかいのが。

キスだ。どっちもキスの前に起きた現象だった。治し方はさっぱりわからないがキスが何かしらの要因に違いない。確かめる価値はある。問題はキスで怒らせたばかりということだな。

「うーむ」

「今度はどしたのクズ兄ちゃん」

「いや、どうしたらもう一度キスできるかなって」

「このケダモノ野郎」

うわ、これまたひどい罵倒だな……って何だと!?

美香がいつの間にか向かいに座っていた。朝だから油断していた。いつもだったらまだ寝ているはずなのに。うっかり答えてしまった。

「ち、違うんだって。確かめたいことがあってさ」

「何を確かめるの。舌技でも鍛えようとしてるわけですか。とんだ変態、性欲兎男」

そうか、そう聞こえるのか。

さて言い訳の準備だ。いや、もうこれ正直に話した方が早いよな。協力してくれるだろうし、俺より色々思いつくはずだ。妹のほうが頭いいし。俺がボロを出してもそれとなくフォローしてくれるに違いない。

すごいな、考えれば考えるほどメリットだらけだ。

「美香、実は――」

そうだ、話してしまえば楽になる。きっとすぐに良くなるはずだ。治ったら何をしようか。まずは春乃に……春乃、に。

「じ、つは。実は、さ。仲直りのキスって意味なんだ」

駄目だ、言えない。春乃にも話してないのに。

「……んなことだろと思ったけどさ」

美香も納得してくれたようで何より。そうだ俺がクズ兄ちゃんだ。

用意を済ませて玄関を開けると俺がいた。言うまでもないが春乃だ。髪留めもそうだけど、二回目だからな。今日はいないと思っていたので仰け反るだけで済んだ。

……気まずい。超気まずい。

「お、おはよう春乃」

「……おはよ」

ちゃんと挨拶してくれたことにほっとする。だが会話が始まらない。

「なーに固まってんの!」

「うお!?」

バンといきなり背中を叩かれる。敵襲かと振り返ると美香が制服姿で後ろにいた。まじか。遅刻魔がここにいるってことは、もうそんな時間か。

「急ぐぞ春乃。もう遅刻確定みたいなものだけど」

「まだだいじょぶだよ。ディープなキスした初々しいカップルを冷やかし来ただけだからさー」

「は、話したの!? 言ったら駄目だよ!」

「いや、そのですね……」

一体どういうことだ美香。ついにこんな兄からは引き離した方がいいと動き出したのか。敵襲はあながち間違っていなかった。どうしよう勝てる気がしない。

「春ちゃん顔赤くなっちゃって、かーわいいー」

「もう! もう! こうなるから駄目ってわかるでしょ!」

ほんとだ可愛い。思わずニヤニヤしちゃう。俺の胸をどんどん叩くとことかね、ほんとかわいいいい痛い痛い痛いつねるのは駄目だって!?

「ごめん悪かったって。美香以外に話したりしてないから」

「ほんと、岩崎くんに言ったりしない?」

「それは絶対に言わない」

なんであのエロ魔人に餌やらなきゃならんのだ。野郎には春乃のそういう情報は一切やらん。妄想も禁止する。そういう情報は全部俺のものだ。

妹? 妹はほら。神様仏様妹様だから。

「美香ちゃんには言った癖に。信じられないなー、」

「まあまあ春ちゃん。兄ちゃんにどうしたら仲直りできるのか泣きつかれちゃってね。どいう流れか聞いただけだよ。兄ちゃんすごい後悔してたから、許したげて」

断じて泣きついてないが?

まあ、そこは置いておくとして流石は妹様だ。口が達者でいらっしゃる。

舌絡めるってどんな感じなのとか、どう動かすのだとか事細かに聞いてきやがった癖に、俺を出しにして自分の株を上げるとは。でも助かるからこの助け舟に乗るしかないんだよな。

こういうことなら先に言ってくれ。心臓に悪い。

「うーん、でもなぁ」

「兄ちゃんばっか悪くないでしょ。春ちゃんだって期待してたんでしょ」

「しっかり何があったか聞いてるじゃん!」

「へー、そういう反応するってことはそうなんだねー」

「あぅ……」

やばい震える。

わかってることを鎌かけたことにして知らなかった風に装うとか手練れすぎだろ。本当に生徒会に一度お邪魔する必要があるのかもしれない。生徒会裏から牛耳ったりしてしないよな。

「わ、私も悪かった、です」

「春ちゃんよくできたねー。ほら兄ちゃんも」

「お、おう。俺も悪かったよ」

「はーい、仲直りの握手ー」

美香が俺たちの手を繋がせる。すごい、いつの間にか和解している。

「よし、じゃあついでにキ、ぐわっふ!」

提案しようとしたら美香の肘鉄が俺の腹部に深々と突き刺さった。

「おいクソ兄。せっかく綺麗にまとまりそうだったのに何しようとした」

「あ、悪手だったかな。握手だけに」

「やかましいわ」

うん。流石に今じゃなかった。今ならいけるかなって思ったけど違うわ。だって難しいんだもんキス。投げキッスでどうにかなんないかな。

春乃に聞こえないようにひそひそ話していたからか春乃がまたむくれている。

「彼女ほっといて妹と遊ぶのは楽しい?」

「楽しくないよ、怖かったよ」

「兄ちゃん、帰ったら覚えてろな」

ひぇっ……。

* * *

三人で登校するのは初めてだったが和気あいあいとしていた。

邪魔者になりそうな妹だが、しっかり話さない方がいい場面を弁えている。会話が途切れそうになれば話題を提供し、どちらかに不利益になりそうなことがあればうまく逸らす。

いや、知っていたけど、すげぇなオイ。

聞き上手どころじゃない。話させ上手だ。知っていて見ていたからわかるが、分からないままやられると話させられていることに気づかない。末恐ろしい。

校門の前に来たとき、ふと一人の人物が目に入った。髪の長いスーツを着た大人の女性だ。あんな人学校にいたかな。顔もすっごい美人だ。鼻筋高いし、目元も釣目でかっこいいな、って。

「え」

俺の顔じゃない。

どこもかしこも俺だらけの中でその人の顔をしている。本来当たり前であるはずのそのことに、俺は何故だがひどく寒気を感じた。

俺は唖然としていた。

隣に彼女と妹がいるにも関わらず、視線はスーツの女に釘付けになる。百八十を超える長身、後ろで一本に括った長い黒髪、丸い眼鏡の下に鋭い眼光。年齢は三十代ほどだろうか。皆が俺の顔に見える中、その女だけは俺の顔に変わらなかった。意味が分からない。

周囲は変わらず俺の顔、俺の病気が治ったわけではない。何か俺の顔に変わらない方法があるのだろうか。

スーツか、丸眼鏡か、身長か。どれも違う気もするし、もしかしたら全部揃えばいいのかもしれない。

俺の視線に気づいたのかスーツの女が俺の方を向いた。じろじろ見過ぎたようだ。睨まれるものだと思ったのに、スーツの女は微笑みを返してくる。大人の余裕というやつだろうか。

というか、なんでスーツの女が校門前にいるんだ。こんな朝早くに営業で来ているなんてのは違う気がする。新任の教師かもしれない。そうでもないとあんなところにいるのは不自然だしな。

「彼女の隣でなーんで他の女の人を見てるのかなー」

痛い痛い痛い! わき腹をつねられて体を九の字に曲げる。いや、ほんとごめんなさい。仲直りした傍からこれだよ。

「ごめんごめん、もうしないから許して」

「兄ちゃんの性癖に関しては口出ししないけど、やめなよじろじろ見んのは」

あ、止めて正論言わないで。今は罵倒より辛い。弁明できないことが何より辛い。

「そういうのが好きなら言ってくれれば、その、ね。わかるでしょ」

その上目遣いをやめろ! 駄目だな。一日会わなかっただけで春乃が俺の顔なのが耐えられない。ていうか俺の顔で女性スーツとか嬉しくねぇよ。

いや待て。条件合わせるのに都合がいい。いいよね、スーツ。スカートって短いし、ぴっちりしてるし。嫌いじゃない。全然嫌いじゃない。

「お願いします」

「へ!? 本当にするの?」

「公衆の面前で何興奮してんだ変態野郎、花壇に首から下埋められたいの?」

「美香ちゃん!?」

「あ、やべ」

妹も兄の変態行為の前には本性を隠せないらしい。周りの男子たちが豹変した妹に引いて……いや、数人喜んでる。よかったな美香、飼い犬候補どもだぞ。

に、睨まれても俺悪くねぇし。

「とりあえずスーツは今度着てもらうこととして」

「そこは確定なんだね……」

いまさら駄目って言っても聞かないもんね。いいって言ったもん。いや、言ってないか。わかるでしょっていい言葉だな。否定にも肯定にも使える。俺も今度使ってみようかな。

おっといけない話が逸れた。

「さっきの人新任の教師なのかなって思ってさ」

「んーどうだろうね」

「何期待してんのさ。あれ教育委員会の人だよ。視察にでも来たんじゃない」

俺と春乃は顔を見合わせてから美香を見る。いや、なんで後輩のお前が知ってんだよ。顔が広いとは聞いてたけど高校の範囲外は聞いてないぞ。

「教育委員会の視察ってなんでだよ。なんかあったっけか」

「いや兄ちゃん当事者じゃん。何忘れてんのさ」

ああ、あれか。突き落とされて死にそうになったやつ。そんなこともあった。そんなことじゃないはずなんだけど、心の傷は春乃のおかげで治療済みだ。

なんだかんだで一ヵ月も経ったのか。時間が過ぎるのは早い。

「死にかけといてよく忘れられるよ。兄ちゃん心臓毛だらけじゃないの」

「いやお前、毛だらけって。もっと違う言い方あっただろ。まあ、帰ったら妹がボロボロ泣いてたことは覚えてるよ。おにいちゃーん、おにいちゃーんて」

「美香ちゃんはブラコンなんだね」

「べ、別にブラコンじゃないし。春ちゃんのほうが兄ちゃん好きじゃん」

「ち、違うでしょ好きの意味合いが」

「へーじゃあ私の方が兄ちゃん好きー」

おお憂い奴め。よいよい近こう寄れ近こう寄……近い近い踏んでる足踏んでる!

「わ、私の方が好き! だから」

片腕ずつ掴まれてゆらゆら揺さぶられる。うーん、幸せ。まさに両手に華。

顔が俺じゃなければな。離れろ畜生め。俺の顔でサンドイッチは嫌だ。俺は具じゃない。どっちかならパンだ。つまり俺の顔をしている二人もパンなわけでパンをパンで挟んでる。どんな新商品だよ。売り物にならんぞ。

というかさっきから周りの視線が痛い。校門でこんなことしてたらそうなるわな。体育教師までこっち見てやがる。あ、これが狙いだったのか!?

本当に末恐ろしい妹だ。

「ごめんな妹よ。兄ちゃんは春乃を選ぶ」

「やーんはくじょーものー」

美香はぱっと手を離した。台詞が間延びしている割りに手を離すのが早いぞ大根役者め。美香はじゃね、と言ってそのまま下駄箱へ向かっていった。手を振ってやる。見えてないだろうけど。方向同じだし、じゃあねも何もない。俺たちもその後を追う。

「しっかし、さっきのスーツの人どっかで見たことある気がするんだよなぁ」 

「そうなの?」

「でも、思い出せないんだよなぁ」

前方で妹がペアピンを弄ってるのをぼんやり眺め、あのピンにメモ貼り付けて置いたら楽でいいなと思った。絶対怒られるけど。

「朝から見せつけてくれるじゃねぇかよお」

教室に入ったら俺にメンチ切られた。腹立つ顔しやがって。誰だこいつ。

「いいよなぁお前は。可愛い妹と可愛い彼女。こっちは生意気な弟とお前なんだぞ。釣り合いが取れてないと思わないか」

「はいはい、悪かったよって……おいなんで俺までカウントされてんだ。勝手に仲間意識出してんじゃねーよ」

「おーそりゃないぜマイフレンド。お前と俺様は連れションの仲じゃないか」

「あ、お前岩崎か。おはよう」

「今気づいたの……? お、おはよう」

なんか傷ついている奴がいるけど気にしないことだ。なんだ連れションの仲って。汚いだろうが。便所だぞ便所。あと連れションで人の股間凝視する野郎なんざ気にかけてやる必要はない。

畜生、俺でかいほうだと思ってたのに、よりにもよってなんでお前のサンシャインの方がでかいんだ。小便以外に使い道ねぇだろうがお前は。

「なぁ、最近冷たいぜー。もっと熱くなれよ」

「情熱と正反対の男が何をほざいてやがる。お前テニスできないだろうが」

「お前だってできないだろう。俺様と同じだ」

誰と誰が同じだ、この野郎。今お前俺の顔なんだぞ、洒落にならねぇこと言ってんじゃねぇぞ。

いや、知らないんだから無理か。

「そういや見たか、校門のとこにいたスーツのボッキュッボン! 眼福だぜ」

「ああ、あの人な。笑顔ももらったよ」

「なんだとこの野郎。お前には春乃がいるだろうが」

さんを付けろよ、デコ助野郎。そういやコイツの下の名前アキラだったな。どうでもいいけど。

「ふっ。モテる男は辛いぜ」

「本当になんでモテてたんだろうなお前。今はこんななのに」

「なんだとこの野郎」

二人とも喧嘩腰になってくると、春乃が座席から俺たちを見ていた。

岩崎とがっしり肩を組む。二人でサムズアップだ。くすりと笑って春乃は前に向き直り、友達と会話を始めた。

危ない危ない。座席の位置覚えてなかったら、この距離から見分けられなかった。

「……助かる」

「今度、例のブツ一冊な」

えー……仕方ない。

秘蔵本だ。岩崎は二学年男子全員の性癖を網羅している。恐ろしい男だ。秘匿主義の奴らさえ掌握しているのだから恐ろしい。コイツが変態紳士でなければ強請ってきただろう。

で、だ。コイツはそいつにピッタリの本を寄越す代わりに相手の持っている本と交換しているのだ。

コイツはマジで何がしたいんだろう。俺はどうせ病気のせいで楽しめないからいいんだけどさ。

「ほれ、これは交換分。先払いだ」

そういえばそうだったかと岩崎から本を受け取る。

へえ、いいなコレ。分かってるじゃん。やっぱ純愛ものだよ。よしよしこの前間違えて買った寝取られものでもくれてやるか。特に表紙のこの女の子なんてドストライクだよ。このたれ目な感じちょっと春乃に似て……。

「うぉおおおお!?」

見える、見えるぞ。顔が分かる!?

なんでだ。いつの間に治った。顔を上げるが皆俺の顔だ。じゃあ、なんでこれは見えるんだ。

いや、そんなことはどうでもいい。

「ちょ、声がでかい、でかいって!」

「ありがとう岩崎! 本当にありがとう!」

「だから声がでか――」

「君たち、これは何かね」

……あっ。

いつの間にか傍らに立っていた国語のおじいちゃん先生に没収された。取り上げられたブツに対して春乃がすんごい嫌そうな顔をする。

いや、あの。その……ごめん、な?

* * *

朝の授業で秘蔵本を没収されクラス中に性癖を暴露されたわけだが、俺は今最高に爽やかな気分だった。

そんな俺の様子に、岩崎が信じられないものを見た顔をしている。

ふふふ。わからないだろう。あらゆる顔が俺に変換されていたのだ。ビデオでも本でもリフレッシュできない。しかも最初の日が春乃とキスした日だぞ。悶々とした気分をどうすることもできなかった。想像で済ませるにしても俺の顔で上書きされてしまう。トルソーに興奮できるほど俺のレベルは高くない。もう自分の顔でも大丈夫なようにするしかないのかと追い込まれていたのだ。

ところがどうだろう。絵では顔が俺に変わることがなくなったのだ。

理由もきっかけもどうでもいい。

俺は今すぐ家に帰りたかった。できれば先ほどの秘蔵本も返していただきたい。岩崎がいたのでクラスの人には秘蔵本とバレていたが、表紙だけならただの漫画に見えなくもないのだ。あの先生は秘蔵本の中身を見ていないから注意だけで済むかもしれない。放課後に返してもらえる可能性はある。まずは救いの手を差し伸べてくれた秘蔵本様で……。

「おい、当てられてるぞ」

「はっ」

読み上げのようだが、どこかさっぱりわからない。

てんで的外れなところを読んで笑われる。やっちまったな。気を付けよ。

怒られたから直そうという判断が迂闊だったという他にない。怒られる前に気を引き締めなければならなかった。一限が終わった頃、妄想たくましい奴だという認識が広がっていたのだ。そして岩崎に次ぐ変態と位置付けられていた。

不覚……っ! 一生の不覚……!

「ふーん。私がいるのにああいうのを読むんだ。ふーん」

「い、いやだなぁ春乃。健全な男子高生ならあのぐらい普通だって。むしろ俺は健全なくらいだよ。ジャンルも普通だし」

午前の授業が終わり、いつものように中庭で昼食にしたのだが春乃はご立腹だった。彼氏がそういう本を読むのが気に入らないらしい。

ジャンルと聞いて首を傾げている。ウブだね。そのままの君でいてくれ。

「おっきかったなー。何がとは言わないけど。おっきかったなー」

どうやら自分の胸と比べてしまったらしい。漫画と比べても仕方ないだろうに。まあ、どうしても比べてしまうのは誰もが通る道か。男は初めての秘蔵本で絶望するものだ。しない男はもげてしまえ。

「あれは二次元的な表現であってね、そのー、大きい方が小さいより描きやすいらしいというか」

「小さい? 小さいって言ったのかな今?」

「過敏になりすぎだって。小さくないだろ。それに俺好きだよ春乃のサイズ感」

揉んだ事はないけど、押し付けられた分にはしっかり存在感あったしな。

前は話してるときに思わず視線が向くときもあったが、今は全くない。俺の顔だから。パーフェクトボディだったとしても駄目だ。体が百点でも顔がマイナス一万点なんだよ。

「で、でも大きい方が好きなんでしょ」

「馬鹿だな。好きな人のが一番に決まってるだろ」

そして好きな人がでっかいと最高だ。言わないけど。男はでっかいのが好きなのは仕方ない。俺は小さいのも嫌いじゃない。普通のも好きだ。みんな違ってみんないい。そういうものだ。

人の身体的特徴にいいも悪いもないからな。生まれ持ってのものだし。でかいちいさいで馬鹿にしちゃいかんのよ。

自分のとどっちがでかいかは気になるけどな。

「そっか。気にしすぎなんだね」

どうやら納得してくれたらしい。ほっと胸を撫で下す。

朝からずっとこの調子だった。いくら俺の顔だからって春乃に嫌われたくない。キスをして俺の目に変化があるかは試してみたいところではある。だが実験のためみたいなのは春乃に失礼だからな。

春乃がしたいときにすることにしよう。俺からは絶対にしないけど。畜生こんな病気にさえならなければなぁ。

仲直りもしたのでイチャイチャすることにする。覚えておくといい。彼女の顔が自分の顔に見えるようになったらお面だと思って相手の目だけを見るんだ。

そんな努力を重ねながら何気ないことを話しているとふと春乃が言った。

「そういえば金曜一緒に帰ったけど、図書委員の仕事代わってもらったんでしょ。誰にお願いしたの。私もお礼言っておかなきゃ」

あー……あったな、そんなの。

病気のせいで完全に頭から飛んでいた。図書館で調べものしようとしたのだって仕事があるからだったのに、完全に頭から飛んでたな。

「もしかして誰にも言わないで来たの? 駄目だよ、もう。私もちゃんと言っておくんだったかな」

「いや、これは俺が悪い。教えてくれてありがとな。放課後に図書室行ってぺぱ子に謝ってくる」

「うん、どういたしまして……って、ちょっと待って。ぺぱ子って誰」

あれ? なんかまた不機嫌になったぞ。どうしてだ。

「同じ図書委員の後輩だよ。前に言っただろ。ずっと図書室いるやつがいるって」

「あだ名で呼び合うような仲なんて聞いてないよ! というかまさかだけど、ぺぱ子ってまさか〇ッパー君から名前取ってないよね。人に機械みたいなあだ名付けるのは良くないよ」

「いや俺もそう思ったんだけど、そう呼んでくれっていうもんだからさ」

「そんなわけないでしょ! 謝って来なきゃ駄目。ちゃんと名前で呼んであげないと。あ、でも親しすぎても駄目だからね」

ええぇ……。何をそんなに必死になって。

別にぺぱ子を相手に何の心配もないだろうに。

あ、そうか。嫉妬だ。可愛がってる後輩みたいに聞こえていたのか。そしたら心配にもなるか。まあ、あいつを知らなきゃそう思うよな。失念していた。

「わかった。でも、春乃が思ってる感じじゃないよ。本当に」

「相手はどうかわからないでしょ」

それはそうなんだけど、うーん。教えたほうがいいのかな。

いや、止そう。世の中には知らない方がいいものってあるよな。うん。 

「わかった?」

「わかったよ。そんなに心配しなくても俺は春乃一筋だって」

可愛い彼女の頭を撫でる。よしよし。俺の顔で頬膨らませるのはやめような。フグみたいだ。テトロドトキシン滲み出てるぞ。

あ、女の子って髪のセットとか大変なんだよな。つい妹にやる癖でやってしまった。まあ、でも自分から手に頭擦り付けてくるし大丈夫だろう。でもわしゃわしゃするのは止めておいた。

* * *

放課後になり図書室に向かう。部活に向かうもの、下校するもの、色んな人たちも廊下を歩いている。始業前や授業合間の休み時間と比べて、開放感があるからだろう。皆面持ちが違う。だからだろうか。同じ廊下も違う廊下に思える。

部活勧誘のポスターや掲示板の長ったらしいお言葉、麻薬撲滅ポスター。改めてみると高校生の廊下は情報に溢れている。

図書室に到着して俺がまずしたことはノック二回だ。

生徒が使う公用施設でノックする必要は本来ない。これには理由があるのだ。

扉の前からぼそぼそと声が聞こえる。

「二回のノックは」

「トイレに入ってるか確認」

「よーし入れ―!」

おわかりいただけただろうか。これが馬鹿である。

覚えたことを使いたくて仕方ないのか、こいつは二回のノックはトイレだと伝えまくった。そして自分が中にいるか確認したいときはノックをしろという。そしてノックしてやると今のように問いかけをするのだ。

よし入れじゃねぇ……トイレなら入っちゃ駄目だろ。というか図書室だし。

ぼさぼさ髪のまるで毛玉の妖怪のような少女。真性の馬鹿、それがぺぱ子だ。

ぺぱ子もペッパー君賢いよね、君ペッパー君に似てるね、とかいう悪ふざけを本気にして自分から呼ばせている。正直こいつなんでうちの高校に入ることができたのかわからない。

「へいぺぱ子。お前の本名は」

「椛田愛、です!」

「椛田、先週の金曜日代わってくれたよな。ありがとう助かった」

「どぉーしてぺぱ子って呼んでくれないんですかぁ!」

本名で呼ばれるのが心底嫌なようでぺぱ子はギャーギャー騒ぎ出した。

うるせぇ……。図書委員向いてないよお前。

あまりにも荒ぶるものだから普段隠れている顔が見える。おお、鼻は低いけど案外可愛い顔したんだなお前……え?

「ぺぱ子お前……」

「はい! ぺぱ子です!」

「人間じゃなかったのか……」

「何をおっしゃるのでありますか!?」

この日、俺は未知との遭遇をした。

* * *

後輩が人間じゃなかった。そうかもしれないと思ってましたよ、ええ。そりゃ自分に変なあだ名付けるわ。きっとあれだ。椛田愛ってのも偽名とかだけど偽名すら覚えさせないための策だな。馬鹿過ぎて目立ってることに目を瞑れば真っ当な手段だ。

いやぁ納得。スッキリした。……冗談言ってる場合じゃないな。これは一体どういうことだ。

俺の病を根本的に見直す必要がある。

人の顔をしたものを俺の顔に誤認する、というのが俺の見解だ。しかし今朝から漫画の顔は変化しなくなった。俺の顔にならないスーツの女もいたし。

うーん、わからん。

「先輩、ぺぱ子は人間ではないのですか」

「うん。宇宙人だよ宇宙人」

「なんと! 気づかなかったのであります。どうして先輩には分かるのですか」

「だって俺、宇宙人だし。あれ? 知らなかったのか」

「なんとぉ!」

人間だって宇宙人から見たら宇宙人だ。だから俺もお前も宇宙人。やばい楽しい。

いけないと思いつつも反応がいいのでついからかってしまう。気分的にはあれだな。犬に手品見せてる気分だ。

「皆に教えてあげなきゃです。先輩はエイリアンでありますと」

「おいやめろ馬鹿!」

スマホを弄り出したぺぱ子の腕を拘束する。誰だこいつに精密機器なんか与えたのは。絶対持たせちゃ駄目なものだろ。

エイリアンも宇宙人には分かりねぇけどさ、イメージ的に違うだろ。……そういやこの前の遊園地にいたな。オパビニアのびにあくん。あんな感じの口から口が出てるみたいなやつ想像しちゃうだろうが。

「どうして止めるのでありますか!?」

「嘘だからに決まってるだろうが」

危なかった。迂闊に嘘つくもんじゃないな。こいつSNSでばらまこうとしてやがった。管理意識どうなってやがる。プライバシーの侵害だぞコラ。

「嘘だったのでありますか。気づかなかったです」

「いや、気付けよ……。俺も嘘ついて悪かったけど、このくらいは気づけるようになった方がいいぞ。さっきからですとありますが混ざってるのすごい気になるんだけど」

「癖であります! 治りません」

癖か。まあ、癖も病気みたいなもんだしな。病気は治したいもんだ。うん。よくわかるよ。その気持ち。

ん? ていうか待てよ。もしかしてぺぱ子が俺の顔に見えないのって、もしかして俺の病気が快方に向かっているということなのか。言われてみれば俺の顔にならないのは特徴的な人ばっかりだし、そういう人から変化が解けてきたのかもしれない。

そう考えると気分が軽くなってきた。ぺぱ子の言葉遣いが変なことくらい気にもならないな。

「そうか。なら仕方ないな」

「ありがとうございますでありますです」

……やべぇ前言撤回したい。

うっそだろお前。ます、あります、ですってそんな重なるものじゃないだろ。

そういえばさっきからぺぱ子の腕掴んでバンザイさせたままなのに抵抗されないんだけど。いや、別にいいんだけどさ。お前、猫じゃねぇんだからされるがままになるなよ。

ちょっと上に引っ張ってみた。おお伸びる伸びる。猫背だからなコイツ。丸っこいし……な? あれ? なんか胸、でかくね?

