山桜ふりゆく

ねこK・T

山桜ふりゆく

 空を駆け抜けた風が、地上へと帰ってくる。広がる蒼はもう飽きたよ。そんな言葉を零すかのように、気まぐれに。ひゅうひゅうと音を立てながら大地を吹きすぎ、最後にまた、空へと帰ってゆく。

 そして一つ、瞬きを、呼吸を置いた後。揺れた梢の先から、思い出したかのように花が散り始めた。葉に紛れながら咲くその花は白く、白く。がくから離れて地上へと降り積もってゆく様子は、雪のそれと変わらない。

 ひゅう、ひゅう。聞こえた風音に、わたしははっ、と辺りを見回す。視線の先では、風に揺られた花が今まさに、散り始めようとしているところだった。

 ――待ってくれ。

 わたしは思わず掌を差し出すが、捕まえることは出来ずに。

 花びらは指先を撫でるだけで通り過ぎ、地上へと落ちていった。


「――親父」

 背中からかけられた声に、ようやくわたしは落としていた視線を上げる。振り返ってみると、わたしの上着を持って立つ息子の姿があった。その足元に伸びる影は思った以上に長く、自分の影の端がくっつくほどだ。

 ――一体どのくらいこうして居たのだろうか。

 散り落ちる花を見ているだけ。ただそれだけで時間すら忘れてしまっていたことに、わたしは苦笑せずには居られなかった。そのわたしの笑みに対して、目の前の彼は不思議そうな表情を浮かべる。

「何笑ってるんだか……上着着れば。風邪ひくよ」

「ん、悪いな」

 息子から差し出されたのは、着慣れた紺のジャケットだった。つい先日まで毎日のように着続けていたにもかかわらず、こうして改めて手渡されるとどこか気恥ずかしくて仕方がない。わたしは袖を通しながら、再び苦笑を浮かべた。

「だから、何さっきから一人でにやついてるんだか」

「――いや何とも、な」

「何とも、何」

 呆れ顔で息子が聞いてくるのに、わたしは口元を思わず押さえ、言葉尻を濁す。自分の感じたことを伝えるのは難しく、更に言えば、言うことすら馬鹿馬鹿しいような気がしてならない。だから、そのまま言わずに済ませようと思ったのだ。しかし、息子の真っ直ぐな目と言葉は、わたしに逃げ場を与えてはくれなかった。

 ――言わなくてはいけないのだろうかな。

 迷うわたしの視界の端を、ちらりと山桜が散り落ちてゆく。ふんわりと風に遊んで、そして、地上へと近づき、近づき、そして音も無く着地する。そこまで目で追ってから、わたしは口を開いた。

「歳を取ったな、と思ったんだよ」

 欲しいものを受け止めることの出来ない指先が、体の衰えを叫ぶ。時の感覚を無くしてしまう程に、何もせずに居られてしまう時間は、仕事をしていないという証拠。着慣れた筈のジャケットは、通勤を止めてからというもの、着ることをぱたりと止めてしまった。

 そのどれもが、かつてのわたしからすれば考えられないことだった。朝方に出かけ、昼中仕事をこなし、夜更けに帰ってくる。あの時の自分は一体どこに行ってしまったのだろうか。全く違う今の自分を感じる度、悔しさや寂しさの入り混じった気持ちがわたしの内側を占めるのだ。

 ゆっくりと過ごせる時間、仕事をせずに居られる日々――働いていた当時何度も憧れたそれが、今、自分の前に広がっているというのに。充実感を得られないのは何故なのか。むしろ、昔の自分ばかりを思い出しているのは何故なのか。

 見つめていても、桜は答えを教えてはくれない。

「そんなの当たり前じゃんか。歳を取らなきゃ変だろ」

「そういう事じゃないんだがな」

 じゃあどういう事だよ。首を傾げながら息子が聞いてくるものの、わたしは今度こそ首を左右に振るだけでそれに答える。

「親父」

「いや、お前はまだ知らなくても良いんだろうし。だから良いんだよ」

「――また子供だと思って馬鹿にして」

 唇を尖らせて踵を返した息子は、縁側へと歩き出す。いい加減そうやって庭に立ってんの止めないと、親父、風邪本当にひくからな。肩越しにわたしに投げられた声は、答えを与えられないことに対して拗ねているようでもあった。

 ――その様子が、子供だと思うんだがな。

 気持ちが滲みやすいその声は、感情を抑えるという経験を重ねていない若者の特権だろうに。それを嫌がるなんてもったいないことにしか思えない。――とはいえ、かつてのわたしもこうして、子供扱いされることを嫌がったものだった。やはりこういう気持ちは、世代世代で、何度も繰り返されることなのだろうか。

 家の内側に入り込んだ息子には聞こえないよう。忍び笑いを含ませつつ、わたしは縁側へと辿り着く。

「親父、せっかくだから花見酒でもするか」

「それも良いな――って、お前、まだ未成年だろうが」

 視線の先の彼は、冷蔵庫から取り出したビールの缶を振りながら悪びれもなくそんなことを言ってくる。大学に入ったら未成年も何も無いだろう、と。

「……母さんには、内緒だぞ。今日だけだからな」

「やりい!」

 ぱっと輝く彼の顔から、ああ、息子もそんな歳なのか、と。自らに降り積もった年月を再び感じ取ってしまう。だが。缶ビールを受け取りながら、わたしはそんな思いを頭の片隅に押しやった。区切るように息を一つつき、寂しさや悔しさは、後でゆっくりと考えることに決める。

 ――せっかくの酒は美味しく呑まないとな。

 開けたプルトップから白い泡が吹き出して、唇がひたひたと濡れてゆく。

「親父、唇」

「ん?」

 隣に座り込んだ息子が、わたしのことを指差していた。何だと言うのだろうか――唇を探った指先が見つけたのは、先ほど捕まえ損ねた白だった。

 思わず庭先の山桜を見つめると、風に揺れる梢がさやさやと音を立てていた。それはまるで笑っているようで、遊んでいるようで。

 自分へと何かしらの答えを教えているように思えてならなかった。


* * * * *


入道前太政大臣の和歌を元に。

「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」


花をさそって散らす嵐の吹く庭は、雪のような桜吹雪が舞っているが、本当にりゆくものは、雪ではなくわが身であったなあ。

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