平蜘蛛

県昭政

平蜘蛛


















平蜘蛛

           (原稿用紙換算 二百枚)

                         松尾 一英


















一、 黒蜘蛛


わしは平蜘蛛である。

といっても、虫のくもではない。天下に名高い茶釜である。わしは長い間、人の世の悲しさ、苦しさ、恐ろしさをつぶさに見てきた。見すぎてもう疲れた。

しかし、今は誰にでもよい、話したい気分じゃ。なぜだかのう。何百年も経って、落ち着いて昔のことを見ることができるようになったからかのう。

まあ、今日はひとつ、わしの話につきあってもらいたい。ちと長いが、退屈はしない話じゃぞ。

わしの名の由来か? わしを窯で焼いているときに、空にあがった煙の中に現れた黒いすすが、まるで平べったい大きな蜘蛛のように見えたのじゃ。それから、そう名がつけられたのじゃ。ああ、そうじゃ、あれは戦国の世のころじゃったな。

当時、煙の中の蜘蛛を見上げていた職人たちは、みな恐れおののいていた。その中でも、一番年若の職人の吉作が、大騒ぎしておった。

「あ、あれは何や」

 吉作のうろたえること、みっともなかったぞ。

「不吉や」

吉作の顔が、次第に青ざめていった。

「なんや分かりまへんが」

ますます蒼ざめていった。

「あっ、そうや。、あの煙の出ている筒の下にある茶釜です」

 ここで釜作りをしているくせに、今まで気づかん吉作が間抜けや。

「不吉をよぶ茶釜ができているのに違いありまへん。そうに違いありまへん」

まわりの職人たちも、そうや、そうやと、一斉にわめきたてたぞ。皆、煙突の上の方を見上げながら、不安の色を隠せなかった。

空は夏雲ひとつなく、水色一色に染まっていた。まばゆい日差しで、空を見るのはまぶしかった。

音は、近くの木々に止まって短い命を懸命に生きようとしている、あぶら蝉の鳴き声だけが、聞こえていた。

黒蜘蛛は、しばらくは煙を出す筒の上で左右にゆるやかに揺れながらとどまっていた。黒い煙の中心から、七、八本くらいの長い黒煙が横に出ており、それが、まるで蜘蛛の足を思わせた。そしてそれだけは、胴体のようなものとは別に、縦に揺れ動いていた。その煙の異様に黒い様子が、後ろの鮮やかな夏の空と、まさに対照的だったのじゃ。

「な、なんや、あれは」

「分からん」

「生き物のようではないか」

「そういえばそうや」

「蜘蛛ではないか」

「そうや、蜘蛛や。黒蜘蛛や」

「し、信じられへん」

「生きているとしか思われん」

黒い煙の中にあらわれていた小さな隙間が、まるで蜘蛛の口のようであった。それが少し上に曲がり、まるで、黒蜘蛛がほくそえんだかのように見えた。

「わ、笑ろうたで。うわー」

 黒い煙を見て、職人たちは、また騒ぎ出した。その場から逃げ出すものも出る始末じゃ。逃げ出したあとには、乾いた土埃が、ゆっくりとそよいでいた。その土煙が消えてしまわないうちに、黒蜘蛛は勢いよく天空へ上っていって、ついには見えなくなってしまいおった。

「よ、吉作、師匠を呼んで来い」

「へ、へい」

「わしなら、ここにおるぞ」

黒蜘蛛が立ち去ったあとの、青く晴れ晴れとした空をぼんやり眺めている職人たちの後ろから、師匠である男がゆっくりと歩いてきた。その男も先ほどから、煙を眺めていたようだった。吉作は急いで振り返り男に向かって叫んだ。

「し、師匠」

「なんや、吉作。そんなに慌ておってからに」

 男の声は低く、力強いものだった。

「そ、それは慌てますとも。師匠、今つくっている茶釜は、不吉を呼ぶもんでございます」

「ほう」

「作るのを一刻もはよう、やめたほうがようございます!」

「なぜじゃ」

「く、黒い蜘蛛が、筒から出てきておりました」

「わしら、皆見ておりました」

「そうや、そうや」

 弟子たちは一斉に騒ぎ立てた。

「黒蜘蛛は、不吉でっせ」

 師匠と言われたその男は、日に焼けた顔の目を細めながら、こう言った。

「お前たち、慌てるんやない」

「えっ?」

「あのような煙はこの世に二つとない稀なるものや」

「な、なんと言わはります」

「そやさかい、いま作っておる茶釜は、天下に並ぶものがない稀なる名品になるじゃろうということよ。」

「し、しかし、不気味でっせ」

「いや、稀なもの。それは作り甲斐があるやないか。さあ、もうすぐ出来上がるのや」

師匠は唇を引き締めて言った。

「皆々、少しも怠るではないぞ。心を落ち着かせて、持ち場に戻らんか」

「し、師匠」

「吉作、落ち着かんか」

「は、はあ」

職人たちは、納得のいかない様子だったが、京随一の茶釜作りの名人と言われる男から、そう言われると、逆らうことはできなかったんじゃ。皆、渋々持ち場に戻っていき、作業を続けた。

ただ一人吉作は、まだ青い空を眺め続けておった。雲ひとつない空をな。わしはその五日後に出来上がった。

吉作はわしを見て目を輝かせて言った。

「し、師匠」

「吉作、どうじゃ」

「これは、これは」

「どうじゃ」

「師匠、これは見事な出来映えでございますなあ」

「うむうむ」

「このような素晴らしきものになるとは。はあ。」

「うむ、これほどの茶釜は日の本中に見当たるまい。あの煙はそれを現しておったんや。黒蜘蛛は、不吉ではなく吉兆やったんや」」

「師匠のお目は確かにございます。私は信じます」

「そうか」

「そうでございますとも。師匠、ところでこの茶釜の名は何とつけられますか」

「うーむ、そうやのう」

師匠は笑みをたたえながらこう言った。

「あの黒蜘蛛を見たときから、考えておった名がある」

「それは何でございますか」

「平蜘蛛というのはどうや」

「平蜘蛛?」

「そうや、この茶釜を作っている時に出たあの平べったい黒蜘蛛にちなんで、そうつけようかと思うとる」

「平蜘蛛。それはええ名ですな」

「かと言って、黒蜘蛛では少しえげつない感じがするしな」

「なるほど」

「そうやろ」

「そうでんな」

「あの黒蜘蛛の出来事を忘れんためにも、そう名づけたいのや」

「分かりました」

「さてと」

 男は、また目を細めてこう言った。

「あとのことは、山城屋はんに、おまかせするだけや」

「これをあのくそじじいに売り渡すのは、惜しい気がしまっせ」

「まあ、そういうな」

「へ、へい」

「あのお方は、ちゃんとした方にしかお売りにならへんて」

「確かにそうですな」

「よし、山城屋はんに、茶釜ができたことをお伝えするのや」

「へい」

 男は、この茶釜を撫でながら、満足そうにうなずいておった。しかし、わしはこの後、わしを手にした者たちをとおして、人の世の悲しさ、苦しさ、恐ろしさを見ていく破目になっていく。あの黒い煙が出たときから、そのような定めであったのじゃ。


その師匠といわれた男は、諏訪内多兵衛という者じゃった。歳は六十過ぎ京の都で働いておった。多兵衛の働いている町では、茶碗、茶壷をはじめとした陶器、刀剣、茶釜、鍬などをつくる職人たちが、大勢集まって住んでおった。

当時そのころの京は、街を燃えつくした応仁の大乱が終わり、足利の将軍も家臣である管領の細川氏らに都を追われて地方を流浪していた時代でな、情けないありさまといえばそういえるじゃろう。

多兵衛の作り上げた茶釜は、天下一流のものとの評判じゃった。どれも見劣りのするものは一切なく、その名は畿内はおろか九州、関東、奥羽にまで聞こえておったわい。日の本一の茶釜作りの名人とも言われていた。

多兵衛の作った茶釜は、京の商人山城屋長兵衛が一切取りまとめて売っておった。やつは、茶釜、茶碗、茶壷、茶入、水差、花入など、茶道に使う茶道具を主に扱う商いをしておったな。

長兵衛は、七十過ぎの背が低く、目の窪みの大きい出っ歯の男だった。それが機敏に店内を走り回って、商売の指図をしておったでのう。口うるさく、品物が自分の思い通りに並んでいないと、すぐに文句を手代や丁稚に言って、並びを変えさせるやつじゃったよ。うるさいおやじじゃのう。

やつの取り扱っている茶器が欲しくて、訪ね来る者は後を絶たなかった。それもそうじゃろう。もちろん茶道具全般に渡って名品を取り扱っていたが、中でも名人諏訪内多兵衛作の茶釜は、ここでしか買えなかったのじゃからな。

しかし、長兵衛はそう簡単には売らなんだ。売り値を釣り上げるのではない。相手がその茶器を使うのに真にふさわしい者か、入念に見きわめてから、売るかどうかを決めるのじゃ。それは買い手の人物を見るということじゃった。それでも、山城屋の茶器が欲しいと訪ね来るものは後を絶たなかった。

ある時も一人の身分高き侍が来ていたそうじゃ。それは、大内義隆の側近であった。大内といえば、周防、長門、石見、安芸、豊前、筑前などを治める中国一の大々名で、近隣敵なしと言われていたほどの力を持っていた者じゃ。

その大内家が、諏訪内多兵衛の作った茶釜の泊天を是非買いたいといってきおった。泊天も天下にその名を知られた名器でな。買い値はいくらでも惜しまんとも言ってきた。

他のやつなら、天下の名家である大内家からそのようなことを言われて、嬉しくて仕方がなくなるじゃろうが、長兵衛はな、頑として売らなかったんじゃよ。ご当家に合うような茶釜は、ここにはござりまへんの一点ばりでな。

そのやりとりがあまりにも長く続いて、大内家の家来はついには激怒して刀まで抜き出す始末じゃった。

番頭、手代や丁稚は、恐怖のあまり、皆店の外に逃げ出してしまったが、長兵衛は店の奥に座ったまま、普段の敏捷な動きと反対に、悠然としたままでいた。逆に侍の方が落ち着かないありさまじゃ。

「なぜ、売らぬ。わ、訳を申せ」

「いやあ、ご当家のような名門中の名門のお家に見合うようなものは、ここにはありまへんよ」

「なんじゃと?」

「さっき、言ったとおりでっせ」

「ここには天下の名器が取り扱われておると聞く」

「ほう、そうでっか」

「それに、天下の名匠諏訪内多兵衛の茶釜は、ここでしか買えんそうではないか。ここには、これだけの名器が揃っているではないか」

「あはは、買いかぶりでございますよ」

「ふ、ふざけるな」

「ふざけてはおりまへんて」

「それだけでは納得がゆかぬ。はっきり訳を申せ」

「こちらに、大内さまのような目利きのお殿様のお目にかなう茶釜があるなど、手前は恐れ多くてとても言えませんよって」

 今にも斬りかかりそうな勢いの相手に対して、多兵衛は歯を相変わらず出しながら笑い、答えておった。

「う、うそを申せ」

「はあ?」

 なんと多兵衛の横着な態度じゃこと。

「名門といえば、先には駿河の今川義元公に売ったと聞いたぞ。」

「ああ、はいはい、売らせていただきましたよ」

「あちらも名門のお家ではないか。」

「そう、名門のお家でんなあ」

「では、どういうことじゃ」

「うーむ、そうでんなあ、国が栄えて天下を狙おうとなされている今川様には売れても」

「う、売れても、何じゃ」

「家臣が仲間割れして、お互いに命を狙いあっているようなお家には」

「うっ」

「職人はんが丹精こめてつくったものは、さすがに安心して渡せまへんなあ」

「むむっ」

「どうでっか」

「むっ」

家来は、何も言い返すことができなかった。それが当たっていたからじゃ。当時、主君大内義隆は、戦を嫌い政ごとを放り出し、和歌や書や茶などの文の世界に没頭しておった。

それを諫めた陶隆房ら武人の家臣らと義隆の側近の文人連中らとで、激しいいさかいが起きておった。

「ご家中は、一体どうなっていらっしゃるんでっしゃろ」

 今にも戦がおきるようで、危険を察知した文人家臣の中には、国外へ逃亡した者もおると聞く。商人たちは、大名の内情をいつも独自の情報網で知ることができていた。

「も、もう、そちには頼まん」

そう言い捨てて、その家来は慌てて去っていった。

それから数年の後、大内家では謀反が起きた。大内義隆は、陶隆房を中心とした勢力に謀反を起こされ、自害するはめになりおった。あの権勢が栄えていた大々名大内家で、謀反が起きるとは世も末じゃ。

そして隣の豊後の大友家から義長という者が迎えられ、傀儡の主君として陶がかついだ。大内家は全盛期の力を失ってしもうた。長兵衛の申すことはもっともなことじゃった。

他に売ったのは、長尾景虎、武田晴信、織田信秀、伊達晴宗、北条氏康、毛利元就など天下を狙う力量のある人物や、平手政秀、直江景綱、下間頼竜ら見どころのある有力な家臣たちじゃ。

売らなかったのは、他には、足利義晴、朝倉義景、六角義賢、土岐頼芸らの将軍、大名たちじゃな。こいつらも、しつこく売れと言ってきおったが、結局は売らなんだ。やつらの最後を考えると、長兵衛の目には狂いはなかったのじゃ。

足利義晴は京の都から追われた流浪の将軍で終わり、朝倉は優柔不断をさらけ出し織田信長に滅ぼされてしもうた。六角は信長に敵対し追放され、土岐頼芸は家臣である斎藤道三に国を追われた。

このように、長兵衛は相手をよくよく見定めて茶器を売ったのじゃ。諏訪内多兵衛はこの長兵衛の商売魂を見込んで、山城屋に自分の作った茶釜を安心して預けていたのじゃ。一流の者は一流を知るとはこのことじゃ。わしのときも、長兵衛の商いのやり方はそのような厳しいものじゃった。


     二、出会い


わしが作られたのは、天文年間の時代の終わりのころじゃったのう。後の世で、諏訪内多兵衛の作で一番の名品といわれたくらいじゃ。

実は、仕掛けがしてあった。空高くあがる黒蜘蛛の煙を見た多兵衛が、釜の外側に蜘蛛の絵を鋳つけおった。あの時に見た平べったい蜘蛛の印象をなるべく忠実に再現しようと、描いた。

最初に見た煙の中の蜘蛛が再び天空に上っていかないように、まるで釜に閉じ込めておくためじゃそうな。

このような器の色かたちのめずらしいものができたと聞いて、すぐに堺の豪商の橘屋喜右衛門がやってきおった。商人というのはよう話を嗅ぎつけるものよのう。感心するぞ。

やつは、顔は額から顎まで全て赤く、耳が長く、下くちびるが出っぱっておった。眉毛は毛虫のように太く、目は赤い顔に負けないように大きく、そして白く目立っておった。顔は大きく、体の色が濃かった。

その割には、太っておらず、よく自ら働くやつで、手代や丁稚からの信望も厚いとの評判じゃった。おかげで、橘屋は堺でも有数の豪商となって、その名を日の本中に広めていた。

その喜右衛門は、わしを手にとって長いあいだ見つめ、表面をなでて形をたしかめていた。上の方をなでては、蜘蛛のところに指を這わせて、また上の方をなでては蜘蛛のところに指を這わせての繰り返しをしておった。

わしの表はな、枇杷色におおわれておって光沢をどこからでも放っておった。手に取れば、蜘蛛の形が神秘な感触を持つ者にあたえ、重々しい心持ちにさせた。

喜右衛門も、しまいにはよ、顔に喜色を浮かべておったわい。

「これは、天下一の茶釜でんなあ」

「そうでっしゃろ」

「いやあ、素晴らしいでんなあ」

「そりゃあ、そうでんがな」

 そして、値はいくらでもよいから、是非譲ってくれといってきおった。まあ、わしも、自分が天下一の見目うるわしい茶釜だと思っておったから、やつの態度は当然のことと受けとめたがな。