まるっこく見えていたのは、まさか胸がでかいくて服が余っていたからなのか。

服はだぼだぼだわ、スカート長いわで気づかなかった。ぺぱ子って細いんだな。え、ちょっと待って。こんな細くて、胸がこれでありますか!?

「先輩、何を息を荒くしているでありますか」

「い、いや。何でもないぞ」

さっと掴んでいた手を放す。すると背筋が丸まり、元の毛玉のぺぱ子に戻った。

やばいちょっとドキドキする。見た目も元に戻った後なのに。

くそ、強制禁欲生活のせいだ。

「そうですか」

おい何で清楚感だしてんだ。そこはそうでありますかだろうが。嘘だろ。言葉遣いと見た目をどうにかしたら化けるぞ。ぺぱ子からモテ子だ。きっと悪い男に騙されるに違いない。

そう考えるとこのままのほうがいいな。圧倒的に馬鹿だけど、誰も寄ってこないことはないだろう。愛嬌はあるしな。

いや、でも。でもだ。試しにちょっと着飾ってみるのはありだよな。

「ぺぱ子。そこで姿勢を伸ばすんだ。そんでちょっと髪の毛まとめてみたらどうだ。熱いだろ」

「はい。まとめるであります」

おお、いいね。ちょっと幼さの方が強いけど可愛い。

ほら、あの芋虫みたいな眉と、か……。

「……」

「どうしたでありますか。先輩」

「いや、あの、その。ごめんなさい」

「なんで謝るでありますか!?」

なんかね、俺の顔になったよ。うん。ぶっさいくだなオイ。

マジかよ。さっきまでのぬか喜びってことか。

どうして今になって俺の顔に変わったんだ。今更過ぎるよな。まさか、まさかだけどぺぱ子のことを本当に犬か何かと見ていたということか。逆説的に人間として見なければ顔は俺にならないのか。見ろ、人がごみのようだ。……人として何か失うような。

「ぺぱ子は顔を出さないほうがいいのでありますか」

「そんなことはないよ。本当に」

「嘘であります。先輩は今嘘をついてるであります!」

なんで今のはわかっちゃうんだよ。

わからなくていいから。そういうのは成長じゃないから。

「ははは、さっき嘘って気づいたほうがいいって言ったから気にしたんだろう。すぐに身に着けようとする姿勢は偉いぞ。でもときに嘘だって思うことが失礼に当たったりするからさ、わかるだろ」

「そうでありますか。わかったです」

ちょろいな。お前本当に将来騙されて傷つきそうで怖いよ。

「てっきり先輩はぺぱ子の胸ばかり見て、顔には興味がないものと思ってたです」

「おおい、何を言ってるのだねぺぱ子くん」

「さっきから目線が胸だったです。鼻息も荒かったであります」

「い、いいかいぺぱ子。男っていうのは大きいの好きなんだ。俺だからじゃないぞ。男はすべからくスケベだ」

「ふーん。やっぱり大きい方がいいんだね。そっかー。ふーん」

「そうなのでありますね。わかったです」

ふう。危ない危ない。またどこかに俺が変態だと広められるところだった。

なんか一つ声が多かったような気がするけ……ど?

「は、春乃!? どうしてここに」

「君が謝りに行くことは知ったから迎えに来ようと思ったのと、私もお礼を言いに来たんだけど、何をしてるのかな」

「べ、べべべ別に何も」

やばい今朝からなんでこんな不運続きなんだ。俺何もやってないのに。

……いや、色々やってるわ。スーツのお姉さんガン見したり、春乃に今度着てくれって頼んだり、エロ本見て奇声あげたり。

違うんだ。ちょっと思春期なだけなんだよ。あと病気なんだ。見逃してくれ。

「こんにちわ。あなたがぺぱ子ちゃん? 初めまして天川春乃です。生徒会もやってるからたまに会うかも、よろしくね。本名はなんていうの」

「こんにちわであります先輩。椛田愛、です。でもぺぱ子って呼んで欲しいです」

「そうなんだね。ありがとうね、この前は彼の図書委員の仕事代わってくれたみたいで」

「いつも図書室いるのでお安いごようであります」

なんか仲良くなってるし。

流石は春乃だな。仲良くなるのはお手の物だ。

「ところで彼に何かされたりしてない? 大丈夫?」

「信用無いなあ。別に俺は何も」

「両手を掴んで上に引っ張った後、ぺぱ子の胸を見ていただけであります。その後顔を見せたらガッカリしていたです」

「……ちょっとお話しようか」

「……はい」

いや、俺も悪かったけどさ。ぺぱ子ももう少し言い方があるんじゃないかな。

この日、春乃が本気で怒るとちびるほど怖いことを初めて知った。

* * *

「今回は未遂だからこのぐらいにしてあげる」

「春乃様の寛大なお心感謝致します……」

「次はないからね」

正座で痺れた足を揉みながら俺は立ち上がった。春乃に言われて正座をしたわけじゃない。こうすべきだと体が動いたのだ。

理路整然と自分の駄目なところ突き付けられると心が砕けそうになる。正直すでに限界間近だ。本当に他の女の子に手を出したらどうなるかなど考えたくもない。そもそも手を出すつもりはなかった。ちょっと観察するだけのつもりだったんだ。

恐るべし。ツインマウンテン。

今だけは皆が俺の顔に見えることに感謝だ。おかげで冷静になれた。

「先輩、足が小鹿のようであります。大丈夫ですか」

「受けるべき罰だ、気にするな。ぺぱ……いや、椛田」

「嫌です! ぺぱ子と呼んでくださいであります」

こっちが嫌だよ。春乃にこのまま説教続けられでもしたらどうしてくれる。他の女の子にあだ名呼びなんてもうしないぞ俺は。それとも先輩の泣き顔が見たいのか。

いいのか泣くぞ。隣で泣いてる赤子も泣き止んでドン引きするぐらい泣くぞ。

「いいよ。ぺぱ子ちゃんは特別に許してあげる」

「だ、そうだぺぱ子。よかったな。春乃にお礼を言いなさい」

「先輩、ありがとうございますですあります」

「え、あ、はい。どういたしまして?」

やはりあの連続は頭おかしいよな。春乃も面食らっている。

だがすぐに切り替えてキリっとしていた。この辺りは素直に尊敬する。生徒会はやっぱ違うね。うんうんとうなづいていると耳を引っ張られた。

「ちょっと、どうしてぺぱ子ちゃんにお礼言わせるの。そこは君でしょ」

「いてて、そ、そうだな。ありがとうございます。でも俺ちゃんと言われた通り、最初にぺぱ子のことを椛田って呼ぼうとしたんだよ。そしたらぺぱ子って呼べって騒ぐもんだからさ」

「あ、そうだったんだね。約束守ろうとしてくれてたんだね。嬉しい。ありがと」

「どういたしまして。当たり前だろ。俺の目には春乃しか映ってないよ」

だって全部俺の顔だし。……このくだり前もやったな。

すると俺たちを見てぺぱ子が顔を赤くする。

「先輩、ラブラブであります。恋人でありますか」 

「そうだよ。というか、ぺぱ子。先輩先輩って俺たち二人とも先輩なんだからどっちがどっちかわからないだろうが」

「先輩は先輩です。先輩以外にないであります」

「それはそうなんだけどさ」

「ぺぱ子ちゃんは真面目なんだね」

「それだけが取り柄でありますです」

これまでの会話を聞いて春乃はぺぱ子が不思議ちゃんなことはよくわかったらしい。最初はどこか敵対心を感じる話し方をしていたが、今は穏やかなに話しているのがよく分かる。しかし、皆の顔が俺に見えるようになってから声や雰囲気のようなものに敏感になった気がするな。怪我の功名ってやつだ。治る気配ないけど。

「さて。お礼も言ったし俺は帰ろうかな」

「私はまだ生徒会のお仕事があるんだ。先に返ってて」

「待ってるよ。当たり前だろ」

「ふふ。ありがと。じゃあ、後でね」

手を振って春乃を見送る。さて、どうやって時間潰すかな。

「やあ。あれから体調はどうかな」

背後から突然声がして俺たちは振り返った。後ろにいたのは今朝のスーツの女だ。いつの間に後ろにいたのだろう。

この部屋にドアは二つある。後ろのドアから入ってきたのは確かだ。全く気が付かなかった。ぺぱ子は気が動転したのか両手を挙げている。落ち着け。

「えっと、俺ですか」

「そうだよ。元気かい」

「元気ですけど……?」

「ならよかった。安心したよ」

なんだこの人。初対面の癖に随分とフランクだな。俺のことを写真とかで知ったのかもしれないけどさ。

「どなたでありますか。先輩」

「教育委員会の人らしいよ。美香に聞いた話だとな」

「……む」

「あれ? 違いましたか」

スーツ女は顎に手を当てて、なるほどと呟く。

なんだ。妹の情報が間違っていたのだろうか。これまで美香が言ったことが外れた試しがないのだが、たまにはそういうこともあるのだろう。どんなに賢いやつでもときには間違える。人間だもの。

「そうだ。私は教育委員会の者だ」

「おお。初めて見たであります」

「椛田愛だったな。君も心配していたが、元気そうで何よりだ」

「初めましてであります。ぺぱ子と呼んでくださいでありますです」

「そうか。ならぺぱ子と呼ぶとしよう」

「ありがとうございますですあります」

「ございますか、ですか、ありますか。どれか一つに限定し給え。聞き苦しいぞ」

「わかったです」

ん? この人は俺の事件があったから様子を見に来ていたという話じゃなかったか。まあ、でもぺぱ子だしな。知られていてもおかしくはない、のか? 教育委員会の人がうちの学校の生徒をわざわざ記憶しているのは変な気もするが。

それとも教育委員会の人は皆そうなのか。大変なお仕事だ。お勤め、ご苦労様です。なんかムショ帰りの人出迎えるみたいになっちった。

「えっと、お名前はなんていうんですか」

「……名前? ああ、そうか。確かに必要だ。そうだな。名前か」

いや、どういう反応だよ。

今の対応は完全に偽名考える振りだろ。本当に教育委員会の人じゃないのか。まさか今度こそ宇宙人では。

そうならばずっと顔が変わらないことにも納得がいく。いや、そうだ。いっそそうであってくれ。

「こういうものだ。よろしく」

名刺を差し出してきた。普通だ。

なんだよ。ワクワクを返せよ。全く。あとこの人はこんなにやり取りをしているのに一向に俺の顔に変わる気配がないな。俺自身の思考が強く影響しているのだろうか。ならば全人類に疑心暗鬼になれば俺の病は治ったも同然だ。やったぜ。違う病になること間違いなしだ。畜生め。

名刺を見ると、上江波呂〈かみえ はろ〉と書かれている。珍しい名前だな。

「えっと、上江さんと呼んでいいですか」

「……構わないよ」

「上江さんはどうしてここに」

「君を探していたからだ」

ですよねー。そうじゃなくて、どうしてここがわかったのか、という意味なのだけど。委員会でも調べたのか。そこまでするか、という気もするなぁ。でも本当に教育委員会の人って名刺にあるし。

「君を突き飛ばした者について聞きたい。なんて言っていたかな」

は? あの不審者のことを聞きに来たのか。散々警察でも話しただろうに。今更過ぎじゃないだろうか。一月も前だぞ。

「意味不明の妄言を吐き散らしていただけですよ」

「詳しく覚えているかい」

「いや、ぼんやりとしか」

「どの程度かな」

「人類がどうたら、文明がなんたらかんたらと」

「ふむ」

ふむ、じゃないが。なんだよ。これ何の時間ですか。

春乃を待つまでに時間があるとは言ってもせめて楽しいものにしてくれないかな。俺としてはあんまり思い出したい思い出じゃない。仮にも死にかけてるんだから。

「他に何か言わなかったかな」

何か言わなかったとか言われてましても。ねぇよんなもん。

あいつは俺を突き飛ばして、そのときに落ちそうになったから俺を掴んだだけだ。そんで、確か驚いた様子で何か、いや、言ってたな何か。確か……。

「お前もか、と」

「……そうか。なるほど、そういうことか」

いや、俺にわからないことを勝手に納得されましても。

「君は今、幸せか」

「どうしたんですか、いきなり」

「あれだけのことがあったのだから、普通の質問だろう」

「幸せですよ。彼女もいますし」

本当に幸せ者だ。春乃みたいな可愛い子の彼氏だぜ。この俺が。なんで選ばれたかわかんないけど。

あとは病気が無ければ完璧だった。

「そうか。君は彼女を選んだんだな」

「選んだ? どういう意味ですか。もしかしてモテモテだったことまで知ってるんですか。俺はむしろ選んでもらったと言いますか」

「……余計なことを言ったな。すまなかった。では私は行くとするよ」

なんか、腑に落ちないな。この人と会話をしていると何か食い違っている気がしてならない。

「待ってください、上江さん。俺たちどこかで――」

「君は無知の知というものを知っているかい」

「はい?」

「ソクラテスの言葉だ。知らないということを知っている、知らないことを自覚しているという意味だよ。多くの人はこれを聞いて知らないことを探求しようと考える。君はどうだい」

「……俺もそう思いますが?」

「だろうね。でも私はこう考えた。知らないことを知る必要はない。知らないことを突き詰めれば、知らなくていいことを知る。これまで知らなくて困ったことはなかった。そのことを知る意味は、果たしてあるのかな。幸せを失ってまで、得る価値はあるのかな。いいかい。よく聞き給え。君は無知の無知でいなさい」

無知の無知?

知らないと言うことを知らない、つまり無自覚でいろと言いたいのか。

確信した。この女は何かを知っている。それも知られるわけにはいかない何かだ。それが何かはわからない。俺の病についてもきっと何かを知っているに違いない。そうだ。だから俺に対して微笑みかけてきた。そうだ、だから――、だか、ら。

「あれ?」

「どうかしたかい」

「いや、あの、あれ? おかしいな」

「言ってごらん」

「いや、すいません。思い出せなくて」

「……いい子だ」

おかしいな。思い出せないや。

上江さんはただ不審者に襲われたときに何か言われなかったかを聞いてきただけじゃないか。おかしなことなんてない。普通のことだ。

教室を出ていく上江さんを会釈して見送った。綺麗な人だったな。でも、あれ? なんであの人、顔を見たのに俺の顔に変わらないんだろうな。

図書室を後にした俺は校門の前で春乃のことを待っていた。

ただ待っているのも暇なので図書室で借りてきた本を読んでいる。ぺぱ子のおすすめだ。どんな変な本が出てくるのかと思えば、まさかの童話。しかも内容がマイルドにされていない原作に近い童話だ。痛々しい描写ばかりで最初こそ辟易したものだが、今の子どもに聞かされている生温い内容と比べて読んでみると面白くなってくる。時間を潰すのにちょうどよかった。

だがふと頭に過るのはあのスーツの女のこと。あの女をどこかで見たことがある。ただそれがどこなのかがわからない。さっきまで話していたのにその内容もぼんやりとしか覚えていなかった。

ただ一つ確かなことはあの女だけは俺の顔に変わらないということだ。俺の病気は自分の認識に関係があることはぺぱ子で確認済み。一度目にあったときの異質さから人であることを疑ったのだろう。だが言葉を交わして人と認識したはずなのに俺の顔に変わらないとはどういうことだ。それともまた俺の見解が間違えているのか。

「お待たせ。長引いちゃった」

思考の海に沈んでいた意識が引き上げられる。息を切らして春乃がやってきた。

そんなに焦らなくてもいいのにと思う一方、俺のために急いで来てくれたのだと思うと何だか心が温かくなる。愛おしいとはこういうことなのだろうか。

「全然待ってないよ。お疲れ様」

「うん。ありがと。何読んでたの」

「お子様向けの本だよ。ただし昔のね」

歓談しながら俺たちは下校する。外はすっかり夕暮れで少しだけ肌寒い。でも話しが盛り上がれば、そんなの関係なしだ。話題を提供してくれたぺぱ子に感謝しよう。

なんで童話なのかは知らないけど。家に絵本とかあったかな。どれも知ってはいるんだけど、読んでもらった記憶がない。まあ、幼い頃の記憶なんてそんなものだよな。せめて写真か何か……。

ああ、そうだ。アルバムだ。思い出した。

遊園地に行ったときに帰ったら探そうと思ってたんだ。色々あったせいで忘れていたけど、どこにあるかな。母さんに聞いて見ないとな。

でもなぁ、たぶんなぁ。

ちらと春乃を見る。俺の顔だ。そう、写真の俺の顔が今の俺の顔に見えてしまう気がする。でも今朝の漫画のキャラクターの顔が俺に変わらなかったことを踏まえると、もう写真では顔が変わることはないんじゃないかとも思える。

お、ちょうどいいところに選挙ポスターがあった。うん、やはりもう写真でなら大丈夫なようだ。え、ちょっと待て。と、いうことはだ。

「春乃!」

「え、どうしたの急に」

「はいチーズ」

「え!? いきなり!?」

パシャリとスマホで写真を撮る。

やっべ、ちょっと不細工に撮れちゃった。でも、ど不細工じゃない。俺の顔じゃない。何ということだ。治ってからの楽しみとは言いつつも治らなかったらと悲観していたはずの写真が解禁されている。感無量だ。

「ほらもう。こうなるからいきなり撮らないでよ。ちょ、ちょっとまだ撮るの」

すごい! 画面越しなら春乃の顔がわかる!

写真のフォルダが急激に埋まっていく。

ああ、俺の彼女は可愛いなぁ。ずっと俺の顔だったから、一人で彼女がいる妄想をしている気分だった。俺の病が治るときは意外と近いのかもしれない。

「こら! いい加減にしなさい」

スマホが没収されてしまった。可愛い彼女の顔が見たかっただけなのに。畜生。なんだその面は。芋虫みたいな眉毛しやがって。馬鹿にしてんのか。

「どうしたの、いきなり写真撮って」

「俺の彼女は可愛いなーって」

「い、いつもと変わらないでしょ」

「いつも可愛いよ」

「……キスしたいとでも思ってるの?」

なんだとこの野郎。

おっと、いけないいけない。また声で威圧するところだった。あと顔は俺になってるけど女の子だぞ。野郎はいけないぜ、野郎は。

「ご機嫌取りだなんて心外だな。俺は思ってることを口にしただけなのに」

「え、う……うん。ありがとって、コラ! また写真撮ろうとして!」

チッ。

流れでいけるかと思ったのに。

でもいいムードにしすぎるとキスだからな。結果オーライだ。確かに検証したいけどさ、俺の顔なんだよ。一度キスしたら二回も三回も変わらないと思うか。

いいや違うね。小指をタンスにぶつけることに慣れる奴がいるか? いるわけがない。気づいていないだけであのとき小指が折れていることもあるそうだ。春乃とキスすると後ろめたさがえげつない。そのとき俺の心はごりごりに削られている。目に見えないところでハートに罅が入っているのだ。

だからせめてキスのする必要のあるときだけにしたい。そうだな、まずはスーツ着てもらってこうちょっとポーズとってもらって撮影会してから……。

「そんなに撮ってどうするの」

「そりゃ後から見るんだよ」

「んー……そうじゃなくてね、そんなに多く撮る必要はないんじゃないかなって」

何言ってんだ。この感動の奇跡の瞬間をだな、ってそうか。もし症状が悪化したらまた写真が俺の顔になる。そしたらこの写真全部俺の顔になるわけだ。

やばい。俺の顔で一つフォルダが埋まるとか最悪だ。

こんなに要らないわ。

「まあ、確かに」

「でしょ。あと写真撮るときは許可をとってから! ちゃんと可愛く撮ってよ」

許可さえあれば撮っていいらしい。言質とった。会話の流れで一言「うん」と言わせてしまえばこっちのものだ。よし。スーツのときいっぱい撮らせてもらおう。ワクワクしてきた。

「わかった。ごめんな、ちょっとテンション上がっちゃって」

「もう。びっくりしたよ」

びっくりしたで許してくるところ、好きだぜ。

写真の彼女を見る。超かわいい。キスしたくなっちゃうね。なんで画面の外だと俺の顔になっての。逆だろ、こういうのってさ。どうにかなりませんか神様。

写真関連で話していると何か口を滑らせてしまいそうだ。具体的にこんなポーズをとって欲しいんだけど、とか欲望が漏れ出してしまいそうだ。この辺りにしておこう。何か別の話題にしようか。

「そういえば今朝のスーツの女の人にあったよ。ちょうど春乃が行っちゃった後、図書室で」

「え、そうなの。教育委員会の人なんでしょ。大丈夫? ちょっと怖い感じの人だったよね。嫌なこととか思い出させようとしてきたりしなかった?」

「んー、そういえばそんなことを聞かれたような? あんまり覚えてないけど」

そうだ。不審者の男のことで何か聞かれていたはずだ。

事件性の部分では警察に洗いざらい話した。あと話したことが、何かあったはずなんだ。えっと、なんだっけか。確か、確か。

「……お前もか」

「え、何いきなり」

「ああ、いや。なんか不審者がそう言ってたなって」

「どういう意味かわからないけど、駄目だよ。不審者の言葉に耳を貸したら。君は誰かを突き飛ばしたりする人じゃないでしょ」

「ありがとう、春乃」

まあ、確かに戯言だ。不審者と俺の同じところなんてない。

大体なんだよ、お前もかって。何が、俺と同じだっていうんだ。体格は違った。身長だって俺よりも高い。あの不審者が俺と同じことなんて何もない。

「はぁーったく。わっかんねぇ。わからないよ。無知の無知だ俺は」

「無知の無知って何?」

「……なんだっけか。誰かが言ってたんだよ」

「君はいつも忘れてるね」

俺もそう思う。

勘弁してくれよ。まだボケる年じゃないんだぜ。

「春乃はないのか。何かを忘れてるってとき」

「私は覚えられないことは多いけど、そんなに簡単に忘れたりしないかな」

「……そっか。じゃあ俺と春乃、足して割ったくらいが普通だな」

「そうだね。私たちは、普通じゃないね」

春乃が皮肉気に言った。でも否定する気にはなれない。

俺たちはきっと普通じゃないが、おかしくもないだろう。それも普通の人間なんだから。

日も暮れてきていたので、春乃を家まで送ってから俺は帰宅した。 春乃は朝いつも迎えに来てくれている。なのに俺は送ったことがないなんて格好が悪いと春乃を納得させたのだ。だが自己満足だったのかもしれない。家の光がついているのに自分で鍵を開けている後姿を、俺は見えてないように演じていた。

春乃の家庭問題は根が深い。安易に触れていいものじゃなかった。

薄暗い気分を抱えたまま、俺はソファに沈み込む。どうにかしてあげたいけど、どうすればいいのか見当もつかない。

「おかえりクズ兄ちゃん。今度はどしたのさ」

リビングでゲームをしている妹が問いかけてくる。顔はテレビに向けたままだ。

見なくても分かる当たり流石だ妹様。冷たいやつだと言いたいところだが、今の俺の目に映る顔は漏れなく俺の顔だ。そのままでよろしい。

「どこまで踏み込んでいいかわからなくてさ」

「春ちゃんのことかな。重い話てことはご両親のこと?」

「いや、なんでわかるんだよ」

「なんとなく?」

親のことなら春乃は誰にも話さないだろうに。でも俺が察せるぐらいだし、妹にわからないはずもないか。

そもそも春ちゃんとか呼ぶくらいだし、仲いいんだろうな。

「どうすればいいんだ。意見が欲しい」

「私に聞いたこと実践して解決したら、何も考えつかなかった兄ちゃんは満足するの? まあ春ちゃんのためになるわけだし、それでもいいのかもね。で、失敗したときは私のせい?」

