第35話 【最終話】それを愛と呼ぶならば
夢を見ていた。
母さんの作った朝食を食って、寝坊助な妹に遅刻するなよと一言声を掛け、春乃と歓談しながら登校する夢。夢にしては退屈なほど慣れ親しんだ日常だった。でももう知らなかったあの頃に、俺は戻れない。
失って初めて気づく。俺は満たされていた。これ以上ないほどに。そして、満たされることに慣れてしまっていた。
かつての俺は決して満たされることはなかったというのに。
幸せだった。幸せなまま、真実を知らぬままで、くたばりたかった。
「用意ができました」
布団の上で熱くなった目頭を押さえている俺に、ハロがそう言った。
そうか、できたか。
無言のまま俺は立ち上がった。
俺は今日、死ぬ。そして新しい俺が生まれる。
記憶を全て消すとはそういうことだ。消える俺はどこへ向かうのだろう。ちゃんとあの世に行くのか、ずっと俺の中で眠り続けるのか、それとも完全な消滅か。きっと答えはわからない。死んだ人から話など聞けないのだから。
天国も地獄も信じてはいない。それでもどこかに救いが欲しかった。きっと人々は救いを求めて神を信じる。この選択にきっと救いはない。俺に俺を救うことはできなかった。だからこうするしかなかったんだ。
「すまなかった」
先導して歩くハロはぽつりと言った。
いつもの不遜な態度ではない。やや俯き、どこか足取りも遅かった。
「成長の管理は美香に任せていたのに、不用意に君に接触してしまった。記憶を消すことができるからと慢心していた」
行動を悔いるその姿はまるで人間のようで、大人だった。
対して俺はどうだ。駄々をこねて、現状がどうにもならないから逃げだそうとしている。まるでガキじゃないか。わかっている。わかってはいるんだ。自分が馬鹿なことくらい。
「謝るなよ。惨めになる」
「……すまない」
長い沈黙が続く。ホテルを出ると見るからに豪華な高級車が止まっていた。どうやらアレで移動するらしい。そしてその車の横にいる人物に気が付く。
「行かないで、兄ちゃん」
美香だ。ハロの様子を横目に見ると目を見開いている。この場所を自力で突き止めたらしい。相変わらず頭がいい。額に汗をかき、肩で息をしていた。
「どうしてここにいる。帰れよ」
「兄ちゃんと一緒じゃなきゃ嫌」
「俺はお前の兄じゃない」
「血が繋がって無くたって、兄ちゃんは兄ちゃんでしょ。約束したじゃん! いなくならないって」
「突然でも何でもないだろ。仕方ないんだ」
「そんなの納得できるわけないでしょ!」
「お前の納得なんてどうだっていい。もう決めたんだ」
らしくもない。美香が感情的になって話している。
理路整然とした普段のあいつだったなら説得されたかもしれないが、こんな状態の妹に負けるはずもない。
「お願いだよ、お兄ちゃん……」
今にも泣きだしそうな声に心が締め付けられる。
だがこれで記憶を消さなかったとして、俺は苦しむだけじゃないか。
俺は美香の肩をつかんで座らせた。わかってくれたのだと思ったのか、美香が一瞬顔をほころばせる。裏切ることを、俺は謝れなかった。
「……さよなら。お前らはもう演じなくていい」
「演じてなんてない! ねぇ、行かないで。行かないでよ!」
フラフラだった美香はすぐに立ち上がることができず、俺が飛び乗った車はすぐに走り出す。後ろを振り返ることはしなかった。ただしばらくの間遠くなる美香の呼ぶ声がしていた。
「……あれでよかったのかい?」
「いいわけないだろ。でも、戻るなよ」
決意の固さを感じ取ったのか、ハロはそれ以上は何も言わなかった。
無駄に首を突っ込んで俺の記憶を戻してしまったことが想像以上に傷になっているらしい。気にしなくていいと言うべきなのかもしれないが、都合がいい。意思が揺らがなく済むから。
自分の思考回路にため息が出る。やっぱり俺はクズ野郎だ。それももうどうでもいいことか。もうすぐ消えるんだから。
ハロに導かれるまま、どこにでもありそうな会社のオフィスにたどり着く。研究所とかではないのかと首を傾げたが、すぐにその悩みは解消される。エレベーターで地下に降りた先に研究所があった。
なるほど、上の会社は見せかけか。
研究所の中には数名の白衣を着た人がいる。美香のような協力者なのだろうか。俺が目覚めたときにはハロ以外に誰もいなかったはずなのだが。