 ところが、山城屋のじじいはな、だめじゃと即座に言いおった。

「橘屋はん、あんさんには平蜘蛛を使う器量があるとは思えんがな」

ぬけぬけと言う。

「なぜや」

「銭を使うより、ただただ貯めて喜んでおるようなやつはろくでもない器量なしじゃ」

「な、なんやてっ」

 よう、ずけずけとものを申すやつじゃのう。わしの性根の曲がったのもやつの影響を受けたのやもしれん。

喜右衛門は、憤然として言い放った。

「わしは、これでも堺の大あきんどとして、日の本中に名を広めておるものや」

「よう存じておりやす」

 長兵衛は、人を小馬鹿にしたような態度で喜右衛門に臨んでおる。

「銭も、ただただ貯めているわけとはちゃう。」

「どう、ちゃうのでっか」

「この乱世、天下を救う見込みのあるお人が現れたら、そのお方を助けるために差し上げようと貯めておったのや」

「では、なぜ今までお使いにならへんのかいな」

「今は、細川、三好、六角、畠山と、私利私欲にあけくれた、どうしようもない奴らばかりしかおらへん。そやからまだ銭は店に眠ったままや」

「まあ、確かに、ろくなお方はいらしゃいまへんなあ」

「わしは、銭をかけるに値するお方の現れるのを待っているのや」

「ほほう、それは殊勝なお心がけでんな。」

「そういうことや」

「ははは」

「値はいくらでもよい、是非売ってくれへんか」

「さてさて、どうしたもんやのう」

「どうすればええのや」

「うーむ」

 長兵衛は、顎に手をやってさすっていた。

「さあ、いわへんか」

「そうやな、さっき、あんさんは、天下を救う方が現れるまでの銭といわれましたなあ」

「おう、言ったで。それが何や?」

「それで、思いつきましたで」

「なんや」

「ははは」

「なんや、なんや」

「その金を使って、ひとつでかいことをしてみてくだはれば考え直しまひょ」

「でかいことか」

「そうや、でかいことや」

 長兵衛は、黙って何か考えているようじゃった。

「決めた。わしのいうことをしてくれたなら、ただで平蜘蛛を差し上げまひょ」

「た、ただで?」

「そう、ただでだす。」

長兵衛が唇を緩ませて言った。


美濃の国を治める大名に斎藤道三という者がおる。蝮の道三との異名を持つ。主君の守護大名土岐頼芸を国外に追い払い、みずから大名となり、近隣に勢力を広げているやり手じゃ。

その者がいま激しゅう戦っとるのが、南隣の国の尾張に新しく出てきた織田信秀ちゅうやつで、こいつが戦がめっぽう強い。この戦、お互い勝ったり負けたりで、いつ勝負がつくか分からん。そのうち共倒れになって、近隣の強国に食われるやもしれん。

そうなると、どちらもなかなかの人物であるので、はなはだもったいない。ついては、喜右衛門に和睦させて、ついでに同盟も計らっていただきたいということじゃ。だいそれた考えじゃな。

実はな、道三の父がな、美濃で侍に取り立てられる前は、京の油問屋の奈良屋の主人だった男で、道三親子ともに長兵衛とも知った仲だったようじゃ。

道三の父は、奈良屋の商いで美濃に油を売りにいき、そこで旧知の者が土岐頼芸の家老の弟だったのをつてにしてな、侍になったらしい。

まあ実は、油の行商に行ったというより、強い勢力がまだおらず国が乱れておった美濃で仕官して、乱世の中で一旗あげようという腹だったようじゃ。他の国では、強い勢力が台頭し出していたので、この目の付けどころは間違っていなかったようじゃ。

そして道三の父は商人のくせに、もともとの侍としての武術、才覚を持っていたらしく、それから後は、とんとんびょうしに出世していきおった。それらの才覚は、油問屋になる前に、武士だったらしくそのときに見につけていたようじゃ。

当時はな、土岐家の嫡男の頼純と弟の頼芸が家督を争っておった。土岐家は二派に分かれて戦を行っておった。どちらもたいした器量の持ち主ではなく、決め手に欠き勝負がつかなかったのじゃ。

あとをついだ息子の道三は、父以上のなかなかの器量、才覚の持ち主で、主君土岐頼芸から絶大な信任を得ていたそうじゃ。彼の策略のおかげで、頼芸は兄の頼純を越前に追い払い、美濃の守護職につくことができた。

その後、道三は、上役や家老を頼芸に讒言して、謀略で殺したり追放さしたりで、権力の座をのぼりつめていった。

そして自分の力が強大なものとなったと思ったとき、ついに主君を追い出し自ら美濃の大名となったのじゃ。これこそ、乱世の申し子といえる男じゃな。

一方、都はというと、細川、三好らが勢力争いを繰り広げ勝ったり負けたりでな。小さな領主たちも、昨日は細川、明日は三好とあちこちに味方して戦が絶えなんだ。おかげで、京の町は荒れ放題じゃ。

応仁の時代から京や畿内はおろか日の本中が戦で荒れ果てておった。もう、民はうんざりしておった。こんなときこそ、力のあるものが出てきて細川、三好らを叩き潰し、戦のない秩序のある世界を取り戻してほしいものだと、山城屋長兵衛は考えておった。

それで、橘屋喜右衛門に、斎藤道三と織田信秀の和睦と同盟という無理難題とも思えることを言い出したのじゃ。

 同盟が結ばれれば、道三は背後を気にせず都に攻め上ることもできるやもしれん。いや、是非そうしてほしい、道三なら、京の町はおろか日の本の安寧を必ず取り戻してくれるはずだという、長兵衛の切実な気持ちがこめられておった。

道三は、手段を選らばん非情な男ではあるが、美濃一国の利益にとらわれず、天下というものを考えておった数少ない大名じゃったらしい。

喜右衛門はおおいに弱った。道三と会うのは難しゅうはない。こちらは、堺の大あきんど橘屋喜右衛門として、その名を日の本中に広めている。

堺自体が、各地の大名が接触を求めてやまない日の本一の銭の集まる町なのじゃ。人のつてならどこの国にでもある。

しかし、あきんどの身で、斎藤道三と織田信秀という煮ても焼いても食えんようなやつらを和睦さして、しかも盟約まで結ばすのはな、難儀と感じかなり弱ったようじゃな。侍でも、ようできんことじゃからな。それでも、天下に二つとない茶釜であるわしを手にいれるために、何とかしたいようじゃったな。

わしがいうのも何じゃが、茶釜ひとつのために命をかけるやつがいるのが信じられんわい。

まあ、この時代から信長の世を経て、後の世の豊臣秀吉が天下を取った後の千利休や古田織部らの勢いが盛んじゃった時代までは、名器の茶器を持つことが力を持つ者のあかしとなっていったようだから、世の中とは分からんものじゃな。

織田信長の重臣である滝川一益などは、長年の脅威じゃった武田氏を滅ぼした功で、多くの領地を与えられ、関東方面の軍をまとめる大将に任じられたというのに、目当ての茶器を褒美にもらえないでおり、領地よりも茶器が欲しかったと、おおいに嘆いたという逸話も残っておるくらいじゃ。わしには理解できんわ。

とにかく喜右衛門は美濃へ旅立った。その前に、ひとつ寄り道したところがあったようじゃがな。

       三、蝮


美濃についてから喜右衛門は、まず斎藤家重臣の堀田道空の邸宅に寄った。道空は、斎藤家のために火縄銃や財宝を買い求めに堺をたびたび訪れ、橘屋からものを買っていたから、喜右衛門とも顔なじみになっておった。その伝手をたどって、道三にお目通りを願おうという腹なのじゃ。

堀田道空は、喜右衛門の道三に会いたい旨の話を聞いて、驚いてそのあとはうなったままだった。そして、そのような同盟の話は一介の商人ができるものではない、無謀なことは言わないほうが身のためじゃと言った。そこで、喜右衛門は、道空に自分が考えている策を話した。道空は驚き叫んだ。そして、しばらく外の庭の景色を眺めていたが、外を見ながら、喜右衛門を道三に会わせることを渋々承知した。

喜右衛門は、直接この話は道三さまにするから、それまでは道空どのは黙っていてくれまへんかと、笑いながらささやいた。さてさて、どうなることやら。


喜右衛門が稲葉山城で斎藤道三に目通りがかなったのは、それから三日後のことであった。道三の本拠地であるこの城は、美濃と尾張を通じ海に至る濃尾平野全体をはるかに見渡す山の頂に立てられていた。

前に広がる平野にたいしては、断崖絶壁の岩壁が攻めて来る敵を寄せつけない。目通りした天守閣の部屋からは、濃尾平野を縦に流れる長良川の大きな曲がり具合が、よく見える。

喜右衛門は、緊張はしておらんかった。天下の梟雄斎藤道三とはいかなる人物か、会えて話をすることが出来るのが楽しみで仕方なかった。さすが天下の大あきんど橘屋喜右衛門じゃ。

待たされていた室内に、まず堀田道空が入ってきた。道空は、喜右衛門がどのようなことを道三に言うか知っているだけに、かなりの緊張の面持ちであった。額には汗がやたらと流れ、時々布で拭き取っていた。

「道三さまのお入りじゃ」

 道空は声が上擦っておった。

道三が室内に入ってきた。道三は、髪の毛は、左右の横側をのぞいて既になくなっていたが、太い眉、涼やかな眼、高い張りのある鼻、引き締まり自信に満ちているように見える唇が、若きころの美丈夫を物語っておる。

また、袖から出ている太く厚い筋肉の腕は、戦場を往来していたころ、槍の名手として、数々の敵を屠ってきた来歴を示している。

「そちが橘屋喜右衛門か」

 道三の声音は低いが室内に響き渡り、そして聞く者の腹の奥にも響くようで、緊張させるものじゃった。

「はい、橘屋でございます。お初にお目にかかります。恐れ多いことにございます」

「わしが道三である」

「ははっ」

「わしにひとつ話を持ってきたとな、それはよき話かな、悪き話かな」

「もうかる話にございます」

「なに、もうかる話とな」

「はい」

「どんな、もうかる話かな」」

「それは、織田さまとの和睦でございます」

「尾張の猿とか?」

「和睦だけではありまへん。盟約を結ぶという話を持ってまいりました」

「たわけたことを言うな」

「はい?」

「わしときゃつとは何度も戦い憎しみおうた間柄じゃ。何を今更」

道三は怒ってはいない。ただただ膝を手で揺すり顔を上にあげながら、呆れかえって苦笑いをしておった。そりゃ、喜右衛門の話はとんでもない話じゃからのう。

「道三さまには、是が非でも上洛していただきたいのです」

それを聞いて道三の眼の奥が光った。そして、こころなしか喜右衛門の話に身を乗り出して聞きはじめた。

「京はおろか畿内は、細川、三好らの悪党どもが争い荒れ果てるばかりでございます」

「うむ。京はわしの生まれ故郷でもあるから心を痛めておる」

「ここは、力を持ち信念のある方に都を守っていただき、ひいてはこの日の本をまとめていただきたいのです」

「それがわしということか」

「はい、そうでございます」

「わしは確かに天下というものを意識しておる」

「はい」

「天下を統一し戦のない世にしたい。そして万民に豊かな生活をさせたい」

「そうお考えになっていらっしゃると見込んで参りました」

「しかし、わしには敵が多すぎるのじゃぞ。北の朝倉、南の織田、東の浅井、六角、追い出した旧守護土岐一族の残党どもなど。うんざり過ぎるほどじゃわい。それを今ひとつひとつ潰そうとしておるところじゃ」

「存じております」

「では、なぜこの話を」

「だからこそ、織田さまと盟約を結び南の方を安全にして、京の方へ目を向けていただきたいのでございます」

「ほう」

「今の道三さまの敵で、戦が強く今後も勢力を伸ばす可能性があるのは織田さまと見ております」

「わしもそう見ておる。だから、今のうちに叩き潰そうとしておるのじゃ」

「逆の見方をすれば、味方につければこれほど頼もしい相手はいないかと思われます」

「う、うむ」

「強い相手と結び他の弱敵を潰すほうが、京への道も近くなります」

「なるほど、一理あるな。わしもあきんどの血を引いているから分かるが、これはあきんどならではの理にかなった考えじゃな」

「はい、商人の血をひき、お父上さま同様銭の流れに敏感な道三さまが、日の本をまとめはることこそがこの国を豊かにする道につながるんやと思います」

「それはわしにも自信がある」

「これは、京、堺の商人だけでなく、山城屋長兵衛の願いでもございます」

「なになに、長兵衛か。わしが父とともに京に住んでいた幼少時代に、何度か遊んだことがある。出っ歯の長兵衛じゃったな」

「相変わらず小うるさく、お元気でございます」

「あの不細工な顔形はよく覚えておる。懐かしい名じゃな」

「そこでで、ございますが」

道三の頬の張りがゆるんだのを見逃さず、喜右衛門は言いおった。

「道三さまの愛娘帰蝶さまと、織田さまのご嫡男信長さまとのご婚儀をお勧めいたしとうございまする」

 これには、さすがの道三の顔色も一瞬曇りおったぞ。

「橘屋、僭越であるぞっ」

「ははっ」

 喜右衛門の左前にいる堀田道空も、下を向いてため息をついておった。

 それでも、喜右衛門はひるまず述べ続けた。

「失礼の段は重々承知いたしております。しかし、織田さまの宿老平手政秀さまとこの話をし、すでにあちらさんは承知されております」

「なにっ」

「この話は、織田さまにも悪い話ではありまへんから」

「なんとっ。もう既に織田とそのような話をしておるのか」

「はい」

「で、織田の方は何と言ってきておるのか」

「織田さまも、駿河、遠江を支配する大々名の今川さまとことを構えておる最中。斎藤さまと争う余裕などとてもありまへん」

「うむ」

「喜んで、この盟約と婚儀を受けたいとのことでございます」

「なんと」

「そういうことにございます」

「その方、商人の身でありながら大胆なことをするものじゃのう」

「恐れ入り奉ります」

「おぬしのような商人は初めて見たぞ」

「恐悦至極にございます」

「うーむ」

道三は、ここで大きく息を吸い込み、手をあごに持っていった。その手をあご髭の根元から先に下ろしていったときに、腹から長い息を吐ききった後長い沈黙が続いた。回りには、何一つ音がしなかった。

 そして、その長い沈黙を道三が破りこう言った。

「この話、確かにわしに大きな益をもたらすものじゃ。まず、織田との戦は国力を疲弊させてきた。この戦をやめることによって今後わが方は力を十分に蓄えることができよう」

「はい」

「また、南を気にすることなく上洛の機をうかがえるな」

「そうでございます」

「しかも、織田の息子はうつけものとの評判じゃ」

「と、いいますと」

「あそこは、信秀亡き後には必ず一族で争いが起きようぞ」

「そうでございますか」

「そうじゃ。さすれば、婿殿のいくさの応援をすると称して争いに介入し、どさくさにまぎれに織田一族を滅ぼし、尾張をわが手中にもおさめることも夢ではない。まあ、それには、信秀よりもわしの方が長生きをせねばならんがな」

「そこまでお考えになっていたとは、恐れ入りましてござります」

「橘屋、このもうかる話乗ったぞ」

「ははっ、めでたきことにございます」

そして、道三は去りぎわにこう言いおった。

「よかったな」

「はい?」

「これで平蜘蛛がそちのもとに来るではないか」


    四、茶の道


あとは、先ず重臣同士堀田道空と平手政秀のあいだで話はすすめられ、織田信長と帰蝶姫との婚儀がおこなわれた。天文十八年(一五四八)、めでたく斎藤家と織田家は姻戚となった。