「……前言撤回。悪かった。自分で考える」

「わかればいいよ」

妹に諭される俺って……。

でも美香の言う通りなんだよな。俺がどうするかを決めなくちゃいけない。いくら妹が優秀だからって間違えるときもある。

さて、気分を入れ替えよう。今は考えても思いつきそうにない。そうだ、アルバム。探そうと思ってたんだった。

棚を片っ端から開けてみる。何だここ皿しか置いてねぇぞ。

「どうしたの?」

「み……母さん。アルバムってどこにあるかな」

俺の顔だから一瞬、美香とどっちか迷ってしまった。バンバン銃撃ってる音がするから母さんってわかったけど、本当に不便だこの病気。

「ああ、アルバムね。いきなりアルバムが見たいだなんて珍しい。お母さんたちの部屋にあるから持ってくるわ」

「まあ、ちょっとね。お願い」

そっか。そこにあったか、そりゃ見当たらないわ。

用がないと入らないし。一度も入ったことがないまである。覚えてないだけだろうけどさ。

すぐに見つかったのか、三十秒も経たず母さんが二階から降りてきた。おお、なんか随分きれいに保管してるんだな。新品みたいだ。母さんに一言言ってからアルバムを開く。

……やっべぇ。微塵も記憶にねぇ。

幼い頃の俺なんだろうなって奴のが色んな場所で遊んでいる。山、海、川……おいあるじゃないか、あのまろランド!? なんであんなインパクト強い場所覚えてないんだよ俺。

「母さん、この前廃園になった遊園地のこと覚えてる?」

「そりゃ覚えてるわよ。美香が迷子になっちゃって大変だったわ」

「あー……確かに案外広いしな」

「あ! さては、この前の土曜日行ってきたのね。彼女さんと」

言ってなかったのに、気づかれてしまったか。というか多分ばらしたの美香だな。全く、自分が誰かと付き合ったことないからわからないんだ。親に話すことじゃないんだよ、誰と付き合ってるとかさ。将来的には話すけど今じゃないんだよ。

「まぁね。それでちょっと思い出に浸りたくなって」

「そういうことだったのね。アルバムはリビングに置いておくから好きなときに読みなさい」

「うん。ありがと――」

「ところで、付き合ってる子ってどんな子なの?」

……おいゲームしてないでこっちを見るんだ美香。これが親に彼女がいると知られるということだ。

* * *

母さんから事細かにどんな子か聞かれた後、俺は少しげんなりしていた。

どこが好きなのとか、どこがいいの、だとか言いたくない。普通知りたくないだろうが。ずかずかと聞いてくるその辺り本当に親子だよ美香。俺の血逆輸入してくれねぇかな。

とはいえ、母さんが料理に戻っていったので手持無沙汰になってしまった。こういうときに趣味がないというのは辛い。今日の夜ご飯は少し後になるだろう。

バンバンとトリガーハッピーやってる妹で時間を潰すことにでもしようか。

「おーい美香、今朝の校門にいたスーツの女の人、あれ本当に教育委員会の人なのか? 言っちゃ悪いが、かなりの変人だったぞ」

「え?」

美香が素っ頓狂な声を出して振り向いた。その瞬間、ゲームのキャラクターの頭が撃ち抜かれる。美香は画面に顔を戻し、やっちゃったと呟いた。

……それさっきもやってたよな? 目を離した隙にやられるようなゲームしながら会話してたのかよ。確かFPSっていうんだったか。器用なもんだ。動きが早いわ目が回るわでさっぱりわからん。話しかけちゃ悪かったかな。

「ご、ごめんな?」

「別に謝らなくていいよ。ポイント的にはプラスだったし、ランク下がってないし」

「俺はそういうのよくわかんないけど……大丈夫ならよかったよ」

「兄ちゃん。どうしてあの人のことを?」

「ん? どうしてって、変だったからかな」

俺の返答に美香はヘアピンを弄りだした。その位置を付け替えてるのあんまり意味なくないか? 癖なんだろうけどさ。

「何か、変なこと言ってた?」

「言ってたよ。俺を突き飛ばした不審者は何か言ってなかったかって。今どきの教育委員会は警察の真似事もするらしいぞ。聞いてどうすんだっての」

「色々聞かれたんだ。大丈夫だった?」

「平気だよ。そりゃいい気分じゃないけど、食い入るように聞いてきたわけではないし。あんまり話した内容覚えてないけどさ」

「……そっか。ならよかった」

別に良くはないんだけどな。

でも妹も心配してくれたということなのだろう。いつもは悪態ばっかのくせして可愛いやつめ。……まぁ、悪態をつかれたのは春乃に髪留めプレゼントしてからだから自業自得なんだけどさ。

「……兄ちゃん。無知の知って知ってる?」

「無知の知? なんだそれ」

どっかで聞いたような、聞いてないような。

ああそうだあれだあれだ。ははは、やはりまだ美香も子供だな。

「そっか! なんでもな――」

「それ、無知の無知と勘違いしてないか。美香も間違えるんだな。逆に安心した」

「……え」

「え?」

何だよ。俺、何か間違えてたか。恥ずかしい勘違いしてないよな? なんか美香がよくわかんない表情してるんだけど大丈夫だよな?

「お、お兄ちゃん。どうして……」

「ごめんなさい知ったかぶりしました。無知の無知の説明できないです」

「あ……そなんだ。でも、どうしてその言葉知ってるのさ」

「誰かが言ってたんだよ。なぜか思い出せないんだけど、もう喉まで出かかってるんだけど、いざ誰が言ったのかと聞かれても答えられない」

「……私じゃない? 兄ちゃんの周りに言いそうな人私しかいないじゃん」

うーん、そうかな。そんな気がしてきた。

何より自分で無知の知だとか言ってたもんな。

「そう、だな。じゃあ改めて無知の無知について教え――」

「ごめん。それは知らない」

なんだよ。さっきの本当に恥ずかしいやつじゃん。

誰だよ無知の無知とか言いやがったのは。さてはムチムチしてやがるな。それとも厚顔無恥か? 妹の前で恥かかせやがって。

もう駄目だ。兄貴の威厳は地に落ちたんだ。

「ああ、凹まないで兄ちゃん。きっと言い間違えとかだって!」

「そう? そうかな?」

「もう、んなことでうじうじしないで!」

「おう。そうだな……」

思えばヘアピンの件ですでに威厳もクソもなかったわ。

「じゃあ無知の知はどういう意味なんだ?」

「知らないことを知ってるってことだよ」

「……よくわからないんだけど」

腕を組んで美香がうーんとうなる。

おお、妹が悩むほどとは。余程賢い人のお言葉だな。

「知らないことを自覚してるってとこかな」

「ただ知らないのとどう違うんだよ、それ」

「ま、自覚してるから調べる気があるってことじゃない?」

「わかるような、わからないような……」

「わかんなくていいって。知らなくても困んないなら、知らなくてもいいんだし」

本当にそうだろうか。

知らないことをそのままにしておいたら、前に進めない。俺は前に進みたい。病気も治したいし、そしたら春乃との関係だってもっと先に。

俺が何も言わないのを見て、妹が少しだけ悲しそうな顔をした気がした。

* * *

目覚ましを止め、窓の外を確認する。細かな雨が降り、ビニール傘に透けて見える人の顔は俺の顔。やはり俺の病気は治っていない。まだ五日目だ。なのに窓の外を確認する行為が生まれてからずっと続けてきた習慣のように思える。

スマホのカメラを向け、画面を覗く。ちゃんとその人の顔がわかる。俺の顔じゃない姿だ。眼鏡をかけてもこの症状は治らないのに、カメラ越しだと変化するのだから不思議だ。

正しいのは画面越しの光景。

間違っているのはきっと俺だろう。誰か教えて欲しい。俺が一体、何をしたっていうんだ。せめて罰を受けるなら理由が欲しい。

「て、スマホ向けてたら盗撮に勘違いされるか」

じわじわと地面を濡らしていく雨に感謝する。一見、スマホを見ているようにしか見えないし、大丈夫だとは思うが勘違いされる行動は慎まないといけない。

朝食をとり、諸々の支度を終えたところで後ろからいきなり抱きつかれた。

え、誰だ? 春乃ではないよな。玄関で待っているはずだ。頭の当たっている位に手を回す。この手に感じる数多のペアピンは美香か。

「……えっと、おはよう?」

「おはよ。兄ちゃん」

いつから妹はコアラになったのだろう。兄ちゃんは止まり木じゃない。春乃を待たせているから早くでなければいけないんだ。

だがせっかく妹が引っ付いてくれているのに引きはがすのもな。

こうして甘えてくるのなんか初めてじゃないか? そう考えるとより引きはがせない。むしろこのまま学校に持って行ってやったほうがいいまである。遅刻魔だしなコイツ。

「どうした、怖い夢でも見たのか」

「うん」

あら可愛い。そういえば昔は甘えん坊だったか。

確かに怖い夢を見たときは不安になるよな。わかる。美香は賢いから現実ならそうはならないように立ち回れるはずだ。でも夢はコントロールできない。支配できないものは怖い、というのは全人類の共通事項だ。

妹様とはいえ苦手もものもある。

「よしよし。怖かったな」

ぎゅっと抱きしめて撫でてやる。こういうのは母さんの役目なんだけどな。今は台所で洗いものをしている。 思えば美香には優しくしてこそいるが実際に何かしてあげたことは少ない。賢いからそもそも失敗しないのだ。加えて俺は幼い頃をさっぱり覚えていない。だから兄貴らしいことができているのが心地よかった。

もう美香は高一なのにな。

「どんな夢だったんだよ」

「兄ちゃんがいなくなっちゃう夢」

一体どんな怖い夢かと思ったら俺かよ。全く、それのどこが怖いんだ。俺はその夢羨ましいぐらいだぞ。どんだけ俺の群れがいると思ってんだ。

「俺は突然いなくなったりしないから安心しろって」

「絶対?」

「絶対だ。約束する」

妹と指切りしてから玄関へと向かう。結構、時間を食ってしまった。

ドアを開けると雨にスカートの裾を濡らした春乃の姿がある。一体いつか待っていたのだろうか。今度から俺が迎えに行った方がいいかもしれない。

「おはよう。いい天気、ではないけど、いい日だね」

「おはよう春乃。一緒ならいつだっていい日だよ。それに、待たせちゃったみたいだ。ごめんな」

「ぜんぜん待ってないよ。行こ」

……春乃のちょっと臭い台詞言って反応がないときは、わざと聞かなかったフリをしているのか、それとも本当に気付いていないのか。

天然かも知れないな。しっかり言葉にしないと気づかないし。はっきり言葉にしていた今回は分かってたよな。やっぱ聞かなかったフリなのか。でも春乃そういうのしなさそうだし。

まあ、どっちだっていいんだけどさ。

何気ない話をしながら登校していると前からフラフラとした足取りの男がふと視界に入った。まだ若い。二十代だろう。よほど大事なのか旅行のバックのようなものを抱いている。うつむき気味で顔が見えない。酔っているのか体調が悪いのかわからないが、どうにも危なっかしかった。俺の横を通り過ぎたときに男が転びそうになる。

「おっと!」

反射的に男の腕を掴んで体を支えた。

春乃が目を丸くしている。俺も自分に驚きだ。自分がこんなとっさに動けるとは。案外、こんな感じであっさりと火事場の馬鹿力とか出るんだろうな。

「大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だ。すまなかった、押してしまって」

「何ともないですよ。怪我はなさそうですね。よかった」

この人、どっかで聞いた声だな。どこでだろう。最近、本当に思い出せないことが多いな。顔見ても俺だし。困るんだよな、こういうとき。本当にいかれてるよ。なんだよ俺の顔って。

もしかしてテレビの有名人とかだろうか。横目で春乃の様子を見てみるが、そんなことはなさそうだ。仮に有名人だとしてバック持って足フラフラしてたら麻薬とかやってるんじゃないかって話だよな。ちょっと不用心だった。

「転んだら大変だったんだ。本当に助かったよ。何かお礼がしたい」

……ほらな、不用心だっただろ?

怪しさ満点だ。これでこの男が悪事に手を伸ばしていたとしてみろ。お礼を貰ったとしたら犯罪の片棒を担いだことになる。

そして俺たちの仲間だと言われたくなかったら協力しろと、まず小さな頼みごとをされるのだ。次へ次へと頼みごとを引き受けるうち、本当に引き返せないところに来てしまう。

地獄の入り口はそこかしこにあるのだ。

ビバ妹。美香の豆知識は役に立つ。

「お礼なんていりませんよ。では俺たちはこれで」

「待って、待ってくれ。そんなに急ぐなよ」

「急ぐでしょう。制服なのお分かりですか。登校中なもので」

男は俺の腕を掴んで、汚らしく笑う。おいやめろ俺の顔でやるんじゃねぇ。

なんだこいつは。やばい奴だったのか。しまったな、春乃まで巻き込まれたら最悪だ。春乃に少し離れてるようにハンドサインを送る。わかってくれるか少し心配だったがちゃんと応じてくれた。

「そんなに急いだって解決はしないんだぜ」

「俺はただ倒れそうなあんたを支えただけ。解決もくそったれもないだろ」

「確かにそうだ。だがこれでもそうは言えるのか、な!」

いきなり語気を強めた男に俺はとっさに身構えた。

なんだ。ナイフか? それとも銃か?

どちらでもない。男がしたことは俺の手を握ることだった。手のひらに針や道具が仕込まれていたわけではない。ただ手を握っただけ。

何がしたいんだこいつ。仲直りの握手とか言ったらぶん殴るぞ。

普段なら、そう思っただろう。しかしそうはならなかった。

手が握られた瞬間に腕が痺れる。その痺れは男の手から伝ってきた。手を通り、腕を通り、脊髄へ到達し脳へと送られたとき、幻覚を見た。

制服を着た男と女が同じ顔で立っている。比喩表現ではない。

双子のように全く同じ顔の作りをしているのだ。女の髪留めに俺は見覚えがある。それは俺が春乃に渡した一点ものだった。

これは幻覚ではない。男の見ている光景だった。

すぐに俺は自分の視界に戻った。そして理解する。こいつは俺と同じだ。どういう訳か、理解してしまった。この男は、俺と同じ病に罹っている。

理由も理屈も分からない。

そして、俺はこの男が誰かを知っていた。

「ど、どうしてあんたがここにいるんだ」

 声が震える。足も痙攣していた。

 どうして気づかなかった。あの声を俺は悪夢の中で幾度も聞いたはずだ。こいつのことで俺を訪ねてきたものがいたはずだ。

 だがそれも仕方のないことに思える。なぜならこいつがここにいるはずがないのだから。

「怯えるなよ。ちゃんと謝ったじゃないか。押してしまって悪かったってさ」

一月前に学校へ侵入した不審者。突き落とされて死にそうになった元凶が俺の前に立っていた。

殺されかけた相手を前に、俺は身動きが取れずにいた。

足は震えていたが、動く。正直、逃げることはできた。逃げたかった。だが逃げるわけにはいかなかった。

なぜかって、隣に春乃がいたからだ。

奴が俺の横でふらついたのは意図的だろう。春乃を連れて走ったところで逃げられるかわからない。逃げきれたとして、奴も俺も同じ病だ。奴がまた現れたときに俺は奴に気づくことができない。それは奴にとっても同じのはずだが、今回あっさりと待ち伏せされていたことを考えると見分け方があるのだろう。奴は俺の病を知っていたし、俺もなぜか奴が同じ病だと分かった。

わからない。自分のことも、こいつのことも。目的は一体なんだ。あの日、警察に捕まったんじゃなかったのか。

「まあ、そう怖がるな。俺はお前の味方なんだぜ」

こんなに胡散臭い台詞が他にあるだろうか。騙そうとしてくる奴の常套句を本当に言う奴がいるとは。

意図的じゃなかったとしても俺はこいつに殺されかけた。それだけは変わらない。突き落とした奴が助けたって自作自演だ。

「少し話したいだけなんだ。いいだろ? ケチケチしないでさぁ。別にいいんだぜ。そっちの彼女さんに話しちまっても。どうせ話してないんだろ」

「な……!?」

危険だ。こいつは信用できない。

初対面で脅迫してくるなんて、よほど聞きたいことでもあるのか? 俺に話せることなんてない。そんなものあったら、すぐ話して解放してもらっている。どうしてそんなことがわからないんだ。

馬鹿野郎め。

まぁ、教えて用済みとかなったら困るから知ってても話さないし、知らないことも教えないが。

そもそもさっきの現象に理解が追い付いていない。触れただけで相手の視界を見ることができた。人間に搭載していい機能じゃない。同じだ、ということは同じ病に罹ったもの同士にしかわからないものがあるということか。

「ねぇ、どうしたの。この人知り合いなの? 話してないことって何?」

「……顔見知りってところかな。あれは口から出まかせだよ。春乃は、心配しなくていいから」

混乱しているのか、こいつが何者か掴めていないようだ。春乃には悪いが、都合がいい。

春乃が奴が不審者だと気づいたら、きっと俺を守ろうとする。その気持ちは嬉しいが、怪我でもしたら俺は自分を許せない。

春乃はあの事件の日、学校に来ていなかったから不審者について知っていることが少ないのだろう。顔が分からないのも仕方ない。そもそも顔をしっかりみた人間なんてほとんどいないのだ。俺を置いて逃げやがったからな。

何にせよ、ここで教えるべきじゃない。最悪の事態は春乃に被害が及ぶことだ。できれば先に学校に向かわせたい。

考えろ。春乃が理解してくれる提案を。俺を置いてここから離れてくれる嘘を。

だらだらと汗を流す俺を見て、男がため息をついた。

「なんでお前は自分相手にそんな必死なんだ」

「……何を言ってる?」

自分相手にって何だよ。日本語不自由か? 自分のことだから必死なんじゃない。春乃がいるから俺は焦ってるんだ。

「訳がわからないって顔だな。さては前に言ったこと覚えてないな。駄目だぞ、人の話はちゃんと聞かないと」

「一方的に話してるだけだったし、興味がなかった」

「そうかいそうかい。なら知りたくなったとき、ここに連絡しろ」

懐から取り出したメモ帳に何かを書き殴り、それを破いて丸めて投げてよこしてきた。思わず避け、ちり紙が地面に転がる。

それを見て男は信じられないものを見る目をした。

「お前、人から渡されたものをよぉ……」

「渡すってか、投げただろ」

俺悪くないよな? とはいえ、剃刀が仕込まれてるわけでもないのはわかっている。

おそるおそる拾って広げてみると電話番号が書かれていた。

「いいか。これだけは覚えておけ。この世界は偽物だ。俺たちだけが正常だ。俺たちは知らなければならない」

「知らなければって、何を」

「知らないことをだ」

じゃあな、と一言残して男は去っていった。俺は茫然と眺めることしかできない。

心配してくれたのか、春乃が手を握ってくる。冷たい手だった。手が冷たい人は心が温かい、だったか。温まるよ、心が。俺は冷たいからな。

そのぬくもりに心やすらぎながら、俺は無知の知という言葉を思い出していた。

* * *

チャイムが鳴っていた。気がつけば一日の授業が終わっている。

あの男のことが頭から離れなかった。

……断じて恋慕ではない。それは冗談でも許さん。

まぁ、冗談を言えるくらいには冷静になれた。だがまだ内容の整理ができていないのも事実だ。

この世界が偽物だと言われて、どこか納得している自分がいる。道ゆく人が俺の顔をしていたときから現実感がなかった。

なら春乃も偽物か。いいや違う。握ってくれた手の温かさは偽りじゃない。

おかしいのは俺の方だ。視界がおかしいのは俺なのだから。狂っているのは俺に違いない。

春乃は生徒会の仕事だ。夏休みが近づいているから、その準備で大忙しらしい。

俺は春乃に待ってるから、と言わなかった。もちろん、待つつもりではいる。その間に電話をかけようとしているだけで。

……情けない。

春乃は言ってくれた。俺と奴は違うと。

でも好奇心には勝てない。知らないと知ってしまったからには知らずにはいられないのだ。

スマホから電話をかけようかと思ったが手が止まる。近くに電話ボックスがあったはずだ。自分の携帯番号を知られるのは危険なことくらいわかる。妹仕込みの知識だけどな。

慣れない電話ボックスに苦戦しながら電話をかけると、3回目のコールで奴は電話に出た。

「遅、かった、な」

早い方だろ、と口にしようとした言葉が声にならない。

異変に気づいたからだ。息が荒い。過呼吸のようにひゅーひゅーと呼吸している。咳をするたびに液体が飛び散る音がした。

「怪我を、してるのか?」

「げほ……やっち、まったよ。戦お、うなんてだ、なんてするもんじゃ、なかった」

「戦う?」

事故でも災害でもなく、誰かにやられたということなのか。確かに不審者だし、俺を突き落としそうになった罪人だ。

自業自得なのだろう。

同情はしないが、流石にやりすぎじゃないか? 声を聞く限り相当な重症だ。

「お、もいだせ。お前のき、おくを」

「き、記憶?」

「わ、からないなら、う、疑え。誰かの記憶でも写真でもなんでも、いい。そ、れを、おま、えは覚えていないはずだ」

心当たりは、ある。

例えば廃園になった遊園地、あのまろランドの記憶だ。あそこで遊んだはずなのに記憶にない。

「俺たちは、さいーー」

電話口から銃声が鳴る。

耳鳴りのような残響もなく、ただ破裂音の後に崩れ落ちる音がした。

「困るな。そういうことされると。失敗作は残しておくべきじゃなかった」

淡々とした口調、独特の喋り声。誰が話しているか、すぐにわかった。

あのスーツの女だ。

「君も聞いているんだろ。どこまで聴いた?」

「……何も」

「へぇ。私が誰かを質問しないのか。記憶が戻っているな」

--迂闊。くそ、学ばねぇな俺は。

「君は無知のーー」

寒気を感じて俺は電話を切った。慌てていたせいで更なる墓穴を掘ってしまった気がする。

「くそ、なんなんだよ」

いきなり現れた不審者はおそらく死んだ。

そんな場面を聴いていたのに、俺は取り乱さなかった。そしてそこに現れたあのスーツ女。きっとあの女が殺したのだ。

警察が聞いてくれるだろうか。何も証拠がないのだ。携帯で聞いていなかったことを後悔する。

おかしいのは不審者か、スーツの女か。きっとみんな狂っている。

俺は今このとき、狂人になっていた。

* * *

次の太陽が昇る頃、目覚ましが鳴る前に起床していた。

窓の外では相変わらず俺の顔をした人が歩いている。昨日と何も変わらない。曇天の空にカラスが鳴いていた。

誰も空を見ていない。なぜ誰も昨日と違うことに気づかないのだろうか。

昨日、あの電話を聞いた俺は無我夢中で逃げた。

銃声と崩れ落ちたと思われる鈍い音。そこにはあまりにも生々しい死の匂いがあった。俺が電話を掛けたのは公衆電話だ。場所が特定されるわけもない。だがそれは常識の範囲内でのことだ。

電話の向こうは非常識だった。俺の常識がなぜ通じるというのだろう。

怖かった。振り向けばスーツの女が俺の後ろで銃口を向けているのではないか。そんな想像を拭い去ることができなかった。

玄関をくぐった俺は内側から鍵をかけ、背中でその扉を抑えていた。息を切らして怯える俺の慌てように妹が困惑していたのを覚えている。どうしたのという問いかけに答えずに、俺は妹の胸に抱きついた。最初こそ罵倒を浴びせてきた妹だが、様子がいつもと違うことに気が付くと優しく俺の背中を撫でた。俺は赤子のように泣きじゃくっていた。怖かった。何か大事なものを失ってしまいそうで、怖かったんだ。

「おはよう。兄ちゃん」

普段のように接してくれるのは妹なりの優しさなのだろうか。

その普段は前のことで最近の普段ならもっと毒舌だったとか、そんなツッコミをする気力もない。玄関にはきっともう春乃がいるのだろう。春乃は俺に置いて行かれたことについて少し嫌味をいうかもしれない。或いは、あえて何も聞かないでくれるかもしれない。

普通だ。何も変わらない。ただ本当にそうかという猜疑心を捨て去ることができなかった。

「おはよう美香。昨日は、その。ありがとな」

「どいたしまして。兄ちゃん、今日は休んだっていいんだよ?」

魅力的な提案だ。確かに俺は今、外に出ることが怖い。ただ確かめないといけなかった。何か変わっていないか、何か失っていないかを。

もし失われるのが春乃だったらと思うと背筋が凍る。

なぜあのときなぜ春乃のことを考えずに逃げてしまったのかと、俺は一生消えない傷を負うだろう。確かめるのが怖い。でもこのまま知らないままでいるのが一番駄目なことだ。

「ちゃんと行くよ。春乃が待ってる」

「……そっか。わかった。でもね、兄ちゃん。これだけは忘れないで欲しんだけどさ。そんなに頑張らなくてもいいんだよ?」

その言葉に意思が揺ぐ。

確かに俺はここところ頑張りすぎていた。ずっと平気なふりをして、精神をすり減らしてきたのだ。

ここで一度休んだ方がいいんじゃないだろうか。

あの電話も実際に現場を見たわけじゃないんだ。勘違いの可能性もある。それを想像力豊かに考えてしまっただけのこと。そうだよ、いいじゃないか。春乃に被害が及ぶのだって考え過ぎだ。むしろ俺があっていたら何かを知ったと思われて逆に被害を受けたかもしれない。

そうだよ、頑張らなくたって、春乃にも風邪を引いたとでもいえ、ば……。

「いや、行くよ」

全く、意志薄弱な自分が嫌になる。

春乃をこれ以上は騙さない。俺はそう決めているのだ。

「……わかったよ、兄ちゃん。気を付けてね」

「ああ。美香は遅刻するなよ」

朝食を食べ終わり、バックを持った俺は玄関へ向かった。ドアノブを握った右手がもし春乃がいなかったらと開けることを拒んでいる。左腕でもドアノブを握り、扉を開けた。

扉を開けた先、そこに春乃はいなかった。

肩から鞄がずり落ちる。どさりと落下した音で俺の中で何かが崩れ去ったような気が――。

「ばぁ!」

「うぉおおおおお!?」

扉の後ろから俺の顔が飛び出してきた。なんだこいつ気持ち悪っ!?