「こちらです」
研究所の職員が手を挙げてハロを呼んだ。その声に聞き覚えがあった。
「あんた春乃の……」
「ええ、母ですよ。この間の電話ぶりかしら」
「……」
一言言ってやろうと思っていたのに、いざ目の前にすると言葉が出ない。言いたいことが多すぎるせいだ。
そもそも俺に口出しする権利はあるのだろうか。結局、俺は春乃の問題を投げ出してしまった。もらっていくだのと大口を叩いたのに。
「あの出来損ないのことなら気に病まずともいいですよ。アレなら一人でも生きていけますから」
「ち、違うだろ。生きていけるとかじゃなくて、家族の温かさを感じさせてやってくれよ」
「あらあら。最高の形になるようにデザインしたのにものにできなかったのはアレです。先に裏切ったのはアレのほうなのに」
言葉の真意がいまいちつかめない。だが裏切った、という言葉に俺はカチンと来ていた。
「……すまないね。彼女は少し頭が固くて」
「黙ってろハロ。おい、あんたは子どもに高望みし過ぎなんだよ」
「能力を持っている者に相応しい仕事を見込んでいるだけですよ。高望みでも何でもないでしょう」
「子どもってのはな、親に褒めて欲しいものなんだよ。春乃の努力をお前は褒めたのか。春乃に望んだものは本当に春乃が欲したものか。なあ、頼むよ。春乃の母親はあんたしかいないんだ。春乃には幸せになって欲しい」
自分勝手なことを言っていると分かっていた。自分にできないから相手に頼むしかない不甲斐なさ。所詮は口先だけだ。
「……娘は愛されていたのですね」
「当たり前だろ」
「そうですか。まるっきり失敗作でもなかったのですか」
春乃の母親は無表情だ。何を考えているのかわからない。でも、今だけは少し笑った気がした。
「春乃のこと、任せてもいいですか」
「ええ。春乃はきちんと勤めを果たそうとしました。褒めてやりましょう」
最後まであまり嚙み合わなかったが、お願いしますと俺は頭を下げた。
もうこれで心残りはない。俺と春乃の母親が話している間に準備の完了した機械を装着する。といっても、一見ただのヘルメットをかぶっただけだ。こんなもので記憶が消せるとは未来の発展は末恐ろしい。いや、未来じゃなくて過去か。
これで終わりだ。全部。もう心に疑問はないだろうか。ふと不思議に思ったことを尋ねてみた。
「なあ、ハロ。春乃が失敗作だの、勤めだの。結局どういう意味だったんだ?」
「おや。知らなかったのかい。春乃くんは君の交際相手として相応しいように育てられた子どもの一人だよ」
「……はぁ?」
え、何。どういうことだ。
演じてたと思ってたけど、そういう感じだったの? 洗脳みたいで胸糞悪いぞ。
「ああ、勘違いしないでくれ。最後の人類の伴侶に相応しいハイスペックな人間で君の周りを固めたというだけの話なんだ。あとほんの少し好意を向かせただけでね。それを春乃君の母親が極端に考えただけさ」
「えっと、じゃあ失敗作っていうのはその水準に達しなかったから?」
「それもあるがね。春乃くんは感情を動かせなかったんだよ」
感情を動かす? さっき言った好意を向かせるみたいな話だろうか。
俺が首を傾げているとハロは一つ咳ばらいをした。
「つまりだね。春乃くんは誰に指図や影響を受けたわけでもなく、君を好きになったのさ。それどころか彼女は皆嫌いだったから、どっちかなら君も最初は嫌われていたぐらいなんだよ?」
その言葉を聞いて、俺は言葉を失った。
まさか、違ったのか。間違えたのか俺は。春乃が俺を好きな気持ちを、嘘だなんていった俺の方が間違えていたのか。
気づけば、俺はヘルメットを外していた。
装置の起動ボタンに指を当てていたハロが目を丸くしている。そして悟ったように微笑んだ。
「……いいのかい? 本当に」
「うん。いいんだ。謝りに、行かなくちゃ」
研究を飛び出した俺は走り出していた。足裏の傷口がズキズキと痛む。
痛い。でもこれでいいんだ。春乃を置いて自分だけ救われたようとした俺への罰。謝るんだ。彼女を傷つけたことを。病気を隠してきたことを。
空は雲一つなかった。
快晴の青色の中、溺れるように息を切らして俺の足は前へ前へと進み出す。
ただ君に、愛していると伝えるために。
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