喜右衛門はついにわしをもらうことができた。山城屋長兵衛は喜んで名器平蜘蛛をただで譲ったのじゃ。

「橘屋はん、あんたにはほんまに頭がさがるで」

「いやいや」

「わしは、あんたがここまでするお人とは思わんかった」

「そうでっか」

「あんたを見る目が間違っておった。すまん、数々の無礼な言葉を言ってしまいました。どうか許してくだはれ」

「いえいえ、分かっていただければけっこうでんがな」

「ところで、どういうお気持ちでこの大仕事をなされはった?」

「わては、ほんまに平蜘蛛が欲しかったんですのや。そのためには命も銭も惜しゅうはなかった」

「ほんまに、真の茶の道を求めるお人や」

「これからも精進していきたいと思うております」

「あんたにこそ平蜘蛛を使っていただきたい。これでよかった」

 わしも当然満足しておるぞ。

「わてからは、ただでもらうことができはったけど、斎藤、織田のご両家に働きかけるのに銭をぎょうさん使ったんとちがいますか」

「それはもう、ぎょうさん要りました。しかし、後悔はしてまへん。織田の平手政秀どのという立派な御仁にも出会えました」

「あの方は忠義の士で、かつしたたかなお方ですな」

「そうでんな。織田家のことを心底考えていらっしゃいます」

「わてもそれを見込んで、茶釜を売ったことがございます」

「また、斎藤道三さまは大きなお方でした。美濃一国のことだけでなく、天下のことを考えておられます」

「うむ、そうじゃな」

「貯めていた銭をこれからは、あのお方に差し上げて手助けをしていきたいと考えております。あのような方が京に上って天下に旗印を立ててくだされば、万民は幸せになるでっしゃろ」

「それはええことや」

「これで銭の使い道が見つかりましたで」

「ところでそれはどうしまっか」

「はい?」

「平蜘蛛を橘屋としてお売りになられますのか」

「いや、これはわての宝物や。大事に大事に使わさせていただきます」

「そうでんな。それがようございますな」

 二人は、長い間笑い続けておった。

確かに、喜右衛門は命と多くの銭をかけて、たかが茶釜ひとつを手に入れた。しかし、その喜びようは今でも忘れられぬ。茶器ひとつに命をかけおって呆れ果てた男じゃ。

だがな、堺では喜右衛門はこれで男をあげたらしい。堺は商売だけでなく、茶道の盛んな町でもあったからのう。当代きっての数奇者橘屋喜右衛門と言われたとな。堺も妙な町じゃのう。

喜右衛門は、橘屋の大きな茶室にわしを持ち込み棚に大事そうに置いた。そして、手のひらを合わせて二回叩いて拝んでおった。どこぞの神さんにでもお参りしたんじゃろうかな。


ひと月後、堺の町衆に披露して自慢するときがやってきた。橘屋に、堺の主だった町衆を招いて茶会をすることになったのじゃ。

秋の涼しげな日差しが畳の上まで這入ってくる中で、金の襖絵や立てかけられた南蛮屏風を後ろにして、わしの中に水がゆっくりと入れられた。

そして熊野で取ってきた木で作った炭が、下で赤く燃え上がっている間、中の湯は、大小の丸い泡をあちこちに作りながら、人のつぶやきにも似た音を立てておった。釜の表面の蜘蛛が鮮やかに見えた。諏訪内多兵衛の自信作じゃからな。

吉野の山奥からとれた清水を沸かした湯、茶筅、茶碗、茶入、茶杓、水指、花入、香炉、点心、どれをとっても当代随一と言われたものを用意したようだが、わしがその中でも一番だったようじゃな。

堺の豪商今井宗久、津田宗及、春屋藤左衛門や、のちに千利休と呼ばれる茶人千宗易ら招かれた客人五人が、わしを見て、感嘆の声をあげておった。皆、自分で茶を立てるほどの心得のある人物ばかりじゃった。

皆、ほうと言って感心しておった。

特に、千宗易などは、

「これほどの茶釜は、朝鮮や沙室はおろか、唐にもござるまい」

と褒めたたえてな。まあ、天下一流の茶人までそう言うのも無理もなかろう。わしもそう思うておるからのう。わはははは。おい、自惚れではないぞ。

ただ、今井宗久は、

「この程度のもののために命と銭をかけるとは、気がふれたとちゃうか」

と言い、

「正気の沙汰ではないで」

と冷ややかな笑みでつぶやいておった。

そのために一時場が静まり、湯の煮え立つ音だけが聞こえておったが、春屋藤左衛門が、

「いやいや」

と口を開いた。

「茶の道を極めていくには、これくらいの覚悟がないとあかん」

と、きっぱり言いきった。

そして、

「喜右衛門の茶への思い、なかなか人には真似ができんことや」

 と喜右衛門を見つめて話した。

「宗久はんも、茶の道を始めて久しいそうやが、喜右衛門くらいの覚悟がありますかいな。どうやろか」

「なっ、なんやて」

「それに、平蜘蛛をこの程度のものと言わはるとは、よほどあんさんのお持ちの茶器に自信があるんでんな」

と言い返したので、今井宗久は返す言葉もなかった。結局は、橘屋喜右衛門の男一世一代の晴れ舞台じゃったな。


     五、豊後の大茶会


橘屋での茶会の七年後、喜右衛門の元に、豊後の大名大友義鎮から、書状が届いた。

義鎮いうたら、大内家の没落後、豊後の他にも、豊前、筑前、筑後、肥後を治めている大々名じゃ。

書状には、豊後の府内で大茶会を催すので、是非お越しいただきたい、その時には、平蜘蛛をご持参いただきたいと書いてあった。

わしの名が、遠国九州にまで届いておったとは!

しかし、大友の領地にはお抱えの博多商人がおる。博多商人と堺商人とは、大内家、細川家などを巻き込んで激しく対立しておった。それを踏まえて、商売仇の堺の大あきんど橘屋喜右衛門を呼ぶとは、理由はひとつしかないじゃろう。

「これは、平蜘蛛目当てに、わてを招くのやな」

喜右衛門は、苦笑いしておった。

わし目当てしかないやろう。どうするか、喜右衛門。

「旦那様、豊後は九州の遠い地でっせ。ご遠慮なされたほうがいいのでは」

手代の与平が口をはさむ。

「そうです。お父はんに何かあったら大変でっせ」

 とは息子の喜一郎である。

「なあに、この名器平蜘蛛を見てみたいという方がいらっしゃるのじゃ。どこへでも喜んで参るで」

「お父はん!」

「もう、わしは決めたで」

 茶の道を本気で極めようとする喜右衛門を止めることのできるものは、誰もおらんかった。

喜右衛門は、与平を一人供にして、わしを持って、豊後への旅に出た。喜一郎が、もっと大勢人をつけましょうとか、用心棒をつけましょうとか言ったのじゃが、喜右衛門は、身軽な旅の方が誰にも気づかれんでかえって安全やと言い張って、結局、与平一人になったのや。

わしも長旅は初めてじゃ。今までの一番長い旅というたら、京の山城屋から堺の橘屋までの移動程度じゃからな。しかも今度は海の上の旅もあるという。嬉しいやら、心配やらで、何か落ち着かんぞ。

 堺の港では、息子の喜一郎夫婦と番頭、千宗易、春屋藤左衛門ら大勢のものが見送りにきておった。

「喜一郎、あとはまかせたぞ。」

「はい、お父はん」

「わしに万が一何かあっても、番頭はんによく相談して諸事よくはからっていけや」

「はい、覚悟はしております。お体にお気をつけて」

「番頭はん、よろしゅう頼みまっせ」

「へい、承知しております」

「宗易殿、藤左、帰ってきたら、たくさんの土産物や話をもってきまっせ」

「それは、楽しみにしております。大友義鎮どのの人となり、九州の情勢、博多商人の動向などをお教えいただければありがたいで」

「喜右衛門、道中は特に気をつけてな」

「分かっておる、藤左」

「では、皆達者でな」

こうして、船は堺の港を出て、大坂湾へと繰り出した。

しばらくすると、左手にはっきりと、淡路島が見えてきた。大きなものやのう。近くで見るととても島には見えんぞ。まあ、あれで淡路というひとつの国を成しておるからのう。

「旦那さま、あれが淡路島でっせ、淡路島、淡路島」

「ほんとうに、与平はうるさいのう」

「わて、淡路島初めて見ますさかい」

「そうか、初めてか」

「この機会にくっきりと目に焼き付けておかんといかんなと、思うとりますのや」

与平は、五十過ぎの大番頭と違い年は二十そこそこである。相変わらず淡路島を眺め続けておる。

喜右衛門は、こいつを店の大勢の働いている者の中から一人供に選んだというが、あまりしっかりしてないように見えるぞ。どこに目をつけて喜右衛門は選んだのじゃ。わしの身になってみい。心配になってきたぞ。

「面白いお方ですのう」

そこには、一人の僧がいた。袈裟をかけている色白のやや痩せぎすの男だった。年は与平とかわらないくらいに見えた。同じ年ごろでも、こうも落ち着きが違うもんやのう。与平も見習え。

まあ、茶釜もひとつとして同じものがないように、人間も同じような者はおらんということじゃな。

まなこは大きかったが穏やかな微笑をたたえておった。唇は紅色に近く婦女子のような面持ちとも言える。

「これは、お騒がせをいたしました」

「いえいえ、私は、京の東福寺の僧、順蔵主と申します」

「これはご丁寧に。わては堺の商人の橘屋喜右衛門で、これは番頭の与平と申します」

「私は、安芸が故郷でして、そちらに用があるので久しぶりに戻るところです。失礼ですが、あなた様方は、どちらに行かれますか」

「わてらは、豊後の府内に知人を訪ねていく予定でございます」

「左様にございますか。遠路はるばるご苦労様でございます」

もう、淡路島は見えなくなった。これからは瀬戸内の海を西に進み、幾つかの港に寄り、周防沖の海に出て豊後の府内の港まで行く旅路じゃ。

「ところで、東福寺と言えば京の都でも名門中の名門ですな。多くの博学のお坊さまのいらっしゃるところとお聞きします。貴僧もいろいろ天下国家についてのご見識がおありでしょう」

「いやいや、拙僧はまだまだ勉学中の身にて未熟者でございます」

「いや、そのようにご謙遜されずとも、貴僧のご存知の今後の天下についての行方をお教えいただきたい」

「いえいえ、とんでもない」

「私も商いに役立てたいのでございます。是非ともお願いいたします」

「それでは、ささやかな知識ではありますが、お伝えいたしましょう」

「おお、ありがたい。お願いいたします」


順蔵主は、天下の諸大名について、述べはじめた。

「まずは、奥羽米沢の伊達晴宗さま、このお方は外交が上手で、近隣の大名と婚姻関係を結ばれておられる。したたかなお方なのですが、多くの大名と姻戚になられているので、攻められない代わりに攻めにくい。また先代のお父上の稙宗公と長い間お争いになって、一時期家中を二分しての戦をされていたので、国力が疲弊しております。先ず当分は、国内で力を蓄えるのが先決で勢力拡大は当分無理ですな」

「なるほど」

「関東に目を転じれば、北条氏康さまが勢力を急速に伸ばされておられます。上野の関東管領山内上杉さま、安房の里見さまなどの旧勢力が抵抗しておりますが、これらも氏康さまに制圧されるのは時間の問題でしょう。この方は、領民に慕われるまつりごとをなされます。戦も上手く、数で優勢な上杉などの連合軍を打ち破ったこともございます。されど、ここは関東をまとめあげることに専念しようとなさっているご様子。関東から外には当分出てこないと思われます」

「北条も侮りがたしですな」

「北の越後は、長尾景虎さまがいらっしゃる。この方の戦上手は、日の本ではかなう人は少ないと思われます。そして毘沙門天を厚く信仰なされております。また義に厚く、謀略に明け暮れる近頃の世ではめずらしい一本気のご領主さまでございます。ただ、悲しいことに雪国にお住まいの身、兵を動かす時期が短すぎるのが難点でございます」

「雪に閉ざされてはその間、兵は動かせませんからな」

「甲斐の国の武田晴信さまはなかなかの器量の持ち主でございます。戦上手だけでなく、智略もあり治政も行き届いております。先ず、天下を狙うことのできる中のお一人だと思われます。家臣の優秀さとまとまりようも日の本一と拙僧は思います。問題は山国甲斐や信濃を領地にされているので国が豊かではなく、海のある領地に一刻も早く出ることが肝要かと。しかし、海のある駿河の今川家と婚姻を結んでいるので、これが難しいところです」

「甲斐の武田さまでっか。よく覚えておきまひょ」

「駿河の今川さまは足利家のご一族で名門中の名門。また、豊かな駿河、遠江を領地とし、大兵を養っておられます。自ら一族間の家督争いを勝ちぬいたお方で、単なる名門育ちのお殿さまとは違います。智略、胆力並外れて優れており、足利将軍家の一門であり、京に近いこともあり、天下を次にとるお方はこの方ではないかとよく巷では言われております」

「京に地理的に近いことは、天下を取るには有利でございますからな」

「美濃を治める斎藤道三さまは、先主土岐頼芸公を追放し、勢力を広げておられます。あの方の智謀はそれは高く、天下広しと言えどもなかなか他の方のかなうところではないのです」

「そうでっしゃろ」

喜右衛門は、わがことのように喜んだ。

「しかし、多くの人を騙したり殺したりしすぎました。それで人望をなくしました。その報いが来るやもしれません。また、お世継ぎの義龍さまと折り合いが悪く、お家の安定もなかなかうまく言っておりません。」

「そうでっか……」

喜右衛門は、道三にあった時のことを思い出した。確かに眼光するどく、頭の回転も速く器量もあり天下を狙うことのできる人物だと思った。山城屋長兵衛もそう思っていたはずじゃ。

確かに、一家臣の身から大名にのし上がるまでに多くの者を殺めすぎた。また、追い出した土岐一族をはじめ、敵が多いのも気になる。

今は、織田という同盟相手がある分よくはなってきておるが、他の敵を早く叩き潰すか、和を結ぶことをしないと、喜右衛門たちの願いもかなえられなくなる。

その頼みの斉藤道三が今後倒れてしまっては困る。ここは、この僧のいうことが当たらないことを願うだけだと思った。いや、当たらないはずだと、喜右衛門は無理やり思い込んだ。

「京の幕府管領である細川晴元さまは、もう再び細川の天下をよび戻すことはできないでしょう。人を疑り深いし小心のきらいがあります」

「昔は細川家といえば、天下一の勢力やったのですがな。応仁の大乱の東軍の総大将は細川家のご当主やったのに、時代の移り変わりというものは凄まじいものがありまんな。それだけ世の中が変わったということでんな」

「それに対して、家臣の三好長慶さまは肝がすわっており、家臣の人望があついお方です。将軍さまも晴元さまもいずれこのお方に取って代わられるでしょう。お父上を小さい頃殺され大変苦労なさっております。苦労なさっている分慎重なお方ですが、決断力もあるお方です」

「なるほど、実力の世の中ですからな。家柄だけの細川と違い、この方も畿内にいることもあり、天下をとるのに近いお一人と思われますな」

「三好家の家臣で気になる方がおります。松永久秀という御仁で、下賎の身から、今や三好家の家宰にまで上り詰めているお方です。このお方も謀略に優れ数多くの人を殺め出世してきており、このままおとなしく三好家に従っているか気にかかるところです」

「松永久秀。なにやら怪しい動きするやもしれまへんな。わてらの堺と三好家の領地も近いので、十分に注意して見ていきたいと思います」

「四国は、同じような力の大名がお互いに争っております。ここから、大きな勢力が出るのは当分先でしょう」

「なるほど」

「中国は、今、大内家では陶さまが謀反をおこし、先君義隆さまをお討ちあそばされました。大内家と親戚関係にある大友家から義長さまを迎え、傀儡として操り国を保ってはいらっしゃいますが、多くの人心が離れていっております。出雲の尼子も晴久さまの代になってからは衰えた感があります。その中で油断のならないのが、安芸の毛利さまです」

「順蔵主どのの故郷の方でんな」

「そうです。このお方は、吉川、小早川家を養子縁組という形で乗っ取り、勢力を広げております。西国一の知恵者と拙僧は見ております。今は、大内家に臣従しているように装っていますが、力がついてきておりますからいつその牙をむき出しにして大内すなわち陶家に襲いかかるか分かりません」