春乃を失った心の怪我で何も感じられないみたいな感じだったのに、てめぇの顔でビビっちまったじゃねぇかどうしてくれる。

「あはは。どっきり大成功!」

その声でようやく状況を理解した。

春乃だ。よく見れば髪にあのヘアピンを付けている。なんだ、無事だったか。よかった、本当に。安心したよ。

「もー。昨日は待ってると思って門が締まるまで待ってたんだからね」

ぷんすかとテンプレな怒り方をしている春乃を俺は力強く抱きしめた。突然のことで春乃は固まっている。だが思考が追い付いたのか、素っ頓狂な声を上げた。

「へぇ!?」

「ごめん。悪かった。本当に、すまない」

ああ、温かい。生きてる。俺も、生きてるんだ。

髪に顔を埋め、匂いを嗅ぐ。もっと近くに彼女を感じたかった。

「ちょ、ちょ、ちょっと何してるの! 恥ずかしいから嗅がないで!」

「大丈夫。いい匂いだから」

「そういう問題じゃないの!」

顔を赤くした春乃に引きはがされてしまう。

なんだよ、恥ずかしがることないのに。

「も、もう! 今日はいつになく衝動的だね。何かあったの?」

「そ、れは、まあ、ちょっとね。昨日のことだよ」

あの男のことは隠さない。さっきこれ以上嘘をつかないって決めたからな。

隠せるものじゃないし、隠したところで意味がない。

「昨日のことって?」

「ほら、今朝の。忘れたのか」

「何かあったかな」

「ほら、会っただろ。あの男に」

「んー私と一緒のときじゃないと思うな。美香ちゃんといたときじゃない?」

忘れるなんて珍しい、そう言おうとしたとき、ふと彼女が前に言った言葉を思い出した。

忘れる? 春乃が? それは本当に春乃が忘れたのか。あり得ない。

春乃は言った。覚えるのは苦手だが、覚えたことは忘れないと。ならば春乃は忘れたのではない。

「は、春乃。前にあった教育委員会の人に合わなかったか?」

「え? どうして知ってるの?」

繋がった。繋がってしまった。

春乃は忘れたのではない。あんな直近の出来事を忘れる春乃じゃない。あの女には何かがあると思っていた。

春乃は、忘れさせられたのだ。

「やりやがった」

ふつふつと怒りが沸いてくる。

あの男を覚えられていては都合が悪かったのだろう。だから春乃を狙った。なぜ俺を先に狙わないのかはわかる。記憶を消せるのなら、急ぐまでもないのだ。

前に図書室であったときにも俺は恐らく記憶を消されている。あのときの記憶の欠落は意図的なものだった。

わからないのは目的だ。あのスーツの女は何が目的で動いている?

くそ。思考がうまくまとまらない。まさか、考えられないようにしているとでもいうのか。スーツの女と無意識に読んでいたが、それもあの女の操作なのかもしれない。上江波呂とか言ったか。上江と呼ぶことにしよう。

初めてあったときを思い出せ。上江は何と言った。元気にしてたかい、だったか? やけに親しげだったような。

いや、待て。親しげ? まさか俺は上江を知っていたのか?

一体、どこで。どういう出会いだったんだ。

そもそも関わりあう機会がないはずだろ。学校ではない。春乃が上江と会ったときも知らないようだった。

「やりやがったって、どういうこと?」

「春乃はあの教育委員会の女と前にあったことはあるか」

「校門で一緒に見たのが初めだよ。知ってるでしょ」

「まあ、そうだよな。なんか馴れ馴れしい感じは?」

「礼儀正しい人だったと思うけど。でもちょっとトゲトゲしてたかも」

うん。春乃は昔からの知り合いだったということはなさそうだ。しかし手がかりがないな。こういうときに妹の意見を聞けたらいいのに。

教育委員会の人って知っていたしな。

いや、待て。

何故知っていたんだ。もしかして。もしかしてだが、知り合いだったのか。出会ったとしたら、いや、まさかそんな。

「美香……?」

俺の記憶が消されたときに、なのか?

そんな馬鹿なことがあるか。まだどこか違う場所で知っていたかもしれないじゃないか。無知の無知って言葉だって、知らなかった。いや、でも無知の知を知っていて問いかけてきたのは美香だ。おそらくそれを上江も言っている。

信じたくない。嘘だと言ってくれ。

疑うべき相手は、俺が最も信頼する人だった。

* * *

美香が上江と接触していたならば、まずは話そうと考えた。朝に教室に行ってもいないだろうと思い、一限が終わってから教室に行ったのだが姿が見当たらない。その後の休み時間もちょくちょく見に行ったり話を聞いて見るのだがいないのだ。

担任に尋ねてみると、どうやらボイコットをしたらしい。これまで遅刻はしてもボイコットだけはしなかったと言うのに。避けられているのは明らかだった。

妹は敵ではない。

これまで何度も俺を助けてくれた。春乃と喧嘩したときだって仲を取り持ってくれたし、今朝だって心配してくれていた。敵なはずがない。

だが俺に上江との関係を伏せていた。

昨日、俺は話している。上江が電話の向こう側で人を殺していたかもしれないと。俺は上江について何か知らないかと直接訪ねたりはしていない。しかし、そのとき上江について知っていることを話してくれたって言いはずだ。何も後ろめたいことがないのならば。

きっとあるのだろう。後ろめたいことが。

妹が失敗したところなど見たことがないので、もしかしたら俺に関わることなのかもしれない。

話さないということはきっと知ったら後悔することなのだろう。

だが聞かなくてはいけない。人を殺し、春乃の記憶を消すという横暴がまかり通る理由を。俺は知らなくてはならない。

春乃には記憶が消されたことや消された記憶について全て伏せることにした。騙しているようで気が引けるが、そうしなければまた記憶が消されてしまう。

俺は非力だ。

自分で決めたことを押し通すことができない。俺は春乃に何も隠したくない。なのに環境がそうさせてくれない。これは俺の言い訳なのだろうか。

「どうしたの難しい顔して」

「……春乃にはどんな髪型が似合うかなって思って」

昼休み、中庭で二人で食べる弁当も今日は味がしない。一緒に居るだけで満たされていたはずが、今は一緒に居ると息苦しかった。

「どんなのが好きなの?」

「俺の好みを知ったってしょうがないだろ」

「しょうがなくないよ。彼女なんだよ、私」

ああ、畜生。可愛いな。俺の顔なのに。

こんなに健気な彼女がいるのに、俺は危険なことに首を突っ込もうとしている。なんて馬鹿馬鹿しい。

どうしてこうなってしまったのだろう。

あのとき春乃の顔が俺に見えていたことを明かしていたら、違ったのだろうか。一緒に謎を探したのかもしれないが、そうならなくてよかったとも思う。もしそうなっていたら、春乃も聞くことになっていたかもしれない。人が死ぬ瞬間の音を。

「好きだよ。春乃」

「へ!? 何いきなり」

「言葉にしておこうと思って」

もしかしたら、最後かもしれない。なんて言えないけど。

「わ、私も好きだよ」

「大好きだ」

「だ、大好きだよ」

「大大大好きだ」

「え、ちょ、ちょっと続けるの?」

「駄目か?」

「だ、駄目ではないけど」

ははは。周囲の目が痛いぜ。そりゃ学校の中心でこんないちゃつかれたら腹立つよな。羨ましかろう。謝らないよ。

「なんか、今朝からおかしいよ?」

「そうだな。よく覚えておいてくれ」

「忘れられないよ、もう」

忘れさせられるかもしれないけどな。

ああ、くそ。嫌だなぁ。忘れたくないなぁ。

腕を引いて春乃を抱きしめる。始めこそびっくりしていたが、俺の動きに体を任せていた。なんだろう。慣れてきてるのかな。それはそれで初々しさがなくなって残念なような……。まあ今はそんなことどうでもいいんだけど。

「俺は、忘れないから」

「そんなに心配しなくても私も忘れないって」

背中を撫でられたその感覚に、妹も同じことをしてくれたことを思い出した。あいつの優しさは本物だったと信じたい。

どうして今、美香は隠れてしまったのだろうか。

春乃から離れたときの寂しさが、やけに後に引いていた。

* * *

「やぁ、昨日は災難だったね」

放課後に図書室で受付をしていると上江が現れた。驚きはしない。何となく来る気がしていた。

「記憶を消すなら先に教えて下さい。俺はいつあなたと知り合ったんですか」

「……この前知り合ったばかりだろう」

「消された記憶の方ですよ」

そういうと上江は首を傾げた。

え、嘘だろ。違った? 断言しちゃったよ俺。

「どうしてそう思うんだい」

「え、だって、あんな馴れ馴れしい話しかけ方するから……」

「む……そうか。そこでか。迂闊だったな」

あ、あってるっぽい。

なんだよ。もっとここ緊張する場面だろ。なんでそんな軽い感じなんだよ。

「そ、それに上江さんとは初対面な気がしなかったですし」

「ふむ。やはり部分的な忘却には限界があるということか」

全消去できるかのような口ぶりだ。恐ろしい。実際できるんだろうけど。というか、やはりってことは結構な人数の記憶を消してきたということだろうか。

「さて。君はどうしたい」

「え、選択肢あるんですか」

「当たり前だろう」

何が当たり前なのだろう。

理解できない。デスオアダイとでも言いたいのか。

「じゃ、じゃあなんであの男を殺したか教えてくれませんか」

「ほう。自分のことじゃなく、それが最初に聞くことか」

「人死にのほうが大事ですから」

「ああ、それなら気にしなくていい」

「え、殺してないんですか?」

「アレは人ではないのでな」

背筋が凍る。話が通じそうだと思った自分が迂闊だった。

確かにあの不審者はいい奴ではないが、落ちそうになった俺を掴んだ奴の手にはぬくもりがあった。殺されかけもしたが命の恩人でもあったんだ。あいつは間違いなく人だった。

「あんた何様なんだよ。神様のつもりか?」

「いいや、私は神じゃない。そう呼ばれることもあるが、違うと断言する。私には神がすでにいるからだ。私にとっての神は君だな。人こそが私の神だ」

「人が神だ? 言っている意味がわからない! あんたが殺した奴だって人だっただろ」

「アレはまがい物だ。自分を人を思い込んだイレギュラーなのだよ」

駄目だ。話が通じない。

何より恐ろしいのは上江には悪意が一切感じられないことだ。善意で動いていることが理解できる。その善意で人を殺したのだ。

こんなにおぞましいことが他にあるだろうか。コイツの目には狂気の色が混じっていた。

「俺と奴の何が違うっていうんだよ。俺もあいつも同じだ。病気までお揃いだ! さあ、殺してみろよ」

「それが神の意志とあらば、と、言いたいが病気とは何だい?」

「何を白々しい。だからこそしたんだろ」

「君に病気など私が気づかないわけがない」

「ああ、そうかい。俺は世の中の人が皆俺の顔に見えるよ! あんたの顔はちっとも変りやしない。あんたこそ人間じゃないな」

俺の言葉に上江はうなっていた。なんだ、一体何を考えているんだ。

「アレとはどういうきっかけで同じ病気だと」

「手を握られた。そしたらわかったんだよ」

「ほう。興味深い。初めて見るケースだ」

なんだよ、そんな医者みてぇな聞き方しやがって。

ああ確かに似合うだろうよ白衣が。白衣姿の上江の姿を想像したとき、頭痛が起きた。内側から押されているかのような痛みだ。その痛みとともに上江の白衣姿がはっきりと思い浮かぶ。否、それは実際に見たもののような気がしてきた。

「せ、んせい?」

俺はうっかりそう呼んでしまっていた。

何が先生だ。あれが医者だって? 笑わせてくれる。人を人とも思っていない奴が、人を救っているなんておかしいじゃないか。

「なるほど、理解した。アレと君の記憶が戻る原因はそれだったのか」

口の端が避けるように笑った。

「やはり、人間は素晴らしい」

愉快に笑う上江に俺は心底吐き気を覚えていた。

* * *

用が済んだと言わんばかりに、上江は図書室を出て行った。何が聞きたいと言っておきながら、大したことも言わずに。そんなもので満足できるはずもなく、話を聞くために後を追った。しかし廊下に出たときにはその姿はない。しばらく探して回ったがどこにもいなかった。

俺の記憶を消しに来たんじゃなかったのか。

意味が分からない。分からないと言えば、俺の病気のこともだ。

てっきり上江が手がかりを持っていると踏んでいたのだが、知らない様子だった。わざわざ嘘をつく必要がない。きっと本当に知らないのだろう。

だとしたら一体何が原因なんだ。他人の顔が自分の顔に見えるなんて病気に決まっているじゃないか。まさか春乃が原因とかないよな。

誰もいなくなった夕暮れの廊下を進む。靴裏が床に擦れてキュッキュと音を鳴らしていた。頬に風を感じる。顔を上げると無意識に俺が突き落とされた場所の前まで来ていた。

少し身を乗り出して外を覗く。高さは三階までないくらい。下はコンクリート。あそこに落ちそうになっていたんだな。上から覗くのは初めてだ。

思えばここから全てが始まった。不審者との一件がなければ春乃と恋仲になることもなかっただろう。奴のことは嫌いだが、そのことに関しては感謝してもいい。死んで欲しいなんて、俺は思っていなかった。

「お兄ちゃん!」

いきなり後ろから誰かが抱きついてきた。

誰かは言うまでもないが、多分美香だろう。ずっと探していたのに自分から出てくるとは。聞きたいことは山ほどあるが、質問よりも前に懐かしい呼ばれ方をされたに俺は気が向いていた。

「やだよ。せっかく、残してもらったのに、死んじゃ、やだよ……」

……ああ、そういうことか。ここに身を乗り出すのは危ないからな。俺が自殺しようとしているように見えたのだろう。

なんだよ。やっぱり敵なんかじゃなかったんじゃないか。

でもやっぱり何か知っているのだろう。せっかく残してもらったのに、か。

「美香。落ち着いて。兄ちゃんはちょっと考え事してただけだから。自殺なんて考えてないよ」

「ほんと?」

「ほんとほんと。誤解するようなことしちゃったな」

ボロボロと涙を流す妹の頭を撫でる。大量のヘアピンがちょっと邪魔くさい。可愛いけど多すぎるだろ。わしゃわしゃできないじゃないか。あ、させないためかコレ。今更気づいてしまった。

ぐずっている妹が落ち着くのを待っていると、鼻声のまま美香は問いかけてきた。

「兄ちゃん、どこまで聞いたの」

「全然。俺のこと聞くだけ聞いて行っちまったよ」

「何を言ったのさ」

「んー……どうしよう。春乃にも言ってないことなんだけど」

「いや、兄ちゃん。上江さんに言っちゃってるんだったら意味ないじゃん」

え、い、いや、あれはだって、しょうがなくないか?

でも確かになぁ。言っちゃったなら妹にも言うしかないか。どうせ伝わっちゃうんだろうし。

「えっと、だな。他人の顔が俺の顔に見えるんだ。今もお前の顔が俺だ」

「……ごめん兄ちゃん。何言ってるのかさっぱりわかんない」

「俺も最初はそうだったよ。何が起きてるのかさっぱりわからなかった。時々戻ったりもしたんだけど、結局治し方がわからなくてな。まぁ、そんなことはどうでもいい。上江が殺した人もそうだったんだよ」

「そうだったって……兄ちゃん不審者と会ったの!? いつ、どこで!」

おおう。すごい食いつきだ。心配してくれてたのは分かってたけど、こんなに過保護だったのか。殺されかけた不審者にあったくらいで……いや、大したことあったわ。過保護にもなるか。

駄目だな最近。認識が歪み過ぎてる。

「つい先日だよ。何だ。知らされてなかったのか」

「私が知らされたのは危険要因を処理したってことだけだよ。道理で昨日あんなに怯えて……はぁ。音声聞かれたってだけじゃなかったんだね」

案外、頻繁に連絡を取っていたらしい。流石にゲームの中でとか言わないよな。処理したって、結構頻繁にあるのか人殺しが。嫌だなぁ。妹が平然に処理とか言ってるの。

どうしよう。聞きたいことが多すぎて、何から聞いていいかわからないな。

「なぁ、美香。知ってること全部教えてくれないか」

聞いても聞いても底が見えなくなりそうなので、一括することにした。これならわざわざ知らないことを聞く必要もなくて画期的だろう。

「……ごめん。できない」

「それは緘口令的な、制限でってことか?」

「違うんだけど、兄ちゃんに知られたくない」

知られたくないって、俺のことだけじゃないのか。美香にも秘密があるなら、どんな秘密なのだろう。いや知られたくないって言ってるんだから無理に聞かなくてもいいかな。

「なら話せる範囲で何かないか?」

「そだね。あんなことがあって信じられないかもしれないけど、上江さんが兄ちゃんに危害を加えることはないから安心していいよ」

いくら何でも、それは信用できない。

実際に記憶を消されたし、何度も俺に探りを入れてきた。気づかれたのなら殺してやるという意味だと考えるのは普通だろうに。

「それは、俺が人だから?」

「まぁ、うん。そだよ」

「美香だって人だろ」

「人だよ。少なくとも私にとっては」

「……なんだその含みのある言い方」

「最大限の譲歩かな」

ああ、さっきの知られたくないことか。

まさかアンドロイドですとか言わないよな? 美香の頬を少し引っ張ってみる。柔らかいな。あ、新発見。俺の顔でも歯並びは違うんだ。綺麗な歯だな。綺麗すぎて逆に疑わしい。歯並びが違うなら、これから歯で見分けて付けてみるか? 無理だろうけど。

「にーひゃん、やめへ」

「ああ、悪い。知られたくないのに詮索しちゃったな」

「別に歯を見たりするぐらいならいいけど、妹に欲情しないで」

「ああ、そう。てかしてねぇよ」

俺そんなに性欲剥き出しに見えるのだろうか。心外だ。

仮にそうだったとしても野郎は皆そうなんだよ。多分俺はマシなほうだ。知らんけど。

「美香はどうして上江と連絡とってるんだよ」

「秘密」

「えぇ……」

なんでさっきのが良くて、これは話さないんだよ。いらないよ人間だったとか妹の歯並びの情報とか。どこで役立てればいいんだ。岩崎か? 岩崎に教えてやればいいのか。世の中には特殊な方もいるらしいし、そういう人にとってはお宝かもしれない。

「……兄ちゃん今変なこと考えなかった?」

「い、いや? 何も?」

いけないいけない。妹様の前では全てお見通しだ。邪な考えは捨てよう。

えー……でもどうしたもんかなコレ。

「なぁ、美香。俺の病気については何か分からないか?」

「聞いたことない。上江さんに分からないなら私がわかるはずないもん」

おお、妹が俺みたいなこと言ってる。そうだよな。妹に分からなきゃ俺に分かるはずもないもんな。仕方ない諦めよう。

「兄ちゃん。これ以上は知らない方がいいと思う」

「どうして止めるんだ。知ったら殺されるのか?」

「ううん。断言するけど、それは無い。でも兄ちゃんの行動によっては記憶が消されちゃうから」

うわぁ嫌だ。つまりさっきの俺は記憶が消される可能性があった。だから残してもらったとか言ってたのか。

知られても殺されず、行動次第で記憶を消すってどういう状況だよ。

俺を殺さないってことはわかるけど、逆に殺さないことの方が不思議に感じてきた。知られたら困るのに、どうして生かしておくんだろう。不殺主義ってわけでもあるまいし。

「ねぇ、兄ちゃん」

美香がまた抱きついてきた。お、おう。嬉しいけどさ、そういうことされると春乃にまたチクチク言われそうで嫌だ。まぁ、背中を撫でてやるとするか。

「兄ちゃんは今、幸せ?」

「なんかそれ上江にも言われたような……」

「いいから答えて」

「ああ、うん。幸せだよ」

「だったら知らなくていいことを知る必要ないんじゃないの?」

「そうかもしれないな」

「だからさ、このままでいようよ」

「……」

俺は何も答えなかった。美香もそれが分かっていたように感じる。

互いに無言のまま時間が過ぎていく。どのくらい過ぎたころだろうか。下校のチャイムが鳴った。美香は腕を離し、春乃のところに早く行けと言って去っていく。服に残った美香の体温がやけに早く消えていったような気がした。

* * *

日常が戻ってきていた。

いつも通りの朝、代わり映えのない光景。ただそこに薄気味悪さはない。

俺の病気に関しては確かに薄気味悪いままだし、俺の顔は気持ち悪いしで最悪なことに変わりはないのだが、まぁ、そこは置いておくとして。

命の危険がないと言われてから、俺は確実に安堵していた。その言が妹のものだからだろう。上江と繋がっていたときは敵なのかと疑ったが、それでも一緒に暮らしてきた実の妹だ。妹の言葉なら、俺は信頼できる。

「おはよ。クズ兄ちゃん」

……前言撤回してやろうか?

あれ。おかしいな。昨日兄ちゃんって呼んでたし、何ならお兄ちゃんって言ってたのに。どこでやらかしたんだろう。心当たりはあるけど知らないはずだし。

「なんでクズに戻ってるんだよ」

「上江さんからぺぱ子ちゃんの一件を聞いて」

「ごめんなさい反省してます」

畜生、あの女いつから覗いてやがった。

違うんだ。強制禁欲生活だったからリピドーがハッスルしてただけで普段なら抑えられてた。ちょっと横目で見ちゃうくらいで。

それに結果的に腕掴んでたからいい位置に胸があっただけで、顔見たら俺に変わったもんだからがっかりだったし……あれ?

「ひょっとして俺クズでは……?」

「今更?」

そうだよなぁ。

自分でもクズだったなと思える場面が多々ある。でも仕方ないじゃん病気だったんだから。不満そうな顔をしていたのに気づいたのだろう。美香が首を傾げて尋ねてくる。

「兄ちゃんのその病気っていつからなの?」

「春乃とキスしようとした直前から」

「えぇ……」

おい引くなよ。

可哀そうだろ俺が。好きでなったんじゃない。憐れむなら治してくれ頼むから。

「え、春乃ちゃんとキスしたとき自分の顔だったの。地獄じゃん」

「お前は今、兄の顔を地獄呼ばわりしたことに気づいてるか?」

「え、まさかディープキスしたときもなの!? 乗り越えちゃったの!?」

おい無視すんなよ。ていうか乗り越えちゃったのじゃねぇよ。天地がひっくり返っても自分の顔にキスしたくはならない。

あとちょっと興奮してるのはどういうことだ。どこにそんな要素があるんだよ。前に春乃とのキスを話したときより興味津々じゃねぇか。まさかとは思うが、兄と兄でカップリングとか妄想したりしてねぇだろうな。業が深すぎるぞ。

「あのときは一瞬戻ってたんだ。それで盛り上がっちゃってな」

「ああ、そゆことね」

理解が早くて助かる。

一聞いて十知るってやつかな。流石だ妹様。

「もしかして仲直りのキスとか言ってたアレ、顔が元に戻るか実験しようとしてた?」

……そこまで知らなくていい。鋭すぎるだろ。春乃とキスすることが病気に関連しているかもしれないなんて、結構時間経ってから気づいたのに、こいつ一瞬かよ。

 全く。君のような勘のいいガキは嫌いだよ。

「もうこんな時間か。学校行ってくる!」

「待て逃げんなクズ野郎」

ははは罵倒も何だか懐かしい気さえする。全然時間経ってないのにな。

さて、本当に学校に行かなくては。

美香と無駄話してたら時間ギリギリだ。今からなら走らなくてもちょうど間に合うだろう。玄関のドアノブを捻って外へと飛び出す。

「ごめん、おまた……せ?」

玄関を開けた先、そこに春乃はいなかった。

やれやれ二度も引っ掛かるか。

「そこだ!」

ドアの裏にもいなかった。先に行ってしまったのだろうか。春乃が? いやありえない。これまで遅刻しそうな時間まで待ってくれていたというのに。じゃあ、風邪かな。電話をかけてみるが出る気配がない。

冷汗が滲み出ていた。どうして電話に出ない。電話に出れない状況にあるのは確かだ。それほどまでに風邪が悪化してしまったのか、あるいは、あるいは、だ。

「何を玄関で固まってやがるクソ野郎……ってどしたの怖い顔して」

「なぁ、美香。上江が春乃に手出しする可能性はあるか」

「え、聞いてない。そんな、何かの間違いじゃ」

「あるか、ないかを聞いてるんだ」

「……あるよ」

「上江は今どこにいる!」

「落ち着いて兄ちゃん。まだ春ちゃんが見つからないだけ。家に電話してないんじゃないの?」

……その通りだ。冷静じゃなかったな。 春乃は家族について触れて欲しくなさそうだった。だから家に電話する発想すらしなかったな。もし体調不良なら無関心な親とはいえ教えてくれるだろう。

「落ち着いた?」

「……ごめん。もう大丈夫」

「上江さんのこと信頼できないのもわかるけど、早とちりはどっちの特にもなんないからさ。私が聞いてみるから、ちと待ってて」

美香は本当に得難い存在だ。さっきまで頭に血が上ってたのにかなり落ち着いてきた。俺一人だったら上江を探して無関係だったとしても奴と敵対していただろう。

しかし、本当に何があった。

心配だ。人は失ったときに本当に大切なものに気づくという。そんな事態にはなりたくない。もし事故にでもあっていたら、俺はどうすればいいんだ。

頭を抱えていると電話をかけていた美香が戻ってきた。

「兄ちゃん、一先ず安心していいよ。春ちゃんは無事だから」

「そ、そうなのか。よかった」

「んーでも無事じゃないところもあってさ」

「何!?」

どこか怪我をしたのか? 登校できないような怪我なら、まさか足をか。

なら俺が代わりの足になろう。顔に大きな傷を負ってしまったなら、俺はタトゥーでも何でもして春乃が気にしないようにしよう。大丈夫だ。俺は春乃のためなら何でもやれる。

「ここ」

美香が胸を叩いていた。え、どういうこと?

「まさか乳がん……!?」

「違う違う。心に傷をね」

「心臓に穴でも……!?」

「兄ちゃん、はっきり言わなかった私も悪いけど、心配しすぎだって」

そうか? いや、そうかなぁ?

乳がんとかいつ罹ってもおかしくない病気だしなぁ。何にせよ、春乃が無事でよかった。でも、それならどうして今日は来ていないのだろう。

「春ちゃん、家出したって」

「……はぁ!?」

嘘だろ。春乃が家出なんて。

確かに家族と上手くいってなかった。でも春乃は家出するなんて、一体何があったんだ。

「多分、弟さんのことで何かあったのかも」

「弟?」

「知らないの? 春ちゃんの年の離れた弟の話」

「し、知らない」

なんでお前は知ってるんだというツッコミはもういいだろう。そうか、春乃には弟がいるのか。何かあったて、なんだよ。その何かがキーだろうが。

「どんな奴なんだ?」

「わかんない。まだ五歳とかそんくらいなはずだよ」

「そうなのか。そりゃ、わかんないわな」

うーん。今まで聞いてこなかったことだけにどうすればいいのかわからない。

とにかく春乃を見つけないといけない。

「荷物は家にあるままだって。兄ちゃん、春ちゃんがどこか心当たりない?」

「心当たりって」

「兄ちゃんにしかわかんないよ」

春乃が行きそうな場所って、そんなの……。

「一つしかないな」

「そこにいるよ。迎えに行くの?」

「当たり前だろ」

兄ちゃんしかわからんないとか言っておいて、その返答どこか知ってる感じじゃねぇか。全く、妹様はもっと隠してくれていいんだぜ。その辺りさ。

「学校には体調不良で休むとでも言っておいてくれ。ついでに春乃も」

「んー……別に私はいいけど」

「頼んだ」

そう言い残し、俺は春乃との思い出の場所へと向かった。

言うまでもないとは思うが、廃園となった遊園地、あのまろランドだ。

やれやれ。本当に囚われのお姫様になっちまうとはな。今度こそ俺は勇者だ。制服なのが似合わねぇが。姫を救い出しに行くとしよう。

俺は走った。春乃が待っているから。

だが走る理由はそれだけじゃない。

春乃が家族のことを話そうとしたのを、俺は止めている。あのとき話を聞いておけば、春乃が家出するなんてこともなかったのだろうか。

自分のことばかり気にして、彼女を見れていなかった。

俺はきっと罪深い。

* * *

雨が降り始めていた。

染み込んだ雨水で制服が重くなり、進む足を止めようとする。空は俺が春乃の元へ向かうのを止めようとしていた。

どうして邪魔をするのだろう。

いや、きっと俺がそう感じているだけ。本当は俺の足が竦んでいる。

俺はずっと不思議だった。

なぜ春乃は俺を選んだのか。

最初はただ俺が告白したからだと思っていた。俺にとって春乃は特別だけど、春乃にとって俺は特別じゃないから。

俺の代わりはいくらでもいる。例えば岩崎だ。あいつは誰とだって友達になれる。俺みたいな奴とだってだ。変態だけど、岩崎は特別な人間だ。俺は春乃と釣り合うものがない。

じゃあ、諦めるのか。そんなはずはない。何もないから、俺は全部を捨てられる。全部を捧げられる。

これまで家庭問題に踏み込むのが怖かった。そこに踏み込んだら、これまで積み上げてきたものが壊れてしまう気がした。見ない振りをした。

俺はもう、逃げない。

立ち入り禁止のテープを過ぎ去り、廃園の遊園地へと入る。マスコット像を伝う雫が涙のようだった。

アトラクションを一つ一つ回る。あの日の思い出が蘇る。笑った春乃が手を引いて笑っている姿。楽しかった、本当に。俺の顔になってしまっていても、それだけは変わらない。取り壊し工事が始まっている個所もある。その様子はまるで忘却のようだ。

形を失っていき、最後にはその形すら思い出せない。

そのことが無性に悲しかった。

城の中へと入って階段を登る。高い場所から見渡して探そうという単純な思い付きだったのだが、その必要はなかった。

「探したよ。春乃」

彼女は階段に腰掛けうずくまっていた。ただ城に入っただけじゃわからない位置だ。それに立ったときに足がしびれたら転げ落ちて怪我をする。そんなことも考えられないほどなのか。

顔を上げた春乃はいつもの彼女とは別人のようだった。表情はなく、声も出さない。俺の存在に気付いているのに、何も返してこなかった。それどころかどこかがっかりしたようにも思える。あの日、瞳の奥に感じた闇を全身に纏っていた。

これが、俺があの日見なかったものか。

言葉が詰まる。何を言えばいい。何を言うべきだ。

……いや、違うな。何をするべきか、俺は知っている。

俺は春乃の隣に座った。雨が降り出す前に来た春乃はぬれていない。対して隣にはびしょ濡れの俺。状況は全くの逆なことに心の中で苦笑する。

隣に座って、俺は何もしなかった。ただ隣に座る。それだけでよかった。

雨音を背景に、ただ時間が経過する。

体から徐々に体温が奪われていく。このままでは風邪を引くだろう。

それがどうした。だからなんだ。

俺は今、春乃の隣から離れることは絶対にしない。

春乃の横顔を見ていた。無表情でこそあるが、春乃らしさは何も失われてはいない。不愛想な感じはまるで幼い子どものようだ。

長い間、見つめているとふと春乃と視線があった。さっと春乃は視線を逸らす。俺は逸らさなかった。

「……どうして。まだいるの」

「春乃がここにいるから」

「じゃ、じゃあ私が場所移るから。それでいいでしょ」

「そしたら俺もついてくよ」

「変態、変質者、ストーカー」

「恋人、だろ」

春乃が目を泳がせている。内心ではきっと思ってもないことを言ったのだろう。慣れてないことをするからだ、全く。

罵倒で俺を怒らせることができると思わないことだ。そこらの罵倒で傷つくような弱い心じゃない。

そんなもの妹で予習済みだ。

「風邪引いちゃうよ」

「いいよ」

「良くないの。早く帰って」

「春乃を置いていけない」

「どうして、私を放っておいてくれないの! あのときは放っておいたくせに!」

そうだよな、春乃が正しい。俺は選択を間違えた。わかっている。

あのとき話を聞くべきだった。どんな内容であれ、彼女が話したいというのなら話させてやるべきだった。初デートだからいいものにしようというのは、俺のエゴだった。

一般的なカップルになろうとしていた。枠組みにはまろうと。でもそんなもの俺たちにはいらなかったんだ。

それに態度が変わろうが、雰囲気が変わろうが、春乃は春乃だ。優しいじゃないか。風邪を引かせたくないから早く帰らそうとしてるのが見え見えだった。

「もう、放っておかない。見ないフリはしない。どんな話だって聞く。いい話だけじゃない。悪い話だって、全部聞きたいんだ」

「後悔、するよ」

「聞かないで後悔するのは、もうごめんだよ」

「……馬鹿だね」

はは。こいつめ。

そうだ馬鹿なんだ。馬鹿でいい。賢く立ち回って、好かれようとしなくていい。馬鹿正直にぶつかって、わかり合いたいんだ。

「弟がね、習い事やめたいって言ったの」

ぽつりぽつりと春乃が話し始める。俺は口を挟まず、相槌を打っていた。

春乃は弟の習い事をやめたいというのを協力しようとしたのだという。母親と弟が言い合いになっているのに首を突っ込み、やりたくないならいいじゃない、と言ったそうだ。すると言われたそうだ。

「あんたみたいにできないからやめるんじゃない。この子はできる子なの」

最初、春乃は母親が自分に対して口を聞いてくれたことを喜んでいた。

母との会話ができたと。歪んでいるが、徹底的に無視されているのだ。反応されるだけでも思うところがあるのだろう。だが、母親に言われて気づいた。自分が弟の習い事をやめたいという意思を利用しているだけだと。自分がやめされられたものをしている弟が、なんでもできる弟が妬ましかったのだと。

春乃の父親は、今の父親じゃないそうだ。遊園地に連れて行ってもらったのも実の父親らしい。春乃が出来損ないだと判断した母親は父親を取り換えた。そして新しい子どもをつくり、今度は失敗しないように育てようとしているというのだ。

馬鹿げている。そう思ったのは俺だけではない。春乃の父親もだ。春乃の父親は春乃を自分の手で育てようとしたが、母親の工作によって弁護士から接触禁止命令まで出されてしまった。春乃は一人ぼっちになってしまったのだ。

自分の血が繋がっているのだから醜態をさらすことは許さない。外に出さず、内ではないものとして扱われる。幼い頃からされてきた名前のない虐待。

おぞましいまでの完璧主義。それが春乃の母親だった。

思い込みとは恐ろしい。てっきり春乃は母親に何かをされて家出したのだと思っていた。春乃は自分の心の浅ましさを恥じて逃げ出したのだ。

俺の彼女は純粋すぎる。そんな性格じゃ、世の中生きづらいだろうに。

「引いたでしょ。私、こんな子なの。人のことが妬ましくて堪らない。嫌い。みんな大嫌い。君の恋人を演じているときは楽しかった。自分じゃない自分でいられたから。でも、もうおしまい。知られちゃったから」

「俺は言ったはずだよ、春乃。どんな話を聞いたって俺は変わらない。でも春乃は変わったっていいんだ。今の卑屈な君だって俺は愛せる。どんなに嫌われても、俺は君を嫌わない」

春乃がたじろぐ。これでお別れにしようとしていたのだろう。

甘いな。実に甘い。甘ったるい。

「どうして、そんなに私のために頑張るの」

「春乃に救われたから」

「そんなことした覚えないけど」

俺は思わず笑ってしまう。

そういうところが好きなんだ。

「不審者に襲われたあのとき、心配してくれたの春乃だけだっただろ」

「私だけ? え、皆冷たすぎない?」

「まぁ、状況的に聞きにくかったんだろうけど、俺も気丈に振る舞っちゃったからな。引っ込みがつかなかったんだ。でも春乃は空気を読まずに聞いてくれただろ」

「何その言い方。まぁ、確かに空気読めないかもしれないけどさ」

春乃がなんかいじけ始めた。かーわい。

「言い方が悪かったかな。春乃は壊してくれたんだ。そういう俺の下らないプライドみたいなものをさ。どうしてか、俺は怖かった。自分以外の人が。どう接すればいいのか分からなくて、強がってたんだ」

「ふーん。そうなの? それで勢いで告白?」

「そ、それはまぁ、そうなっちゃうかな」

春乃が先に告白とか言ってきたとかは言わないであげよう。

「ふふ。そっか。変わらないんだね。本当に」

「春乃は自分のことを低く見過……えっくし!」

やばい雨に濡れたまま放っとき過ぎたな。

くしゃみまで出てきた。ずびずび鼻水をすする。

「わ、ど、どうしよ」

「とりあえず、俺の家行こうか。学校の時間だから下手にどっか行けないし」

「え、わ、わわ。うん。そうだね」

二人で雨の中を小走りで走り出す。ようやく同じ気持ちに慣れた気がした。

「ねぇ!」

「ん? どうした春乃」

「しばらく泊まってもいいかな!」

思わず顔が固まる。確かにシャワーくらいは浴びていけばいいんじゃないかなと思っていた。でも、ちょ、え? 一つ屋根の下ですか?

冷え切っていたはずの体が火照り始める。

「と、泊まっていけよ」

何かないかなんて、き、期待なんてしてねぇよ? 俺の声は裏返っていた。

* * *

家出した春乃をうちの家に泊めることになった。

もう一度言おう。家出した彼女をうちの家に泊めることになった。

俺の頭は沸騰しかけている。家に春乃がいるのだ。ドキドキが止まらない。俺の顔のせいで吐き気もするが、そんなことは今更だ。

不謹慎なのはわかっている。家出なのだ。気分よくお泊りにきたわけじゃない。彼女の気を組むべきだ。

それはそれとして家に彼女を上げるのが始めてで緊張している。妹を除けば女の子も初めてだ。ん? 母さん? 母さんは女の子って年じゃないから。言ったらぶん殴られるけど。

ていうか、そうだよな。母さん居るんだよな。どうしよう。すげえ気まずい。

春乃を連れ、家の前まできたはいいものの、果たして母さんが納得してくれるかどうか。

「ごめん。迷惑だったら、私ホテルにでも行ってくるから」

「迷惑だなんて思ってないよ。母さんがいるだろうから、どうしようかなって」

「どうしようって?」

「茶化されたくないっていうか、なんていうか」

「ほーら嫌でしょ。美香ちゃんにキスの話したのはどの口かなー」

「ごへんなはい」

 悪かったって。口の端を引っ張らないでくれ。

「ま、まぁ一先ず入ろうか」

「はい。お邪魔します」

普段は家の前で待っているから、変な感じがすると春乃が笑う。

うーん、前々から感じてはいたけど、やっぱ彼女を家に迎えに来させてるって感じがするよな。今度から俺が迎えに行こう。

そんなことを企てつつ、玄関をくぐる。ただいまと声を掛けるが返事はなかった。

「えっと、誰もいないの?」

「あっれぇ……?」

今朝には母さんが朝食を作ってくれていたはずだ。出かけたのか? わざわざ雨の中を、この短時間で?

美香に連絡を取ろうとするが、そういえばもう授業が始まっている頃だろう。電話はかけずにメッセージだけ送ることにした。

「とりあえずシャワー浴びよう。春乃、先に入って。タオルと着替え持ってきておくから」

「え、駄目だよ。君が風邪引きそうだったから来たんだよ?」

「あったかいもの飲んどけは大丈夫だから。気にせず入って」

「そういうわけには……」

「じゃあ、一緒に入る?」

「へぇあ!?」

うっそだろ。春乃からそんな提案されるなんて……いいんですか!?

いや駄目だ駄目だ。ただでさえ強制禁欲生活の影響が残っている今、春乃と一緒にシャワーなんて浴びてみろ。絶対我慢できない。何よりまだ俺の顔なのが嫌だ。

初めてのキスは許そう。だが俺の顔で初体験は許さない。

そんな一生ものはいらないんだ。そもそもまだ高二だし、ほら、……駄目だろ色々。早いって俺たちには。

「ほら。シャワー浴びよう。風邪引いちゃうから!」

「待って春乃ほんとに待って。まだ早いって」

「何言ってるの。あ、君のはどこにあるの?」

「え、どこにって、何が」

「水着に決まってるでしょ」

 ……はい?

「水着なら別に恥ずかしくないしょ?」

恥ずかしく……ないか? そんなことはないと思う。わざわざ言わないけど。

だって、水着ってスク水だよな。遠目に授業やってるときにチラッとしか見えないあれだよな。見えていないものが見えるという点ではそれはもはやパンチラに近い。特別感があるね。

嫌いじゃない。全然嫌いじゃない。

「……ねぇ。なんで鼻の下伸ばしてるのかな」

「え、いや何でもないよ」

「まさかとは思うけど、スク水が好きなの?」

「好きです」

「そこは否定するところじゃないんだ……」

馬鹿野郎、嫌いって言って着てくれなかったどうしてくれるんだ。

「ま、いっか。シャワー浴びよ」

「いいんだ!?」

「抱きたいなら抱いてもいいよ?」

 頭から湯気が出ていたと思う。

どうしたんだ今日の春乃は一体。開放的すぎないか? 前から確かにからかって誘ってくることはしてきた。でも今回のは別にからかいでも何でもない。ただの許可だ。さっきから頭の中じゃ「いいんですか」とか言っちゃってるけど、正直平静を装うために小爆発を起こしているだけで本気じゃない。

仮にやっちまったとしよう。俺が満足するだけだ。駄目なんだそれじゃ。

「……それは、その。まだ早いかな」

「そっか」

俺がまごまごしているうちにちゃっちゃと春乃は水着に着替えていた。着替えるところ見逃した、とか外道なことも頭に過ったが俺の顔なことで異常な嫌悪感がある。簡単に言うとグラビア写真の顔に俺の顔が張り付けられている気分だ。

くそったれ。こんな生殺しがあってたまるか。

萎えた俺はパンツいっちょで水着を持ってきた。心配していた俺の息子は俯いている。よかった。よかったか……?

風呂に二人でシャワーを浴びる。俺の顔のせいでぜっんぜんエロくない。がっかりだよ本当に。まぁ、公共の倫理に反しているような背徳感はある。雰囲気も悪くはないんだ。ただ春乃の顔が俺の顔なんだ……。

「……ねぇ。なんか、好きって言ったくせに反応なくない?」

「緊張しちゃってるんだよ」

「平静な顔でよく言うよ。これで、どうかな!」

背中からぎゅっと抱きついてくる。大胆だなオイ。てか、凄いな。水着の感触の中に柔らかさがある。柔らかいものをわざわざ包むことに意味があるのかと思っていたが、考えを改めないといけない。隔てる壁じゃない。際立たせるための香水のようなものだった。

うん。最高だよ。エロい。でも俺の顔なんだよ。

俺の薄い反応に春乃がむくれている。いや、本当に今で逆に助かったよ。普段なら普通に一線超えていた。

「そんな顔するなよ。男のアレってたまに自分でコントロールできないんだ。ならなくていいときに元気だったりするし」

「ふーん。ま、そういうことにしといてあげる」

ぱっと春乃が手を離す。ああ。もうちょっと感じていたい感触だったのに。

魅力がないわけじゃない。ただ視覚情報が腐っているだけなんだ。

「ほら、もうあったまっただろ。上がろ」

「なんか余裕そうなのムカつくんだけど……もしかして経験あるの?」

おお。口の悪い春乃、新鮮だな。ありだ。普通に。妹の罵倒を経験してるとただ口が悪いとか可愛いもんだ。

「経験なんかないよ。まぁ、一緒に風呂なら幼い頃なら妹と……いや、あったかな?」

「いや、どうしてそこで疑問形なの」

「うーん。やっぱ俺、昔の記憶が思い出せないんだよな。どうにもさ」

春乃にこういうのは覚えてないの、だのなんだの質問されているうちに俺たちは乾いた服に着替え終わっていた。ちなみに春乃の服は妹の部屋から拝借している。あとで殴られよう。

繰り返される春乃の質問には俺は全て覚えていないと返していた。腕を組んで春乃がうーんとうなる。そんなに変なことだろうか。子供のころの記憶なんてすぐなくなるものだろうに。

「なんか君さ。忘れてるっていうより、そんなことは最初からなかったって感じだよね」

その一言に、ガツンと頭を殴られた気分だった。

そうだ。なかったのだとしたら腑に落ちる点がいくつもある。例えばあのまろ遊園地。家の近くに遊園地があったのに、行った記憶がなく存在も知らない。

そうか、なるほど。思い出せないのではなく、思い出そのものがなかったか。

自分の頬が引きつっているのがわかった。

そんなはずはない。俺はリビングに向かい、アルバムを開く。妹と遊んでいる写真がある。ほら、やっぱり俺の記憶違いじゃないか。安心できたはずだった。しかし写真に写る自分の姿に、違和感があることに気づいてしまった。

その違いを探そうと目を凝らすとわかってしまった。

写真の中の俺だけ、光の当たる向きがズレている。

俺は知ってしまった。自分のことを母親でさえ騙そうとしていた事実を。

アルバムに移った子どもの自分が後から合成されたものだと俺は気づいた。

「これが美香が隠しておきたかったものか……」

驚きや悲しみよりも納得が先だった。

恐らくだが、俺はこの家の子どもじゃない。

美香はそのことを知られまいとした。きっとそこには上江の協力がある。こんな写真は妹でもつくるのは一苦労だろう。やたらアルバムが新しいのも最近用意したからだ。用意周到な美香にしては急ごしらえなことがやや引っ掛かるが、俺がこの家の子供じゃないことはまず間違いないだろう。

「どうしたの。いきなりリビングまで降りてって」

振り返ると春乃がいる。降りてくる足音がしていたはずなのに気づかなかった。俺がいきなり部屋から飛び出していったから見に来たのだろう。

その姿が視界に入ったとき、俺は衝動的に春乃を抱き締めていた。

「ちょ、へ!? どうしたのいきなり」

「ごめん。少しだけこのままで」

「え、うん。い、いいんだけどね、理由をさ」

「いいから」

「……もう。私が慰められる側だったのになー」

そう言いつつ春乃は背中をさすってくれる。温かい。涙が出てくる。自分の家族でさえ、俺に嘘をついていた。俺はどうやら自分で感じている以上にショックを受けていたようだ。

上江の言葉を思い出す。知らなかった方がいいこともある、と。

これが謎を求めた代償か。母さんのことをもう母さんと呼べる気がしない。母さんだけど、母さんじゃなかった。これまで育ててくれたのは確かでも、俺と血のつながりがあると偽っていたことが辛かった。アルバムを用意したのは美香だろうが、渡してきたのは母さんだ。母さんもグルだったと言ってもいい。

「春乃、もう二人でどこか遠くへ行こうか。俺、働くからさ」

「ほ、本当にどうしたの? この短時間に何があったの」

「俺、この家の子どもじゃないかもしれない」

背中を撫でていた手が止まる。何を馬鹿なことを言いたげな目線だ。

俺だって嘘だと思いたいが、先日の美香の態度から察するに事実だと思う。なるほど、こうなるから知られたくなかったんだな。知ったところで変わらないと豪語しておきながら、このありさまだ。情けない。

「……そっか。じゃあどこ行こうか」

「景色が綺麗な場所がいい」

「私、海が見えるところがいい」

「じゃあ、キレイな海がある場所だな」

「沖縄とか?」

「悪くないね」

ソファに座った俺たちはそんな話を延々としていた。

互いに分かってる。夢物語だと。

春乃は母親がそれを許さない。俺は美香から逃げられない。きっと見つかってしまう。美香から上江に伝えられて、記憶を改竄されてもおかしくない。

でも気づかないふりをする。

互いに嘘だとわかっているから、どんなことでも言えた。

どんな家に住みたいか、どんなペットを飼いたいか。犬か、猫か、はたまた水槽で何か買ってみようか。

夢を語ると、いつか叶いそうなことも叶わない気がしてくる。吐き出すほど虚しい妄言。でもやめられなかった。

「ねぇ、本当にしないの」

「……しないよ」

「……いくじなし」

どうしてか、春乃はやたらと誘ってきた。そういう気分だったのだろうか。でも俺は断り続けた。

雰囲気だけでするもんじゃない。もしできちゃったら、俺たちに育てられないから。そんなの子どもが可哀そうじゃないか。もしかしたらどこかに養子に出すことになるかもしれない。親を誰だか知らず、育て親を本当の親と思い込む。