「下克上の世の中ですから、力さえあればそれも大いにありうることでっせ」

「九州は、大友義鎮さまが圧倒的に力を得ています。しかし、名門育ちからか家臣を粗略に扱うことが多く人望がありません。家臣によく離反されているのが悩みのたねでございます。その間に、肥後の龍造寺隆信さま、薩摩の島津貴久さまが台頭してくるやもしれません」

「そうでっか」

 これから、その大友義鎮に会いにいこうというのに、そう言われると喜右衛門は多少気が滅入った。

「最後に」

「最後に?」

「尾張の織田信長さまは、先年お父上信秀さまを亡くされました。この方はお若いが、なかなかのお方でございます。何がすごいといったら、火縄銃を大量に購入したことです。また、身分を問わず能力のある者を抜擢し、重要な地位につけておられます。まだまだ尾張内で同じ織田の同族の敵と戦っておられます。しかし、あの方が近いうちに近隣の諸国を従え、一大勢力を築くことがあると私は確信しております」

喜右衛門は、信長が、同じ堺の今井宗久から、大量に火縄銃を買い付けていることは知っていた。自分が婚儀のきっかけに関わった織田信長が、成長するのはうれしくもあるが、道三の天下取りの邪魔になることを恐れた。

それに、今は尾張の中の小さな領地しか治めていない若造が、そのように大きな勢力になるだろうかと疑った。

「よいお話を聞かせてくださいました。大変勉強になりました」

「いやいや、いささか喋りすぎたようで、お恥ずかしい」

「とんでもない。おおいに商売のために役立つことと思います。おおきに」

「お役に立てれば、こちらもうれしいことです」

船は、東に昇ったばかりの日を帯びて、瀬戸内の因島に差し掛かろうとしていた。夜もあまり寝ないまま、順蔵主の話を聞いていたようじゃ。確かに話は面白かったが、周りの客の迷惑にならんかったかのう。まだ与平は寝ておった。

その時、後方に船の集団が見えた。船乗りが叫んだ。

「海賊だっ」

大小の安宅船が十数艘こちらに近づいてくる。こちらの船がまるで亀と見まがうように、あちらは速く速く漕いで来る。

「もう、逃げられへんっ」

こちらの船の船乗りは狂ったように喚き叫んでいる。

「囲まれてしもうた」

「もう、あかん」

この小さな小船を大小の安宅船が、前も後ろも右も左も全て取り囲んだ。小さな獲物を狙う野獣の群れのようにじゃ。

「あれは、因島村上水軍ですな」

順蔵主が落ち着き払った声で言った。

喜右衛門は、水軍というものを見たことがなかった。恐怖心は確かにあったが、そこは堺の大あきんど、好奇心で一度この目で見ておきたかった。どのような男たちが乗っているのだろうか。

もう、この小船は村上水軍の船にへりが接するほどくっつけられていた。安宅船からは、板がこの船のへりとの間に置かれ、海賊たちが大勢船に乗り込んできた。

「この船の船長はどいつじゃ」

太い眉の大柄な男が、いかめしい面をしながらしわ枯れた大声で叫ぶ。

「へ、へい。あ、あっしでございます」

船長は、おびえを抑えることができずに下を向いたまま、その大柄な海賊と話した。震えが止まらんようじゃ。

「通行銭をもらう!」

「へ、へい。ただいま、すぐに」

船長は船乗りに持って来いと叫んで、急いで銭箱を持ってこさせた。

船長が銭箱を手に取ると、手が震えて箱の中の銭の激しく擦れ合う音がする。中の板にも、銭が次々とぶつかる音がする。おーい、少しは落ち着かんかい。

「うむ、聞き分けがよいな」

男は銭箱の中から銭を受け取ると、周りを見回した。

「ん? おや、順蔵主さまではないですか」

いかつい顔の男は急に笑顔になった。

「吉充どの、お久しぶりですな」

 僧は、相変わらずの微笑を持って、落ち着いてこのいかめしい顔かたちの大男に向かっている。

「小早川家でご紹介いただいた折からですから、三年ぶりでしょうかのう」

喜右衛門が順蔵主に訊ねた。

「お知り合いでございますか」

「こちらは、因島村上水軍の頭領の村上吉充どのでございます」

「えっ、あのお方が、あの瀬戸内の海で大きな勢力を持っておる大水軍の頭領どのですか」

「なに、私が故郷の安芸で廃墟となった安国寺を復興しようとしておるのですよ。その時に毛利家の三男の小早川隆景さまとお会いしいろいろとお話をしまして、お付き合いをさせていただいております」

「その小早川家にわしがたまたま所用があり訪ねていったおりに、隆景さまから順蔵主さまをご紹介いただいたというわけじゃ」

「なるほど、そうでございましたか」

「こちらは、堺の商人の橘屋どのです」

「吉充でござる」

「よろしくお願いします」

 小早川家は水軍を持っている。それで近くの因島村上水軍ともつきあいがあるらしい。男は、久々のこの若い僧との出会いが相当に愉快だったらしい。笑顔が絶えなかった。

「私も仏門に入りながら、水軍の頭領と気が合うとは夢にも思わなんだ」

「それは、こちらも同じこと」

「それはそうですな」

「おお、どうですか。安芸に向かわれるなら、こちらの船でお守りしてお送りしましょうか」

「そうですな。久しぶりに吉充どのとゆっくりと話をしてみたいものですな」

「それはこちらも」

「それでは、よろしくお願いいたします」

順蔵主は船べりに近づいていった。

「橘屋どの、ここでお別れです。お話しできて楽しゅうございました。豊後までの旅のご無事を祈願しております」

「こちらこそ、ありがとうございます。安芸までのご道中お気をつけて」

「では、これにて」

「はい」

順蔵主は、村上吉充とともに安宅船に乗り、喜右衛門たちに別れを告げた。

この順蔵主こそ、のちに毛利家の外交僧となり織田との交渉を行い、織田信長の滅亡と豊臣秀吉の出世を予言し、秀吉の天下になると僧の身でありながら伊予六万石の大名となった安国寺恵瓊その人である。

船は安芸を過ぎ、周防沖の海に入っていった。

「あのお坊様は、えれえお人やったんでんなあ」

与平が感心したように言う。

「地位は高いかどうか分からへんが、若いのに人物はなかなかのもんや」

「そうでっか」

「そうでなければ、あのように天下国家のことを的確に分析して、論じることはできへんて」

しかし、順蔵主と別れてからの喜右衛門は憂鬱であった。かの者の人物評は的を得ているように思われる。もし、そうであれば、大友義鎮はともかく斎藤道三はどうなるのだろうか。あの者に心底惚れた。そして多額の銭の援助もした。これも日の本を安んずるのは、ひとり道三をおいていないと思ったからじゃ。

その道三が途中で倒れることになれば、自分も山城屋長兵衛も悔やんでも悔やみきれない。

いや、人の意見など必ず当たるとは限らんものと思いつつも、なかなか気が晴れない。喜右衛門の気鬱は豊後の府内の港に着くまで続いた。


府内は大きな街じゃった。堺ほどではないがのう。さすが、九州一の大名大友家の本拠地じゃ。街中にはなんと伴天連の神父もおったぞ。ここでは異国の教えの布教がかなり盛んらしいのう。

豊後の府内城に着いた喜右衛門一行は、早速当主大友義鎮の歓待を受けた。

「恐悦至極にございます。橘屋喜右衛門でございます」

「待っておったぞ。わしが義鎮である」

「ははっ」

義鎮は声が高く、頭上から音が聞こえてくるようで人を萎縮させる。眉も目も切れ長で、肌の色は白い。

喜右衛門が諸国の情報を伝えるとそれに対する質問が鋭い。この人物はかなり鋭い。しかし、その鋭さが人を萎縮させ安らかな気持ちにさせてくれず、疑心暗鬼に陥らせるのじゃろう。

このためか、離反する大名や家臣が後を絶たなかった。弘治元年(一五五五)には、筑前の筑紫広門、原田隆種、秋月文種らの大名が離反し、それらを討ち取りあるいは追放した。

また、永禄八年(一五六五)には、親族の立花城主の立花鑑載、翌永禄九年には、近臣の宝満城主の高橋鑑種が相次いで背いた。

噂だが、鑑種の謀反には、義鎮の女癖の悪さが起因しているとも言われておる。鑑種の兄嫁を奪い取り、その兄が切腹したそうじゃ。それに弟の鑑種が激怒して謀反を起こしたともいわれている。義鎮も懲りない御仁だったようじゃのう。

能力は高いのだが家臣からの人望がない。これが義鎮だった。大友家の隆盛をつくったのはこの人物の力によるものだったが、結局これが後に、人望のなさが原因で国を衰退させてしまう。

「堺から遠路はるばる、よう来てくれた」

「道中、大変なことはなかったか」

「因島村上水軍と出会いました」

「なに、それで危害は加えられんかったろうな」

「ええ、船長が通行銭を払っただけですみました」

「そちはわしの元に用があるとは言ったのか」

「いいえ」

「それがよかろう。奴らとは敵ではないが味方でもないからのう。用心に越したことはない」

「はい」

「わしの領地には博多があり、本来は堺商人は博多商人とは商売仇じゃ」

「はい、左様にございます」

「しかし、博多には平蜘蛛ほどの名器の茶釜はない」

「いえいえ、滅相もない」

「謙遜せずともよい。さればこそ、わしは堺の商人ということを承知でおぬしを呼んだのじゃ」

「実はな、博多の商人の島井宗室から、堺の大商人橘屋喜右衛門が天下に二つとない茶釜を持っていると聞いて、是非一度見てみたいと思ったのじゃ」

「はい、それでこのように持ってまいりました」

喜右衛門は、風呂敷をほどき中の木箱からわしを取り出した。

「おお、これが平蜘蛛か。素晴らしい。橘屋よ、遠路はるばる持ってきてくれて、礼を言うぞ」

「恐れ入ります」

「しかも、あの名匠諏訪内多兵衛の作というではないか」

「はい、そうでございます」

「多兵衛の茶釜は、なかなか手に入れることができんのじゃ」

「山城屋が簡単に売らないものですからな」

「そうなのじゃ。困ったものじゃ」

「はい、わても手に入れるのに、苦労しました」

「最初は譲ってもらうことを願おうかと思ったが、島井からその堺の商人は命よりも大事にしておると言われてな」

「はい」

「斎藤道三と織田信秀の同盟のことも聞いた」

「これは、これは、こちらにまでお話が来ておりましたか。いやお恥ずかしい」

「その話を聞いて、本当に命をかけて平蜘蛛を手に入れたのじゃと感服いたした。常人にできることではない」

「滅相もない」

「それで、ただこちらに持ってきてもらい、茶会で使うことが出来さえすればよいと考えたのじゃ」

「左様にございますか」

「それにわしは、家臣に無理強いばかりさせて人望を失っておるからのう、人に無理なことを望むのはやめようと反省したばかりじゃ。あっはっはっは」

 本当にこの男は反省しておるんじゃろうかのう。まあ、それは後の世の歴史で証明されることになるのじゃがな。


茶会は盛大に開かれた。そりゃあ、九州一の大々名の茶会じゃからな、各地の大名やその重臣、各地の大商人が招かれておった。その中で異形な人物がおった。

髷も眉も髭も全て銀のような白髪で、日に焼けた顔の上に高い鼻、左の眼より右の目が異常に大きい容貌の持ち主じゃった。唇は上につり上がり、何か自信に満ち満ちた顔相じゃとわしは思った。

与平は、やたらこの人物を気にした。

「ひゃー、異様な顔のお方でんな」

「これっ、失礼であろう。滅多なことを申すではないで」

「そやけど気になりまっせ」

しかし、喜右衛門もなぜか気にせずにはいられなかった。喜右衛門たちの接待役だった田原元兵衛にその者の名を尋ねた。

「ああ、あのお方は、松永弾正少弼久秀どのでござる」

「ああ、あのお方が松永さまでっか」

「はい、畿内の三好家のご名代として来られております。三好家も、四国と畿内で大きな勢力を持っておりますからな。念のため懇意にしておかないといけませんでな」

喜右衛門は、瀬戸内の船旅の中での順蔵主の話を思い出した。

(一人、三好家の家臣で気になるものがおります。松永久秀という御仁で、下賎の身から、今や三好家の家宰にまで上り詰めているお方です。このお方も、謀略に優れ数多くの人を殺め出世してきており、このままおとなしく三好家に従っているか気にかかるところです)

なぜか、道三と重なりあうところもある。多くの人を騙し殺してきている点だ。しかし、道三には理想や信念があった。順蔵主の話や堺で噂になっている話では、どうやらそのようなものはないようじゃ。欲が高く冷酷な人物という。

茶会が始まった。水は日田の山奥を流れている筑後川の源流でとれた清水を使っておった。その水がわしの中に入れられた。

炭も同じく日田の山奥で切り取った木を使っておる。その炭にが火がつけられ赤くなった。

さあ、水が音を立てだしたぞ。最初は小さくだんだんと大きな音を立てるに従って、泡も小さくなり数も多くなった。

わしの蜘蛛も輝いているように感じられる。人々はやはり感嘆の声をあげておったぞ。はるばる堺から赴いた甲斐があったというものじゃ。どうじゃ、皆もっと見ろ、もっと見ろ!

大友義鎮なども、わしを呼んで面目をほどこしたのであろう。満足そうにうなずいておった。そこには、いつもの鋭さから来る厭らしさはなかった。わしは、やつをも穏やかにさせたのじゃ!

その中で一人、目を血眼にしてわしを睨みつけておった者がおった。先ほどの松永久秀じゃ。

他の皆と違い、感嘆の声を出さず静かにわしを睨みつけ、そしてしばらくすると口の左側から唾液の泡を出し喜色を浮かべてきおった。湯が沸き終わるまで、ずっとこの調子じゃった。な、なぜじゃ。

豊後の大茶会は大成功に終わった。しかし、久秀という者が気になる。やつは、なにゆえあのような目をしておったのじゃ。なにゆえ喜色を浮かべたのじゃ。、何だか妙な胸騒ぎがするぞ。一体何なのじゃ。


茶会が終わったその日のことじゃった。喜右衛門と与平は、義鎮から与えられた館でゆっくりと休んでおった。茶会も、喜右衛門にとっては武士にとっての戦と同じで、勝負をかけたものであった。それが大成功に終わりほっとしていた。

そこへ、田原元兵衛の家臣がやってきた。喜右衛門に是非会いたいと言う客人が来ているという。誰かと尋ねると、三好家の松永久秀殿本人だという。

喜右衛門の顔が曇った。この男も、久秀の茶会での凄まじいまでの形相を見ておったのじゃ。何の用で夜遅くやって来たのか、喜右衛門には分からなかった。

断る理由はない。上がってもらうことにした。

久秀は、茶会の時と違い笑みを浮かべておった。しかし、無表情な能面がまた笑顔の面をかぶっているような、そんな冷たい印象をわしらは受けた。

「夜分遅く疲れておるところを邪魔をしてすまぬな。わしが松永久秀や」

「わては橘屋喜右衛門と申します」

「今日は見事な茶会であったで」

「そうでございますな。大友さまもご満足のことでしょう」

「わしも満足であったで」

 久秀は、その作り笑いをますます作っていっている感じがした。

「そうでございますか」

「その平蜘蛛に出会えたからや」

「平蜘蛛にでっか」

「わしは、今日の茶会で平蜘蛛の美しさに惹かれた」

「滅相もない」

「いやいや、まるで天の空を蜘蛛が動いているようやった」

「そうでっか」

「こんな茶釜は日の本中探しても見当たらん。わしは、わしは、平蜘蛛にたいして狂おしい気持をいだいてしもうたんや」

「そこまで褒めていただき、ありがとうございます」

「そこでじゃ」

「はい」

「おぬしの平蜘蛛がほしい」

「えっ?」

喜右衛門は訪問客の意外な言葉に驚いた。そして、あの茶会での松永久秀の異様な形相にも合点がいった。

「あいや、おぬしの言い値で買おうというのや。どんな値でもかまわへん」

喜右衛門はじっと久秀の目を見つめていた。

「頼む、是非是非譲ってくれ」

喜右衛門は、相変わらず久秀の目を見つめながらも、唇に微笑を含んで言った。

「これは、お売りするもんではありまへん」

このひとことで久秀は一切を了解した。

「そうか」

 久秀は立ち上がりながら言った。

「残念やな」

久秀は目を怒らせていた。喜右衛門の決心をよく理解したのじゃ。そして、自分に歯向かうこの男の存在を自分の中で段々大きくしていった。

「まあ、騒がせたな」

久秀は去っていった。喜右衛門の後ろでは、与平が口から泡を出しながら慌てふためいている。

「だ、旦那さま、あれは尋常な人間ではありまへんで。後が怖いで。あー、どないしよう、どないしよう」

しかし、喜右衛門は落ち着いていた。飲みかけていた茶をゆっくりとすすり終わると、こう言った。

「与平、何をしておる。客人がお帰りじゃ。お送りせい」


     六、狙うもの


豊後から帰ってきてから、喜右衛門はずっと考えに耽っておった。息子の喜一郎たちが訊ねても何も答えない。皆、どうしたものか、豊後で何かあったのかと、心配しておった。

与平は黙っていた。あの松永久秀のことは与平も心配だったのだが、喜右衛門からその話は二度とするな、他の者に話すなときつく言われていたからじゃった。

ある日、与平は恐る恐る喜右衛門のそばへ近づいていった。

「だ、旦那さま」

喜右衛門は、店の中の土間に入ってきた西日をじっと見つめていた。

「旦那さま」

「なんや」

「へ、へい」

「わてに、用があるのならはよう言わんかい」

「へい、あのう、そのう」

「だから、なんじゃ」

「あー、そのう」

「うーん、じれったいやっちゃなあ」

 与平は大きく息を吸い込み、それを外に出して言った

「気分を晴らしに花見でもやりまへんか」

「花見?」

「へ、へい。今は桜が満開で、大和川の桜などは、それは色が際立って見事な美しさだそうでっせ」

「花見ねえ」

「へ、へい」

「花見かあ」

「へい、どうでっか」

「うーむ」

「へい?」

「いいやないか。いいぞ」

「そうでっか」

「平蜘蛛を使って桜の下で大茶会をやるのや。そうや茶会や」

「そうでっせ、大茶会でっせ」

「与平、やろうやないか。近隣の皆さん大勢お呼びするのや。これは楽しみやな」

「へ、へい!」

与平は、いつもの喜右衛門に戻ったのが何よりも嬉しかった。これよりこの手代は、花見の準備に追われつつも楽しそうであった。心より嬉しいのであった。


花見は、堺より少し離れた大和川のほとりの桜の木々の下で行われた。河原は桜色で覆われていた。そしてそれが川沿いに連なっていた。

桜の花は、春の生命力を感じさせる匂いがした。河原の土の上に落ちた桜の花びら、それにも命が宿っている、そんな感じがしたのである。

 今回は千宗易が茶を点てた。喜右衛門たっての希望じゃ。堺を代表する茶人が、見事な美しさのこの桜の下で茶を点てるのが、ふさわしいと考えてのことじゃった。宗易もそれにこたえ見事な茶を点てた。

 そして、わしで沸かした湯で客人たちに茶をふるまっておった。この茶会は無礼講で、誰でも参加してよいことになっておる。

 一人の十歳くらいになろうかと思われる子供がやって来た。

「おじさん、茶飲んでもいい?」

「ああ、いいで」

宗易は微笑を浮かべて答えた。

子供は少しずつ味わいながら飲んだ。

「小僧、どうや」

「うん、うまいや」

「茶が分かるんか」

「うん」

「そうか、そうか、大きくなったら茶の道の大家になれるやもしれんな」

「ほんま?」

「そうや」

「やったあ。千先生から褒められたで」

子供は、喜びの声をあげながら向こうに待つ父母の元に走って行った。

「宗易さん、わしも茶をいただいてええでっか」

老人が近寄って来た。

「これは大下のご隠居、どうぞどうぞ」

「では、いただきます」

「いかがでっか」

「宗易さんの茶をこうしていただけるとは、嬉しいでんな」

「私も、喜んでいただければ点て甲斐があります」

「先生、わても」

「千さん、私も」

「わてこそ、今日のような日を楽しみにしておったんや」

「皆さん、押さないで、押さないで。皆さんに残らず茶を差し上げますから」

「へい」

「分かりました」

「では、順番に並んでいてくだはれ」

喜右衛門もこの光景を見て笑っていた。

「千先生、大人気やな」

 喜右衛門は、老若男女問わず茶の道に参加して楽しんでくれることが、こんなにも喜ばしいものとは思ってもみなかった。今まで、茶会は堺の限られた人間たちの中で行われていたが、茶とは多くの人のものだということを悟った。

「与平」

「へい」

「おおきに」

「なんでっか」

「茶会や。この茶会を開いてくれたことや、おおきに。感謝するで」

「旦那さま、滅相もない」

「茶会というのは、豊後の大茶会のように高貴な身分の方だけでするもんやないんや」

「そうでっか」

「こうして、老若男女の皆さんと一緒に茶を楽しむ、これが本当の茶会やとわしは分かった」

「へい、そうでんな」

「それに気づかせてくれた与平に、礼がいいたいのや」

「そんな、旦那さま」

 与平は心の底から嬉しかった。

その時、河原に座っている人ごみの中から、ゆっくりと、わしに近づいてきたものがおった。周りの喜右衛門、与平や、宗易は、談笑していて気づかなかった。

近づいてきた男は、濡れた布でわしをかかえた。まだ、わしが熱かったからじゃろう。そして、手に取ると、急に早足で人ごみの中を駆け出した。

「あっ、平蜘蛛が」

与平が大声で叫んだ。しかし、もうその時には、その男は、人ごみの中を押し分けて、抜け出していた。花見を楽しんでいた人の持ってきた弁当のいくつかは、男から蹴倒され、無残なありさまとなっていた。

与平は懸命に追っていった。喜右衛門や千宗易も走った。だが、男の足は速く、どんどん離されるばかりじゃった。

そんな中、喜右衛門たちを追い越して、男を追いかけていった者がおる。当時、橘屋に居候していて、用心棒になっていた井川新三郎である。

新三郎は、年は三十前だが、戦の経験は多い。しかも足軽としての参加ばかりだったので、町人たちとは比較にならないほど、足は速かった。

「拙者におまかせを」

新三郎は、喜右衛門たちを追い抜くとき、こう言って、そのまま走り抜けていった。しかし、わしを抱えた男と新三郎の距離は、なかなか縮まらない。盗んだ男も、なかなかの足の持ち主じゃ。

男は、小刀を新三郎目がけて投げつけた。新三郎は、刀でそれを打ち払った。小刀は、新三郎の左へはねて落ちていった。

「待て、待たんか」

 なかなか縮まらない間に、新三郎は焦った。

 そして、走っている途中に、足元に見えた小石を拾い、男の頭に目がけて投げつけた。男は瞬時に右に移動し、それを避けた。

次に、新三郎は、刀を抜き、柄を握り、刃を男の方に向け、槍のように投げた。そして、刀は、男の駆けている足元に入り込んだ。後ろ足の右足と前足の左足の間に、ちょうど斜めに入り込み、両足で刀をはさむ形になった。

足が刀にひっかかり、男はよろめいた。そして刀に斬られ、足から血を出しながら、その場に倒れ込んだ。

しかし、この男は、わしを必死に抱き、倒れ込んでも、頭の上に持っていき、そのまま持って、地面に触れさせなかった。おかげでわしは、割れたり傷ついたりすることを免れた。

井川新三郎は、やっと男に追いつき、左足で腰を押さえ、両手をつかんだ。そして、指をあけさせ、わしを男から取り上げ、そっと側に置いた。

再び、男の両手を左手で押さえ、右手で、着物の中を物色した。何か得物をもっていないか調べたのじゃ。小袖の中から、小刀が三つほど出てきた。こいつは、只者ではない。

遅れて、喜右衛門や町の衆たちが大勢駆けつけてきた。

「おい、なぜ、この茶釜を盗もうとした」

男は黙っていた。

「おい、早く白状せい。せぬと痛い目にあうぞ」

「し、死んでも言わんわい」

 男は、はじめて声を出した。低く力強い響きの或る声だった。

「それならば、痛い目にあわせてやろう」

新三郎は、仰向けになっている男に馬乗りになり、男の顎の下を両手で掴むと、そのまま後ろに引っ張っていった。男はえびぞりの格好になった。そして、もっと後ろに引張っていった。これは痛そうじゃわい。しかし、男は音を上げなかった。

「早く言え、もっときつくなるぞ」

新三郎は、より後ろに男の上半身を引張っていった。

「ふ、ふん、言わぬわい」

 男は、口ごもりながら、答えた。

その時、手裏剣が飛んできた。それは、男の首の左横の筋に刺さった。その瞬間、男はこと切れた。

近くの竹やぶに、忍び装束の姿の者がいた。その忍びは、手裏剣が男に刺さるのを見届けると、すぐさま走り去った。

新三郎は、追いかけていったが、すぐに見失った。無念がったが、もう後のまつりじゃった。

しかし、一体何ものが、わしを狙ったのか。喜右衛門はよく分かっていた。その顔は、普段の豪胆な喜右衛門とは違い、青ざめていた。

相手は、欲しいもののためなら、手段も選ばない者なのじゃ。奴は、豊後の大茶会の時から、諦めていなかった。これから、そのような男と戦っていくことが、幾つもの修羅場をくぐって来た橘屋喜右衛門ですら、正直言って怖かった。


     七、後を継ぐもの


大和川での大茶会の二年後、橘屋喜右衛門は、病の床についておった。長年病にかからなかった喜右衛門も、寄る年月には勝てなかったようじゃ。

生来の赤ら顔が、床では真っ青になり、大きな顔が見る影もなく小さくしぼんでおった。張りのあった大きな耳も、大きさは変わらなかったが、皺くちゃの様相を呈していた。そして、太い眉毛と無精ひげも全くの白になってしもうた。

まわりでは、喜一郎ら家族が、最後の別れを告げるために集まっておった。そして家族以外で、ただ一人、呼ばれていたものがおった。喜右衛門にとって、幼なじみで親友の春屋藤左衛門じゃった。これは、喜右衛門が気が丈夫なときに呼んでおった。

喜右衛門は、息も絶え絶えの様子で、何か必死に言おうとしていた。

「と、藤左……」

「う、うむ、ここにおるぞ」

「と、藤左……」

喜右衛門の声は、今にも消え入りそうであったが、次の最後の言葉だけは、力を振り絞って言った。

「喜右衛門、な、なんや?」

「わ、わての平蜘蛛を受け継ぐものは……春屋藤左衛門しかおらん」

「わ、分かった。おう、分かったで」

「た、頼むぞ」

「おう」

「頼むぞ」

喜右衛門は、こう遺言をのこした。こうして春屋藤左衛門は、わしを受け取ることになった。

「喜右衛門、わてが平蜘蛛を必ず守るからな。絶対に守るからな」

藤左衛門は、喜右衛門の左手をしっかりと握りしめて、こう言った。喜右衛門は、その二日後に息をひき取った。享年六十三歳であった。

喜右衛門の亡くなった日、藤左衛門が橘屋を出ようとする時、出口の横に、与平が待ちかまえて立っていた。

「旦那さまから、言付かっていることがございます」

「なんや、それは」

「松永久秀には、気をつけよとのお話でした」

「松永?」

「へい」

「あの三好家で、権勢を誇っている松永弾正少弼久秀はんか」

「へい」

「なぜ、気をつけなければならんのや」

「松永はんが、平蜘蛛を狙っているのです」

「な、なんやて」

「豊後の大茶会の後に、もらいたいと、ご本人が直接言いにこられました」

「そうなんや」

「それで、豊後から戻ってこられてから、黙ったままにならはって」

「そうやったな、様子がおかしかったな」

「二年前の、大和川で、平蜘蛛が盗まれそうになった騒ぎも、どうやら松永はんの企みらしいと」

「わても、あれは、誰か只ならぬ者が狙っているとは、思っていたが」

「喜右衛門さまにとって、もう藤左衛門さましか、頼りになるお方はいらっしゃいまへん」

「よし、わかった。わても男や。そう見込まれたからには、死んでも、平蜘蛛は、松永などには渡さん。いや誰にも渡さん」

「そうでっか」

「そうや」

「辛いお役目を押し付けて、大変申し訳なく思っております」

「気にするな。わても茶の道に生きる者や。喜右衛門には到底かなわんが、真の茶の道を歩みたいと思うておる」

「よろしくお願い申し上げます」

「まかしておけ」

「へい」


春屋藤左衛門は、橘屋喜右衛門の遺言をよく守り、わしを大事に扱った。春屋で賓客をもてなしての茶会の時には、平蜘蛛で湯を沸かしたが、それは、堺の主だった町衆が相手の時くらいだった。

ある時、千宗易を招いて茶会を行った。

「橘屋はんが亡くなって、もう一年になりますか」

「はやいもんでんなあ」

「あの方の茶に対する真摯な姿勢は、まさに壮絶でした」

「そうでんなあ、豊後に平蜘蛛を持っていき、帰ってきた時などは、その旅から茶会までの話を聞き、この男の茶への取組みは、凄まじいもんやと思い、おおいに驚き、そして感服しました」

「そうでんな」

「わても、喜右衛門には及ばずとも、見習い、平蜘蛛を守って、茶の道を極めていきたいと思います」

「それやそれ」

「はっ、なんどすか」

「よく注意することでっせ」

「なんと?」

「平蜘蛛を狙って、盗人が入ったり、お侍が狙ったりするかもしれへん」

「はい」

「そこは、命の方が大事でっせ。茶釜は戻ってきても、命は戻ってきまへん。よくよく注意することでんな」

「いや、喜右衛門との約束がありますから、死んでも、平蜘蛛を守ります」

「命の方が大事でっせ」

「男と男の約束でっから」

「頑なやな、藤左衛門はんも。心配でっせ」

「喜右衛門との約束が、大事でっから」

「わても、大和川での花見の騒ぎの時、おったから、余計そう思いますのや」

「なになに、大丈夫」

 千宗易は、もう黙っているしかなかった。


ある夜、わしをこっそり見に来たものたちがおった。藤左衛門の娘のお幸とお綾じゃった。二人とも、普段父が見せてくれない宝物がいったいどんなものだろうか、興味津々でやってきおった。