……俺みたいに。

世の中くそったれだ。何が正しくて、何が間違っているのか、さっぱりだ。

春乃は俺の肩に頭を乗せて寝てしまった。疲れていたのだろう。

ベットで寝たほうがいいんだが、まあここでもいいだろ。ソファにちょうど毛布があったのでかけてやる。でもこれ、家族が返ってきたら嫌だな、この状況。

ああいや、違ったな。家族じゃ、なかったな。

大げさに欠伸をして俺も瞳を閉じた。

頬に伝った涙は、きっと眠かったからだ。

* * *

「ヘタレか君は」

目を覚ますと眼前に上江が立っていた。

脳がそれを理解するのに数秒かかり、反射的に逃げ出そうと体が動く。しかし肩に触れる温かさに肩に春乃がいることを思い出す。ビクッと動いてしまったが、起こさずに済んだらしい。だが担ぐには隙が多すぎるし、置いていくわけにもいかず、俺は動けなくなっていた。

クソ、こいつどっから入ってきたんだ。人の家だぞ。

「どうしてやってやらないんだね。機能不全か?」

「違う。やらないのは男だからだ」

「……? わからないな。男であることがどうして生殖行動の妨げになる」

本気言ってるのかこいつは。

いちいち回答してやる義理もないので無視して、上江から逃げる算段を立てる。とはいえ喋らなくても何か手を出してくるかもしれないので、一先ずは状況を探るために会話はしておくことにした。

「どうして家の中にあんたがいるんだ」

「それは私がセッティングしたのに君が無駄にしたからだ。いい雰囲気だったのだろう。どうして抱いてやらないんだ。ああ、心配しなくとも美香たちにはホテルを用意しておいてある」

「はぁ?」

意味が分からない。

母さん……と呼んでいいものかわからないけど、まあいいか。

母さんがいなかったのはこいつの計らいか。学校に行った美香が手回しをするのは流石に難しいとは思っていた。……やりかねないけど。

「で、どうしてそんな下世話なことにまで手を回すんだよ」

「何を言う。生殖は真っ当な生物の活動じゃないか」

「あんたなぁ……」

「単刀直入に言おう。君には子どもを作って欲しいんだ。別に春乃くんじゃなくてもいい。何なら相手はこちらが用意しよう。君はただ生殖活動だけしてくれればいい」

馬鹿げた提案に、俺はあんぐりと口を開けていた。

何を言い出すかと思えば、子どもを作れだと。そんなもの他人に言われてつくるものじゃない。というか、相手は用意するってどういうつもりなんだ。まあ、俺に彼女も女友達もいなかったら喜んで了承したかもしれない。

でも今は違う。春乃を裏切ってそんなことをするつもりはないのだ。

俺の確固として受け付けない態度を見て、上江はため息をついた。

「……駄目か。やはり美香に言われた通りだったな」

「美香はなんて」

「君は一人の女の子しか愛さないと」

 流石だな。わかってるじゃないか。

 妹、というか義妹だけど家族だったからな。

「どうして春乃くんを選んだのだね」

「本人の横で言うのは恥ずかしいんだが」

「安心したまえ。しばらく起きないよ。起きても記憶を消してあげよう」

「……それはやめろ。これ以上、春乃の記憶を奪うな」

「春乃くんのためにしたことでもかい」

「それでも傷や痛みだって春乃のものだ」

「そうかい。なら君はどうなんだい」

「俺は、まぁ、受け入れる」

言ってからほんの少しの後悔があった。もし家族と血が繋がっていないことを忘れられたら、どんなにいいだろう。母さんのことを何の疑問もなく母さんと呼び、美香を妹として可愛がる、あの日常がもし取り戻せるのなら。

だが、そんなことはしない。どうせ何度だって見つけてしまう答えだ。

「さて。じゃあ先の質問に答えてもらおうか」

「……春乃だけが俺を心配してくれたからだ」

「周りにもいただろう、心配してくれる人は」

「いたよ。でも誰も声を上げなかった。でも春乃は声を上げた。その姿を見て憧れた」

声に出してみると、春乃の存在がどれだけ自分にとって大きなものだったか染みる。かけがえのない存在だ。だからこそ、上江の誘惑に負けてはいけない。

「全く、どうして君はよりにもよって失敗作を選ぶんだい」

「撤回しろ。どんな欠点があろうが関係ない。俺の守るべき彼女だ」

「ああ、そうかい。もっといい子がいることは覚えておいてくれよ」

最低の一言を言い放って出て行った上江に嫌悪感を抱く。

何か言ってやりたかったがすぐに浮かばない。上江が言った失敗作という言葉が妙に気になっていた。

* * *

上江の言った通り、夜になっても母さんも美香も帰って来なかった。

昼も夜も春乃の手作りで俺は満足だが、美香は教科書とか家なのにどうするつもりなのだろうか。別にあいつに教科書が必要とも思えないが、流石に読み上げとか指名されたら無理だろうに。

まぁ、家族はどうにかするだろう。父さんは滅多に帰って来ないしな。

そんなことより飯だ。飯がうまい。料理ができることは知っていたが、こんなにうまいとは。

母親が作ってくれないから自分で作っているという悲しい背景を感じなくもないが、彼女の料理がうまいのは純粋に嬉しい。男は胃袋掴めば落ちるという話は本当だと思う。下手でも俺は落ちてたけど。

「夜ご飯は何がいい? 冷蔵庫にあるものでになるけど。肉じゃがとか作れるよ」

「うーん、そうだな。肉じゃがか。そういや、なんで女の人は男は肉じゃがが好きって思うんだろうな」

「嫌いなの?」

「いや、好きだけどさ。不思議だなって」

家庭の味ってやつだからだろうか。言うほど母さん肉じゃが作らないんだがな。

家庭の味にしてもレパートリーはもっといろいろある。から揚げとかカレーとかさ。でもよく聞くのが肉じゃがなのは謎だ。

「ふふ。好きなら変なことでもないでしょ」

「それもそうだな」

「お昼のときもだけど、冷蔵庫の中のもの勝手に使っちゃってるけど本当にいいの?」

「大丈夫だよ。母さんはその程度じゃ怒らないから」

「そうだね。お母さんは……」

春乃が口をつぐんだ。やってしまったと俺も思わず口を塞ぐ。

全く、俺って奴は。

「食材だっておいしく調理されたいだろうしな」

「……そんな遠回しに褒めなくてよくない?」

「最高。俺には勿体ない。愛してる」

「ふり幅すごいね。ふふふ」

笑ってくれるなら俺はピエロにでもなれる。エロはしないけどな。

「じゃあ、ちょっと待っててね」

「ありがとな。俺のできる料理って卵かけご飯しかないから助かるよ」

「君のそれは料理と呼べないと思うんだけどな」

なんでだろう。

ちょっと毒舌になったくらいの春乃の方が好きだな。

おかしい。優しい方が嬉しいものじゃないのか普通。少しくらいの喪失感は仕方ないと思っていたのに今のところ全く問題ないぞ。

これはあれだ。美香に罵倒された弊害だろう。きっと慣れ過ぎて罵倒がないと物足りなくなってしまったんだ。妹に開発されたっていうとなんか卑猥だな。て、駄目だ駄目だ。我慢してるからか変なことばかり頭に浮かんでしまう。

二階のトイレで用を足し、すっきりしてでてくるとふと美香の部屋の前で足が止まった。春乃に着せる服のために少しだけ漁ったが、そういえば美香の部屋に何があるのかは調べたことがない。

春乃は調理中。少しくらい時間潰してもいいだろう。

美香の部屋に入ると相変わらずすごい量のヘアピンが並べられている。ちょっとしたヘアピン屋さんだ。こんなに要らないだろう絶対。

机の上には少し前に家族で撮った写真がある。俺も映っていることに安堵した。

アルバムの件から、もしかしたら家の写真に自分はいないんじゃないかと危惧していたのだ。

何か面白いものはないかと棚の本を手を取ると、不思議なことが書かれていた。

ソクラテスとは何者か、という本だ。

はぁ? いつも賢い美香がなぜこんなことを気にしているんだ。確か、哲学者だろう。上江も言っていた。例の無知の知なんかは確かこの人の言葉だったか。前人の知恵とは何ともありがたい。

そのメモ帳というか、日記というか、研究書のようなものを読んでいると気になる一文がある。

かつてあった偉人の言葉、と。

かつてあった、ってなんだよ。偉人はみんなかつてだろうが。

この言葉遣いがやけにひっかかり、俺はスマホで検索してみることにした。ソクラテス、と。

すると、出てこない。ヒットしないのだ。

「いや、そんなはずないよな」

誰に言う訳でもなく俺は独り言を繰り返していた。

どんな検索法を試しても、無知の知という言葉を打ち込んでもヒットしない。

あの不審者が言った台詞が脳裏に浮かぶ。

この世界は作り物だと。

仮説として、仮説としてだ。

本当にこの世界が作り物だとしたら、本物はどこへいった?

寒気がする。まさか、まさかとは思うが、そうなのか?

上江は言った。俺は人類だと。ソクラテスという名を、俺は上江に聞く前から知っていた。

美香は記した。かつてあった偉人だと。

つまり、つまりだ。

俺の覚えている世界はかつての世界なのではないだろうか。俺が時間を超えているということなのではないだろうか。

限りなく以前と近い形で修復したのだ。

これまで興味もなく、調べもしなかったことを調べてみる。

世界地図だ。

その形状は、俺の知っている形よりもやや変わっていた。

……ああ、確定か。

この世界はかつてあった世界を復元したものなのだ。電脳世界ならわざわざ地形を変える必要はない。現実世界なのはまず間違いないだろう。

上江の持つ技術は俺の過ごした先の未来で生まれたものだろう。だからあんな催眠ができる。

全ての点が線でつながった。しかし、まだわからない。俺はどうしてかつての世界のことを覚えている。俺以外にも覚えている人がいるはずだ。なのに俺のように気づいたものが記したものがない。

これは一体、どういうことなのだろう。

「……妹の部屋とはいえ、女の子の部屋を漁るのはダメでしょ」

いきなり声を掛けれて慌てて振り向く。まさか美香が返ってきたのかと脂汗が滲んだが、そこにいたのは春乃だった。お、驚かせやがって。

「ていうかさ、美香ちゃんとは血が繋がってないって話だったよね」

あ、あれ? 何この空気。

おかしいな俺の頭で警告音がなっているぞ。さっき衝撃の事実を見つけたときにはなっていなかったのに。

原因は分かっている。春乃の嫉妬だ。

「は、春乃? 落ち着こうか。妹だぜ?」

「もしかして、私を抱かなかった理由って……」

「待って待ってそれは本当に違うから」

どうしてそうなる。

ああ、もう。春乃はこういうときだけめんどくさ……いや、何を言おうとした俺。駄目だぞ。そういうのが一番駄目なんだからな。

「……冗談だよ。ほら、ご飯できてるから」

あ、あれ?

随分あっさりと引いたな。そんなに怒ることでもないと思ったのかな。

「話は食べながらにしよっか」

……どこが冗談なんだ。

 作り立ての湯気の上がった食事がひどく冷たく感じたのは初めてだった。

* * *

「へへ、ふふふふ」

春乃がだらしない笑いをしながら俺のベットで寝転がっている。

どうして上機嫌かと言うと、一緒に寝ることになったからだ。

……まずい。実にまずい。

なぜかいきなり美香に敵対心を燃やし始めた春乃は美香と添い寝したことがあるなら私ともできるよねと詰め寄ってきた。小さいときだったからと断ろうとしたが泣かれそうになったら折れるしかない。

ずるいよ春乃、それはさ。泣き落としとかは覚えちゃダメな奴だって。

「ほーら、こっちこっち」

手招きする春乃に少しだけムラムラする。

いや、駄目だぞ俺。顔は俺だし、子供出来たら大変だし。

「そ、そんな急ぐなって」

「やーだ。今日は言うこと聞いてもらうんだから」

弱みを握られた男は弱い。

俺のは弱みでも何でもないのに。ちょっと横暴が過ぎるよな。

横で寝転がると春乃は俺の腕を引っ張る。何か用かと思ったら、腕を上にぐいぐい上げ始めた。

「ちょちょちょ、それは何」

「腕枕、して?」

「あ、ああ。そういう」

お望み通りに腕枕してやると、満足そうに頭を擦り付けてきた。

いや、猫かよ。

「ふふ。なんか幸せ」

「満足ならよかったよ」

「君は違うの? やっぱり美香ちゃんに……」

「違う違う違う。嬉しいに決まってるだろ。ただちょっと我慢できなくなりそうで」

「いいよ?」

「良くないんだって」

「もう。君はもっと盲目に生きた方がいいよ」

……どこかで春乃は俺の様子がおかしいことに気づいていたと言う訳か。

全く、叶わないな。春乃の前髪をかきあげて、額にキスをした。俺の顔だからこれで勘弁してくれ。互いに視線を合わせ、ふふと笑い合う。この世界に自分が異物のように思えていた。でも春乃は受け止めてくれる。俺の存在を、許してくれる。

そのことが俺を癒やしてくれていた。春乃は本当にかけがえのない存在だ。

……でも脱ぎ出そうとする春乃を止めるのは大変だった。

* * *

ふわりとした優しい香りで目を覚ました。

眠たい瞼を開けると眼前に黒い物体がある。何だコレ気持ち悪。毛が生えてるぞ。

次第に脳が覚醒してくると、昨日何があったのか思い出す。そうだ、春乃に腕枕をして寝ていたんだった。とんでもなく失礼なこと言いそうになったが口に出さなかったからセーフだセーフ。

いい匂いがする。同じシャンプーを使ったのに違う匂いなのはなんとも不思議だ。春乃の匂いってやつなんだろうか。汗の匂いとか言っちゃいけない。

というか、腕が痛い。腕枕ってこんなに大変だったのか。

それとも鍛え足りないのか。そりゃ、鍛えてはないけど、俺だった高校生二年生だ。それなりに筋肉はあるはず。でもムキムキだとさ、ほら。腕枕したときにゴツゴツだからこのくらいにしてあるんだ。うん。

誰にともなく言い訳をしつつ、どうやって起きようかと悩む。

目覚まし時計を確認するとまだ五時だ。起きるには早い時間だし、学校を行くにしてもまだ寝かせておいてあげたい。腕枕されたままだと起き上がれないし、このまま耐えるしかないかな。

そんなことを考えながら、春乃の顔にかかった髪をそっとかき分けた。

俺の顔をしているんだから見たくてわざわざやったんじゃない。何となくだ。

そこにあったのは俺の顔じゃなかった。

すっと通った長い鼻筋、長いまつ毛。可愛らしい彼女の顔だった。

震える手で頬に触れる。ああ、そうだ。この顔を見たかった。

どうして今治ったのだろう。また一瞬だけなのか。だったら目に焼き付けておかないといけない。この瞬間を。

「ん……」

顔にベタベタ触れたせいか春乃が寝がえりを打ってしまった。「ああ……」と情けない声が漏れてしまう。

ていうか腕枕で寝がえりされると痛い痛い痛い!

ちょ、駄目だってコレ。筋肉がゴリって言った今。ゴリってるから!

「は、春乃起きて。痛い、それ痛いから」

「……んへへ」

あら可愛い。いい夢見なのかしら。じゃ、ねぇんだよ。痛いんだって! 

仕方なく右手で春乃の頭を持ち上げる。慎重に、身長にだ。髪を引っ張らないように注意しつつ、腕の位置を調整した。

ふう、危ない危ない。腕を痛めるところだった。

俺が一息つくとぱちりと春乃が瞼を開ける。そして何度かまばたきをするとにんまりと笑った。

「なぁにしようとしてたのかなー」

……何言ってんだこいつは。

ん、ああそうか。今は後ろから抱いてる形になってるのか。頭を動かした腕はちょうど胸辺りの位置で止まってるし、顔も近い。

ちょ、いや。違う違う違う。

「ち、違うぞ春乃」

「ふふ。いけないんだー。昨日はあんなにやらないって言ってたのに。我慢してただけなんだね。それに朝からなんて」

「違うんだって。腕枕の位置が悪かったから、ちょっと動かそうとね」

「えっちなんだから。もー」

パジャマを脱ぎ出そうとする手を慌てて止める。

おいやめろ襲われたいのか!?

ああ、いや襲われたいんだったな。じゃあいいか。

いやいやいや、よくないよくない。

落ち着け。春乃の顔に戻っているせいでドキドキが止まらない。こんなの理性が持つはずがないじゃないか。本来の顔のままだったら、お泊りなんて誘えてない。そもそも春乃を迎えにいったときもあんな冷静じゃいられなかった。

畜生。くそったれな病気が今だけは戻って欲しいと思えるなんて。

「わ、わかっただろ。抱きたくないわけじゃない。大事だから抱きたくないんだ」

「もう。いくじなし」

頑張ってる人に言っちゃだめだぜ、それ。

ていうか春乃さ。

遊園地のときとかウブな感じだったのに、どうしてそんなにませてるの? この短い期間に何があった。心配だよ俺。

……ん、いや待てよ。

「春乃さ、しようしようって言ってるけどさ。誰かに教えられたりした?」

「へ!? い、いや。別に誰にも言われてないよ!?」

「ふーん」

種がわかった。誰か何か吹き込んだな?

春乃はそっち方面に疎かった。それがいきなり誘ってくるなんておかしいとは思っていたんだ。目的から察するに上江が一番怪しい。上江の協力者として美香。最悪なのは母親に何か言われたりした場合なんだけど、この場合のことを考えるとこれ以上聞けないな。

まあ、誰が仕組んだかなんてどうだっていい。正しい知識に戻せばいいだけだ。

俺もそっち方面疎いんだけどさ。

「春乃。確かに男はそういうの好きだよ? でもそれだけで交際とかしてるわけじゃないから」

中にはそういう関係のお友達が存在するらしいが教えない。

そんな爛れた知識を付けるのは早すぎる。何なら一生知らないで欲しい。

「そ、それはそうだと思うけど、男の人ってそういうのが欲しいんでしょ?」

「否定はしないけどさ。俺は春乃といたいから一緒にいるんだって」

「で、でも体のつながりがないと離れていっちゃうって……」

なるほどね。それでか。

馬鹿だな。俺が春乃から離れていくことなんてありえないのに。

「だからって容易に誘わないでくれ。その気になっちゃうだろ」

「いいって言ってるじゃん」

「そうはいうけど、ほら。痛いっていうしさ……」

「なんで君がそっちを気にするの」

「いや、気にするだろ」

血が出るって聞くし、何より血を見たくない。大丈夫ってわかってても血を見たら心配できっとそれどころじゃない。

「そうかな」

「そうだよ」

「ふーん」

どうにか納得してくれたようだ。説得できなかったら全力でコンビニダッシュするところだった。何を買うかは言わずもがな。

「朝ご飯作らなきゃ。お弁当、は食材使うの気が引けるからパンでも買おうか」

「手伝うよ。パンはトースターだし、野菜添えるだけだし、あと卵焼くだけだろ」

「……じゃあ、やってもらおっかな。卵」

うん? なんか今、間があったような。

パジャマのまま二人でキッチンへと向かう。この日、俺は目玉焼きが案外難しいことを知った。

* * *

支度をして一緒に学校へと向かうが、なんだかそわそわしてしまう。

平日に二人で休んだのだ。すれ違う同じ制服の人を見る度に同じクラスの奴じゃないかと不安になる。それは春乃も同じなようで、ちょっと耳が赤かった。

それでも別々に行こうとは言わないところは流石だ。

「お二人とも、今朝はお楽しみだったね」

背後から声がして俺たちはあわてて後ろを振り返った。横目に春乃を見るが互いに顔が真っ赤なようだ。

そこにいたのは美香だった。

「み、美香ちゃん。おはよう。べ、別にお楽しみじゃなかったよ」

「おはよ。てか、えー。兄ちゃんお預け食らってるの」

「だ、だって誘っても乗ってこなかったのはあっちだし……」

美香が何か言いたげな視線を送ってくる。いや、なんでだよ。ていうかお前の入れ知恵だったか。まあ、恥をかかせるなってことなんだろうけど……。

兄のそういうことに首突っ込むなよ。

「その場の勢いでしたくなかっただけだ」

「これだから童貞は……」

「女の子が童貞だとか言っちゃいけません!」

童貞言うなよ。お前だってただの耳年魔だろうが!

「そ、それにそういう準備もなかったしな。できちゃったら大変だろ」

「兄ちゃん。ポッケ」

「ん?」

制服のポッケをまさぐると……あったわ。そういう準備。

え、何。いつの間に?

春乃まで恨めしい顔を向けてくる。いや、違うって。気づかなかったんだって。

「それくらい気づいて欲しかったなー」

「いや、美香ちゃん。兄ちゃんこういうの大事だとは思うけど買うとき恥ずかしくなかったのかい……?」

「よ、用意したの私じゃないから!」

「ん? 美香じゃないなら……ああ、そういうことか」

上江か。美香に渡しておいたんだろうな。

全く、本当に何なんだよアイツ。

でもおかしいよな。こんなの渡したらアイツの目的果たせないんじゃ……。

何となく嫌な予感がして表面を撫でてみた。

ちょっと引っ掛かる部分がある。……やっぱ穴開いてるじゃねぇか。むしろ気づかなくてよかった。あ、あぶねぇ。気づかずに使ったら大変だった。

「美香。ちょっとコレ」

「え、汚い。そんなの渡さないでよ」

「汚い言うな。ほら」

「うげぇ……。妹にゴム渡す兄って……」

それは言語化しないでくれよ。

美香も俺のように表面を撫でている。そして顔を赤くした。

「え、ちょ、これ私知らな……」

「きゃーみかちゃんのえっちー」

思いっきり脛を蹴られた。いってぇ……。

だがその遠慮のない蹴りに、血が繋がっていなくても兄妹なんだと俺はほっとしていた。

* * *

教室に入って早々、俺たちは互いにクラスメイトたちに囲まれていた。俺も春乃も流石に苦笑いになる。エサに群がる鯉かお前ら。

クラスのカップルが二人揃って休んだのだ。そりゃ気になるのも分かるが、遠慮ってものがないのか。こういうのって触れにくいから何となく置いておいてくれるもんだろ。すげぇ聞いてくるじゃん。

「どこ行ったの」まではわかるが、「どこまで行ったの」には別のニュアンスが含まれているのを感じる。当然、無視だ無視。

しかし病気が治ってからクラスメイトの顔を見ると不思議な気分だ。みんな俺の顔に見えてたからな。こういう顔してたんだなこいつら。同窓会とかこういう気分なんだろうな。こんな奴いたっけって感じ。

俺が話す気がないとわかると野郎どもはさっさと散っていった。春乃のほうはずっと人だかりだ。

「大変だな春乃は……これが人望の差か」

「いやぁ、社会性の差だろコレ」

「いたのか岩崎」

「お。今日は俺様ってすぐわかったな」

「わかるだろ、そりゃ」

こいつは独特のムカつく話し方をするから病気だった頃もすぐわかったしな。

まあ、喋んなかったらわかんないけど。

「にしてもよぉ。もう少し気を回してやるべきだぜ。お前」

岩崎の言葉に首を傾げる。 何を言ってるんだこいつは。どこに気を回せってんだ。今日だけ別々で登校したらその方が変だろ。

「やっぱわかってなかったな。全く……」

「うぉおおお!?」

岩崎は後ろから俺の襟の中に腕を突っ込み、何かを噴射した。あまりの冷たさに思わず仰け反る。慌てて岩崎の腕を掴むとその手に握られていたのは制汗剤のスプレーだった。

「いきなり何しやがる。俺臭かったか?」

「いや別に」

「じゃあ何だよいきなり。俺冷たいの嫌いなんだよ」

「あ、そうなのか? そりゃ失礼。いやな、匂いを変えておこうと思って」

匂いを変えるって、なんで? 自分の匂いにしたいとか言わないよな。

怪訝な顔をしていると岩崎が小さく耳打ちしてくる。うわやめろ。顔近づけるんじゃねぇ。俺の顔じゃなくても嫌だ。

「風呂でも貸しただろ。春乃ちゃんからお前と同じ匂いがする」

「へ?」

人の彼女の匂い嗅いでるんじゃねぇと言いたいところだが、しまった失念していた。気づかれたら間違いなく変な憶測される。というか岩崎には多分されてるだろう。ニヤニヤしやがって……。

「た、助かる」

「気が抜けてるねぇ。で、どうだった?」

「うるせぇ馬鹿」

やってないと言ってもいいが、それはそれで春乃とうまくいってないと思われかねない。コイツの扱いはこのくらいでいい。

あと多分だけど岩崎って結構経験あるんじゃないかと思う。

さっきの対応手慣れてたし。岩崎の方が先に進んでるのか。……そうか……そうか。

「いや、何凹んだよ」

「何でもねぇよ……」

「ああ、もしかして勃たなか」

「ちげぇよ!?」

「そんなマジに否定しなくてもいいんだって。仕方ねぇよ。俺だってあるさ、そういうときも。春乃ちゃんだって時間が経てばわかってくれるさ」

「待て待て本当に違うから待ってくれ。春乃にEDとか勘違いされたらどうしてくれんだお前」

「お、おう。本当に違うのか。悪かったて。そんな睨むな」

あ、危ねぇなコイツ。

なんてこと言い出すんだ。春乃はこっちの会話は聞こえてないだろうけど爆弾発言しやがって。どうすんだ病気だったのにごめんね、みたいな空気になったら。あながち病気だったから間違いでもないけどさ。

「ま、なんにせよ最近は調子悪そうだったのに今朝は元気そうで安心したぜ」

「あれ? そんなわかりやすかったか」

「まるわかりだな。俺と春乃ちゃんくらいにしかわからんだろうけど」

うげぇ嫌だ。なんでお前までわかるんだよ。やめろキメ顔するな。なんだよ、男の友情とでも言いたいのか。

というか、そうなんだな。春乃は俺の様子がおかしいのに気づいて察してくれていたのか。それを隠せてると思い込んでいた俺って……。ま、まぁ、凹むのは後だ。とにかく不安にさせた分、春乃に何かしてあげよう。

それと……。

「なんか、その。ありがとな岩崎」

「いらねぇよ礼なんざ。俺たちはソウルメイトだろ」

「フレンドあたりで止めといてくれ」

全く、気のいいやつだ。

考えてみると男友達コイツしかいねぇしな。うん。コイツだってある意味替えの聞かない、とかいうの嫌だな。腐れ縁でいいわ。

向こうはどうなってるのかと春乃の方を見ると目が合った。……なんか照れくさい。何となく互いに笑うと、春乃の周りの女子はさらにキャーキャー騒ぎ出し、野郎どもは恨めしい視線を送ってきた。

「……やっぱやったろお前ら」

「う、うるせぇ。授業始まるぞ」

「へいへーい」

右手をぷらぷらと振って岩城は前の席へと歩いていく。その後姿が一瞬霞んだ。

ん? なんだ。目にゴミでも入ったか。

「ああ、そうだ。今日小テストだぜ」

そう言って振り返った岩崎の顔が俺の顔になっていた。

ぎゅっと目を瞑る。ああくそ。もう、か。でも今回は長かった方だ。今日みたいな日がまた来るさ。ああ、でももう少し見たかったな。

再び俺が瞼を開けたとき、岩崎の顔は元に戻っていた。

「……え?」

「はは。なんだよ、絶望したと思ったら急に呆けて。そんなにびっくりか?」

な、なんだ。何が起きた。

確かに再発したはずだ。岩崎の顔は俺の顔になっていた。見間違いということはないはず。でも、どうして戻ったんだ。一時的な快復があるなら、一時的な発症もあるということか?