「お姉さま、お父はんに見つかるで」

「大丈夫、もう寝ていらっしゃるわよ」

「そおっと、いこうよ」

「そおっとやね」

「何度も、見せてとお願いしても、見せてくれへんやから、お父はんは、けちや」

「そうや、どけちや」

「さあ、そおっとや」

「そおっと」

あぶないのう。見ちゃおれんわい。

二人は、障子をゆっくりと開けて、入ってきた。姉がお幸で、妹がお綾じゃった。障子を閉めると、茶室の中は、真っ暗になってしまう。

やむなく、二人は障子を半畳の幅くらい開けておき、月の明かりを頼りに、茶室の中を探し回った。

二人とも、いくつかの戸棚を開けてみたが、なかなかわしを見つけることはできなかった。

「これは、お茶碗だから、違うわね」

「こっちは、お茶っ葉を入れる器のようや」

「これは、お花を入れるものやわ」

「なかなか見つからんわ」

 二人は、相変わらず、暗闇の茶室の中をうろついておった。

「なかなか、見つからんわ」

「うーん、どこにあるんやろう」

「あっ、きっとこれや」

とうとう見つかった。

「なんや、枇杷の色と同じね」

「きゃー、これなんや? くもが張り付いている。気味わるいで」

 余計なお世話じゃ。

「それが、天下一の茶釜のあかしだそうや」

「ほんまかいな」

 二人は、気味悪がりながらも、蜘蛛の絵を撫でながら見ていた。

「お父はんから来たんやけど、この茶釜を作っているときに、黒い蜘蛛が煙突から出てきて、這い回っていたそうやで」

「なんや、こわーい」

「不思議な話や」

「やっぱり、こわいで」

そう、言いながらも、まだ興味深そうにわしを見ておる。これ、照れるじゃろ。

「こら、ここで何をやっておる」

 後ろには、藤左衛門が立っておった。

「あっ、お父はん」

「これは、勝手に見てはいけへんと、何度もいったやろ」

「は、はい」

「知ってて、きたんか」

「は、はい、申し訳ありまへん」

「そんなに見たかったんか」

「は、はい

「困ったもんやのう」」

 お幸もお綾も黙っていた。

しばらくのあいだ、親子の中で、沈黙が続いた。

「よし、これで湯を沸かして、茶を飲ませてやる」

「えっ、ほんま?」

「ただし、一回きりやぞ」

「うん」

「それに茶の味はわからへんと思うが」

「お父様、ありがとう」

それから、炭に火がつけられ、わしの蜘蛛が這い回り、湯が沸いてきた。二人の娘は、その蜘蛛の動きを見て、感嘆の声を何度も何度もあげておった。そして、沸いた湯で茶を藤左衛門が点てた。

二人は、一息に飲んでしもうた。

「あっ、そんなに急に飲むもんやあらへん」

「にがー。まずいわ」

そりゃ、そうやろ。こどもには早すぎる。


     八、信貴山の悪魔


一方、時代は大きく動いていった。あの美濃の斎藤道三は、こともあろうに、息子義龍に反逆され、あっけなく滅ぼされてしもうた。

義龍が、実は追い出した主君土岐頼芸の子供だということが噂として広まり、親子の仲が悪化したのが原因じゃ。

道三がまだ頼芸の家臣だったころ、頼芸の愛妾深芳野を褒美にいただいてから、すぐに義龍が生まれた。それで、義龍は道三の実の子ではなく、頼芸の子ではないかとの噂が出たのじゃ。

父道三も義龍を嫌い、一度は譲った家督を無理やり奪い、次男に継がせようとしたのが、戦の発端となった。

道三は、義龍の器量を見くびっておったが、義龍の元に大勢の軍勢が集まった。たいせいは決まった。

道三は、敵勢の一糸乱れぬ布陣を見て、息子に後を継ぐに足る器量があることに満足し、その波乱に満ちた人生を閉じた。信長と帰蝶姫の婚儀から七年後のことじゃった。

織田の方は、信秀が亡くなったあと、あのうつけと言われておった信長が、一族との争いに打ち勝ち、尾張を統一した。そして永禄三年(一五六○)に、桶狭間の戦いで強大な軍を率いてきた今川義元を討った。

その後は、道三亡きあとの美濃をも征服し、美濃の稲葉山城の名を改めた岐阜城を本拠に定め、勢力を急速にのばしていった。人の世とは分からんものじゃな。

堺を治める代官も変わった。堺から細川の勢力を追い出し、三好がやってきた。堺はもともと自治都市じゃったので、いままでは代官といっても、名目上のものだった。

新しい代官は、あの豊後で喜右衛門が会った松永弾正少弼久秀だった。

やつは主君三好長慶から大和国を任せられており、そこの信貴山城を根拠地としておった。

若い頃は将軍のお庭番として忍びの世界に行き、数々の謀略をおこなってきたとの噂がある。

その後、三好長慶の家臣となり、得意の謀略で数々の手柄を立ておった。長慶が将軍や細川を打ち破ることができたのも、久秀の力によるところが多かった。邪魔者を次々に消していったのじゃ。

今や畿内は、三好の天下じゃった。将軍足利と管領細川は飾り物に過ぎず、実権は三好長慶が握っておった。

それまでは、裏の世界に生きてきた久秀だが、表舞台に出てくるようになりおった。まず京都の警備と財政運営を任せられ、抜群の功績をあげた。

そして同じ任務についていた者をどさくさにまぎれて殺害し、京での利権を一人占めした。それで莫大な利益をあげ、味をしめたやつが、今度は堺にやってきてしまったのじゃ。

堺では、新しい代官を迎えるため、町衆が沿道に立っておった。道は入念に掃き清められていた。

久秀は、栗毛の馬に乗り、干し柿を噛みながらやってきた。後ろには、野武士と見まがうような荒くれ武者たちが三十騎ついてきた。

堺を代表して、春屋藤左衛門がお祝いのことばを述べた。

「春屋と申します。このたびは、堺の面倒を見ていただくことになり、祝着至極に存じます。これからもよろしゅうお願い申し上げます」

久秀は、藤左衛門を一瞥したなり、噛んでいた干し柿をまるで痰を吐くように、口から飛ばし、馬の足もとの掃き清められた地面にころがした。

「そちが、春屋か」

「はい」

「そうかあ」

「はい」

「そうなんやあ」

「は、はい」

「諏訪内多兵衛作のよい茶釜を持っておるそうやのう」

「はい、持っておりやす」

「橘屋喜右衛門から譲り受けたそうやのう」

「はい」

「わしも、茶器には目がなくてのう」

「は、はい、さようにございますか」

久秀は、眼を大きくあけ、口元に唾液の泡を出しながら、何も言わず藤左衛門を見つめていた。それが、しばらく続いた。

「むーん」

そう訳の分からない言葉を吐いて、口の中から次々と出てくる泡は、銀のあご髭をつたわり地面にしたたり落ちていった。どんどん落ちていった。

やつは口は笑っていたが、眼が何か虚ろな黒に覆われ、凝り固まっている感じがしたのじゃ。藤左衛門は、思わず、目を下にそらした。

「まあ、よい。わしのほうからじきに挨拶に来るわ」

そう言って、久秀は政庁に向かっていきおった。

その夜、久秀から藤左衛門のところに使いが来た。使いが渡した手紙には、こう書いてあった。

御身は、天下の名器平蜘蛛を持っておると聞く。それを譲ってくれまいか。値はいくらでもはずむ。是非是非考えていただきたい。

藤左衛門は、寒気がした。与平の言ったとおり、久秀は平蜘蛛を狙っていた。豊後の茶会の時から諦めずに狙っていたのじゃ。

藤左衛門には、喜右衛門の死の間際に交わした約束があった。絶対に、平蜘蛛を守る。誰の手にも渡さんとな。

藤左衛門は、久秀への丁重な断りの返書をしたため、使いに手渡した。

しばらくして、久秀の発令が行われた。なんたることじゃ、堺中の茶器、刀剣、絵画、名香などを高額で買い取るとのことである。それは高値での買い取りとはいえ、事実上の強制的な押収であった。

 久秀は、刀剣、絵画、茶器などの収集家で有名だったが、それは、豪商などの相手から無理やり奪い取ったものが多かった。京でもそのようにして、多くの天下の名器を集めておった。

この日のために、久秀は五千人の兵を堺に集めていた。春屋にも押収のため、兵が数十人やってきた。

藤左衛門は、平蜘蛛だけは勘弁してくれと突っぱねた。藤左衛門自ら兵の前に立ちはだかった。

「お願いでございます。その平蜘蛛だけは堪忍してくだはれっ」

しかし、兵士らは藤左衛門を押しのけた。

「うるさいっ」

あの野武士のようなやつらは、茶室の畳の上を土足で踏みたおし、茶壷、茶入、刀剣や絵画などとともにわしを連れ去った。そして、松永軍の手に渡ってしもうた。

藤左衛門と別れるのは、とても辛かった。しかし、逃げることも、泣くことも、怒ることもできん。

このときほど、自分が情けないことはなかった。いくら天下の名器じゃと言われても、自分では何もできんのじゃから。

藤左衛門も無念じゃったろう。親友の橘屋喜右衛門との約束を守ることができなかったからじゃ。

地面に倒れ、下を見つめる藤左衛門を町の角で、ほくそえんで見つめていた男がいた。松永久秀だった。

また、口から泡を出し続けながら、今度は大声で喚きながら、笑っておった。

「平蜘蛛は、わしのもんやなあ」

高笑いをしながら、久秀は去っていった。


わしは大和の信貴山城に連れていかれた。そして久秀の茶室に置かれた。それはすべてが金箔で覆われた黄金の茶室であった。

戸棚も、襖も、屏風も全て金色だった。この世のものとは思えんようじゃった。久秀は、わしを絹の布で何度も磨いておった。そして蜘蛛の部分をうれしそうになぞっておった。

「平蜘蛛は、わしのもんや、わしのもんや。もう誰にも渡さへんで」

そして、久秀はまるでわしに語りかけるように、自分の生い立ちを話しはじめた。山城の貧しい村の生まれだった久秀は、幼い頃に両親を亡くした。目の前で、足軽たちに殺されたのだ。

それまでは、父母と仲良く暮らす一家じゃった。久秀は、よく晴れた日に、父母の農作業を手伝っておった。その日も農作業を終え、夕食をなかよく家族で食べていた。

そこへ、雑兵たちが突然入ってきた。母は、四、五人の雑兵たちに、あっという間に、捕まえられ、輪姦された。

最初震えて隅に隠れていた父は、突然我にかえったのか、それを止めようとした。しかし、足軽の刀で首をかっ斬られ、その首はむなしくかかとで蹴飛ばされた。その首の転がっているさまを見た母は、悲鳴をあげて抵抗した。

もてあましたのか、もう用が済んだと思ったのか、一人の足軽が、母を槍でひと突きで殺した。

このような悲惨な光景を部屋の片隅で震えながら見ていた久秀は、幼い頃から自分の力で、生きていかなくてはならなかった。

まず盗みで生計を立てた。目ぼしい留守中の農家や畑に忍び込んでは、ひえ、粟やだいこんなどを盗み取った。すばしっこいので、捕まることはなかった。

その中で、自分ひとりしか頼ることができない、自分ひとりしか信じられないという気持ちをいだくようになったようじゃ。

それから野盗の仲間に入り、そこで人を殺すという体験を初めてした。それも慣れていく。まるで野菜でも切るかのような感覚になっていく。

ある日の夜だった。野盗一味は、ある村を襲った。そこはわりかし裕福な村だった。そして村人を殺戮していき、目ぼしい武具、金銀、米、野菜などを奪い取り、若い女をつぎつぎと連れ去っていった。

役人も、大名も、この乱れた世の中で、自分たちを守ることだけに汲々としていた。領民を守ることなど、考えていなかった。そこで、野盗連中は、暴れ放題だった。

久秀は、一つの家に入っていった。そこには、若い夫婦と兄妹の幼子がいた。夕飯を食っておる途中で、野盗に入り込まれたようじゃった。

四人とも部屋の片隅に寄り添って、恐れおののき震えていた。父親が皆を抱いて、久秀の様子をうかがっていた。嫁は、頬を土で汚してはいるが、凛とした瞳の持ち主だった。

「上玉や」

久秀は、よい獲物を見つけた狼のように、雄叫びをあげた。そして、その嫁を無理やり引っ張り出した。女は抵抗した。夫も飛びかかってきたが、足で蹴り倒した。夫は部屋の柱に頭を打ち、気絶した。

久秀は、女の檜皮色の着物を剥ぎ取り、全裸にした。そして仰向けにして、両手を上にあげさせ、それを久秀の左手で押さえつけた。

そして甲冑を脱ぎ、自分のものを女の体内に挿し込み、悦楽に及んだ。

その時、横から気を取り戻した夫が怒り狂い、右から走り寄り、鍬を持って久秀の頭の上に振り上げようとしたが、久秀は無言で右手で刀を抜き、水平に振ったかと思うと、夫の首は天井に飛び、ぶつかって落ちた。

頭をなくしたその胴体からは、血が雨のように降り注いでいた。その血は、久秀にも、嫁にも降りかかった。

久秀はそれでも慌てず、行為を繰り返していた。血が顔にかかった嫁はそれを見て逆上したが、左手で両手を押さえられ、手も足も出なかった。ただ、泣き喚くばかりじゃった。女には、久秀に唾を吐きかける勇気はなかった。

久秀は、無言で腰の動きを繰り返していた。そして行為が終わると、久秀は、その女を抱き起こした。

しかし、いきなり後ろから首を刀で叩っ斬り、地面に落ちた首を夫の首の転がっているところまで、軽く蹴飛ばしおった。女の首はゆっくりと転がっていった。二人の首は目を開けたまま、哀れにも並んでおった。

「夫婦そろって冥土に行けや」

残っていた二人の幼子の兄妹を見ていると、小さいころの自分を思い出した。二人で抱き合って泣き震えている様子をじっと見ていた。同じ夕食の時だった。久秀は、自分の父母が殺された時のことを思い出した。

自分も同じような目にあったのだ。しかし、それに対する罪悪感や後ろめたい気持ちはなかった。

この世とは、こうしたものだ。こういうことが繰り返されていくのだ。久秀は自分自身を納得させて、その家を出た。

その後も、野盗連中の中で悪事を重ねていったが、ある縁で、将軍家のお庭番に入り込むことができた。

といっても、時の将軍足利義晴は、流浪の身で近江の朽木谷に落ち延びておった。よって、たいした家来も持っておらんかったから、氏素性の知れん者でも、ご家中に勤めることは容易じゃった。そこで、久秀は抜群の功績を挙げた。

野盗時代からの研ぎ澄まされた感覚と度胸が、役に立ったのじゃろう。将軍家を追い出した細川家の様子を逐一、将軍家の重臣に報告し、場合によっては、敵と思われる武将を暗殺することもあった。

このような活動の中で、久秀は一人の人物の陣中の様子を探ることを命じられた。それは、三好家の主君長慶であった。

そのころ、長慶は、細川家の守護代を務めていたが、次第に主家をしのぐ力をつけ、主である細川晴元としばしば衝突し、戦と和睦を繰り返していた。

久秀は陣幕の裏から気づかれぬように長慶を見た。長慶は、誰かに出す書簡を書いておるようじゃった。

まだ二十にも満たない若者であったが、その落ち着き、目の鋭さは、足利将軍、管領の細川晴元など、今まで見てきた者たちとは比較にならないほどの威厳と気品に包まれていた。

この時、久秀は長慶に仕えることに決めた。落ちぶれた足利家に見切りをつけ、鞍替えしたのだ。この長慶についていくなら、自分の人生も開けていくかもしれんと考えた。

そして、その後は、得意の諜報活動で、長慶を助けていく。最初は身分の低い間者としてだったが、数々の功により、出世していく。この乱世では実力のあるものが必要とされた。三好家でも実力のあるものは、出世できた。

久秀は、それをひと通り話したあと、わしを撫でながら自慢げに言った。

「どうや、なかなか他の者が、簡単に歩めるような人生やあらへんやろう。そこがわしの強みやて」

しかし、わしは思った。そのおぞましい、寂しい、悲しい人生、ちっとも羨ましくはない。かえって久秀のことを哀れに思うようになった。

人を信じることが出来んのか。人を愛することが出来んのか。人とともに生きていくことが出来んのか。

それから、その茶室で久秀の数々の陰謀を見ていった。まず三好長慶の嫡男の義興を毒殺する計画を練っておった。義興の料理人と毒見役を買収し、少量の毒を毎日盛っていった。

その毒は、この茶室でやつ自らが調合しておった。暗闇の中で、灯をともし、その暗闇に浮かんだ顔には喜色を浮かべておったぞ。その恐ろしい狂喜に満ちた顔は今でも忘れられん。

なぜ嬉しいのじゃ。人の命を弄びおって! 義興は、三ヵ月後に急に倒れ、しばらく臥せっておったが、そのまま亡くなった。

そして、期待をかけていた嫡男の死に衝撃を受けた長慶は、元々の気宇壮大さは消え、政務もおろそかになり、虚ろな顔が目立つようになった。久秀がはじめて見た時の長慶とは別人のような顔になってしもうた。