駄目だ、わからない。

そもそもなんなんだこの病気は。

幸せな日々の矢先に再び立ちふさがった病に、俺は苛立ちを募らせていた。

* * *

最後の授業終わりのチャイムが鳴る。今日は一日がやけに長かった。そしてわかったことがある。

どうやら俺の病はコントロールができるようだ。

岩崎の顔が元に戻ったときを参考にして目を瞑って念じてみた。俺の顔になれと。最初は失敗したのでコントロールはできないものだと思ったのだが、見ようとすると俺の顔に変わることが判明した。

不思議な話だ。実際に顔が変わっているわけじゃない。俺の視界がおかしいだけだ。だから変われと念じても変わらないのは、まあ、わかる。おかしいのはそこじゃない。見ようと思えば見えてしまうこと自体がおかしいのだ。

こんなこと普通不可能だ。風邪を引きたいから風邪を引くようなものだろう。風邪ならわざと体を壊しやすい環境にすればできるかもしれない。でもそれも時間がかかるはずだ。

なのに、俺の病気は見ようと思えばすぐできる。こんな病気他にあるのだろうか。

「今日は生徒会の仕事休めって言われちゃった。一緒に帰ろ?」

「お、おう」

思考にふけっていると春乃に声を掛けられた。元の顔で笑いかけられるとドキドキしてちょっとどもってしまう。

ちょっと、俺の顔で見ておくか? いや、駄目だ。実験してみたときももし戻らなかったらと不安だったのに。わざわざ不要なリスクを冒す必要はない。そもそも彼女の顔を俺で見たいだなんて狂っている。

学校から遠ざかった頃、俺は言った。

「今日は何か買ってから帰ろう」

「うん」

さて、どうしたものか。

俺はしばらく春乃を家に泊めたい。春乃の家に一報入れないとな。昨日は連絡しなかった。正直、したくない。娘が一晩家に帰っていないのに春乃の母親は捜索願いや電話も何もしなった。

これで帰ったときに何も反応がなかったら、春乃は傷つくだろう。

どうにかしないといけない。でも、どうすればいい。

春乃のことをしっかり見てやってくださいと言うのか。そんなもので解決するなら春乃の実の父親が解決しているだろう。なら、あなたの娘をもらっていくと言えばいいのか。さあどうぞとされたら、春乃をまた傷つける。

ああ、一体どうしたら。

俺は何も言わず、春乃の手を握る。戸惑っていた春乃も、ちゃんと握り返してくれた。この手の温かさを、俺は失いたくなかった。

春乃を泊めるために家へ連れてきた。

明かりがついている。母さんも美香も今日は家にいるようだ。

これはどういうことだ。上江が手回しをしていたんじゃなかったのか。考えられるのは俺が上江の目的に沿うつもりがないから邪魔をしてきたというところだろうか。全く、馬鹿馬鹿しい。恋人たちの睦言を強制させるなんてあってたまるかってんだ。

上江はデリカシーを通り越して人間性がない。

「私帰ったほうがいいかな」

春乃は俯いている。声が震えていた。その表情は伺えない。

温かみのある家族を見たくないのか、それともその中に入ること自体を引け目に感じているのか。

おそらくは両方だろう。その感覚を払拭する手段を俺は知らない。本人の気持ちなど本人以外には所詮計り知れないものだ。どんな美辞麗句を並べ立てたって耳当たりのいい言葉でしかない。

俺にとって春乃はもう家族みたいなものだ。愛という単位なら家族以上の存在だと言っていい。その彼女が苦しんでいるのに放っておくなんてできるはずがないじゃないか。

「俺が一緒に居たいんだ。春乃は、俺のわがままに付き合ってくれてるだけだよ」

「……ありがとう」

「ほら、行くぞ」

「うん」

彼女の手を引いて玄関まで向かう。インターホンを鳴らすとすぐに扉が開いた。

「おかえり。兄ちゃん」

「ただいま。珍しいな、美香が出迎えなんて」

「て、あれ? 春ちゃんもいるんだ?」

「こんばんわ。えっと……」

「春乃をしばらく家に泊めようと思うんだ。母さんにはこれから許可をとるよ」

俺がそう言うと美香は目を丸くした。

春乃の問題に対してこんな手段をとると思わなかったのだろう。何も知らなければ俺もそうしていたかもしれない。だが知ってしまったからには放っておけなかった。

こんなに驚くかだろうか。上江と協力関係にあるならこうなりそうだ、くらい教えてくれたりするだろうに。

どうも美香は上江と協力関係にある割に意思疎通が取れていないように感じる。賢い美香が色々見落としてるのも不思議な話だ。最初に俺が上江の名前が浮かばなかったように何か細工があるのだろうか。

「そっか。じゃ、しばらくよろしく春ちゃん」

「よろしくね。美香ちゃん」

……春乃は俺以外にはあの卑屈そうな顔を見せないんだな。

信頼されていることは嬉しい。つい口がにやけてしまう。だが、俺以外にも弱さを見せられる人が必要なのかもしれない。

「兄ちゃん、いつまで外に突っ立ってるの?」

「あ、ああごめんごめん。ボーっとしてた。そうだな。母さんに話を通さないと」

何があったのかを伝えると母さんは二つ返事に許可を出してくれた。たんまり春乃との関係を繰り返し聞かれたのはげんなりしてしまったが、おおよそ順調だ。

俺は最も重要なことに取り掛かる。春乃の母親への電話だ。これだけはしっかりしておかなくてはならない。美香に協力してもらって春乃は美香の部屋にいる。大丈夫、会話は聞かれないはずだ。

おそるおそる電話を掛ける。するとコール音二回でつながった。

「はい。どちらさまですか」

「こんばんわ。初めまして。あなたの娘さんの恋人です」

「ああ、あなたですか。どうしましたか」

「どうって、春乃のことが気にならないんですか。昨日帰らなかったでしょう」

「あら。そうだったかしら」

こ、こいつ……。

春乃の母親なのはわかっているが、ぶん殴りたい。そうだったかしらって、心配すらしなかったのか。畜生、ふざけやがって。

「そうそう。あなたに言いたいことがあってね」

「なんですか」

「アレとは別れなさい。他にお相手がいないというなら私が見繕ってあげるわ」

「あ〝?」

「だって、ほら。あなたは特別な人でしょう? 凡人以下の娘には高値の花が過ぎるからね」

「ふざけんな」

もう我慢の限界だった。自分の娘のことをアレと呼ぶところ、しかも上江みたいなことまで口走りやがる。何だ、何だってんだ。俺が特別だ? どこが特別なのか教えてくれよ。俺に言わせりゃ、春乃の方がよっぽど特別な人間だ。

相手の話を聞いてくれるところも、心配してくれるところも、最高の彼女だ。

それを、別れろだ?

「あんたが見てくれないから、春乃は苦しんでる。親としてそれでいいのか?」

「子どもが親を語るものじゃないよ。私はちゃんと娘の面倒を見ているわ。学費だって払っている」

「義務の話をしているんじゃない。責務の話だ」

「ふふ。聞いていた通り、口が達者ね。で、どうするの。何か言いたいことがあるんじゃないの」

「ああ、言ってやる。言ってやるよ。あんたのところに春乃は帰らない。あんたといたら春乃は駄目になる」

「駄目になる、ね。娘は元から駄目なのよ。習い事は何一つうまくできない。勉強だって駄目。一般人のふりがうまいだけよ」

「黙れ」

「黙らないわ。アレとの子どもができたとして、きっと落ちこぼれ。世の中に必要なのは有能な人間よ」

頭の中で何かが切れた。

「あんた、最低だよ」

「いいえ最低じゃないわ。私は成功している。金も人望も学もある。どうだ正しいのがどちらか一目瞭然でしょう」

「金があったら幸せなのか?」

「金がなければ不幸でしょう?」

「権力があったら幸せなのか」

「権力があれば蹴落とされる側にはならないでしょう」

「極論だ!」

「同じ言葉を私も返しましょうか。あなたの教育論は実に薄っぺらいわ」

ぶつりと電話が切られた。言いたいをこっちがいっていたはずなのに、結局は相手の手のひらの上だ。

くそ、やっぱり美香に意見を求めるべきだった。

俺一人じゃ手に負えない。

はらわたが煮えくり返るってこういうことをいうのか。くそ、こんな思いを春乃はずっとしてきたんだろうな。俺だったらとっくにハゲてるだろう。

「どうだった?」

「……駄目そうだ」

美香は腕を組んでうーんとうなる。

これは美香にも解けない問題らしい。なら俺に溶けるはずはないよな。

「なあ、美香。春乃のお母さんのことを知ってるか?」

「……うん。知ってる」

「何の人だ」

「上江さんと同じだよ。研究所の人」

「研究所? おいおい。この前は教育委員会の人って」

「嘘に決まってるでしょ」

嘘かよ。全く、どうして皆嘘をつきたがるんだろう。話してくれないと分からないこともあるのに。春乃の母親は嘘をついていない気がした。あれは本心だろう。

春乃の前では頼むから、嘘でも愛してると言って欲しい。俺は切にそう願った。

* * *

春乃を家に泊めてから三日が経った。

もうすっかり家に馴染んでいる。ゲームの戦術を美香が仕込んでいる最中だ。最初はその気ではなかった春乃も今ではすっかり楽しんでいる。

「春ちゃんやるねぇ。いいねいいね、兄ちゃんよりうまいよ」

「ふふ。そうなの?」

バカスカ銃を乱射する音が聞こえる。

ストレスが溜まっていたのだろうし、ゲームをするのは手段としてありだとは思う。でも敵を撃ち殺すやつをやらせるのは兄ちゃんちょっとわかんないよ美香。ゲームだし、とやかく言いたくない。言いたくないけど、彼女がゲームの中でトリガーハッピーだぜ。何だかなぁって感じだ。笑ってるからいいけどさ。

ちなみに俺よりうまいというのはちゃん的に当たるという意味なので、春乃は正直うまくはなかった。普通だ。うん。

まぁ、ゲームの話は置いておくとしよう。よくわかんないし。

大事なのは母さんと春乃がうまくやっているかだ。

春乃が家庭の温かさを知って傷つかないか俺は危惧していた。隣の芝生は青く見えるというか、実際青いというか。そんなものを見せつける形になってしまわないかと思っていたのだが、俺の杞憂だった。

母さんと春乃は仲がいい。良すぎるくらいだ。最初に連れてきた日の時点ですでに話が合うようだった。最初こそ俺とどこまで進んでいるかなど聞かれて困っている様子だったが、今では一緒に俺をヘタレ呼ばわりだ。

……おかしいな。母さんまで美香みたいになっている。いや、親子なんだから当然なのかな。ああ、そういや俺は血が繋がってないんだっけか。なんか複雑だ。

「兄ちゃんもこっち来なよー春ちゃんにお手本をさー」

「私も見たいなー」

「……やだよ。お前らわかって言ってるだろ」

「そりゃ勿論」

「多分下手かなーって」

おいド直球に言うなよ。流石に下手って言われると傷つくんだぞ。

悔しがると逆に弄られることを知っているので適当にあしらって二階の自分の部屋へと向かう。

部屋で何をするかと言えば、ある仮説を立てていた。

なぜ調べるのでもなく説を立てるのかというと、調べてわかるものならとっくに多くの人が気づいているはずだからだ。強いていうなら、俺の中を探っていると言うところか。

俺はかつての世界の記憶を持っている。

この世界は現実だとは思う。電脳空間ならわざわざ世界地図や俺の記憶と違う形にする必要がない。

現実ならば、この世界は何なのか。

俺の仮説はこの世界は平衡世界という説だ。

平衡世界、つまりパラレルワールドとは何か。世界は無数の選択の分岐があり、選ばれなかった選択肢もまた続いているというものだ。

その世界に俺は迷い込んでしまったのだとするとどうだろう。

かつての世界の記憶を持っている理由もつく。

だが、これではない気がする。

上江は言った。知ったら後悔すると。そしてあの不審者の言葉もある。この世界は作り物だと。信じるなら電脳世界説が濃厚だ。だとして俺は後悔することになるのか。わからない。どういうことなんだ。

不意にドアがノックされる。入っていいよと許可を出すと入ってきたのは美香だった。驚きだ。まさかノックができるなんて。

「兄ちゃん。今なにか失礼なこと考えなかった?」

「いんや。何も」

「私だってノックくらいできるよ。春ちゃんもいるわけだし」

いや、わかってんのかよ。わかってていつもノックしなかったのかよ。

「で、どうした。ゲームはもう終わったのか」

「春ちゃんに話さなくていいの?」

俺の質問には答えず、美香は率直に尋ねてきた。思わず目を逸らしてしまう。まあ、そうだよな。話した方がいいって思うよな。でも、もう治ったようなものだし。そのことも美香には伝えてあるはずだ。いや、だからこそ釘を刺しに来たのか。

「あとで話すって」

「嘘。兄ちゃんはあとでは信用なんないから」

俺が傷つこうが気にもしない物言いは逆に俺に安心感を与えてくれる。本当にできた妹だよお前は。

「正直、話したくないよ。たった数日間のことだしさ」

「誰だって秘密はあるもんだけどさ、春ちゃんにはできるだけ秘密をつくらないほうがいいよ」

耳が痛い話だ。これまで俺はずっと隠してきた。

十日も経っていないだろう。でも、それでも苦しかった。隠していることが負い目だったし、だからと言って話したら相手を傷つけてしまうからと板挟みになって。

「話したら俺が楽になるだけじゃないのか」

「それが大事でしょ」

思わず美香の顔を見てしまう。何を当たり前のことをとでも言いたげな顔だ。

「そんなの駄目だろ。俺が楽になったところで、春乃を傷つけるわけで」

「傷つけないのが愛なの?」

「愛って……まあ、そうだよ。傷つけるのは愛じゃない」

「これだから童貞は……」

おいやめろ。二回。二回目だぞ。

許さないぞ? 事実陳列罪だぞ?

「いい? 兄ちゃんは春ちゃんに傷つけられたでしょ」

「え? いつ」

「ほら、遊園地に迎えに行ったときの対応聞いたよ。でも兄ちゃんはどんな態度をされても一緒にいる、だっけ。やるじゃん」

「あ、ああ。ありがと」

こっぱずかしいんだが。

春乃はこういうの嫌だっていってなかったか。些細な仕返しのつもりかもしれないが、ぜっんぜん些細じゃない。家族に教えちゃうのは駄目でしょうよ。

「で、自分はいいのに相手は駄目っていいたいわけ?」

「……」

「なんか言いなよ」

「その、通りだな。美香が正しいよ」

「正しいとか間違いとかどうでもいいの。どうするの?」

「話すよ。明日にでも」

「そこは今日じゃないのね……ま、いいでしょ」

盲点だった。楽になっていいなんて思ってなかった。

「ありがとな、美香」

「いんだよ兄ちゃん。私に惚れるなよ」

「寝言は寝て言え」

「なんだとこのクズゴミ変態根暗ゴミ箱」

「そこまで言うか!?」

兄ちゃんはどこ行ったんだよ。これまで罵倒してきても辛うじて存在してたのに。前にクズ野郎って言われた気もするけど。

「……兄ちゃん。まだ調べてるの?」

「な、なんのことかな」

チッ。勘づかれたか。

美香に隠し通すとか無理な話なんだよ。

まあ、でもこの件に関しては俺は調べないとは言わなかった。美香だってわかってくれているはずだ。あるいは気づくはずがないと思っている。

実際わかんないんだけどさ。

「あと私の部屋まで漁ってたよね」

「いや、あの。違うんです美香様」

俺は秒で正座する。これに関しては言い訳をさせて欲しい。

別に目についた本をちょっと読んだだけなんだ。そんな見つかりやすい場所に置く美香だって悪いんだ。俺ばかりがわるいわけじゃない。勘違いしないで欲しいね。

「調べることはもう止めないけど、妹とはいえ女の子の部屋を無断で漁る変態は私に何か言うことあるよね?」

「大変申し訳ございませんでした。もう二度としないので春乃には言わないでください」

「うむ。わかればいいよ」

俺の額はカーペットに擦り付けられている。

ははは。土下座くらい安いものだよ。命に比べたらな。

「え、えーと。これは何をしてるのかな」

 俺と美香はばっと振り返る。そこには春乃が立っていた。

 土下座する俺とふんぞり反って見下す妹。戸惑い具合からして会話の内容は聞かれなかったようだが、どう考えても普通じゃないです。

え、えーと。うん。

「見なかったことに、してくれないか?」

 ……やっぱり明日話すのもやめた方がいいのかもしれない。

* * *

翌日、春乃に病気のことを話すと決めたはいいもののどう説明してよいのやら。俺自身この病気についてよくわかっていない。ただ人の顔が俺の顔に見えるということだけが確かだ。そもそも病気なのにコントロールできるのもよくわからない。今ではちょっと意識を切り替えるだけで人々が俺の顔だ。いらねぇ。

俺と同じ病気だった不審者の男が生きていれば話を聞けたのに。

上江に相談してもいいが、気が乗らない。美香が敵ではないと明言しても人殺しなのは確かだ。殺した相手を人間だとも思わない。俺は人間だとかいうけど、そんな相手にわざわざ相談しに行けるか。どうして逮捕されないんだアイツ。

そういえば上江は俺の顔に変わらない唯一の存在だ。そこを突き詰めれば解明できそうなものなのだが。

「ねえねえ。今日は一緒に寝ようよ」

俺の心配など露知らず、ベットの上に春乃が寝転がって笑っている。少し大きめのパジャマがよれて胸元が見えていた。最高。いや、襲われたいのか己は。いや、実際そうなんだろうけど。

先ほどの妹に土下座していた件は妹の部屋を勝手に漁って服を用意したからということで誤魔化せた。嘘ではない。実際漁って怒られてるところもあるし。私のためにしてくれたことだから許してあげてって仲介までしてくれて。本当に優しいぜ俺の彼女は。でも誘惑するのは止めてくれないかな我慢できなくなるから。

「妹も母さんもいるからやめとこうかな」

「んー? 別にエッチなことしようなんて言ってないよ?」

「なっ……!?」

何てひっかけ問題だ。そんなのひっかかるに決まってるだろ。

美香か? 美香仕込みなのか?  

「俺の理性が持たないかな……」

「この間一緒に寝た癖して何言ってるの」

だって俺の顔だったし。

欲情しねぇよ、んなもん。グラビアに可愛い子の写真貼るならわかるけど俺だぞ。がっかりだわ。超がっかり。

「あの時は春乃を落ち着かせるためで……」

「あーどうしよう私唐突に不安でいっぱいになっちゃった。一緒に寝て?」

「よかったな仲良し美香ちゃんがいるよ」

「もー!」

おお、春乃が牛になった。牛にしてはスタイルが良すぎるな。逆に胸もそんな……やめよう。うっかり口にしたら殺されそうだ。

正直、俺だってしたい。治ったら何をしようと楽しみにしてたんだ。たった数日間だったとはいえ、そんだけ辛い日々だった。確かにそういうこともしたい。けど病気と状況がいつだって邪魔をする。もどかしい。

「こうなったら君のエロ本探して机に並べてやる」

そ、それは卑怯ではないかな?

教室での例の本だってある。絶対自分でやって不機嫌になるだろ。

「わ、わかった。一緒に寝よう。でも最初に言っておくけどしないからな?」

「……本当は、体の病気だったりしない? 大丈夫?」

「うぇ!? い、いや。そんなことはないよ」

馬鹿な。春乃が俺の病気を知っていただと? なら話は変わってくる。ああくそ。いったいどこでバレたんだ。

「やっぱり……機能不全って言うんだっけ。私も協力するから頑張って治そ?」

「おいちょっと待て。誰だそんなこと言った奴は」

「あれ、違った? 岩崎くんとの会話が聞こえてきちゃって」

「岩崎ぃ! だから言ったろうがよぉ!?」

おい嘘だろ。春乃の周りにだって人だかりができていたのに聞こえたのか。

まさか話してると見せかけて聞き耳立ててたとか言わないよな? だったら女子組に俺、そっちの病気だと思われてる?

「でも違うっていうのなら、また違う問題ってこと? 安心して。身体的特徴で笑ったりしないから」

「違う違う。そんなことはないから安心してくれ」

「そう? じゃあ見せてよ」

「仕方ないな……ってなるかコラ」

うっかりベルトカチャカチャ鳴らしちゃったよ。

絶対この話術美香仕込みだ。俺の性格を熟知してるからできる芸当だこんなもの。のらりくらりと躱しどうにか腕枕で我慢してもらう。

不満気だったが腕枕が好きなのかニマニマしていた。さて、問題なのは俺の理性だ。くそ。やるしかないのか。そうしないと大人の階段を飛ばして昇って親の階段まで届いてしまう。

「この前、一緒に寝たとき。本当に嬉しかったんだよ?」

「そうなのか?」

「誰かと一緒に寝たことなんてなかったし」

「中学とかの旅行とかであっただろ」

「君ねぇ……」

恨みがましく春乃が見つめてくる。そんなおかしなこと言ったかな。

……はい、冗談です。茶化しました。なんか重い話になりそうだったから。

「えい!」

「うおお!?」

春乃が腕枕をしたまま抱きついてきた。

顔をずらして胸板に耳を付けて心音を聞いている。春乃にはきっと破裂しそうな心音が聞こえているに違いない。服の上からあばらがなぞられるの背骨がぞわぞわする。足だって絡めてきて……あれ? なんかエッチじゃない?

「春乃、駄目だって。ほら、嫌だろ。美香とかに聞かれたりしたらさ」

「嫌、なの?」

「そんなことない! 人に聞かれるの恥ずかしいし、できちゃったら大変だしさ!」

「いいの。欲しいの赤ちゃん」

「ああ、そうなの。それは知らなか……え?」

おい今なんていった?

春乃、まさかその気なのか。大変だぞ俺たち高校二年生だぜ。養う金も職もない。そんなの母さんだって反対するだろ。春乃の母親だって……いや。あの人は口出しはしてこないか。

でもどういうことだ。気持ちが離れていくだの言っていた件なら説得したはずだ。なのに、どうしてまた。そのときには子どもなんて話は……いや待て。子ども?

「まさか、上江に何か言われたのか」

「……」

くそ。いつだってあいつが諸悪の根源じゃないか。

どのタイミングで接触した。俺が春乃と離れたときなんて……まさか、美香が俺の部屋で話していたときか? 畜生、どうして家の中に簡単に入り込んでやがる。

「そろそろ君が気づいてしまうからって。そうしたらもう会えないって」

「会えないって、それは知ったら殺されるってことかな」

「ううん。きっと君は壊れちゃうって。だから、そうなったら記憶を消すって。まっさらな状態で全部やり直すって。そしたらもう会えないの」

……善意という名の狂気だ。

俺が知ってはいけないから、知ったら消すなんて。確かにあと少しのところまで来ている。ピースはかなり出揃っている。

上江を見て、先生と呼びそうになったこと。

この世界の在り様。微細であれど大きな地殻の変動。あのまろランドも思えば変な話なんだ。あんな生物たちがそんな昔から注目されていたはずがない。それが遊園地に取り上げらるなんて。だが、この世界は復元した世界と考えると納得がいく。

どうして俺はここにいる? タイムマシンか、それとも……。

「ねぇ。お願い。もうこれ以上知らないでよ。一緒に知らないままでいよう。一緒に幸せでいようよ」

「……」

俺は何も言わなかった。言えなかった。心が痛い。

春乃は楔だ。満たされたこの世界に留めるための、楔。

利用されているのだろう。だがこれは彼女の本当の気持ちだ。嘘偽りのない、心だ。俺はその心をきっと踏みにじる。好奇心だけじゃない。これは言わば呪いだ。俺は知らなくちゃいけない。あの不審者が死んだ理由を。俺の病気の真実を。元の世界が滅びた理由を。俺が人類という言葉の真意を。

俺は春乃を抱き寄せた。

何も言わず、何も答えず。行為には至らなかった。

春乃は何も言わなかった。涙も流さない。俺が傷つくと知っているから。

互いに我慢をした。ただただ耐えるしか、なかったんだ。

* * *

声が、聞こえた。

俺に何かを話しかけている。上半身を起こし、声のする方へと体を向けた。

「やあ、起きたかい」

「え、あ。う、え、あう」

あれ? おかしいな、言葉が発せない。それに熱い。体中が、皮膚が燃えるようだ。視線を向けた先にいたのは白衣の女性だった。医者、なのだろうか。いや、違うか。俺の様子を見て、毛布を持ってきた。なんでだ。こんなに熱いのに。

「どこか体におかしなところはあるかい」

俺は渡された毛布を投げた。見て分からないのか。

「ん? ああ、そういうことか。なるほど。失念していた」

気づいたのか女はペットボトルの水を持ってきた。

……間違ってはないんだけどさ。もっとあっただろ他に。

水を飲むと、体の中まで熱くなった。なんでだ。ただの水じゃないのか。い、いや。違う。手の触れているところに霜ができている。熱いんじゃない。冷たいんだ。俺の体が氷のようなんだ。

どうして。--いや。そうか、俺は。

「気づいたかい? 今までどうしていたのか。教えてあげよう。君にはその権利があるからね。きっと後悔するだろう。でもね、安心してくれていい。……忘れさせてあげるから」

* * *

「あぁあああ!!!」

叫び声をあげながら俺は跳び起きた。

視界が定まらない。冷汗で寝巻が体に張り付いている。腕に走った痛みで自分の腕に爪を突き立てていたことに気が付いた。

「い、痛たた。どうしたのいきな……って何してるの!?」

上半身を勢いよく起こしたからだろう。寝ていた春乃を突き飛ばしていた。

そして血が出るほど腕に爪を突き立てている俺の手を掴んだ。俺は、その腕を振り払った。なぜ手を払われたのか分からないのだろう。唖然としていた。

「……ずっと騙していたのか」

「え?」

「全部、全部嘘だったのか!?」

「落ち着いてどうしたのいきなり」

「やめろ触るな!」

俺の言葉に春乃が目を見開いた。きっと傷ついている。可哀そうに。でもな、でもな。俺はもっと傷ついている。

「思い出したよ。全部、全部! ははは。なるほど、自作自演ならぬ自作他演か。傑作だよ先生! そりゃこんなもの覚えてる意味がねぇもんなぁ!」

「ね、ねぇ。おかしいよ。どうしちゃったの」

「どうもこうもねぇ。最初からこうだったんだよ。最初からクソ野郎だった!」

泣いているのか、笑っているのか自分でも分からない。

この感情をどこにぶつければいいんだ。

「おい先生! ドクター! 聞こえてんだろ!? さっさとまた記憶消してくれよ。耐えられねぇよ、こんなもの!」

「や、やめて。やだよ。私、嫌だよ!」

「はは。何を馬鹿な……ああ。そうか。なぁ春乃、いや天川。いいか、よく聞け。お前は俺が好きだって思わされているだけだ。決してお前の恋愛感情じゃない」

「な、名前……い、いや。それよりも、そんなことないよ。君が好きだよ」

「やめてくれ! 自分が哀れになるよ本当に。こんなバカな話は他にないな。この世界は作り物なんだ。お前ら全員、作り物、おままごとだよ。ははは!」

俺は寝巻のまま外へと飛び出した。呼び止める春乃の声も聴かず、止めようとした美香を突き飛ばし、はだしのまま走り出す。目的地などない。ただこの場から逃げ出したかった。

* * *

昔話をしよう。俺はずっと、コールドスリープで眠っていた。病人だった。治療法のない病の。だから治療法が出来上がるまで眠っていた。

そして目覚めてみたらどうだ? 人類は滅んでいたよ。ほんと、笑える。生き残ったのが俺一人だなんて。どうして滅んだか。戦争か? 天変地異か? 答えは感染症だ。最初はただの風邪のようなものだったらしい。そしてその程度のものだと勘違いしたわけだ。世界中に広まった後、それは本性を現した。

症状は激化、その進行速度は凄まじくワクチン開発も間に合わない。考えてみるべきだったんだ。人間がかつて食べるために個の種を絶滅させたように、病の食い物である人間が食いつくされる未来を。

病はあらゆる生き物にも感染した。渡り鳥にも感染し、離島や島国までも覆い尽くす。もうどうにもならないと感染していない人々は自分たちだけは助かろうとした。まあ、その人々の中に感染者が紛れていたわけで。人類はあっけなく滅んだ。

文明の英知を残して。それが上江波呂、いや。上江教授に作られた人類保護AI、HELLOWに。

通称ハロは生存者を探した。そして俺を見つけたというわけだ。

俺のようにコールドスリープをされた人間だっているはずなのに、どうしていないのか。簡単な話だ。コールドスリープのための電力が足りなかった。ハロ自身拡張して電力を確保できるようになるまでまともな保護ができずに辛うじて残っていた人類を死なせてしまっている。

では何故俺は生きているのか。これが笑えるんだ。俺は物好きな医者にコールドスリープの最中人体実験に利用されていた。コールドスリープした人間を北極で保管してみようってな。どうしてそんなことができるかというと、感染症が広まるずっと前に俺の身内が誰もいなくなったから。金が払えないならどう扱ってもいいという

ハロは俺を治療しワクチンを投与すると、俺の細胞を基に病に負けない体で世界を再構築するというのだ。そして世界が再構築されるまでの間、俺はまた眠りについた。

細胞を提供した俺がした取り引きは簡単だ。

俺の望む環境をつくること。可愛い彼女と可愛い妹、優しい母に、煩わしくない父親。そういうものが欲しかった。だが、そのことを知らずに 。偽物だと知って興じられるほど俺はできていない。だからハロに記憶を消させた。

なのに。なのに。

「あはははははははは!」

滑稽だ。俺は自分の考えた妄想の中に生きていた。

どうして春乃が俺を選んだのか。簡単だ。俺を選ぶように仕組まれていたんだから。美香の憎めない性格だって、ただの俺の趣味だ。気色悪い。罵倒されたいとか頭おかしいんじゃねぇの。それを演じる美香も大概だったな。

家族ごっこも、恋愛ごっこも楽しかったよ。けどもう、楽しめる気がしない。

手当たり次第、目に入ったものを壊した。店のガラスを割り、広告の旗を折り、自転車は蹴飛ばし、車も傷だらけに。

この町が好きだった。人々が好きだった。春乃がいるこの世界が好きだった。

それが全部作り物だったなんて、あんまりじゃないか。

計画した俺はこんなことになるなんて思わなかった。

ただ真っ白な病室の中、願った世界を実現したかっただけなんだ。

疲れ果て、見知らぬ土地の交差点で俺は倒れ込んでいた。

足裏が痛い。きっと血が出ている。でもそれもまあ、どうでもいいことだ。

どうせ忘れる。この辛さも、痛みも、全部。

こんなことなら昨日、春乃を抱いておくんだった。何も知らないうちに。幸せなうちに。あんなに幸せだったのに、俺は今深い絶望の中にいる。

知らなかったんだ。こんな結末だなんて。

知ったら後悔する、じゃわからない。もっと止めてくれないとわからねぇよ。

「こんなところで寝てたら轢かれるぞ」

噂をすればという奴か。ハロが俺を見下していた。

スカートの中が見えるが、人間じゃないって知ってると全く嬉しくないな。

「よお。遅かったな。待ってたんだ。早く記憶を消してくれ」

「それがね、できないんだ」

「はぁ?」

「できないんだよ」

俺は起き上がった。何を言っているのか、わからない。

「君だって覚えがあるだろ。忘れさせたって思い出すんだ」

「な、なあ。嘘って言ってくれよ」

「すまない。でもわかってくれ。私が君の味方だってことは」

俺はハロの服を掴んで喚いていた。その姿はきっと、ただをこねるガキだった。

* * *

輝かしい日々が灰色に見えた。

ハロに用意させた高級ホテルで食べたことのないような料理を頬張っても味がしない。足裏や腕に残った痛みだけを感じていた。

こんな気分は初めて、とでも言いたいところだが覚えがある。

かつて過ごした世界での話だ。

俺はどこにでもいる子どもだった。生んでくれた母は死んでいて、後妻の義母から疎まれいじめられている、どこにでもある問題を抱えた子どもだった。だが俺は父親からは愛されていた。欲しいものは与えてくれる、やりたいことはやらせてくれる、そんな人だ。

愛してくれていた。愛してくれたが、義母から俺を守ってはくれなかった。

いじめられて少しでも反発すると義母が父に泣きつき、その父に俺が殴られる。俺は父がわからなかった。でも父親に嫌われたくなくて、いつも俺が謝る。それが日常。世界は灰色だった。

そんなくそったれな日常の、ある日のことだ。

俺が倒れて、病院に運ばれた。救急車を呼んだのは義母。

少しでも愛情を感じてくれていたと思っていたが、ただの保身のためだったとすぐにわかった。病室で俺が目を開けたときに義母はどんな顔をしたと思う?

残念そうな顔をしていた。血反吐を吐いた俺を心配してくれたのは後から駆け付けた父だけ。俺は来てくれたことを嬉しがった。でもすぐにわかった。汗の一つもかいていなかったから。

俺の顔だけ見に来たのだ。

そのとき俺は、この人の愛情は形だけなことに気が付いた。

極めつけは弟だ。義母の子どもで勉強のできない奴だったが、どうすれば自分が良く思われるかだけは分かっていた。俺の見舞いにきて、思ってもないことを周りに聞こえるように言って、周りに笑顔を振りまいていた。

それを見ていた俺の気持ちがわかるか。全ての言葉が逆に聞こえた。

思ったより元気そうだね。よかった。

--想像以上にボロボロだ。ざまぁねぇな。

早く病気が治るといいね。

--そのまま死んじまえ。

心配で夜も寝れないよ。

--お前が家に帰らなくなって、夜はぐっすりだ。

いつだって本音が透けて見えた。耳障りで仕方がなかった。なのに周りは感心する。自慢の弟だろうと言われたときは吐き気がした。

義母は弟の出来が悪いから俺を目の敵にしたのだろう。それを見て育った弟も俺をいじめていいと思ったに違いない。その渦にいることをガキの頃の俺は気づかなかった。義母も弟も仲良くなれるなんて勘違いをして、いじめられても我慢してしまったんだ。

だから失敗した。

いじめられたときに逃げ出していれば違った未来があったかもしれない。

あんな父でも真面目に歌えれば、何かが少しはマシになっていたのかもしれない。

俺は家族が嫌いだった。

かくして性格は捻じ曲がった。愛情なんてまやかしで、家族なんて価値がないと。

そしてその後不治の病だったのでコールドスリープへ、そして北極で廃棄された。

考えてみれば父に恨みのある誰かの犯行だったのかもしれない。少なくとも俺の家族は起きない子どもに関心なかった。

目覚めたとき、人類のいなくなった世界を見て俺は笑った。

灰色だった世界に色が生まれ、自然と涙が零れた。人類は生かすべき人間を間違えたに違いない。ハロは俺の泣いた理由を人類が滅びたからだと思っていた。

ハロが世界を再構築すると言ったとき、俺は止めさせようか悩んだ。人類の言うことにはハロは絶対だった。創造主に服従するというプログラムでも仕込まれているのだろう。もはや主は俺一人だった。

人類再構築を渋る俺にハロが提案したのが俺の望む世界を実現することだったのだ。それも、記憶を消して。

その話を聞いて、喉の奥が震えたのを覚えている。あの灰色の世界を忘れることができるから。決して自分が味わえないと思っていたぬくもりを知ることができるから。家族を、愛することができるから。

全て俺が望んだことだった。そして全部、自分で壊した。

ボロボロと涙が出てくる。思い出すなんてことがあるなんて知らなかった。

こんなものを思い出すはずがないと思い込んでしまったんだ。

「大丈夫かい?」

いつの間にか隣にいたハロが俺の涙をハンカチで拭った。あれほど気味が悪いと思っていた存在がまさか命の恩人だったとは思わなかったな。

「大丈夫じゃねぇよ。記憶は消せない理由ってやつは何なんだ」

「気づいているんだろう?」

「……やっぱ病気のせいなんだな」

「病気じゃない、才能だ」

訳の分からないことを言い出したハロに俺は顔をしかめた。人の顔が自分の顔に見える才能ってなんだ。馬鹿じゃないのか。

「コントロールできるようになったんだろう」

「なんで知ってるんだよ」

「春乃くんにドギマギしていたそうだからね。美香には治ったとは聞かされてない。ならばコントロールできたと見るのが妥当だろう」

人工知能様は賢いことで。

きっとこういった情報を得るために美香を妹に添えたんだな。

「世界にはかつてオーラが見える人間がいたという。気だとか様々な言い方がされているが、このオーラを私はその人物を構成する一部だと考えている」

「……えーと?」

「つまりだね、君は人々に自分の欠片を見い出したのだと思う」

はあ。俺の細胞を元に人類を再生したから、俺の一部だってことか。

そんな馬鹿な話があるかと言いたいところだが、記憶を消すだのなんだのやってるからな。

「でも俺はこれまでオーラなんて感じる人間じゃなかった。見えるようになったタイミングも意味不明だし、それに人だけじゃなくて絵や動画でさえ人の顔が俺になっていたんだぞ」

「みんながみんな自分の顔に見えたから錯覚したのだろう。覚醒したタイミングはきっと何か衝撃があったに違いない。物理的なものでなくともいい。精神的なインパクトで才能が開花したわけだ」

いや、まあ。思い当たる節はあるな。

春乃とのキスのとき、俺の心臓ははちきれんばかりだった。よくその顔をみたいと目を見開いていたと思う。

「それじゃ、あの不審者はなんだったんだよ」

「アレは失敗作だといっただろう。おそらく君と同じ才能に目覚めたということだろうね。気づくのがもう少し早ければ処分しなくともよかった。人類たる君と同じ体質。つまり人類に限りなく近い存在だった」

ハロが残念そうに爪を噛んでいる。こうやってみるとハロも十分人間だな。

ああ、でもやっぱりアイツ死んだのか。

あいつと手が触れたときに感覚を共有したのも俺の才能とやらが関係しているのだろうか。

「話が逸れたな。どうして記憶を消せないんだ」

「その才能のせいだね。おそらく私には効いていないんだろう」

「まあ、人間じゃないしな」

「そのことで私に対する認識阻害が働かなくなってしまってね。私という存在に疑念を抱けてしまうんだよ」

「どういうことだ?」

「簡単に言うと怪しまれてないようにできないわけだ」

「ああ、なるほど」

怪しむなというのはなかなか難しい話だ。どうやったって無理だろう。

「そもそも君の才能で他の人が自分の顔に見えてしまうだろうからね」

「そうか。確かに記憶消したらコントロールもくそもないか」

また記憶を無くして誰だコイツコントをやる気にはならない。

「ただ、まあ。あるにはあるんだ。記憶を消す方法」

「なんだ!? 教えてくれ」

「一斉消去だ。記憶を全て消すことになる。もはや君と呼べるかさえわからない」

全てを消す、か。

それが正解なのかもしれないな。全部忘れよう。忘れた分は手回しして色々付け足してくれるだろう。

「準備しておいてくれ」

「……承知しました。わが主よ」

ハロが本来のように畏まる。久しぶりに見たな。

さて。記憶を失うってことは死ぬと同じことなんだろうか。最後の人類が選んだのは自殺になるわけだ。

人類としては避けて欲しい道に違いない。だが俺はそれを選ぶ。

一般論だとか、そんなものはどうだっていいんだ。選ぶのは俺なんだから。そもそも一般って言ったって、俺一人だしな。どうしようが、何をしようが俺の自由だ。

でも、なんだかなぁ。

「自由って残酷だ……」

* * *

ホテルの窓から外を見渡した。世界は灰色に満ちている。 

夢を見ていた。

母さんの作った朝食を食って、寝坊助な妹に遅刻するなよと一言声を掛け、春乃と歓談しながら登校する夢。夢にしては退屈なほど慣れ親しんだ日常だった。でももう知らなかったあの頃に、俺は戻れない。

失って初めて気づく。俺は満たされていた。これ以上ないほどに。そして、満たされることに慣れてしまっていた。

かつての俺は決して満たされることはなかったというのに。

幸せだった。幸せなまま、真実を知らぬままで、くたばりたかった。

「用意ができました」

布団の上で熱くなった目頭を押さえている俺に、ハロがそう言った。

そうか、できたか。

無言のまま俺は立ち上がった。

俺は今日、死ぬ。そして新しい俺が生まれる。

記憶を全て消すとはそういうことだ。消える俺はどこへ向かうのだろう。あの世に行くのか、ずっと俺の中で眠り続けるのか、それとも完全な消滅か。

「すまなかった」

先導して歩くハロはぽつりと言った。

いつもの不遜な態度ではない。やや俯き、どこか足取りも遅かった。

「成長の管理は美香に任せていたのに、不用意に君に接触してしまった。記憶を消すことができるからと慢心していた」

行動を悔いるその姿はまるで人間のようで、大人だった。

対して俺はどうだ。駄々をこねて、現状がどうにもならないから逃げだそうとしている。まるでガキじゃないか。わかっている。わかってはいるんだ。自分が馬鹿なことくらい。

「謝るなよ。惨めになる」

「……すまない」

長い沈黙が続く。ホテルを出ると見るからに豪華な高級車が止まっていた。どうやらアレで移動するらしい。そしてその車の横にいる人物に気が付く。

「行かないで、お兄ちゃん」

美香だ。ハロの様子を横目に見ると目を見開いている。この場所を自力で突き止めたらしい。相変わらず頭がいい。額に汗をかき、肩で息をしていた。

「どうしてここにいる。帰れよ」

「嫌、お兄ちゃんと一緒じゃなきゃ嫌!」

「俺はお前の兄じゃない」

「血が繋がって無くたって、お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょ。約束したじゃん! いなくならないって」

「状況が変わった。仕方ないんだ」

「そんなの納得できるわけないでしょ!」

「お前の納得なんてどうだっていい。もう決めたんだ」

「お願いだよ、お兄ちゃん……」

今にも泣きだしそうな声に心が締め付けられる。

だがこれで記憶を消さなかったとして、俺は苦しむだけじゃないか。

俺は美香の肩をつかんで座らせた。わかってくれたのだと思ったのか、美香が一瞬顔をほころばせる。

「……さよなら。妹なんてもう、演じなくていい」

「演じてなんてない! ねぇ、行かないで。行かないでよ!」

フラフラだった美香はすぐに立ち上がることができず、俺が飛び乗った車はすぐに走り出す。後ろを振り返ることはしなかった。

「……あれでよかったのかい?」

「……いいわけないだろ。でも、戻るなよ」

決意の固さを感じ取ったのか、ハロはそれ以上は何も言わなかった。

無駄に首を突っ込んで俺の記憶を戻してしまったことが想像以上に傷になっているらしい。気にしなくていいと言うべきなのかもしれないが、都合がいい。意思が揺らがなく済むから。

自分の思考回路にため息が出る。やっぱり俺はクズ野郎だ。それももうどうでもいいことか。もうすぐ消えるんだから。

ハロに導かれるまま、どこにでもありそうな会社のオフィスにたどり着く。研究所とかではないのかと首を傾げたが、すぐにその悩みは解消される。エレベーターで地下に降りた先に研究所があった。

なるほど、上の会社は見せかけか。

研究所の中には数名の白衣を着た人がいる。美香のような協力者なのだろうか。俺が目覚めたときにはハロ以外に誰もいなかったはずなのだが。

「こちらです」

研究所の職員が手を挙げてハロを呼んだ。その声に聞き覚えがあった。

「あんた春乃の……」

「ええ、母ですよ。この間の電話ぶりかしら」

「……」

一言言ってやろうと思っていたのに、いざ目の前にすると言葉が出ない。言いたいことが多すぎるせいだ。

そもそも俺に口出しする権利はあるのだろうか。結局、俺は春乃の問題を投げ出してしまった。もらっていくだのと大口を叩いたのに。

「あの出来損ないのことなら気に病まずともいいですよ。アレは一人でも生きていけますから」

「ち、違うだろ。生きていけるとかじゃなくて、家族の温かさを感じさせてやってくれよ」

「あらあら。最高の形になるようにデザインしたのにものにできなかったのはアレです。先に裏切ったのはアレのほうなのに」

 言葉の真意がいまいちつかめない。だが裏切った、という言葉に俺はカチンと来ていた。

「……すまないね。彼女は少し頭が固くて」

「黙ってろハロ。おい、あんた。子どもに高望みし過ぎなんだよ」

「能力を持っている者に相応しい仕事を見込んでいるだけです。高望みでも何でもないでしょう」

「子どもってのはな、親に褒めて欲しいものなんだよ。春乃の努力をお前は褒めたのか。春乃に望んだものは本当に春乃が欲したものか。なあ、頼むよ。春乃の母親はあんたしかいないんだ。春乃には幸せになって欲しい」

自分勝手なことを言っていると分かっていた。自分にできないから相手に頼むしかない不甲斐なさ。所詮は口先だけだ。

「……娘は愛されていたのですね」

「当たり前だろ」

「そうですか。まるっきり失敗作でもなかったのですか」

春乃の母親は無表情だ。何を考えているのかわからない。でも、今だけは少し笑った気がした。

「春乃のこと、任せてもいいですか」

「ええ。春乃はきちんと勤めを果たそうとしました。褒めてやりましょう」

最後まであまり嚙み合わなかったが、お願いしますと俺は頭を下げた。

もうこれで心残りはない。俺と春乃の母親が話している間に準備の完了した機械を装着する。といっても、一見ただのヘルメットをかぶっただけだ。こんなもので記憶が消せるとは未来の発展は末恐ろしい。いや、未来じゃなくて過去か。

これで終わりだ。全部。もう心に疑問はないだろうか。ふと不思議に思ったことを尋ねてみた。

「なあ、ハロ。春乃が失敗作だの、勤めだの。結局どういう意味だったんだ?」

「おや。知らなかったのかい。春乃くんは君の交際相手として相応しいように育てられた子どもの一人だよ」

「……はぁ?」

どういうことだ。演じてたと思っていたが、洗脳みたいで胸糞悪い。

「ああ、勘違いしないでくれ。最後の人類の伴侶に相応しいハイスペックな人間で君の周りを固めたというだけの話なんだ。あとほんの少し好意を向かせただけでね。それを春乃君の母親が極端に考えただけさ」

「じゃあ失敗作っていうのはその水準に達しなかったから?」

「それもあるがね。春乃くんは感情を動かせなかったんだよ」

感情を動かす? さっき言った好意を向かせるみたいな話だろうか。

俺が首を傾げているとハロは一つ咳ばらいをした。

「つまりだね。春乃くんは誰に指図や影響を受けたわけでもなく、君を好きになったのさ。それどころか彼女は皆嫌いだったから、どっちかなら君も最初は嫌われていたぐらいなんだよ?」

その言葉を聞いて、俺は言葉を失った。

まさか、違ったのか。間違えたのか俺は。春乃が俺を好きな気持ちを、嘘だなんていった俺の方が間違えていたのか。

気づけば、俺はヘルメットを外していた。

装置の起動ボタンに指を当てていたハロが目を丸くしている。そして悟ったように微笑んだ。

「……いいのか? 本当に」

「うん、いいんだ。--行かなくちゃ」

研究を飛び出した俺は走り出していた。足裏の傷口がズキズキと痛む。

痛い。でもこれでいい。自分だけ救われたようとした俺への罰。春乃は苦しんでいた。俺の望んだ世界が、春乃を傷つけていた。いや、春乃だけじゃない。美香や母さんだって、きっと。

小石につまづいて転ぶ。擦りむいた膝から血が流れていた。

「痛い、痛いな。嘘だけど、全部が嘘じゃなかったな……謝ろう、春乃に。美香にも」

空は雲一つなかった。

快晴の青空の下、溺れたように息を切らして俺の足は前へ前へと走る。

ただ愛してると伝えるために。

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わが世の春は俺だらけ 蒼瀬矢森(あおせやもり) @cry_max

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