そして久秀は、義興のときと同じように毒を少しずつ長慶に盛っていった。毒のせいで病がちになった長慶は、神経症がひどくなり、疑心暗鬼に陥ってしまいおった。もう元の長慶には戻れなくなってしまった。

久秀は、今度は目の上のたんこぶを消そうとした。長慶の弟で、武勇抜群で人望のあつい安宅冬康が邪魔だった。やつを抹殺するために、次の策をねった。精神に異常をきたした長慶に、たびたび冬康が謀反をたくらんでいるとささやき続けた。

最初は取り合わなかった長慶だが、自分の病状がひどくなり、判断力が鈍り、ついにそれを信じてしまった。すぐに冬康は長慶の城におびき寄せられ、討たれたのじゃ。

長慶は、大事な片腕となる者を自らの手で葬ってしもうた。そして、しばらくして長慶も毒が効いてきて、この世を去った。

もう三好家で久秀にかなうものはいなくなった。久秀は、幼少の三好家跡取り義継を操り、京を中心とした畿内の国々をわがものとした。そして権益を独り占めした。


久しぶりで、藤左衛門を見た。久秀の黄金の茶室に招かれたのじゃ。久秀は言った。天下も落ち着き、わしも考え直した。これからは堺衆ひいては、その代表である春屋どのに助力を求めていかねばならん、そやさかい、平蜘蛛を返そうと思うとる、とな

藤左衛門は喜んだ。わしも同じじゃ。ふたたび藤左衛門のもとに戻れる日が来ようとは、夢にも思わなんだ。正直もうあきらめておったんじゃ。

久秀は、返す記念に、この平蜘蛛で沸かした湯で茶をたてて、橘屋どのをもてなしてしんぜようと言った。藤左衛門は喜んで受けた。

再び、蜘蛛が這いまわっておった。這いまわれば這いまわるほど、信貴山から取れた清水が湯となり、念仏を唱えだす。

ほどよいところで、釜の下で赤い光を放っておった炭たちに灰がかけられた。茶室には物音ひとつしなくなった。

そして亭主である久秀は、茶筅を回し、茶碗に音をかき立てる。それから、わしの中でできたお湯で茶をたてようとした。

それまで藤左衛門に対座しておった亭主は、お湯を入れようとするときに、袖からなにやら粉を茶碗に振りかけた。それは、三好長慶、義興らの命を奪い取った忌まわしい毒じゃった。

なんたることじゃ。藤左衛門、それを飲むでない、飲むでない。叫ぶこともできんのか……おのれぇ、久秀め、許さんぞ、許さんぞ。

その時の毒は、長慶たちのときより強い調合がされていたのじゃ。

藤左衛門は、信貴山城を出た時、ほっとしていた。反目していた松永久秀とも、これからは協調してやっていける。それから、あの平蜘蛛が戻ってくる。喜右衛門との約束を守ることができる。これからは万事うまくいく。そう考えると、心が自然に躍りだすのだった。

そう思いながら、城から出てまもなく、急に苦しくなった。なぜだか目眩がする。

藤左衛門は、籠から出て、道に倒れ込んだ。そして、吐き気をもよおし、口から大量の血を吐いた。

「なんたることや」

そして、しばらく苦しみ続けた。

「き、喜右衛門、す、すまん」

 そのまま、道の土に手をついて、仰向けになったまま息絶えたのじゃ、ああ……

春屋は、今井宗久が乗っ取った。藤左衛門の幼い二人の娘、お幸とお綾は、女衒に売られていった。

宗久は、久秀と結託し、自分が堺一の実力者になるために、邪魔者となる藤左衛門を消し去ることを久秀に頼んだのじゃ。久秀も、何かと反抗的な藤左衛門より、協力的な宗久をえらんだ。

久秀は、茶会が終わり、籠に乗った藤左衛門が城門から出て行くのを天守閣から見ると、手をたたき、飛び上がり、喜びつづけたのじゃ。大声で、喚きつづけたのじゃ。非道の行いとはこのことじゃ。


九、 赤龍丸


その後の話じゃが、ある夏の夜、わしを盗みに来たものがおった。その男は、城門からは忍び込まなかった。

梟雄松永久秀さまの本拠の城ともなれば、警護は厳重じゃ。何人ものつわものどもが控え、数々の仕掛けがされている。

今までも、どこぞの忍びが何人も入ってきたが、二の丸に至るまでに、全て斬り殺されるか、捕縛されておる。

それに対して、天守閣のある雄岳は、信貴山城の一番奥にある。信貴山城の裏手からは近いのだが、これが簡単に人が登ることができるようなところではない。なにせ、崖の傾斜がほとんどない、垂直の絶壁なのじゃ。

それが高さ七町ほどもある。鍛え抜かれた将兵でも登るのは、まず無理じゃ。従って、信貴山城は、難攻不落の城として、その名が天下に広まっておった。その雄岳を麓から登り続けてきた男がいた。

左右一本ずつの五寸釘を使い、この山を少しずつ少しずつ上ってきた。疲れを知らぬように。雄岳の地面は固い。

しかし、前日、雨が降った。それで、土が少し軟らかくなった。男はその日を待っていたのじゃろう。

その土に、釘を刺し続けていくだけの体力と気力が、この男にはあった。左手でひとつ刺し、その上に、また右手でひとつ刺し、気の遠くなる作業じゃ。それを繰り返し繰り返し、やつはしていった。

釘は一度刺したくらいでは、土の中にはのめりこまない。刺した後、手首の力を使って何回か押さなければ、雄岳の地盤には食い込まない。そして、ぶらさがる男の体重にぐらつかいない強度も、なかなかついてはくれない。

男は、体は身軽じゃった。背丈も四尺くらいで、まるで子供と見まがうほどの小ささのようじゃった

男は、その作業を入念に繰り返していった。上衣も、ひきしまった袴も、全て、黒色に覆われていた。そして黒頭巾をかぶり、目だけが外に出ていた。これだけ見るとまるで忍びのようじゃのう。

男は途中で止まった。そして下を見た。

遥か彼方に麓はあったが、男は笑みをこぼしたままで、全く恐れていなかった。そして、また右と左の五寸釘を使い、ゆっくりと登っていった。

雄岳を登り終えたら、あとは簡単じゃった。城堀を越え、天守閣のそばまで来ることができた。信貴山の天守閣は小さい。二層作りじゃった。

黄金の茶室は、なんと天守閣の上層に作ってあったのじゃ。城主久秀のここが変わっているところじゃな。

男は、かぎ縄を三回振り回し、天守閣の屋根にかぎをひっかけた。瓦にひっかかる音がしたが、誰にも気づかれた様子はなかった。男は縄を引張り、かぎが屋根にきちんと引っかかったことを確認すると、縄を握り締め、ゆっくりと天守閣の壁を登っていく。

そして最上層にたどり着くと、しばらく伏せておった。何者も息づいている様子は見られなかった。男は安心して、障子を開け、すぐに静かに閉めた。そこには、まぎれもない黄金の茶室があった。金箔の天井、格子、襖、屏風がそこには見られた。屏風には金色の虎までもが描かれてあった。

男は、しばらく室内を呆然として見ておった。が、自分が何をしに来たかを思い出し、奥の戸棚、これも金色のものだが、その前に行き、棚を引いた。

男は、この茶室に来たことはなかったが、ある種の感覚で、自分の探しているものがどこにあるか分かっていて、全く迷わなかったようじゃ。

その中には、天下の名品と言われておる茶入、茶碗、茶壷とともに、わしが入れられておった。そして、他のものには目もくれず、わしを手に取った。

そして蜘蛛の部分をゆっくりなぞり、うっとりした心持ちになっておったようじゃ。そして、ふたたびわしを見つめつづけた。よほど、わしを手に入れたかったようじゃのう。

その時、障子が開けられ、茶室の中に、灯りを持った侍が五人、網を持った侍が五人いきなり入ってきた。

そして、再び障子を閉め、灯りで室内を照らし、棒を抜き出し、男を取り囲んだ。網を持ったやつらは急いでその網を男にかけた。男は身動きできず、棒でしたたかに何度も打ち据えられ、気を失った。


男は目が覚めた。目の前にいるのは、銀の髪の右の目が大きい男じゃった。久秀は、床机に腰を下ろし、男を見つめつづけていた。

「雨の日の翌日は、雄岳の土も、さすがに軟らかくなるでのう」

久秀は、ほくそえんでいた。

「その日は特に、警備をきびしくしとるんや。しかし、茶室に客人が来るとはのう、驚いたで」

久秀は、にやついて笑い、男に話しかけていった。縄で縛られたまま、男は頭巾をとられ、その顔を出していた。

歳は四十は越えておりそうで、肌は浅黒く、目は釣りあがり、狐のような顔相じゃった。

「お前、なぜ、この城に来たのや」

男は黙っていた

「お前、なぜ、この茶室に入ったのや」

男は、相変わらず話さない。

「お前、なぜ平蜘蛛を盗もうとした」

やはり、男は黙ったままじゃった。

「まあ、よい。何回聞き出しても、たいした答えは返ってきまい。あとはお前が死ぬだけや」

男はつぶやいた。

「盗みたかったからや」

「なに?」

「天下一の茶釜と言われる平蜘蛛を盗みたかったからや」

「何ゆえ、平蜘蛛がほしかったのや」

「ほしくはない。ただ、盗みたかっただけや」

「これは、異な事を言うやないか。ほしいから盗んだのと違うんか」

男は口元を緩ませ、久秀に対して、話の分からん阿呆を見るような目で見つめた。

「な、なんや、その目は」

「まだ分からへんのか」

「分からんわい」

「わしは盗みを稼業としておるものや」

「そうか」

「そして、盗みの道を極めようとしておる」

「なに?」

「天下一の盗人というあかしをたてるためには、天下一のものを盗まねばならぬではないか」

「お前は、今、天下一の盗人と思っておるのか」

「もちろん、そうや」

「ん?」

 久秀は、何か気づいたようで、床机から立ち上がった。

「お、お前はひょっとして、赤龍丸か」

「そうじゃ、京、堺で盗みを働かさせていただいておる赤龍丸や」

赤龍丸は、当時、京、堺を中心として一人で盗みを働き、誰も捕まえることのできなかった大盗賊じゃった。

久秀も、京都の警備を仰せつかっておったとき、翻弄され、散々に苦しめられた相手じゃ。

「自分は天下一の盗人じゃと豪語しておるのは、天下広しといえでも、赤龍丸くらいやからな」

「おう」

「それで、先ほど、お前が赤龍丸と分かったのやて」

「おう、そうか」

「こんなところで、お前にあうとはな。わしは、京で、お前をとうとう捕まえることができへんかった」

久秀は、いまいましそうにつぶやいた。

「あのときは、散々恥をかかされたもんや」

「わしは、あの時は、たいしたもんは盗んでおらんかった」

「嘘をつけ。豪商の家から金銀財宝をたんと盗んでいったではないか」

「しかし、がらくただらけで、天下に名をとどろかす品には巡り会えなんだ」

「天下に並びのない財宝や金銀が、がらくた扱いか。盗まれたほうは難儀やな」

「ふん」

「それで、ここへ来たというわけやな。そうやな、平蜘蛛は天下一の茶釜やさかい。おぬしも、お目が高い。ははは」

「やっと、分かったか」

赤龍丸は、狐目で久秀を睨む。

「しかし、なにゆえ、天守閣に、茶室が、平蜘蛛があることが分かったのや」

「お前のような欲深で贅沢なやつは、離れに茶室など作らん。一番の中心に作っているやろうと、考えたのや」

「なるほど、ごもっともで」

「さて、殺すならはよう殺せ。家族もおらん身やからな」

「ほう、お前、妻も子もおらんのか」

「妻を娶っておらへん」

「ほう、その年でか」

「それに、父母は、四十年ほど前に、野盗に殺された」

「何、野盗に」

「母は犯され、父は刀で首を飛ばされ、その後に母も同じく首を斬られ、足で蹴飛ばされおった」

 久秀は、黙って聞いていた。

「残ったのはわしと妹だけや。その妹も病で数年後になくなった。わしは一人で生きていくしかなくなった」

久秀は、もしかして、その親たちを殺したのは、自分かもしれんと思った。そのようなことは、戦乱のこの世でたくさんあるから、違うかもしれんが、何やら自分がやってしまった時のことのような気がしてならなかった。

もちろんこの久秀に罪の意識なぞないが、赤龍丸が身近に感じられた。

「お前、それから盗みで身を立てていったのか」

「おう、そうでもせぬ限り、生きていけぬでのう」

赤龍丸は、涙声になっておった。

久秀は、じっと考えておった。これは偶然か。それとも、別人のことか。しかし、そんなことはどうでもよい。

ここには、自分と同じ境遇のものがいた。あのような目にあえば、こうやって生きていくしかないのだ。

久秀は、そこから這い上がり、大名の位につくことができた。赤龍丸は、まだ盗人の世界で生きているだけの違いじゃ。久秀と赤龍丸は、今や硬貨の表と裏の関係にあった。

「お前、帰りも雄岳を下りて帰れるか」

「えっ」

「もう、二度と忍び込んだら許さん。はよう出て行け」

 こうして、久秀は、赤龍丸を許した。


十、 自爆


こともあろうか、久秀は、永禄八年(一五六五)には、三好長逸、岩成友通、三好政康の三好三人衆を語らって、将軍足利義輝を御所で攻め殺したのじゃ。

将軍が、久秀の傀儡にならず、諸国の大名に、久秀を討てなどの檄文を出していた。そのようにして、手に余ったと感じ、このような暴虐に出たのじゃ。ああ、天下の将軍を一家臣しかも陪臣が討つなど、世も末じゃ。

畿内で我がもののように振舞っておった久秀だが、やがて残っていた三好一族らの反撃にあった。先には久秀と手を組んだ三好三人衆たちが、久秀の専横を憎むようになり、京、摂津や、河内などで、久秀方の城を攻めおった。

大和でも、久秀に踏みにじられていた国人や筒井順慶らが立ち上がり、久秀の権勢はあっという間に崩壊してしもうた。自業自得というものじゃ。

その頃、久秀は、頻繁に茶室に入って、自分で茶を立て、飲んでいた。苦境の中で、いかに現状の問題を解決するか考えるために、ゆっくりと、心を落ち着かせたかったのじゃろう。

「知恵も力もない奴らが、ことごとく反抗しおるわ」

永禄十年(一五六七)には、三好三人衆と奈良で戦をし、追いつめられて、なんと東大寺大仏殿を焼くという悪業を働く。

こやつは、暴虐の限りをつくしておるぞ。天罰があたらんのか。そして、久秀は、三好三人衆と力が逆転し、次第に圧迫されていく。

しかし、やつにはまだ悪運が残っておった。ちょうど、あの織田信長が軍を率い、義輝の後を継いで流浪中だった足利義昭を奉じて、上洛してきたのじゃ。

永禄十一年(一五六八)、信長は、三好三人衆や、南近江の六角氏らの、自分に服属の意を持たない輩を次々と打ち破っていった。

久秀は、いち早く信長に降伏し、畿内平定の先兵を務めた。時勢にさといのも、やつの特性じゃ。久秀は、大和一国を安堵された。やつは、名物の茶入九十九髪茄子を信長に進上し、国を安堵されたのじゃ。

「今は、信長の勢いありじゃ、素直に従っておいた方が得や」

将軍義昭にとって、久秀は兄義輝の憎っくき仇で、許さんとのことじゃったが、信長が説得し、許された。

信長にとって、久秀は畿内の国人たちを手なずける上で、使い道のあるやつだったようじゃ。

わしは、今まで茶室の中で隣におった九十九髪茄子が羨ましかった。一刻もはやくここから出たかった。

しかも天下人に近いとも思われる信長のところに行けるなど、それこそ幸せものじゃ。もう、血を見ることも、悪魔のような謀略を見ることもないではないか。九十九髪茄子は、嬉しそうじゃった。ああ、わしも、はよう出たい。


ただし、久秀の性質上、いつまでも信長に従っているわけがなかった。将軍足利義昭が、自分が信長の傀儡に過ぎないことを悟り、各地の大名に信長打倒の書を送りはじめた。

浅井長政、朝倉義景、三好義継らが、それに応じた。

元亀三年(一五七二)、将軍の檄に呼応して、天下一の名将と言われた甲斐の武田信玄が、上洛するための大軍を発進させ、信長を追いつめた。信長は、四方に敵を受け、絶対絶命の危機にさらされた。

そのとき、久秀も、にわかに謀反を起こした。ここで、信長に謀反し、反信長陣営に加わる好機と考えたのじゃろう。

しかし、信玄は上洛途中で急死し、武田軍は甲斐に引き上げた。孤立無援となった将軍義昭は追放になり、室町幕府は終焉をむかえ、浅井、朝倉、三好は、次々と攻め滅ぼされた。

久秀の謀反も無駄になってしもうた。天正元年(一五七三)、久秀は岐阜に赴き、信長に謁し、天下無双の名刀である不動国行を差し出して、簡単に赦された。

やつの畿内での利用価値は、まだまだあった。しかし、なぜ、不動国行なのじゃ。なぜ、わしを差し出さんのじゃ。わしを出してくれ。わしは、もうここにはいたくないのじゃ。いたくないのじゃ。


久秀が信長に二度目の謀反を起こしたのは、その五年後の天正五年じゃった。その時は、越後の上杉謙信が京を目指して、進軍してきおった。謙信というたら、喜右衛門が順蔵主から聞いたあの長尾景虎のことじゃ。

後に、関東管領上杉憲政の養子になり、上杉謙信と名を改めており、軍神とも言われておるほどの戦上手で、その配下の将兵も強兵で有名である。

その時、信長は一向宗本願寺と敵対しており、摂津の本山である石山本願寺を包囲しておったが、なかなか落ちなかった。

そして、当時毛利のもとに身を寄せていた前の将軍足利義昭が、諸国に打倒信長を呼びかけた。それに、毛利、本願寺、上杉らが呼応した。またまた、信長は窮地に陥ったわけじゃ。

その信長への謀反を起こす前に、久秀は、わしを持って、石山本願寺の近くの小さな屋敷に入っていった。

そこのこれまた小さく質素な茶室には、石山本願寺で、法主顕如のかわりに戦の采配を取っておった下間頼廉がすでに座っておった。こやつは坊主のくせに戦がうまく、何年もの間、織田軍を火縄銃で散々に撃退しておった。

「お邪魔いたしまする」

「これは、松永どの、ようこそあばら屋へいらっしゃいました。お会いしとうございました」

「いやいや、小さいながらも、わびさびの感じられる茶室、よくこのような戦場の近くにあると、感心しておりまする」

 自分の豪勢な茶室に比べて、本当にそう思っとるのかのう。

「お聞きしている松永どのの黄金の茶室に比べると、お恥ずかしいところでございますが、茶を点てさせていただきたいと思い、お招きしました」

「いえいえ、とんでもない」

「今日は、織田の手のものに見つからないようにして、短い時間ではありますが、お話させていただきたいと思います」

「私も、茶釜を持ってまいりました」

「ほう」

 頼廉の目が光った。

「それが、有名な平蜘蛛ですか。このようなところに持って下はるとは、光栄の至りでございます」

「このような大事な時、場所でこそ、使う価値のあるもんでございます」

 勝手に使うなよ。

しばらくの後、わしの中には湯が沸き立っておった。その湯で茶を飲みながら、二人は話していった。

「それでは、松永どのは、われら本願寺に同心してくだはるのですな」

「はい、もちろんでござる。今、信長に反発し、摂津の荒木村重、三木の別所長治、丹波の波多野秀治らが城に立て籠もって、織田軍と戦っておりますからに」

「それに毛利も立ち上がっております」

「そして、うれしいことに、天下で最強の上杉軍が畿内に向かって進軍してきております。織田軍も主力を率いて迎え討とうとしていますが、勝負にならんでっしゃろ」

「われらに、勝つ時が来たと思いまする」

「今こそ、信長の息の根を止める好機でございましょう」

「それでは、よろしゅうお願い申しあげます。それにしても、平蜘蛛で点てた茶は、うもうございますな」

「ありがとうございまする。持ってきた甲斐がございました」

「では、これにて」

久秀は、ここで本願寺に通じ、信長に反旗を翻すことを確約した。


天正五年(一五七七)八月十七日、久秀は突如、石山本願寺を包囲している織田軍の中の自陣を引き払い、信貴山城に籠った。

久秀は、大和の持ち城をかためさせ、自らは信貴山城に拠って、織田軍を迎え撃とうとしていた。そして、上杉軍が京まで上ってきたら、織田軍を挟みうちにし、信長を滅ぼそうという考えだった。

やはり、織田軍は、なかなか松永領を攻める余裕はなかった。少ない軍で城攻めをさせたが、松永軍に逆に攻めたてられる始末じゃった。

上杉軍は、北陸の加賀で、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、佐々成政らの錚々たる織田主力軍を打ちやぶり、破竹の勢いじゃった。

次は越前に攻め入るものかと、誰もが思った。しかし、上杉軍は突然引き上げた。元々小手調べの戦だったのか、関東の北条氏が越後に攻め込もうとしていたとかの噂じゃ。本当のところは分からん。

またしても、久秀の謀反は失敗に終わった。されど、今度は降伏せんのじゃ。信長のもとにおっても、いいようにこき使われて、用なしになったら捨てられるだけだと分かっておったからじゃろう。ともあれ、松永軍は、織田の大軍を一手に引き受けて、迎え撃たざるを得なくなった。

十月十日、織田信忠を総大将に、佐久間信盛、明智光秀、丹羽長秀、細川藤孝、筒井順慶らの軍勢が松永領に攻め入った。大和の松永方の城は、次々と織田軍の手に落ちていった。

織田軍から使いが来た。信長は、平蜘蛛を差し出したら、許してやろうというのである。。信長も、自分の婚儀に因縁のあるわしの存在に気づき、是非手に入れたいと思うたのじゃろう。

そして、一番の大敵である本願寺を叩き潰すことに専念するために、他のことは一刻も早く片付けておきたいと考えたのじゃろう。

久秀よ、わしをはよう出せ、出して降伏するのじゃ。わしは出たいのじゃ。もう、ここにはいたくはないのじゃ。絶対にいたくないのじゃ!

されど、久秀は織田家中で生きていくことを拒絶した。

「わしは降伏なんぞせんぞ。毛利や本願寺と連携を取って、戦い抜くまでじゃ」

と、言っており、降伏を拒否した。

信長が、先年、大和国全体の支配権を自分から取り上げ、筒井順慶にわたしていた。久秀は、長年敵対していた順慶より格下になるという屈辱を受けておった。そして、今後の人生に絶望しておった。

わしも絶望してしまった。わしが出て行く絶好の機会が失われてしもうた。わしの最後の望みが……

いや、最後の望みがある。それは織田軍がこの城を落として、わしが織田軍の手に渡ることじゃ。早く、織田軍が勝ってほしい、今は、それだけが望みじゃ。

久秀にとっては、実際、毛利や本願寺がどれほど当てになるかは、思ったほどではなかったのが実情じゃ。

本願寺も、大坂石山の本山を織田の大軍に十重二十重に囲まれており、大和まで援軍を出す余裕はなかった。また、信長に抵抗しておる荒木村重、別所長治、波多野秀治らも追い詰められていた。


信貴山城の縄張りは大きい。久秀がその手で、長年たび重なる改修を行ってきた。そして、天守閣のある雄岳から城の入り口の虎口までは、はるかに遠い。城を静かに取り囲んでいる織田軍の将兵が、蟻よりも小さく見える。

「敵はあんなに遠くにおるわ。臆病ものめ。目にもの見せてやるさかい」

久秀は、天守閣から、その織田軍の無数にたなびく軍旗を眺めておった。わしは、なぜこの男はたびたび謀反をおこしたのだろうかと考えた。

信長に臣従したのも、己が身の安泰のためだけではなく、主人そのものに寄生し、すきあらば食ってやろうとする虫のようなねらいがあったのではないかと思った。

やつは、そうやって武田信玄、本願寺、上杉謙信らと呼応してきた。信玄、謙信の天下取りを助けるためではなかった。みずからがこの天下の支配者とならんがための所業じゃった。

今までの手段を選ばぬやり方は、すべてそこに行きつく。この者が、この悪魔が、ただ利権をむさぼる輩ではなく、天下そのものを狙っていたことに、わしは今気づいた。

しかし、この者が天下を取ったとしても、日の本は安寧になったろうか。まちは繁栄したろうか。民は幸せになったろうか。

わしは、山城屋長兵衛が、斎藤道三に託した夢を思い出した。やつは、平和を取り戻すため、民が安心して生活できる世をつくるために、道三に京に上り天下をとってほしいと、願うたのじゃ。

そして、その仲立ちをした橘屋喜右衛門も立派じゃった。茶器がほしいためとはいえ、必死になって長兵衛の願いをかなえようとした。

また、春屋藤左衛門も、命をかけて、喜右衛門との約束を守ろうとした。

道三は戦場の露と消え、長兵衛、喜右衛門の願いはかなえられなくなったように思えたが、皮肉にもその婿である信長に、道三の意思は引き継がれておった。

天下を統一し、戦のない平和な世をつくる。国を豊かにし、民の生活に安寧をもたらす。今、信長の領土では楽市楽座などによって、まちが繁栄し、その民は平和を謳歌しておる。

そして今、織田信長は、敵を打ち滅ぼし続け、領土は急激に広がっていった。まだまだ上杉、武田、毛利、本願寺など敵は多いが、天下を取るのは、余程の間違いがなければ、時間の問題じゃろうて。

天下が必要としておるのは、信長であり、久秀ではないのじゃ。


久秀は夜襲を敢行した。敵が大軍ゆえに到着早々油断しているところを狙ったのじゃ。二千の軍勢で城をうって出た。

狙いは当たった。敵は次々と大和の城を落としておって、油断もし、疲れてもおった。久秀にとっては、面白いように、織田の将兵が討たれていく。同士討ちを繰り返していく。朝になってみると、無数の織田の将兵の死骸が、織田軍の陣に横たわっていた。

「織田もたいしたことあらへんやろう。はっはっは」

「おうっ」

 家臣たちが叫ぶ。これで、戦に一度は勝って、籠城できる。城兵の士気も盛んになることじゃろう。籠城を有利に運ぶことが出来る。


翌朝、織田の総攻撃がはじまった。雲ひとつない、朝日の射した青空の下で、織田の将兵が、攻め寄せてきた。人馬の駆けた後の土煙が、城から見ると、まるで何かが燃えて出た煙のように見える。

虎口に、将兵が殺到しておる。それは、死んだ虫にたかる無数の蟻のようであった。その蟻たちも、銃声の響きとともに、散らばっていった。

城内から無数の火縄銃が撃たれ、城はなかなかやぶられない。織田の将兵が次々と倒れていく。

彼らは、蜂の巣でもつくるかのように、弾が体を貫通し、血を噴き出していく。そして、口からも血を吐き出していく。あたりには、無数の織田の軍旗が、うち捨てられたままでいた。

翌日も、攻撃がはじまった。しかし、結果は同じじゃ。無駄に将兵の命が失われてしもうた。何日も同じように、織田の将兵の屍が重ねられるだけじゃった。さすがは、難攻不落の信貴山城じゃ。

相当攻めあぐねた織田軍は、一時、火縄銃の届かないところまで立ち退いた。織田軍は不気味な静けさを持って、この城に対峙しておった。

織田軍で、その動きが見えるのは、馬に乗って、陣中を駆け回っている使い番だけであった。その攻撃がない数日間は、何ヶ月にも感じるほどの長さじゃった。静かな日々が続いた。

ある夜、城外から、笛の音が聞こえてくる。その優雅な音色、せつない気持ちを想いおこさせる曲、敵にはそのような余裕がまだあったのか。城攻めで手痛い反撃を受け、意気消沈していなかったのじゃ。

そして、それは、外部から誰もこの信貴山城を助けに来ないことのあかしじゃった。はじめは意気盛んだった城兵に、疲れと焦りが見えはじめた。

城壁にもたれ、虚ろに、空を見つめる兵が増えてきていた。この戦はいつまで続くのだろうか、誰にもそれは分からなかった。

数日後、城の曲輪のそばから火の手があがった。赤々と燃え立つ炎は、城内から織田軍に内応した者が出たあかしじゃった。織田は、力攻めでは埒があかないと考え、諜略の手を使ってきおったのじゃ。

何ものが内応したかは分からん。しかし、城内の兵は疑心暗鬼になり、今度はこちらが、同士討ちをはじめおった。城内は大混乱じゃ。

そして、ついに中から、虎口の門が開けられた。外で待っていた織田軍が、中に突入する。それをきっかけに、城内の門が次々に打ちやぶられていった。

城内の兵は、その屍を次々と門の外や内にさらしていった。槍で突かれる者、首を刀で飛ばされる者、火縄銃の弾を受け倒れていく者、城の中が血で染まりゆくその様子を久秀はじっと見つめておった。

城内の廊下を必死に逃げ走っていく女たちの悲鳴が聞こえておった。しかし、彼女らも、次々と織田軍の火縄銃の銃撃を受け、その場に伏し倒れ、折り重なっていく。

城の中に多くの火矢が打ちこまれていった。城の中で燃え盛る火は、まさに地獄絵図の中の赤々と燃え立つ炎のようじゃ。わしは、地獄というものをはじめて見たような気がする。

久秀は、もはやこれまでと思った。やつは、今まで集めていた雪舟の絵、定家や俊成の墨跡、刀剣、茶碗、茶壷、茶入、水指、花入などを燃え盛る天守閣の黄金の茶室の炎の中に次々と投げ入れていきおった。

久秀は落ち着いていた。天守閣に迫り来る織田軍をじっとみつめ、不敵に笑みをこぼしておった。

今や天守閣はおろか黄金の茶室も燃え盛っていた。久秀のまわりは、火に包まれていて、もう逃げようがなかった。燃える金箔の茶室は、金の明るさに加えて、よりいっそうの輝きを醸し出していた。

「平蜘蛛は、わしのもんや。信長には渡さへんで」

そして、わしを手に取って、思い切り高く上げ、床下にたたきつけた。そして、ひびが入った。わしは、わしは、織田軍から助けられることもできんのか。松永久秀と運命を供にするのか。

「平蜘蛛は、わしのもんや」

また、同じ動作を繰り返した。

「わしのもんや」

また繰り返していった。わしは、五度目で粉々に砕け散ってしもうた。その破片は、天守閣の床に散らばり、転がっていった。ああ、もうだめじゃ。

久秀は、火縄銃の火薬を自身の体中にいくつも巻きつけた。ゆっくりと念入りにいくつもいくつも火薬を巻きつけた久秀は、だるまのような格好になっていた。

動きにくそうにしていた久秀だが、ゆっくりと立ち上がると、また唇を引き締まらせて、不敵の笑みを漏らした。

「さあ、さらばじゃ」

そして、天守閣の燃え盛る炎の中に走り、飛び込んでいった。大きな花火のような爆音がひびいた。または、雷鳴がとどろいたかとも思われた。

天守閣自体の屋根の瓦も吹っ飛び、柱も折れた。そして、この二層作りの天守閣は、あの黄金の茶室とともに崩れ落ちてしまった。

久秀は、木っ端微塵に自爆しおった。やつは一個の肉体ではなくなった。骨も肉も内臓も四方八方に飛び散った。

何ものが骨で、何ものが肉か分からなくなってしもうた。その肉片とも骨とも分からないもののひとつは、割れておったわしの切れ端にもこびりついた。


 わしはばらばらになった。もう、元に戻ることはできん。堺の町に帰ることもできん。この戦が終わっても、この城が地中深く埋もれた後でも、今も信貴山の土深くに埋もれておる……

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平蜘蛛 県昭政 @kazkaz1868

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